No.0522 国家・政治 | 書評・ブックガイド 『世界を変えた10冊の本』 池上彰著(文藝春秋)

2011.12.29

『世界を変えた10冊の本』池上彰著(文藝春秋)を読みました。

著者は、数多くのベストセラーを生み出している池上彰氏です。 著書の本を読んだのは、大ベストセラーの『伝える力』(PHPビジネス新書)以来です。

現代を読み解く“新古典”10冊

著者は、「解説の名人」として知られています。 本書の帯にも「池上解説で今度こそわかる! 現代を読み解く”新古典”10冊」というリードの後に「なるほど、そうか!」と大きく書かれています。

本書はいわゆるブックガイドなのですが、以下の10冊の本が取り上げられています。『アンネの日記』、『聖書』、『コーラン』、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、『資本論』、『イスラーム原理主義の「道しるべ」』、『沈黙の春』、『種の起源』、『雇用、利子および貨幣の一般理論』、『資本主義と自由』・・・・・これらの本の書名がそのまま章タイトルになっています。

本書の「はじめに」の冒頭で、著者は次のように述べています。

「読書離れが伝えられています。その一方で、毎日出版される大量の書籍。本はあふれているのに、読む人は減っている。読書の未来が暗い話ばかりです。 しかし、本には、とてつもない強さがあることも事実です。1冊の本の存在が、世界を動かし、世界史を作り上げたことが、たびたびあるからです。 読んだ人が、内容に感動したり、感化されたり、危機感を抱いたりして、何らかの行動に出る。それによって人々が動き、ときには政府を動かし、新しい歴史が築かれていく。書物の持つ力は恐ろしいほどのものです」

最初に『アンネの日記』が出てくることに違和感をおぼえましたが、本文を読んでその理由が理解できました。著者は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大「一神教」を世界を変えてきたエンジンとして重要視するのです。 そして、『アンネの日記』の著者アンネ・フランクがユダヤ人であったことから、著者は同書をテキストにユダヤ教について説明していくのです。

キリスト教のテキストは『聖書』、イスラム教のテキストは『コーラン』と、こちらはオーソドックスに選んでいます。また、『聖書』に対抗する書物として、ダーウィンの『種の起源』を選んでいます。著者は「はじめに」で、「『聖書』を取り上げたのは、これが世界最大のベストセラーであり、欧米キリスト教社会を形成してきたからです。『旧約』と『新約』に分かれた書物は、多くの人を信仰に導きました」と述べます。敬虔な信者を多数生み出し、平和な社会を築く助けになりました。

一方、「信仰」の名の下に十字軍などの血なまぐさい行動もたびたび発生しました。さらには、欧米社会とイスラム世界の対立構造という現代世界を形成することにもなったのです。やがて、『旧約聖書』の中の「創世記」の内容を科学的に否定する書物としてのダーウィンの『種の起源』が登場します。

著者は、次のように述べます。

「これにより、『進化論』が生まれ、科学は大きく発展します。1冊の科学の本が、人々の意識を変え、科学を発展させる。そのダイナミズムにはワクワクさせられますが、それでも、一部のキリスト教徒の考えを変えることはできませんでした。ここに宗教の持つ力の強さを痛感します。宗教と書物とは、どちらがより強い力を持つのか。共に同じ方向を向いたとき、相乗効果は凄まじいものですが、方向が対立したとき、さて、どちらが勝つのか。これはこれで、面白いテーマです」

また、本書には経済学の書物も取り上げられています。 ウェーバー、マルクス、ケインズ、フリードマンといった人々の著書です。10冊の中の4冊、じつに全体の4割が経済についての本だということです。著者がいかに「経済」というものが世界を変えうるかと思っているかがよくわかりますね。 著者は、「はじめに」で次のように述べています。

「マックス・ウェーバーが、資本主義の精神をキリスト教のプロテスタントの信仰様式から導き出したのに対して、カール・マルクスは、『資本論』によって、資本それ自体が人間を支配する神になってしまう仕組みを解き明かしました。 資本主義の非人間性を明らかにしたこの書は、しかしながら、資本主義を打ち倒した後の設計図たりえませんでした。このため、社会主義諸国の停滞と混乱、腐敗を防ぐことができなかったのです。マルクスが暴いた資本主義の悪を、理性的な経済対策で抑えることができる筋道を示したのが、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』でした。これ以降、資本主義は恐慌の恐怖から抜け出ることができました。 しかし、いくら有力な経済理論であっても、すべてを解決することはできませんし、社会経済構造が変化すれば、効果も減衰します。そこで登場したのが、ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』。論争の書です。読み進むと、『こんな理論立ても可能なのか』と驚きの連続です。賛否両論が渦巻いた理由がわかります。 その一方で、経済理論の面白さを味わうことのできる書でもあります。現代の経済政策の多くは、ケインズとフリードマンの間を行ったり来たりしているのです」

さて、『アンネの日記』の話に戻ります。

なぜ、この本が「世界を変えた」のかと疑問を持つ読者に対して、「中東問題の行方に大きな影響力を持っているから」というのが著者の答えです。 著者は、『アンネの日記』が持つ意味について、次のように述べます。

「イスラエル建国に反対する周辺のアラブ諸国との度々の戦争を経て、イスラエルは、国連が採択した「ユダヤ人の国」の範囲を超え、パレスチナ全域を占領しました。 これにアラブ諸国が反発し、中東問題は、こじれにこじれています。しかし、アラブ諸国以外の国際社会は、あまりイスラエルに対して強い態度をとろうとしません。ユダヤ人が、第2次世界大戦中、ドイツによって600万人もの犠牲者を出したことを知っているからです。その象徴が、アンネ・フランクであり、彼女が残した『アンネの日記』です。 『アンネの日記』を読んだ人たちは、ユダヤ人であることが理由で未来を絶たれた少女アンネの運命に涙します。『アンネの日記』を読んでしまうと、イスラエルという国家が、いかに国連決議に反した行動をとっても、強い態度に出にくくなってしまうのです。 イスラエルが、いまも存続し、中東に確固たる地歩を築いているのは、『アンネの日記』という存在があるからだ、というのが私の見方です」

2009年8月、ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、『アンネの日記』を、貴重な文書や資料の保存を目指す「世界の記憶遺産」に登録しました。また、この本をユネスコは、「世界で最も読まれた10冊のうちの1つ」と評価しています。

アンネが日記に「強いものは生き残り、けっして負けることはないのです」と書いたように、『アンネの日記』の存在によって、建国されたばかりのイスラエルは、世界の世論の祝福を受け、生き延びることができたのではないかと著者は推測します。
そして、著者は次のように述べています。

「しかし、イスラエル政府によって壁で包囲されているパレスチナに住む人たちの中にも、日記をつけている少女がいるのではないでしょうか。その少女は、イスラエル軍の行動に怯える自分たちのことを日記に語りかけているかも知れません。 『アンネの日記』によって、中東世界は大きく変わりました。ところが、それによって苦しむ子どもたちがいるのも、事実なのです。 もしアンネが、それを知ったなら、彼女は、どんな日記を書いたのでしょうか」

この著者の視点は、非常に盲点を衝くというか、読者の心に訴えるものがあります。
本書に取り上げられている本は、いずれも非常に有名な本ばかりですが、1冊だけあまり知られていない本があります。イスラムの思想家であるサイイド・クトゥブの『道標』という本です。この本は、かのオサマ・ビンラディンの思想を形成したとされている本です。オサマ・ビンラディンは9・11米国同時多発テロの首謀者とされ、最後はアメリカによって謀殺されました。そのビンラディンの教科書となったという点で、『道標』という本も世界を動かしたのです。なお、日本での翻訳本は『イスラーム原理主義の「道しるべ」』という題名になっています。

著者は「オサマ・ビンラディンや、その仲間たちの行動を支える原動力は、イスラム教への信仰ということになっていますが、実は、イスラム教を極端に解釈した理論書が存在しているのです。それが、サイイド・クトゥブが著わした『道標』です」と書き、クトゥブの思想は、世界を「テロの時代」に変えてしまったと述べています。

イスラム世界においては、ムハンマドが神の言葉を聞いたとして布教を始める前のアラビア半島は、神を信じることのない、文明・文化の遅れた「無明社会」だったと考えられています。「無縁社会」ではなく、「無明社会」です。 アラビア語で、「ジャーヒリーヤ」と呼ばれます。 イスラム教が広がることによって、人々は無明社会から脱出できたというわけです。

そしてクトゥブは、神の「唯一絶対性」にもとづいていなければ、自称イスラム社会も、無明社会に過ぎないと断じるのです。 「主権が国民に存する」ことは、日本人をはじめ世界中の人々が「人類普遍の原理」だと考えています。ところが、クトゥブは、これは人間の思い上がりだというのです。わたしたちは、政治家を選んで政治権力を与えています。 それは、わたしたちが国民の主権を行使しているからです。

しかし、クトゥブは、「ある人々を人間の主人とすることによって、アッラーの最も偉大な属性、とりわけ主権を人間に引き渡そうと企てることである」と言うのです。
これについて、著者は次のように述べています。

「アッラーつまり神こそが、そして唯一神だけが主権を持っている。それなのに、堕落した現代の人間たちは、勝手に主権をもてあそび、政治家を選んでいる。人間は神のもとに平等であり、『皆がアッラーの教えだけに従ってアッラーにのみ服従し』ていればいいのです。主権は国民にあるのではなく、神にある。これがキーワードです」

さらに、クトゥブの思想について著者は述べます。

「私たちは、選挙で自分たちの代表を選出して法律を制定する社会こそ近代社会であり、そういうことをしない社会を無明社会だと考えますが、クトゥブは、私たち人間に主権があることを否定するのです。中東や北アフリカなどのイスラム社会では、このところ民主化運動が活発になっています。形式的には『国民主権』の制度があっても、実際には長年にわたって独裁政権が続いてきたことに対する反発です。私たちは、国民主権が貫かれていないから非民主的な『無明社会』だと思ってしまいますが、クトゥブは、別の意味で『無明社会』だというのです」

では、神の主権にもとづいて人間が生活するには、どうしたらいいのか。クトゥブいわく、「シャリーア(イスラム法)」に従えばいいのです。著者は、次のように述べています。

「クトゥブの思想に触発されたオサマ・ビンラディンは米軍の力で抹殺できても、思想の力は、軍事力で抑えることはできないのです。 かつてマルクスが書いた『資本論』や『共産党宣言』によって、世界で共産主義運動の旋風が起きたように、『道標』によって、イスラム原理主義の嵐が巻き起こる。 書籍の持つ力というべきか、恐ろしさというべきか。 この書も、明らかに世界を変えた本のひとつなのです」

著者が「解説の名人」であることを思い知ったのは、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』について論じた部分でした。 著者は、まず2010年1月の参議院予算委員会での出来事を紹介します。 民主党政府が打ち出した「子ども手当」の経済効果について、自民党の議員が菅首相に「乗数効果」はどれくらいかと質問したのです。
ところが、菅首相は「乗数効果」を知らず、そのために議事がストップしてしまったのです。その「乗数効果」について、著者は「子ども手当」を例にして次のように鮮やかに説明します。

「政府が、小さい子どものいる家庭に『子ども手当』を支給すると、家庭では、子どものために洋服を買ったり、学習教材を買ったりすることでしょう。 もちろん一部は貯蓄に回るかも知れませんが。 これにより、子ども用品の業界の売り上げが増え、子ども用学習教材の業界も利益が上がれば、この業界で働く人たちの給料が増えるでしょう。給料が増えた分で、社員たちが自動車を買ったり、レストランに行ったりすれば、今度は、その業界の利益も上がりますまたその業界の人たちが、増えた給料で買い物をすれば・・・・・・、というように、経済が豊かになっていきます。 この増加のサイクルが、最初の投資(この場合は「子ども手当」の支給)に対する掛け算(乗数)のように増えていくことから、乗数効果と呼ばれます」

わたしは、この説明ぶりに「うーん、うまい!」と唸ってしまいました。著者の説明能力の高さは、やはり当代随一です。 さすがに「解説の名人」と呼ばれるだけのことはありますね。強いて、著者と同じくらい説明が上手な人といえば、橋本治氏、内田樹氏、齋藤孝氏ぐらいでしょうか。

最後に、わたしだったら、どんな本を選ぶか。「世界を変えた10冊の本」というより「人類の心を揺さぶった10冊の本」ということで、以下のリストを考えました。

『ギリシャ神話』、『論語』、『聖書』、『コーラン』、『アラビアン・ナイト』、『神曲』(ダンテ)、『資本論』(マルクス)、『種の起源』(ダーウィン)、『星の王子さま』(サン=テグジュぺリ)、『マネジメント』(ドラッカー)。

いつか本当に、『人類の心を揺さぶった10冊の本』という本を書いてみたいです。

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