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2011.12.20
昨年の大晦日の日、この読書館に『マッチ売りの少女』の書評を書きました。
この物語に先立ち、アンデルセンは重要な童話を書いています。『人魚の姫』アンデルセン著、矢崎源九郎訳(新潮文庫)です。
一般には、「人魚姫」のほうが馴染み深いでしょうね。ディズニーの「リトル・マーメイド」、ジブリの「崖の上のポニョ」という日米の名作アニメの原作でもあります。
キリスト教の重大なテーマを描いた物語
童話作家になったばかりのアンデルセンは、たて続けに刊行された2冊の童話集を刊行しますが、その評価は今ひとつでした。「こういうものはつまらないものだから、もう書かないほうがいい」と忠告する人々さえいました。
児童文学そのものへの認識が低かったという時代背景もあったでしょうが、アンデルセンは非常に落胆し、1年ほどは童話を書かない日々を送りました。
でも、そのうち、彼の心の中には新しい童話の構想が湧いてきました。
それは、いくら押さえようとしても押さえられないほど心の底から湧きあがってきたため、アンデルセンはその話をついに書き上げました。この作品こそ、「人魚姫」です。
アンデルセンはスペイン起源で風刺に富んだ「皇帝の新しい服」(「裸の王様」)という作品と一緒にして、1937年に『子どものための童話集』第3冊を出しました。この本の序言の中で、アンデルセンは、自分の童話がこの1巻のみで終わるかどうかは、ひとえにこの本が世間に与える印象にかかっていると悲壮な決意を述べています。しかし、幸いにして、この童話集は多くの人々に受け容れられ、特に「人魚姫」が好評でした。
「人魚姫」の成功によって、アンデルセンはもう迷いませんでした。その後は、自信をもって童話に取り組み、毎年のように童話集を出版しました。そして、世間の人々は新しい彼の童話を心待ちにするようになりました。
こうして『人魚の姫』は、アンデルセンに童話集をつづけさせるきっかけになったのです。同時にアンデルセンは、こういうふうに創作童話を書きすすめていけばいいのだという自信をこの作品で得たようです。
「人魚姫」のストーリーは、ディズニーが「リトル・マーメイド」としてアニメ映画化したこともあり、よく知られています。人形の王様には6人の美しい姫がいました。
末っ子の姫は15歳の誕生日に海の上に昇ってゆきますが、そこで船の上にいた人間の王子を目にします。その後、人魚姫は嵐のために難破した船から救い出した王子に恋をしてしまいます。王子と一緒にいたい一心で人間になることを望んだ人魚姫は、海の魔女の家を訪れます。そこで、自分の声と引きかえに人魚の尾びれを人間の二本足に変える飲み薬を貰います。魔女は、「もし王子が他の娘と結婚したとき、おまえは海の泡となって消えてしまう」と人魚姫に警告します。さらには、人間の足で歩くたびに、人魚姫はナイフでえぐられるような痛みを感じるという運命をも受け容れます。
こうして人魚姫は王子と一緒の御殿で暮らせるようにはなりましたが、声を失って話せないため、王子は人魚姫が命の恩人であることに気づきません。それどころか、隣国の姫を命の恩人と勘違いしてしまい、王子は彼女と結婚することになります。
絶望した人魚姫の前に姉たちがあらわれ、髪と引きかえに魔女に貰った短剣を人魚姫に差し出します。そして、この短剣で王子を刺せば、流れた血によって再び人魚の姿に戻れることを伝えます。しかし、愛する王子を殺すことなど到底できない人魚姫は、王子の結婚を祝福し、自らは海に身を投げて泡に姿を変えます。
そして、人魚姫は空気の精となって天国へ昇っていったのでした。このラストシーンには、伏線があります。人魚姫が人間の世界への強い憧れを抱きつつも、まだ海の魔法使いの家を訪れていなかった頃、年をとった祖母にたずねます。以下は、アンデルセンの原作から引用します。
「人間というものは、おぼれて死ななければ、いつまでも生きていられるんでしょうか?海の底のあたしたちのように、死ぬことはないんですか?」と、人魚のお姫さまはたずねました。「いいえ、おまえ、人間だって死にますとも」と、おばあさまは言いました。
「それに、人間の一生は、かえって、わたしたちの一生よりも短いんだよ。
わたしたちは、三百年も生きていられるね。けれども、死んでしまえば、わたしたちはあわになって、海の面に浮いて出てしまうから、海の底のなつかしい人たちのところで、お墓をつくってもらうことができないんだよ。
わたしたちは、いつまでたっても、死ぬことのない魂というものもなければ、もう一度生れかわるということもない。わたしたちは、あのみどり色をした、アシに似ているんだよ。ほら、アシは、一度切りとられれば、もう二度とみどりの葉を出すことができないだろう。
ところが、人間には、いつまでも死なない魂というものがあってね。からだが死んで土になったあとまでも、それは生きのこっているんだよ。そして、その魂は、すんだ空気の中を、キラキラ光っている、きれいなお星さまのところまで、のぼっていくんだよ。わたしたちが、海の上に浮かびあがって、人間の国を見るように、人間の魂は、わたしたちがけっして見ることのできない、美しいところへのぼっていくんだよ。そこは天国といって、人間にとっても前から知ることができない世界なんだがね」(矢崎源九郎訳)
おばあさまの説明を聞いた人魚姫は、どうして人魚は不死の魂を持つことができないのかと思います。そして、たったの1日でもいいから人間になれて天国に行けるのなら、人魚としての何百年をすべて失ってもかまわないとさえ思いつめるのです。
おばあさまは、そんな人魚姫を「そんなことを考えちゃいけないよ」とたしなめ、「わたしたちは、あの上の世界の人間よりも、ずっとしあわせなんだからね」と説得します。
それでも、人魚姫は人間の魂を持ちたくて仕方がありません。結局、人魚姫は人間になりたいのです。これは心理学における「自己実現」の問題にも関わっています。深層心理学者の矢吹省吾氏は、著書『どうしてこんなに心が痛い?』(平凡社)において、次のように述べています。
「深い海底の人魚の世界は遊びの世界です。大人の労働とも、学校生徒の勉強とも縁のない世界です。濃密な母性愛に包まれて遊び戯れるばかりの幼児の世界です。誰もがかつて幼かったころそこに住み、そこから旅立った、存在の故郷です」
矢吹氏は、「人魚とは何か?」という問いに対して、人間的な「幼稚さ」や「未熟さ」であると答えています。人魚とは文字通り半人前の存在です。その身体の半分が魚なら、当然海の底にでも住みつくしかありません。海底を幼児の世界のシンボルと見るならば、人魚はそこに潜む「幼さ」「未熟さ」と解釈できます。つまり、人魚姫は人間になることによって自己実現を果たし、幼児から大人に成長したかったのかもしれません。
また、「大人になる」ということを単に心の問題としてだけではなく、体の問題、性の問題としてとらえることもできます。15歳の人魚姫はまさに「思春期を迎えた処女」であり、人間に変身した後の彼女は「処女喪失後の女性」を表わしているという見方があります。人魚の下半身は尾びれによって両足が閉じていますが、人間の下半身は両足を開くことができます。このように「二本足」とは「処女喪失」を暗示しているというのです。
しかし、人魚姫は「人間」になることだけに憧れたのではなく、「天国」に憧れたのだという見方もできます。人魚のほうが長生きできるのに、どうして人間となって天国に行きたかったのでしょうか。そこには、神による「救い」があるからです。神によって救われた魂は永遠の生を獲得することができるからです。まさに、「救い」こそは「幸福」を超越した恵みであり、キリスト教の根幹となる思想でもあります。
おばあさまの説明から、人間とはキリスト教徒であり、人魚とは異教徒であることがわかります。いくら長生きして海の底で楽しく遊んで暮らしていても、そんな「幸福」など、神による永遠の「救い」に比べれば刹那の「快楽」にすぎないのです。
本当の「幸福」とは「救い」によって初めて訪れるというのがキリスト教的幸福感です。人魚姫は「人魚のほうが人間よりも恵まれている」というおばあさまの言葉を理解してはいましたが、それでも「救い」のない「快楽」の虚しさを感じてしまったのです。
だから、最後に救われて天国に行くために人間になりたかったのではないでしょうか。
このように「人魚姫」には、「救い」や「天国」といったキリスト教の重大なテーマが出てきます。これらのテーマは後の「マッチ売りの少女」でさらに深く描かれていくのでした。
わたしは、さまざまなテーマを含みながらも、「人魚姫」の最大のテーマとは、やはり「愛」だと思います。自分の命など犠牲にしても惜しくないほど相手を想う究極の「愛」を描いていると思います。「愛」の本質を描いているという点において、「人魚姫」を超える物語はなかなかないと、わたしは思います。なぜか。それは、「人魚姫」は、「愛」とは「痛み」をともなうものであることを明らかにしているからです。
「痛み」の文学としてのアンデルセン童話を読む
人を心の底から真剣に愛すること、それは決して「楽しさ」や「嬉しさ」などの感情ではなく、「痛み」や「切なさ」といった感情に結びついています。作家の角田光代氏は、少女時代に愛読した「人魚姫」を大人になってから読み返してみて、その「痛み」の感覚がひどくさりげなく描かれていることに驚いたそうです。
誰かを愛すること、犠牲を払うこと、自立すること、孤独を知ること、傷つくこと、誰かを憎むことや守ること、そして自分を憎むことと守ること。それらの、人が年齢を重ねていくことで否応なく知り、どうしても引き受けなくてはならない多くのことが「人魚姫」に描かれていて、驚いたというのです。角田氏は、『別冊太陽 童話の王様アンデルセン』所収の「痛みの感覚としての窓」に次のように書いています。
「こどもだった私にそれらひとつひとつが理解できるはずもなく、ただ、物語の輪郭をなぞり、魔女に舌を抜かれる場面や、ナイフで刺すような痛みをこらえて彼女が踊る場面を思い描いては、直接こちらに向かってくるような痛みに顔をしかめ、最終的に海の泡になる彼女をかわいそうだと思っていた。すべては遠い場所にいる架空の人魚のお話なんだと思っていた」
しかし、大人になるにつれ、人はみな愛することや孤独を知っていきます。そうしたことを知るにつれ、童話からは遠ざかっていくわけですが、アンデルセンが描いた「痛み」が、幼い頃にのぞきこんだ不可思議な窓のように思えると、角田氏は述べています。
このような「痛み」の文学としてのアンデルセンを理解するには、ハリー・クラークの絵をふんだんに使用した『アンデルセン童話集』荒俣宏訳(新書館)を読むといいでしょう。クラークはエドガー・アラン・ポオの怪奇小説の挿絵画家として有名ですが、彼の絵がアンデルセン童話の「悲哀」と「残酷」を感動に変えてくれます。
普遍思想を求めたアンデルセンについて知る
「人魚姫」の悲しい結末には、アンデルセンの人生も反映しているといわれます。彼は185センチの長身でしたが、鼻が非常に大きく、ある意味で異様な風貌であり、初めて会った人はみな驚いたといいます。アンデルセン自身も自分の容姿には強いコンプレックスを抱いていたようですが、そのためか失恋を繰り返し、生涯を独身はもちろん、童貞のままで終えたという説もあります。そんなアンデルセンの深い孤独が「人魚姫」には投影されているというのです。
たしかにそういった側面もあるかもしれませんが、わたしはさらに深く宗教の問題を見た場合、「人魚姫」という作品は興味深いと思えてなりません。キリスト教において「愛」は無上の価値ですが、仏教においては「愛別離苦」という言葉もあるように苦悩のもとであると考えられました。
「人魚姫」において「愛」と「痛み」をセットとしたことは、アンデルセンが宗教の枠を超えて普遍思想を求めるファンタジー作家であることを示しているようにも思えます。
詳しくは、『涙は世界で一番小さな海』(三五館)をお読み下さい。