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No.0512 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『力道山の真実』 大下英治著(祥伝社文庫)
2011.12.15
12月15日は、力道山の命日です。
「日本プロレス界の父」と呼ばれた彼が亡くなってから、もう48年が経ちます。国民的ヒーローを偲び、『力道山の真実』大下英治著(祥伝社文庫)を読みました。
国民的ヒーローの苦闘を活写する!
本書は、1991年に刊行された『永遠の力道山』(徳間書店)を改題して文庫化したものです。
著者は「週刊文春」出身の作家で、政界、財界、芸能界のルポルタージュで有名です。日大の出身で、わたしの仲人で「日大経済人カレッジ」を主宰していた前野徹氏と親しい関係にありました。東急エージェンシー時代には、著者によくお会いしました。
本書の表紙裏には、次のような内容紹介が書かれています。
「敗戦後、意気消沈する日本人に勇気と自信を取り戻させた男、力道山。大相撲からプロレス転向に至る人知れぬ苦悩。隠された出生の真相。秘技・空手チョップ誕生と大山倍達の関係。愛弟子馬場・猪木に対するねじれた愛情。そして、刺殺実行犯が証言する『力道山最期の瞬間』とは・・・・・。栄光の道のりの陰で絶えず崖っぷちを意識していた男の苦闘を活写する!」
本書は、第一章「張り手の関脇」、第二章「空手チョップに黒タイツ」、第三章「栄光と翳」の3つの章から構成されています。
力道山は、1924年11月14日に生まれ、1963年12月15日に亡くなりました。1963年といえば、ちょうどわたしが生まれた年です。ですから、わたしは力道山の活躍をリアルタイムで知りません。物心ついたときに活躍していたプロレスラーは、ジャイアント馬場であり、アントニオ猪木でした。2人とも、力道山の弟子だと少年向けの『プロレス入門』などに書いてあったので、そこで初めて「力道山」という名前を知りました。
「戦後最大の日本のヒーロー」と呼ばれた力道山でしたが、本名を金信洛(キムシルラク)といい、現在の北朝鮮で誕生しています。少年時代は日本の相撲にあたる「シルム」という格闘技の力士として活躍しました。家が貧しかったので、兄たちとともに家計を助けるためでもありました。漢学者だったという父親はあまり働かなかったとか。母親が米をつくるかたわら、雑貨屋などを営んでいたそうです。
朝鮮にやってきてシルムを見物していた長崎県大村の興行師・百田巳之吉に見出され、大相撲の二所ノ関部屋にスカウトされます。二所ノ関部屋の親方は、元横綱の玉の海でした。著者は、次のように書いています。
「玉の海は、力道山を秘蔵っ子としてかわいがった。あまりに力道山を大事にするので、力道山は、同門の力士仲間からは、妬まれた。彼らは、力道山のことを、本名で、『金、金!』と呼んだ。戦前は、いかに力道山がおのれの出生を隠そうとしても、隠しようがなかった。相撲の番付には、はっきりと出身地が書かれていたからである。
理由なき民族差別のまっただなかで、力道山が胸を張って生きぬいていくためには、出世するというほかに道はなかった」
力道山は、よく食べ、よく稽古をし、強くなりました。スピード出世で番付も上げていきましたが、ありあまるエネルギーのせいか、または民族差別に対する怒りのせいか、喧嘩もよくしました。ひと晩に2回は当たり前だったそうです。本書には、次のように書かれています。
「巡業で地方をまわっていると、かならず土地のヤクザや有力者から座敷を設けられる。力道山は、酒を飲むと人が変わった。酒乱であった。しかし、みずから喧嘩を売るようなことはしない。力自慢の相手が因縁をふっかけてきても、三度までは我慢した。
が、四度も五度もとなると、もう黙ってはいない。見るまに怒りで顔面を朱に染めるや、相手がたとえ十人であろうと、鍛えあげた強腕で全員を殴りつけ、血の泡を吹かせた。かたわらの芳の里が、割って入るまもない早業であった」
その後、力道山は自ら髷を切り、大相撲を引退します。そして、紆余曲折あってプロレスラーとなったことは周知の通りです。
本書で興味深く読んだのは、やはり木村政彦にまつわるエピソードです。それと、力道山と大山倍達の関係が詳しく書かれています。
木村と大山が親しくしていたことは有名ですが、例の「昭和巌流島の決戦」と呼ばれた力道山vs木村政彦戦でも、大山はリングサイドに陣取っていました。力道山は、あらかじめ用意されていたシナリオを力道山が一方的に破って木村を不意打ちします。頚動脈に手刀を思い切り叩きつけられた木村は起き上がることができず、レフェリーは力道山のKO勝ちを宣言しました。本書には、そのときの大山倍達の様子が次のように書かれています。
「大山は、たまらず声をあげた。
『そんな馬鹿な判定が、あるか! 力道、待てい!』
力道山は、なおもリング内をうろうろ歩きまわって止まない。歩き方は、まるではずみをつけているかのように軽やかで、体は上下に揺れている。腰に当てられた両手は、両方とも親指一本だけがタイツの上に添えられている。
大山は、着ていたロングコートを脱ぎ捨てた。リングに上がって行こうとした。
『貴様、力道! これは、プロレスじゃない。喧嘩じゃないか! 喧嘩なら、力道、たったいまここで、おれが相手になってやる!』
横にいた国際プロレスの大坪清隆や立ノ海らが、必死になって大山がリングに上がるのを止めた。力道山は、大山に一瞥をくれただけで、あとは視線をわざと逸らした。二度と、大山を見ることはなかった。リングに上がることを食い止められ、無視された大山の激昂は、収まるところを知らなかった」
その後も、力道山の裏切り、不誠実の数々を木村政彦から聞かされた大山は、意を決して「先輩、おれが一回、力道山に挑戦しますよ」と宣言します。
大山は、劇画原作者として力道山と親しかった梶原一騎に連絡を取り、「力道と、一回試合をさせてくれよ」と頼み込みます。梶原はすぐ力道山のもとを訪ね、大山の挑戦を伝えます。話を聞いた力道山は鼻で笑い飛ばし、「大山とは、試合はしたくない。第一、そんな金にならない試合、なんでしなくちゃいけないんだ」と言い放ちました。「金をくれるなら試合はやる」という力道山に、金などない大山は返す言葉がありませんでした。
しかし、そんなことで諦める大山倍達ではありませんでした。彼は、なんと力道山のストーカーとなって、彼の後をつけはじめます。力道山が1人になったときを狙って、その場で果し合いをするつもりだったのです。木村戦以来、ヤクザ勢力から狙われていることもあり、用心のために力道山は決して1人では行動しませんでした。
じつに木村戦から1年半後、ついに大山は東京・赤坂のクラブ「コパカバーナ」から1人で出てきた力道山を捕まえます。本書には、そのときの様子が次のように書かれています。
「大山は、物陰からスッと立ちふさがるように、力道山の前に姿をあらわした。
力道山は、『あッ』といまにも声をあげんばかりに眼を剥いた。
大山は、声を低くしていった。
『力道、よく会ったな。きみには、長い間会いたいと思っていたよ』
すると、なんと力道山は、人懐っこい顔で、にっこり微笑みかけてくるではないか。
『いや、大山さん、久しぶりでしたあ!』
そういって、深々と頭を下げるのである。
力道山は、なれなれしく大山に近づいてくると、手を握ってくる。
『いやぁ、本当に、しばらくでした。ご無沙汰でしたなあ』
出ばなをくじかれ、大山はとまどってしまった。
そのうち、力道山の姿を見つけ、人が集まってくる。
力道山は、相変わらず大山に頭をぺこぺこ下げつづけている。
まさか、衆人環視の中、頭を下げている者をいきなり殴りつけるわけにもいかない。
やあやあとやっているうちに、大山も戦闘意欲が薄れてしまった。
結局、その日はそのまま別れて帰ってきた。
それきり、力道山への闘争心も萎えてしまった」
この大山とのエピソード1つを見ても、力道山がじつに機転のきく人間だったことがわかります。たとえ人間性には問題が多かったとしても、いわゆる頭の良い人間だったのです。そして、力道山は稀代のアイデアマンでもありました。
力道山の若い側近で、彼が経営する「クラブ・リキ」の社長を務めていた宍倉久氏は、よく明け方に力道山に呼び出されたそうです。クラブ・リキが午前3時に閉店し、宍倉氏はそれから帰宅します。すると、そんな時刻に力道山から電話がかかるのです。いつも、「ちょっと来てくれ」という内容でした。宍倉氏は次のように語っています。
「本人は興行を終えたあとで一杯ひっかけている。
それで家にもどってシャワーをあびて、そこでいろいろとアイデアを考えるんです。
ダッコちゃん人形が流行ったときには、黒人選手ばかりを集めた興行を打とうといってきました。怪奇映画が流行ったときには、エジプトのミイラを真似したザ・マミーという包帯で全身をぐるぐる巻きにした選手を登場させた。そういうアイデアを思いついては、明け方の4時、5時に電話をかけてきて、わたしを呼びつけた。
すぐに自分のアイデアを他人にいって、善し悪しを確認したいんですね」
真夜中に湧いてくる力道山のアイデアは、プロレスのことばかりではありませんでした。本書には、次のように書かれています。
「事業についても、つぎつぎと斬新なアイデアを出してきた。『これからは、レジャーの時代だ。ゴルフが流行るぞ。ゴルフ場をつくろうじゃないか』まだ、一流企業の社長でも、ゴルフはかぎられたひとしかやっていない時代であった。が、そうと決めるや、相模湖に土地を買い、宍倉とやはり側近の長谷川秀雄に、ゴルフ場建設をまかせた。リキ・パレスには、ボーリング場もつくった。東京で三番目の早さだった。力道山は、アメリカに行っては、しっかりとこれから日本で事業として成り立つものをつかんできたのである」
力道山のアイデアは止まるところを知らず、世田谷の土地1000坪を勝ってターミナルを建てる構想も描いていたそうです。海外旅行のブームおよびマイカー・ブームの到来を予想していたのです。高速道路の入口近くの土地で、車で乗りつけてチェックインして、そのまま羽田に行って飛行機に乗れるというアイデアでした。後に事業家となった宍倉氏は、著者に向かって次のように回想したそうです。
「いま考えてみると、力道山というひとは、とてつもない予言者だったんだなと思いますね。まさに力道山がいっていたことは、いまの箱崎ターミナルなんですよ。箱崎はまさに、力道山がいったとおりの構想で生まれたんですからね」
そして、力道山がその頭脳をフルに使って考えたのが、自らの後継者についてでした。本書には、次のように書かれています。
「力道山は、体力の限界を案じ、後継者について考えざるをえなくなっていた。豊登、芳の里といった実力者たちはいたが、身体が小さく、見栄えがいまひとつだった。眼をつけているのはいた。かれは、力道山にとってはさいわいにも、34年11月に右肘を痛め、4年間在籍していたプロ野球巨人軍の投手を解雇されていた。
再起を賭けて、翌35年新春、大洋のテストを受けるため、明石のキャンプに参加した。いわゆるテスト生である。ところが、2月12日、風呂場でころび、投手の命である右肘の筋を切った。不運にも、野球生命を絶たれてしまったのである。
とてつもなくでかい男、まさに巨人といってよかった。それだけでも、客寄せになる。しかも、元巨人軍の投手というネームバリューもある。その名を、馬場正平といった。のちのジャイアント馬場である」
馬場に続いて、もう1人の後継者候補である猪木寛至にも会いました。そのときの様子も、次のように書かれています。
「力道山は猪木と、ブラジルのサンパウロでめぐり逢った。猪木は中央青果市場につとめていた。2年前の32年2月に、移住してきた。
青果市場の理事長である児玉満が、力道山の世話役で、猪木を力道山が泊まっているホテルにつれていった。力道山のことは、猪木は知っていた。マリリアという町に、力道山一行がくるというので、試合を見に行っていた。力道山は、日系移民にとってヒーローだった。猪木もあこがれの眼差しで、力道山の勇姿に見とれた。
ホテルの部屋で、力道山は猪木を見ると、いきなり『裸になれ』といってきた。
上着を脱ぐと、『背中を見せろ』。
そして、間髪おかず、有無を言わさぬ調子でいった。『よし、日本に行くぞ』
猪木は、たった三言で、3年ぶりに日本の土を踏むことになったのである」
馬場と猪木の2人の新弟子に対する力道山の態度は、よく知られているように公平ではありませんでした。本書には、次のように書かれています。
「馬場は、トレーニング以外では殴られることはなかったが、猪木は私生活でも、こてんぱんに殴られた。
『いつもいつも頭をあんなに殴られたら、頭がおかしくなっちゃう』
知っているひとに、そうもらした。
力道山から猪木をかばったのは、豊登であった。『猪木はね、本当にリキ関によく殴られたんです。それで、あるときぼくに、こういったことがあった。『そばにもし包丁があったら、うしろから先生(力道山)を刺して、海に飛びこんで、ブラジルまで逃げて帰りたい』猪木にはそのころ金なんかなかったですからね、船で帰るわけにはいかないから、泳いで帰るといったんです。それくらい、猪木は苦しんだんです」
これほど違う待遇をしている馬場と猪木を、力道山はじっくり見ていました。側近の1人だったある岩田浩氏は、「力道山は、ふたりをスターにしようと、はっきりと考えていましたね。ちがうタイプのプロが張り合って、お客を巻き込んでいく。そのために、ふたりがライバル心を燃やし合うことを、力道山は黙って見ていました」と語っています。そして、力道山は赤坂の高級ナイトクラブ「ニュー・ラテンクオーター」のトイレの前で暴力団員と言い合いになり、登山ナイフで刺されてしまいます。
本書にはその真相が詳細に紹介されていますが、刺された理由のあまりの下らなさに拍子抜けするほどです。力道山の酒乱癖が招いた当然の結果と言えるでしょう。
「力道山刺される」の一報が日本中を駆けめぐったときの大山倍達の様子が本書に次のように書かれています。
「大山倍達は、ニュースを聞いてハッとした。まさか、という気持ちと、やっぱり、という気持ちが交差した。〈とうとう力道にも、天罰が下ったか・・・・・〉そう思ったが、やはり気になって知らんぷりは決めこめない。大山は、山王病院を訪ねた。力道山は、意外と元気そうだった。
『大山さん、大したことないよ』見ると、傷は小さく、本当に大したことはなさそうだった。が、小腸が4カ所切れていたという。『大したことなければ、早く元気に成ってください』それだけいって、大山は帰ってきた。が、力道山とは、二度と会うことはなかった」
1963年12月15日、力道山は息を引き取ります。最後まで酒乱癖が直らず、また数々の裏切り行為によって多くの人々を傷つけてきた力道山でしたが、多くの人々に夢を与えてきたこともまた事実でした。もちろん人並み外れた金への執着心もありましたが、プロレスでいかに観客を楽しませるかということが力道山の最大の関心でした。
いくらプロレスがブームになろうとも、彼は最低の入場料である300円だけは変えようとしなかったとか。「この300円は、絶対に上げるなよ。貧乏な人間が、いつでも来れるようにしておけ。プロレスは、金持ちも貧乏人も、みんないっしょに楽しんでもらうんだ」といつも言っていたそうです。
彼がそれほどまでに情熱を打ち込んだ日本のプロレス。その現状を見るとき、わたしは「無常」というものを感じないではいられません。
力道山が刺された「ニュー・ラテンクオーター」の跡で(撮影:内海準二)