No.0511 宗教・精神世界 | 評伝・自伝 『女性のための般若心経』 家田荘子著(サンマーク出版)

2011.12.14

『女性のための般若心経』家田荘子著(サンマーク出版)を読みました。

この世をよりよく生きる知恵

著者は、映画化もされた『極道の妻たち』(青志社)などで知られる作家ですが、高野山真言宗僧侶でもあります。1999年に高野山真言宗最福寺で得度し、2007年に高野山大学で伝法灌頂を受け僧侶となりました。本書では、そんな仏門に入った著者が、女性のために『般若心経』の知恵を優しく説いています。

扉を開くと、最初に『般若心経』の全文を記した紙が折られて収められています。帯には「作家として女性たちを描き続け、僧侶として厳しい行に生きる著者が、『般若心経』とともにひもとく人生絵巻。」と書かれています。さらには、「あなただからできる『生き方』がある。」と大書されています。

本書の「目次」は、次のようになっています。

「はじめに」

第一章 :あるがままの自分を生きる
1.心の中にある「仏様の種」に気づく
2.小さな思いやりを積み重ねる
3.自分だけの花を咲かせる
4.不幸のあとには幸せが来る

第二章 :苦楽はあなたの心次第
1.苦しみは自分の心の中にある
2.いつも明るい方に顔を向ける
3.天から自分を見下ろしてみる

第三章 :正しく生きれば道は開ける
1.悪に染まると心が貧しくなる
2.自分の足で小さな世界から抜け出す
3.人生はあなたの思いを映し出す
4.後悔のない日々をすごすために

第四章:生まれてきた意味を知る
1.素直な自分に戻れる場所をもつ
2.短所も含めて自分をかわいがる
3.淋しさから飛び立つために

第五章:本当の幸せを掴むために
1.時が悲しみを流し去ってくれる
2.言葉1つで喜びは2倍になる
3.自分を救えるのは自分しかいない

「あとがき」

著者は、これまでに歩きで6巡、車で2巡、四国霊場の遍路修行をしているそうです。遍路は、いつも金剛杖とともにありました。金剛杖は著者にとって弘法大師そのものであり、遍路中、いつも同行二人だったのです。さらに、著者は『般若心経』もまさに心の同行二人ではないかと考え、「はじめに」で次のように述べています。

「私たちは、生を受けて以来、楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、辛いことなどに出逢っています。壁にぶつかったり、行く道が判らず立ち止まってしまったりと、心が何かを必要としているとき、般若心経は、たったの262字でもって、生きていくための知恵を与えてくださるのです。
生きていくことは、大変なことです。誰もが覚悟や選択をして、この世に誕生したのではありません。気がついたら、生を受け、生かされていたのです。でも人には、煩悩というものを誰もが与えられているので、思うようにいかなくなったとき、生きていくのが苦しくなってしまいます。壁にぶつかり、立ち止まってしまったとき、暗いトンネルの中で動けなくなったとき、思わぬ発想でもって、このドロ沼から抜け出す正しい方法を教えてくれるのが、般若心経です。
まさに同行二人。私たちが生きていく上で、262字の呪文が、つかず離れず支えとなって、寄り添ってくれているのです」

第一章「あるがままの自分を生きる」の冒頭で、著者は「心」について述べています。

「弘法大師空海は、『私たちの心は、色も形もないけれど、もともと清らかで、満月のようだ』と、おっしゃっています。人は皆、きれいな心で生まれてきます。ところが、いいことより、ちょっと魅力的な部分もあるので、ついつい悪いことの方に誘われてしまったり、悪い考えにはまって翻弄されたりします。
でも、自分を見つめ、自分は弱いということに気づけたら、もう大丈夫です。それが、さとりへの一歩です。ありのままの自分になれれば、自分の中の小っちゃな仏様が、きっとお顔を見せて、力を貸してくださいます」

さて、著者は日本大学芸術学部卒業後、女優など10以上の職業に就いた後、作家に転進しています。そして作家としての出世作になったのが、1991年に発表した『私を抱いてそしてキスして――エイズ患者と過した一年の壮絶記録』(文藝春秋)で、この作品は第22回大宅荘一ノンフィクション賞を受賞しています。

本書『女性のための般若心経』においても、やはりエイズ患者とのエピソードには胸を打たれます。たとえば、ジーナというアメリカ人の黒人女性のエイズ患者が登場します。

著者は妊娠して、女児を出産するのですが、そのことを余命いくばくもないジーナにどうしても話せませんでした。明日の命も知れない人に、幸せな話はできないと考えたからです。しかし、著者の夫から出産の事実を知らされたジーナは著者のもとに電話をかけてきて次のように言いました。

「おめでとう!こんな嬉しいことってないわ。新しい生命が誕生するなんて、私、本当に嬉しい!神様、本当にどうもありがとう!ああ、私、本当に嬉しい。なんてステキなことなの!おめでとう」

ジーナは力いっぱい叫んで、何度も何度も、「おめでとう」と、喜んでくれたそうです。そのときのことを、著者は次のように書いています。

「私は、愕然としました。私にはできなかったことです。ジーナは、娘の誕生を心から喜んでくれているのです。すごい女性だと思いました。明日、命の灯火が消えるかもしれないのに、こんなに純粋に、人の幸せを一緒になって喜んで・・・・・・。

ジーナは、命がけで、私に『慈悲』の心について教えてくれました。慈悲の『慈』とは、人と一緒に喜びを分かち合うこと。『悲』とは、人の痛みが判ること、人と悲しみを分かち合うこと――という意味です。私もそういう生き方をしたいと思いました。私も皆も、そういう社会を作っていけたらいいなと、心から思いました」

それからまもなく、ジーナは亡くなりましたが、彼女のあの喜びの叫びは、今でも著者の心の宝物になっているそうです。また、ジミーというアメリカ人の白人男性で同性愛者も登場します。エイズで亡くなる少し前、ジミーは、著者に次のような言葉をプレゼントしてくれました。

「人を愛するって、3つあると思う。まず、その人の身に起こっていることもすべて含めて受け入れること。つまり、たまたま、その愛する人が、エイズという病気に罹っていたとしたら、病気まで受け入れて愛すること。2つ目は、理解すること。その病気の人を愛しているのならば、なぜ病気なのか、どんな病気なのか、理解しようと努めるでしょ?そうすれば、その人の痛みも気持ちも、より解ってあげられる。これも愛。最後は、信じること。もし愛する人が、死にたいと、本当に願っているなら、逝かせてあげるのも愛。でも、もし私みたいに、本当に生きたいと切望していたら、それを支えてあげる信念、『大丈夫。生きる。生きられる!』と信じることが、愛じゃないかな」

著者には、ジミーの言葉が重く、温かく感じられたそうです。ジミーもまた、もがき苦しむ毎日の中から、「慈悲」の心を知り、さとりを開いた1人だったのです。

著者は子どもの頃、いじめられていました。大人になって作家になったときは、同業者の妬みを買い、ひどいバッシングに遭ったそうです。恋人に捨てられ、号泣したこともありますし、辛い離婚も経験しました。

これまでに何度も「死にたい」と思った著者は、人生の「悲しみ」を知り尽くしているように思います。だからこそ、エイズ患者、売春少女、そして極道の妻たちの「悲しみ」に触れることができたのかもしれません。

「慈悲」とは「慈しみ」と「悲しみ」のこと。本当の「悲しみ」を知っている著者だからこそ、「慈悲」というものを体で感じることができるのでしょう。そんな著者が、さまざまな悩みを抱えた女性読者にアドバイスをします。その言葉は、「悲しみ」を知り尽くした者だけあって説得力に富んでいます。

第二章「苦楽はあなたの心次第」では、次のようなアドバイスをしています。

「心が苦しくなったら、誰かと比べていないか、自分の心を確かめてください。人と比べることをして、辛いのは自分だけです。あなたの心が辛いだけで、人は辛くありません。比べることを頭の中から追い出した瞬間、嘘みたいに心が楽になれます。
苦しくなったら、ぜひ、あなたの頭に、『もう満タンになっちゃったから追い出そうよ』と言ってあげてください。苦しいのは、あなただけではありません。
人である以上、誰もが、この比べることの苦しさを経験しているのです。でも、比べることをやめたら、どんなに心が楽になるかを知っている人は、多くいません」

また、会社勤めで辛い思いをしているOLには、次のように語りかけます。

「会社など、小さな世界の中でも、認めてもらうもらえない、上司にかわいがられるかわいがられない、一生懸命やっているのに理解してもらえない、要領のいい人が得しているとしか思えない・・・・・・など、価値観の違いから、現在、光の当たっている人と、まだ光を当ててもらえない人とがいます。一生懸命やっているのに、なかなか認めてもらえず、次々と追い越されてしまう人は、辛いですよね。私は要領が悪いので、たびたび追い越され、辛酸を嘗めてきました。
でも、会社の天井から、今の職場を見下ろすのでなく、空のもっと上、宇宙(天)から、その職場を見下ろしてみてください。皆同じに見えて、大差はないのです。狭い世界では、嘘やごまかしがばれなくても、天は、すべてお見通しです。真摯に生きていれば、たとえ上司が理解を示してくれなくても、もっと大きな世界には、そのきれいな心や努力は届いています。誰も認めてくれていないわけではありません。だから時間はかかったとしても、今の地道なままで、大丈夫なのです」

他人のことが羨ましくてたまらない人がいます。そして、そのことで自己嫌悪に陥っている女性に、著者はこうアドバイスします。

「華やかな世界や、お金を持っている人、名声を得た人・・・・・・など、憧れの対象になりがちですが、人それぞれ何に価値を見いだすかは違います。自分の思っている価値観のために、日々、無理をしないで、努力を重ねていきましょう。そのために、羨ましいと思うのは、けっしてイヤらしいことではないと私は思います。励みと捉えることができたら、羨ましいという気持ちは、ポジティブなエネルギーを運んでくれます」

第三章「正しく生きれば道は開ける」では、著者が関東大震災の火災で焼け死んだ吉原の遊女たちの供養をしているエピソードが明かされます。最初、お経をあげるのが下手だった著者ですが、だんだん上手になり、遊女の霊たちも喜んでくれたとか。その後、「ふり返って初めて判る人生の道」として、次のように述べています。

「人生の道を歩かされている途中、(なぜ、この道を?)と思うことがときどきあります。それは、まったく何も進んでいないような地味な一歩一歩を重ねている時期なのですが、人からいろいろイヤなことを言われたり、迷ったりで、挫折しそうになったりもします。まるで暗いトンネルの中を歩き続けているようで、(いつまで、こんなこと続くの?)と、淋しくなったり、自分だけが取り残された気分に陥ったり・・・・・。
ところが、十年ぐらいの単位でふり返ってみると、何のための道だったのかが、判ってきます。自分がこの世界に生を受けたお役目が判れば、四苦のうちの三苦、「老病死」への怖さが薄れていきます。お役目を全うできたとき、『ごくろうさまでした』と、命も燃え尽きると思えば、その日その日を大切に生きていきたいと、前向きな気持ちになれると思います」

第四章「生まれてきた意味を知る」では、「しがみつくほど、淋しさは増していく」と説いています。女性は、結婚に憧れます。しかし、結婚したらしたで、そこにはまた新たな苦悩が待ち受けています。離婚経験者でもある著者は、次のように述べます。

「結婚というものを一度してしまうと、たとえ破綻していても、結婚を維持したいと、まずは思います。プライドや、世間体、生活、1人になる淋しさなどもあって、結婚という文字にしがみついてでも続けていこうと思う人が少なくありません。でも何かにしがみつくと、とっても心が淋しがるものです。
夫が帰ってこない、あるいは、外泊が重なる。嘘が増えた。会話がない。話がかみ合わない。夫の携帯にメールが頻繁に来ている。そういう時期は、淋しくて淋しくて仕方ありません。少しでも夫(恋人)と一緒にいる時間を増やしたいと、自分の都合や仕事を犠牲にしてまで、夫(恋人)に合わせたりもしてみますが、あんなに心待ちしていたのに、愛する人といても、ちっとも楽しくないのです。
そればかりか、すごく辛くて、淋しくて、涙がこぼれそうになります。夫(恋人)に早く帰ってきてもらいたいと、1人帰宅を心待ちにしていたときの淋しさより、実際、愛する人がそばにいるときの方が淋しいのです。大海に放り出されたような苦痛を伴った淋しさに溺れかけているようです」

待つ身は、夫を待つ妻だけではありません。不倫相手の男性を待つ女性だっています。そんな「待つ立場」の女性たちに、著者は問いかけます。

「待つ立場は、淋しさを伴います。でも、待つ必要がなければ、淋しさがあったとしても、悲痛なまでの淋しさはありません。ではなぜ、今自分が淋しいのかを考えてみてください。本当に淋しいですか?
かつて人恋しいとき、暇なとき、誰かを誘って遊びに出かけたりしましたよね。年を重ねていくうち、友達も結婚したり、就職したりで生活が確立されて、前のように一緒に遊びに行けなくなってしまいました。だからといって、夜、1人で繁華街にでも出れば、最悪の男に捕まって利用され、人生をころげ落ちることになるかもしれません」

そして、著者は次のように具体的な提案をするのです。

「そういうときは、スニーカーを履いて、昼間、出かけませんか?山に行ったり、海に行ったり、川べりを歩いてみたり、自然の中に体を連れていってあげてください。心が落ちついてきます。昼間、体を使って疲れたら、夜は、眠くなって寝てしまいます。お酒を飲んで、時間やお金を使うより、きっと、心も体も喜んでくれます。
淋しいなら、かっこつけないで、淋しいと、正直に同性の友達に言ってしまいましょう。ナンパされた男や、サイトで見つけた相手に、そんなことはけっして言わないでください。淋しさにつけ込まれて、大変な目に遭ってしまいます。こういうとき、頼りになるのは異性より同性です。女友達なら、たとえその日、忙しくても、別の日には話を聞いてくれることでしょう」

第五章「本当の幸せを掴むために」では、著者は「苦悩」ついて次のように述べます。

「苦しい苦しいと、苦しい方ばかりを思い、『私だけが不幸』と、自分を悲劇の主人公に仕立て上げていくと、苦しみはもっと増え、もっともっと心が落ち込んで、まるで地獄の中に溺れているような気持ちになってしまいます。人それぞれ、何か苦しいことを抱えて生きています。『欲望』がある以上、人は、どうしても苦しんでしまいます」

そして、その苦悩から抜け出る道について、次のように述べます。

「まずは、自分を見つめてみましょう。そうして、苦しみの根元を探りましょう。それから、さらに自分を見つめてみましょう。辛いことですが、逃げていては、溺れたままじまいです。だから、やっぱり自分を見つめて、苦しみの根元を見つけ出しましょう。その結果、自分の心の中に仏様の種があると気づいたら、それを育てていきたいという優しい気持ちや、感謝の気持ちが生まれてきます。自分の中にある空のような、海のような広く深い心に気づけたら、悩みや苦しみから、一歩外に抜け出せたということです」

「あとがき」には、次のような感動的なエピソードが紹介されています。わたしは現在、新聞で「となりびとエピソード」というエッセイを連載していますが、そこで紹介したいような素敵な実話です。

「先日、山手線に乗っていたら、高齢の男性が、駅に着いてからゆっくり立ち上がり、まわりのポールなどに摑まりながらヨロヨロとドアの方へ歩いていきました。出発の音楽が鳴っています。男性が降りるのを待てずに、ホームからあわてて、乗客が数人乗ってきます。ところが、高齢の男性が降りようとしているのを見て、1人のサラリーマンが、右の足を車内に、左足をホームに置いてドアを押さえてくれたのです。もう1人のサラリーマンも、反対側のドアを背中で押さえたまま、男性の手を取って、下車できるように誘導しています。2人のサラリーマンは、お互いに知り合いではなく、また声を掛け合うこともなく、けれども息をピタッと合わせて、さりげなく高齢男性のお手伝いをしていました。
見ていて、心がとても温かく嬉しくなりました。
乗客の顔を見ると、皆が同じように優しい顔をしていました。
その光景に出くわすことのできた人たちは、皆、心が温かくなり、彼岸の気分に浸れたことでしょう。人と一緒に喜びや悲しみを分かち合う、まさに慈悲の心です。私だけでなく、皆、改めて優しさというものを学ばせてもらいました」

そして、本書の「あとがき」の最後は、「私は歩き遍路をしながら、四国の皆さんにたびたび、思いやりの大切さを教えられています。人に優しくし、優しくされて、お互いに思いやって、皆で一緒に彼岸へ行きましょう。1人ひとりのほんの少しの思いやりで、多くの人の心を変えることができます。明るく優しい居心地のいい世の中にしたいと、皆が願ったら、叶えられるのです。そこが彼岸です」と述べられています。

わたしは、著者がこれから瀬戸内寂聴氏のような存在になるような予感がします。そう、時代を代表する女性僧侶になるような気がしてなりません。

本書には、女の業や悲しみが余すところなく書き綴られています。その一方で、本書は男性が読んでも心が軽くなる好著でもあります。

わたし自身も本書を読んだ後、スッキリして、軽やかな気分になれました。

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