No.0552 評伝・自伝 | 論語・儒教 『孔子』 和辻哲郎著(岩波文庫)

2012.02.28

『孔子』和辻哲郎著(岩波文庫)を再読しました。

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「序」「再版序」
1.人類の教師
2.人類の教師の伝記
3.『論語』の原典批判
4.孔子の伝記および語録の特徴
付録:武内博士の『論語之研究』
解説(大室幹雄)

本書は全部で160ページちょっとの小著ですが、孔子とその弟子たちの言行録である『論語』の成立過程をわかりやすく分析しています。『孔子伝』と並ぶ名著で、わたしはもう何度も読み返しています。

日本を代表する哲学者の1人であり、倫理学者でもあった著者・和辻哲郎は、「序」の冒頭で「自分には孔子について書くだけの研究も素養も準備もない」と書いています。いやはや、和辻哲郎ほどの大物にこんなことをいきなり書かれてしまったら、わたしなど一文はおろか一語も書けなくなってしまいます。

孔子は、儒教の開祖です。紀元前551年に中国の山東省で生まれました。学問に励み、政治の道を志したが、それなりのポストに就いたのは50歳を過ぎてからでした。試みた行政改革が失敗に終わって、「徳治主義」という自らの政治的理想を実現してくれる君主を求めて、諸国を流浪しました。

春秋戦国時代の末期であった当時は、古代中国社会の変動期でした。つねに「天」を意識して生きた孔子は、混乱した社会秩序を回復するために「礼」の必要性を痛感し、個人の社会的道徳としての「仁」が求められると考えました。多くの弟子を教えた孔子は、74歳で没します。死後、彼の言行は弟子たちが『論語』としてまとめました。

わたしは、拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)を書きましたが、同書のサブタイトルを「人類の教師たちのメッセージ」としました。この「人類の教師」という言葉は、もともと和辻哲郎が本書『孔子』で使ったものです。

和辻は、著書『孔子』の第1章を「人類の教師」と題して、次のように書き出しています。

「釈迦、孔子、ソクラテス、イエスの四人をあげて世界の四聖と呼ぶことは、だいぶ前から行なわれている。たぶん明治時代の我が国の学者が言い出したことであろうと思うが、その考証はここでは必要でない。とにかくこの四聖という考えには、西洋にのみ偏(かたよ)らずに世界の文化を広く見渡すという態度が含まれている。インド文化を釈迦で、シナ文化を孔子で、ギリシア文化をソクラテスで、またヨーロッパを征服したユダヤ文化をイエスで代表させ、そうしてこれらに等しく高い価値を認めようというのである」

ではどうしてこの4人が、それぞれの大きい文化潮流を代表し得るのでしょうか。それについて、和辻はこれらの人物が「人類の教師」であったからだと言います。現実の歴史においては、いずれかの文化の伝統によって厳密に限定されない人類の教師などというものは、かつて現われたこともありません。また、現われることもできないでしょう。しかし、最も特殊的なるものが最も普遍的な意義価値をもつことがあります。それは一般に芸術の世界に見られるが、芸術に限ったことではなく、人類の教師においてもそうであるというのです。和辻は述べます。

「我々はここに人類の教師という言葉を用いるが、それによって『人類』という一つの統一的な社会を容認しているのではない。現代のように世界交通の活発となった時代においてさえ、地上の人々がことごとく一つの統一に結びついているというごとき状態からははるかに遠い。いわんや如上の四聖が出現した時代にあっては、彼らの眼中にある人々は地上の人々全体のうちのほんの一部であった。孔子が教化しようとしたのは黄河下流の、日本の半分ほどの地域の人々であり、釈迦が法を説いて聞かせたのもガンジス河中流の狭い地域の人々に過ぎぬ。ソクラテスに至ってはアテナイ市民のみが相手であり、イエスの活動範囲のごときは縦四十里横二十里の小地方である。が、それにもかかわらず我々は彼らを人類の教師と呼ぶ」

その場合の「人類」とは、地上に住む人々の全体を意味するのでもなければ、また人という生物の一類をさすのでもない、と和辻は言います。さらにまた「閉じた社会」としての人倫社会に対立する意味での「開いた社会」をさすのでもなく、それぞれの小さい人倫的組織を内容とせずには人類の生活はありえないとしたうえで、和辻は次のように述べます。

「実際においても人類の教師の説くところは主として人倫の道や法であって、人倫社会の外なる境地の消息ではなかった。彼らが人類の教師であるのは、いついかなる社会の人々であっても、彼らから教えを受けることができるからである。事実上彼らの教えた人々が狭く限局せられているにかかわらず、可能的にはあらゆる人に教え得るというところに、人類の教師としての資格が見いだされる。従ってこの場合の『人類』は事実上の何かをさすのではなくして、地方的歴史的に可能なるあらゆる人々をさすにほかならない。だから人類は事実ではなくして、『理念』だと言われるのである」

そう、釈迦、孔子、ソクラテス、イエスの4人の思想には時代や地域にとらわれない普遍性があり、それだけに巨大なスケールを持っています。しかし、そのような彼らの思想が誕生した裏には、時代的および地理的背景が厳然としてありました。それぞれの時代、それぞれの地域で、人間は大きな矛盾や問題を抱えており、それを解決するために彼らの思想が生まれたという側面があるのです。和辻は、4人の人類の教師はみな「革新家」であったとして、本書の最終章「孔子の伝記および語録の特徴」において、次のように述べています。

「釈迦は彼以前の永い間にインドの社会に固定した四姓制度を内面的に打破しようとしたのみならず、古いヴェダの信仰、ウパニシャッドの哲学をも克服しようとした。彼の無我の主張はアートマン哲学への反駁なのである。イエスもまたユダヤ教として固定して来たイスラエルの文化に反抗して新しい人倫を説き始めた。福音書の物語においてイエスの正面の敵が祭司長、学者、パリサイの徒であることは、この事情を明示している。ソクラテスは彼の時代に流行したソフィストの運動に対抗して、真の哲学的精神を興した人である。ギリシャの人の古い神々の信仰はすでに自然哲学者やソフィストによって揺るがされており、ソクラテスとしてはむしろこの植民地思想に対してギリシャ本土の神託の信仰を危うくするということであった。こういうふうに人類の教師たちは皆彼らに先行する思想や信仰を覆すものとして現れているのである」

孔子も、また革新家でした。和辻は次のように述べます。

「孔子以前の時代には宗教も道徳も政治もすべて敬天を中心として行なわれた。天は宇宙の主宰神として人間に禍福賞罰を下す。だから天を敬い天命に従うことがすべての行ないの中心なのである。しかるに孔子は人を中心とする立場を興した。孔子における道は人の道である。道徳である。天を敬うのもまた道徳の立場においてである。天を敬いさえすれば福を得る、というのではなく、道に協いさえすれば天に嘉される、というのである。ここに思想上の革新がある。孔子もまた革新家である」

人類の教師たちは、単なる思想家ではなく、大いなる行動家でもありました。その根本にあったのは、いずれも「人々を幸せにしたい」という強い想いでした。拙著『世界をつくった八大聖人』にも書きましたが、彼らは人類を善き方向に導こうとした精神的リーダーたちであり、人格的にも模範的な人間と言えます。人間はここまで精神的に高まることができるのかという最高レベルを示した人々であり、いわば「代表的人類」と呼ぶべき存在です。

その中でも、わたしは最も孔子を尊敬しています。かねてよりリスペクトしてやまない人の名を冠した孔子文化賞を授与されることは、この上のない喜びです。

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