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No.0603 小説・詩歌 『祝魂歌』 谷川俊太郎編(朝日文庫)
2012.05.15
『祝魂歌』谷川俊太郎編(朝日文庫)を読みました。
谷川俊太郎編の『祝婚歌』(書肆山田)と読みは同じで「シュクコンカ」です。ただし、こちらは人生を卒業してゆく魂を祝福する詩集です。
本書は、もともと2003年7月にミッドナイト・プレスより刊行されましたが、2012年3月30日に朝日文庫に入りました。当然ながら、あの東日本大震災の犠牲者を意識しています。帯には、「3・11の前も後も私たちを深く慰める、死者との別れをめぐる30の詩」と書かれています。また、表紙カバー裏には次のような内容紹介があります。
「現代の代表的な詩人が、死をめぐる30の詩を選ぶ。死は行き止まりではなく、新たな魂の旅立ち。プエブロ古老『今日は死ぬのにもってこいの日だ』、高見順『電車の窓の外は』、林芙美子「遺書」、趙炳華『別れる練習をしながら』。大震災の前も後も、私達に深々とした息を吹き込む」
オマル・ハイヤーム、ウィリアム・シェイクスピア、ジョン・ダンから草野心平、まど・みちお、そしてチョンタル族の古謡まで・・・・・そのバラエティの豊富さは目を見張ります。
その中で、特にわたしの心に強く残った詩を3つ紹介します。
「遺書」 林芙美子
誰にも残すひともなく
書きおきたいこともないのですが
心残りなものがいっぱいあるようです
その心残りなものが何だか
自分でも判りません
土地も祖先もない故
私の骨は海へでも吹き飛ばして下さい。
「しぬまえにおじいさんのいったこと」 谷川俊太郎
わたしは かじりかけのりんごをのこして
しんでゆく
いいのこすことは なにもない
よいことは つづくだろうし
わるいことは なくならぬだろうから
わたしには くちずさむうたがあったから
さびかかった かなづちもあったから
いうことなしだ
わたしの いちばんすきなひとに
つたえておくれ
わたしは むかしあなたをすきになって
いまも すきだと
あのよで つむことのできる
いちばんきれいな はなを
あなたに ささげると
「あーあ」 天野忠
最後に
あーあというて人は死ぬ
生まれたときも
あーあというた
いろいろなことを覚えて
長いこと人はかけずりまわる
それから死ぬ
わたしも死ぬときは
あーあというであろう
あんまりなんにもしなかったので
はずかしそうに
あーあというであろう。
いずれも、素晴らしい「祝魂歌」だと思います。本書には、多くの外国の詩を日本語に訳した「訳詩」も紹介されているのですが、どうしても言葉のリズムや躍動感が日本語の詩にはかないません。それで、3つとも日本語で書かれた詩を選んでしまいました。
最初の「遺書」は、「土地も祖先もない故/私の骨は海へでも吹き飛ばして下さい」というラストの2行がいいですね。要するに地縁も血縁もない人は海洋葬としての「散骨」でもいいというわけです。しかし、これは逆にいうと、地縁や血縁のある人は散骨などしてはならないというメッセージにも受け取れますね。地縁や血縁があることは、人間にとって、とても幸せなことなのです。
「しぬまえにおじいさんのいったこと」も、以下のラスト3行がいいです。
「あのよで つむことのできる/いちばんきれいな はなを/あなたに ささげると」
臨死体験者などの報告を聞くと、あの世には綺麗なお花畑があるそうです。わたしは、花はもともと「あの世」のものであり、その一部が「この世」にも咲いているのではないかと思っています。なぜなら、この世のものにしては花は美しすぎるからです。
「あーあ」は前の2つとは反対で、最初の出だしが素晴らしいですね。
「最後に/あーあというて人は死ぬ/生まれたときも/あーあというた」
「あーあ」という短い言葉に人生のすべてを込めているわけです。いや、じつに奥深い詩だと思います。
本書の「あとがき」で、編者の谷川俊太郎氏が次のように書いています。
「死をどんなイメージでとらえるかは、文化によって、時代によってさまざまですし、また私たちひとりひとりの感じかたによっても違うでしょう。
現代の日本では死は暗いもの、忌むべきものという感じかたが大勢をしめているように思えますが、私自身は年をとるにつれて、死は行き止まりではなく、その先にまだ何かがあるのではないかと考えるようになっています。
からだから解放された魂というものがあるのではないか、誰もが心の奥底でそれを知っているのではないか。もしそうだとしたら、魂の新しい旅立ちを祝うこともできるのではないか、それが残された者の嘆きを少しでも軽くすることができるのではないか。そう思ってこのアンソロジーを編みました。このささやかな詩集が、生者への慰め、死者へのはなむけとなることを念じています」
「死」と「詩」と「志」が結びついた見事な「あとがき」であると思います。特に「生者への慰め、死者へのはなむけ」という言葉には、詩人ならではの感性を感じます。
谷川氏は、「文庫版のためのあとがき」も書いていますが、「タマシイ」についての次のくだりが印象に残りました。
「自分の気持ちを探っていった果てにぶつかる言葉が、タマシイではないでしょうか。でもこの言葉は他の言葉で言い換えたり、説明したりすることが大変難しい。おそらく言語の意味を超えたところにタマシイはひそんでいます。人類に言語が生まれる以前から存在しているからこそ、魂は生命にじかに結びついて、日々の現実よりも深いところでリアルなのではないでしょうか」
これまた、優れた「タマシイ」論になっていると思いました。
最後に、解説「生きて死んだ詩人たち」で、伊藤比呂美氏が次のように書いています。
「今、この本のすべてのページに、死への思いだらけのページに、どんな死も、壮絶でない死はない、その死をみちびく生というのも、どんな生でも、壮絶きわまりない、という感想が浮かびあがる。一人一人の声がはっきりと聞こえる。『死』は『死』だ。3・11の前も後も、生きて、死んだ、生きて、死んだ、生きて、死んだ、それだけである。それだけでいいのである。いいのこすことはなにもない」
伊藤比呂美氏のこの文章も、すでに一編の詩になっています。谷川俊太郎氏といい、詩人の言語感覚というのは、やはり素晴らしいですね。
愛する人を亡くして茫然自失になった方が、しばらくしてから手にされるとよい詩集ではないかと思いました。やはり、言葉の力は偉大です。