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No.0623 心理・自己啓発 『「すみません」の国』 榎本博明著(日本経済新聞出版社)
2012.06.25
『「すみません」の国』榎本博明著(日本経済新聞出版社)を読みました。
著者は、1955年生まれの心理学者で、『「上から目線」の構造』がベストセラーになりました。
本書の帯には、頭を下げている男性のイラストが描かれていますが、吹き出しの中のセリフは「すみません(私のせいではありません)」となっています。
また、帯に「『いえいえ』に潜む重大な意味とは」と大きく書かれ、「悪いと思っていないのに、とりあえず謝る、『分かりました』と言いつつ、意向は無視・・・・・。日本人の”お約束”の深層構造とは?」と続きます。
さらには、「空気を読むのは”状況依存社会”だから?」「ベストセラー『「上から目線」の構造』著者最新作!」とも書かれています。
本書の「もくじ」は、以下のようになっています。
プロローグ 日本人はいやらしいか
第1章 蔓延する「すみません」
第2章 日本語は油断ならない
第3章 言いたいことは言わない日本
第4章 いやらしさの裏側
第5章 空気が国を支配する
第6章 ホンネに敏感な日本、タテマエ主義の欧米
エピローグ わかりにくさの深層に
「おわりに」
「参考文献」
プロローグ「日本人はいやらしいか」の冒頭には、「『すみません』という言葉を耳にしない日はない。意識してみると、毎日そこらじゅうから『すみません』という言葉が聞こえてくる」と書かれています。たしかに、そうですね。
また、この「すみません」という言葉について、以下のようにも書かれています。
「この謝罪の言葉の体裁をとっている『すみません』は、じつに多様な意味をもち、日本的コミュニケーションにおいて非常に重要な役割を担っているのである。『すみません』という言葉に、日本的コミュニケーションの重層性が象徴されているように思われる」
どうやら、日本的コミュニケーションにはホンネとタテマエがあり、そこには「いやらしさ」と「奥ゆかしさ」の両方があるようです。この日本的コミュニケーションにおける「いやらしさと奥ゆかしさの構造」について、著者は次のように述べます。
「ホンネとタテマエの二重構造は、悪しき習慣として批判の的になりがちだ。しかし、いくら批判したところで、長い歴史を通して日本社会に根づいてきた二重構造は、そう簡単にはなくならない。日本社会に生きるかぎり、この二重構造を正確に理解し、うまく使いこなすことができなければならないのだ」
一般に、日本人は意見をはっきり言わないとされます。グローバル化が叫ばれる現在、それは批判的に取り上げられることが多いですね。しかし、著者は次のように述べています。
「意見をはっきり言わないのが相手の視点を『察し』てしまうからだとすれば、その共感性は寛容につながる。日本的なホンネとタテマエの二重構造が争いごとにブレーキを掛けているのだとすれば、それは国際的な対立の融和に役立てられるかもしれない。
もちろん、そのような『察する』姿勢が、正論が通じずツルの一声が通用する土壌となっていることも否定できない。合理的な組織運営がなされているはずの大企業においても、表立って制度化されていない権力が猛威をふるう。これは、日本的コミュニケーションの深層構造を前提としなければ説明がつかない」
第1章「蔓延する『すみません』」では、海外では見られない日本人の習性として、事あるごとに「すみません」と謝ることが指摘されます。ジャーナリストとしていろんな国を回っている本多勝一氏によれば、日本人のようにすぐに謝るのは世界でも稀であるそうです。アラビア人もインド人もフランス人も、自分のミスを認めず、謝らないとか。日本人と同じような態度をとるのは、世界中でイヌイットやニューギニアのモニ族くらいで、非常に少ないというのです。本書には、次のように書かれています。
「本多の分析によれば、異民族の侵略を受けた経験の多い国ほど、自分の過失を認めないという法則がある。日本人やイヌイットやモニ族は、異民族との接触による悲惨な体験が少ないため、お人好しでいられる。それは、きわめて珍しい境遇であるようだ」
なぜ、日本人はすぐ謝るのか。この問題について、著者は次のように述べます。
「つまり、非を認めて謝る潔さをよしとする美学があり、非を認めて謝る者を責め立てて責任を追及するようなことはしない文化であるために謝りやすいということに加えて、相手の立場への共感性が高いために、すぐに謝るのである。ここで改めて気がつくのが、どこまでも自分に非がないと主張し続ける欧米人やアラブ人と、すぐに非を認めて謝る日本人とでは、『非を認める』ことの意味が違うということである」
著者は、このように日本には「みっともないことを嫌うから謝る」という文化があるとして、さらに次のように述べています。
「日本において非を認めるということは、『場』の雰囲気を良くして、事態を無難に収めることであり、真実の追求や責任の糾弾とは切り離されたものなのである。ゆえに、白黒はっきりさせるより、曖昧なまま良好な雰囲気を醸し出すことに力点が置かれる」
第2章「日本語は油断ならない」では、本書全体のキーワードとなる「状況依存社会」という言葉が次のように紹介されています。
「言ってみれば、日本には『状況依存社会』と言うべき性質が根づいているのである。確固たる自己があって、自己を主張していくというのではなく、相手との間柄によって、調和的な自分の出方を決めるのである。相手との間柄や相手の出方といった『変数』を放り込まないかぎり、自分の出方を算出する方程式が立てられない」
日本人のコミュニケーションにおいて重要になるものは「場」です。この「場」について、著者は次のように述べています。
「正論を振りかざす人は、自然に『場』から浮いてしまう。みんなの『和』を乱すとして、敬遠される。そこに排除の構造が機能している。
なぜ日本では正論を述べる人は排除されるのか。それは、正論というのは有無を言わさぬ説得力をもち、違う意見をもつ人たちの面目を潰してしまうからだ。
日本的コミュニケーションでは、意見や感受性の違いが際立たないように、曖昧な部分を残しておく必要がある。ぼかした表現を用い、意見の異なる人に対しても、正面切って反論したりはしない。すべては『場』の雰囲気を良好に保つため、そして関係者同士の人間関係を良好に保つためである」
第3章「言いたいことは言わない日本」では、非常に興味深い研究データが紹介されています。それは、日米母子研究の中で、母親が就学前後の子どもに対して、どんな能力や性質が発達することを期待しているかを調べたデータです。その研究の結果について、本書には次のように書かれています。
「日本の母親は、従順さや情緒的成熟について、アメリカの母親より強く期待している。具体的には、『言いつけられた仕事はすぐにやる』『やたらに泣かない』『いつまでも怒っていないで、自分で機嫌を直す』といった性質を身につけることをとくに期待している。
それに対して、アメリカの母親は、社会的スキルと言語的自己主張について、日本の母親より強く期待していた。具体的には、『友だちを説得して、自分の考え、したいことを通すことができる』『友だちと遊ぶとき、リーダーシップがとれる』『納得がいかない場合は説明を求める』『自分の考えを他の人にちゃんと説明できる』といった性質を身につけることをとくに期待している。こうした結果に示されているように、『意見を言えない日本人』と評される日本人の言語行動の特徴の根っこは、すでに幼児期にあるのである」
また、この研究結果を踏まえて、著者は次のように述べています。
「母親の発達期待には、それぞれの文化的背景が色濃く反映されている。たとえば、『良い子像』の違いである。日本では、目上の人に従順で、感情的に安定した、穏和で素直な子が良い子と見なされる。それに対してアメリカでは、自分を他人の中に押し出す積極的で自己主張の強い子が良い子と見なされる」
これを読んで、わたしはハーバード人気教授の特別講義を思い浮かべました。サンデル教授の講義では、学生たちがどんどん積極的に発言します。それに比べて、日本の大学生たちはほとんど自分の意見を言いません。そのために、ハーバード大学に代表されるアメリカの学生たちの知的レベルは日本の学生よりもはるかに進んでいるのではないかと言われます。
実際、わたしもそのように思っていた一人ですが、本書を読んで少し考え方が変わりました。学生たちの積極的な発言は、知的レベルというよりも、アメリカ人と日本人の性質の違いではないかと思えてきたのです。わたしが客員教授を務めている北陸大学の1年生のように、日本の学生たちだって、適切なタイミングで明確な質問さえすれば、きちんと答えてくれることがわかりました。
別に、自分の意見をはっきりと言わないから、日本人が欧米人に比べて劣っているわけではありません。もっとも、欧米に比べて日本に匿名ブログが異様に多く、その中には自身の不満やストレスを発散させるために他人の誹謗中傷を書き込んでいる者が少なくないという事実は深刻な問題であるとは思いますが・・・・・。
どうも、日本人は「ホンネ」と「タテマエ」を使い分ける傾向があるようです。
ならば、欧米人は「ホンネ」だけで生きているのでしょうか。
第6章「ホンネに敏感な日本、タテマエ主義の欧米」で、著者は述べています。
「欧米人は、自分のホンネに気づきにくい心の構えをもっているのではないか。大義名分の背後に見え隠れするホンネに気づかない。だから、あんな風に堂々とタテマエ論をまくし立てることができるのだ。自分のホンネに気づきやすい日本人は、タテマエ論を口にするとき、どこかできまりの悪い思いをしている。だから堂々と主張できない。
日本流の曖昧さと欧米流の明確な自己主張、どちらもそれぞれに胡散臭さを秘めている。そのように見ていると、時事問題も文化論的に結構楽しむことができる」
欧米人の価値観には、明らかに一神教、それもキリスト教の「善」と「悪」の二元論の影響があると言えるでしょう。一方、わたしたち日本人は、神道も仏教も儒教も取り入れる「なんでもあり」の精神文化が背景にあります。著者は、日本人について次のように述べています。
「そもそも『善』とか『悪』と一方的に決めつけることに、私たち日本人は懐疑的なところがある。具体的状況においては、それぞれ立場があり、立場が違えばものごとの見え方も違う、ものごとの意味も違うということをわきまえていると言ってよいだろう」
本書には、沖縄の基地移転、中国漁船の尖閣諸島問題などについての日本の対応も取り上げられています。本書に書いてある日本人の性質を現実に起こった国際的問題への対応に当てはめてみると、いっそう理解が深まります。わたしたちの何気ない日常的な言動が、いかに特殊なものであるか。それを日本人の特徴として体系化し、グローバル社会でどう生かすべきかを本書は示してくれます。
「おわりに」で、著者は次のように書いています。
「真のグローバル化を目指すなら、まずは私たちのコミュニケーションの深層に根づいているものを直視するところから始めなければならない。自文化を理解しないままに、異文化との相互理解や共生を論じるのは不毛である。日本的コミュニケーションの深層構造について自ら理解し、説明できるようにならないかぎり、海外の人々からは疑問符を突きつけられるばかりだろう」
わたしたち日本人は、たしかに著者のいう「状況依存社会」生きています。もちろん、状況依存社会には、弊害や問題点も多くあります。
しかし、あの東日本大震災のとき、被災者たちは秩序ある行動を取りました。その行動は世界に衝撃を与えました。
それに驚いた海外メディアは、称賛とともに大きく報道しました。彼らはあのとき、欧米人にはない日本人の長所に気づき、学ぶべき意義を感じ取ったのかもしれません。
日本人のみならず、日本に関心を抱く外国人たちにも本書を読んでほしいと思います。