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No.0618 心理・自己啓発 『「自己啓発病」社会』 宮崎学著(祥伝社新書)
2012.06.12
『「自己啓発病」社会』宮崎学著(祥伝社新書)を読みました。
もうタイトルだけで、強く興味が湧いてくる本ですね。
著者は、グリコ・森永事件の犯人「キツネ目の男」と疑われたこともある宮崎学氏。1945年に京都のヤクザ組長の子として生まれ、高校時代に共産党に入党。早大在学中は学生運動に没頭し、共産党系ゲバルト部隊隊長として名を馳せたとか。
本書の帯には「誰も気づかなかった『スキルアップ』『夢』『成功』の虚妄!」と書かれ、「MBA,英語力、法科大学院、IT技術・・・・・国民総『ポジティブ・バカ』時代が、”さもしい社会”を生んだ。日本人の精神の貧困を、いま問い糺す!」と続きます。
また、カバーの折り返しには次のような内容紹介があります。
「『失われた20年』と軌を一にするように、日本人の間で自己啓発ブームが巻き起こった。合言葉は『セルフヘルプ』、『スキルアップ』、『夢をかなえる』・・・・・。このブームを支えたのが『自助論』という翻訳書だ。彼ら自己啓発に励む日本人は、同書をバイブルとして崇め立てた。だが、そのバイブルは、じつは抄訳であり、原著(完全訳)の持つ精神を損ない、たんなる成功のためのハウツー集になっていることに気づく人は少ない。日本人は、いわば『ゆがめられた自助』を盲信してきたのだ。自己啓発ブームの結果、格差は拡大し、『あきらめ感』が蔓延した。現代日本の社会病理を徹底的に解剖する」
さらに、帯の裏には「日本人は『自助の精神』を履きちがえた」と書かれています。そして、以下のようなポイントが並べられています。
●なぜ、日本人は「セルフヘルプ」という病に罹ったのか
●スキルアップの「三種の神器」とは
●自分探しと希望探し―「自己」は内へ、内へと向かう
●小泉・竹中「構造改革」は何を壊したか
●かくして日本は「負け組」が主流になった
●ゆがめられたスマイルズ著『自助論』の精神
●漱石が喝破していた「成功」と「独立」
●「3・11」の避難生活者たちは、いかに「自助」活動をおこなったか
●「流した汗が報われる社会」の幻
●バブルを知らない世代は、いかに「あきらめた」のか
●「勤勉と成功の時代」の終わり
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「まえがき」
1:「セルフヘルプ」という病
2:ゆがめられた『自助論』
3:自助と互助と共助
4:「勤勉」と「成功」の終わり
「まえがき」の冒頭で、著者は「損をするということが明らかにわかっていても、時と場合によっては、損をする側に身を置く。こうした損得や合理性を超えた選択ができるがゆえに、人間は人間たりうると、私は考える」と述べます。著者は、自己中心の損得と合理性を突き詰めれば、そこには「情」などが存在できない無味乾燥な社会、動物以下の無機質で下等な社会が生まるとして、述べます。
「いま、この国に氾濫する『自己啓発』ブームという現象に、私は大いなる違和感を懐いている。とりわけ、この現象の中心にある『差別化』なる言葉に対してである。
この言葉を私なりに解釈すると―他人と同じことをしていては競争に勝てない。だから他人と違うところが人にわかるように努力しなくてはいけない。もっとはっきり言うと、地位と財を得る競争に勝つためには他人を蹴落としてでも前に進め、というのが、この『差別化』の意味するところだ。そして、そのために『自己啓発』に励み、他人より優位に立つためのスキルを身に付けろ、というものなのである。
この考え方は完全に間違っている。『差別化』が、つまり『自由競争』が貫徹した社会が、殺人事件の50パーセントにおよぶ親族殺人を生んだのだ」
そして、著者は本書を「自己啓発」を推し進める論者たちの根底にある「論理」と「精神」の貧困を批判した本であるとし、「2011年に、われわれは『3・11』という事態に直面したが、この事態に真正面から向き合うことがもとめられているとき、必要なのは『相互扶助』であって『差別化』などという矮小な精神であろうはずがない」と喝破するのです。
2000年に入った頃から、日本に「自己啓発」ブームとうべきものが到来しました。
しかし著者によれば、日本の自己啓発ブームとは、その「前史」を含めれば、1990年代に発生し、2000年代初頭から今日にかけて過熱・成熟・定着したものなのだそうです。また著者は、この過程がバブル崩壊後の日本がたどった「失われた20年」とぴったり重なるとも述べます。さらに、1980年代には人格改造をめざす「自己開発」ブームがありました。著者は、次のように述べています。
「1980年代の『自己開発』ブームは、社会の自信にあふれた全能感にあおられたものだった。2000年代の『自己啓発』ブームは、社会の不安な無力感から逃れるためにすがったものだったのではないか。
今日の自己啓発は、どうしてそういうものになっているのだろうか。実はそこに、小泉純一郎政権による構造改革以降の『新自由主義』の影が落ちているのである」
小泉政権の構造改革によって、日本は大きく変わってしまいました。なにごとにも「自助努力」が求められるようになりました。
現在の日本における最重要問題とは、なんといっても原発あるいは放射能の問題であり、震災からの復旧・復興でしょう。本当は国を挙げて取り組むべき問題ですが、東北の被災地においても「自助による復興」が動き出しています。著者は、次のように述べています。
「震災に関連して、こんな話を聞いた。原発20km圏内に住んでいたがために故郷を追われた福島県川内村の人たちが、一時帰宅を許されたとき、自宅から避難所に何を持ち帰ったか。彼らが優先して持って帰ったものといえば、『母親の位牌』『家族のアルバム』『ヒツジの品評会の賞状とトロフィー』・・・・・・そんなものばかりが目立ったという。
自助復興をなしとげようとする気持ちを奮い立たせるものは、故郷の底のところにあった祖先とのつながり、家族、仲間とのつながりであり、その共同性のあかし、それらを取りもどしたいという気持ちなのだ。そういう意味では、家郷への愛に根づいた自助こそが復興をもたらす力になるのである。
ところが、小泉構造改革以降の新自由主義的経済思想の流れは、それに反対するものであるはずだった民主党政権を含めて、こうした関係を、よってたかって解体してきたのだ。そのことがはっきりしたのが、東日本大震災に対する対応だったのだ」
著者は、小泉構造改革と時期を同じくして、一冊の古典がブームとなったことに注目します。イギリスの著述家サミュエル・スマイルズが書いた『自助論』(Self-Help)です。明治時代には、中村正直が『西国立志編』として翻訳出版し、福沢諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなりました。
この本を礼賛した人物こそ小泉純一郎氏、竹中平蔵氏といった人々だったのです。後に、経済評論家の勝間和代氏も『自助論』を絶賛します。
『自助論』は1859年に出版された著作ですが、日本語訳はいくつもあります。いま一般に読まれているのは、物理学者の竹内均氏が訳した知的生き方文庫版『自助論』(三笠書房)です。しかし、この翻訳には大きな問題があるといいます。著者は、次のように述べています。
「これは全訳ではなくて抄訳であり、しかもある部や章を省略したのではなく、つまみ食いのように、所々を取り出して訳しているのだ。そこには、当然、訳者個人の関心と問題意識が反映されており、竹内均解釈による自助論になっているといっていい」
『西国立志編』という訳書のタイトルのように、『自助論』という本は、「西国」すなわち欧米諸国において「立志」すなわち志を立てた人々のエピソードをまとめたものです。出てくる「立志の人」は、数えた人によると300人に上ります。宮崎学氏いわく、「最近の礼賛者は、企業家の成功談であるかのようにいっているが、企業家はあまり出てこない。非常に多く取り上げられているのは、科学者と芸術家である」と。また、科学者や芸術家の他にも、企業家も登場します。
しかし、いわゆる金儲けの達人のような企業家ではありません。著者は述べます。
「企業家ではフェアエル・バクストンとかジョン・ハワードとかいう人たちが出てくるが、この人たちは、事業家は事業家でも慈善事業家である。
また、抄訳だと、成功の秘訣を書いた成功ノウハウ本みたいに仕立てられているが、全訳を読めば、そうではないことがわかる」
スマイルズにとっては「成功」が問題なのではなく「立志」が問題なのであり、「秘訣」ではなくて「精神」が語られていると、著者は訴えます。
スマイルズは、『自助論』の「原序」で、わざわざ「自助は利己ではない」「自助は相互扶助と両立する」と強調しているとして、著者は次のように述べます。
「みずからを助けること(自助)を尽くそうとすれば、そこには、自然に、他人を助けること(他助)、おたがいに助け合うこと(相互扶助)が含まれてくるというのだ」
これは、スマイルズが講演で発言した「各人それぞれが、それぞれのかたちで、いっしょになって向上していくために自助があるのだ」という考え方に通じます。そして、著者は次のように喝破するのです。
「スマイルズが『自助は利己ではない』『自助は相互扶助と両立する』といっているのに、新自由主義の『自助論』礼賛者である竹中平蔵たちは、相互扶助を『もたれあいの構造』『競争を排除する関係』だから自助に反するとして否定し、それぞれが利己的に利益を追求するしくみこそが活力をもたらす自助であると主張したのだった。また、スマイルズが『自助は成功のためではない』といっているのに、自己啓発教祖の勝間和代たちは、スマイルズがいっている『人に頼ってはいけない』『楽をする前に汗を書け』『金は人格なり』などをそれだけ切り離して金言のように掲げ、『これを実行すれば成功しないほうがおかしい』などと、スマイルズが否定している成功競争をあおっているのだ」
このくだりこそ、本書で著者が最も言いたかったことでしょう。すなわち、新自由主義の『自助論』礼賛者たちは、『自助論』を誤読したのです!
著者は、幕末日本には「自助」も「互助」も「共助」も存在していたとします。江戸時代の人々は徳川の圧政下で虐げられており、明治維新こそは彼らを解放し、わが国に自由と平等をもたらしたことになっています。
しかし著者は、そのような見方に疑問を持ち、次のように述べています。
「明治以前、本当に民衆は徳川幕府の圧政下、搾取され、苦しめられ、自由を奪われた惨めな暮らしを余儀なくされていたのだろうか。私を含め、誰もが漠然とそういった印象を持っているのではないかと思われるが、実際はそうでもなさそうなのだ。渡辺京二の名著『逝きし世の面影』(平凡社)を読むと、それがまったくの思い込みにすぎないことがわかる。幕末当時、来日した西洋人たちの目に映った日本ということで、やや過剰な東洋賛美もあったかもしれないが、そこに描かれている日本人の姿は、われわれが思い描く『圧政に苦しめられる民』というイメージからはほど遠いのだ」
『逝きし世の面影』はわたしの愛読書でもありますが、たしかに江戸時代の人々が不幸な生き方をしていたとは思えません。
著者は、幕末の日本に生きた人々について、次のように述べています。
「彼らがおこなっていたことは、最低限の生活を維持するための『自助努力』と、あとは『互助』と『共助』の生活であったろう。彼らが所属するコミュニティのなかでは、自・他という分け方ははく、おたがいが持ちつ持たれつの中で生活していたものと思われる。今になって急に叫ばれる『互助』や『共助』といった精神が、彼らのなかではごく当たり前に宿り、たがいに尊重し合い助け合うという生き方が、声高にスローガンを掲げることもなく自然におこなわれていたのである。いわば、これが日本人本来の『互助』、『共助』であった。お上お仕着せの『公助』というものは当時ほとんどなく、また民衆もそれを当てにはしていなかった」
わが社が生業としている冠婚葬祭互助会とは、言うまでもなく「互助」をコンセプトとした会員制組織です。わたしは、この文章を読んで、「互助」とは日本人の精神的DNAであり、互助会というシステムは日本人によく合うものなのだと再確認しました。
さて、2011年4月15日付「毎日新聞」夕刊は、大津波に襲われて町内で10人の死者を出した仙台市三本塚の住民が、町内会に結集して震災に立ち向かったと報道しました。その記事では、それを培ってきた力を「ご近所力」と呼んでいます。
三本塚住民は、被災直後はいくつかの避難所に分散していたのですが、「町内単位の助け合いがいちばん大切」だと考えたリーダーがいたそうです。そして、みんなで声をかけまわり、1ヵ所の避難所にまとまって生活するようにしたのだとか。
その後の復興においても、町内が結束して、かつての居住地に新しい町をつくろうとしているそうです。著者は、この記事について次のように述べています。
「『自助』ということを考えるとき、東日本大震災における自助とは、まさにこういうことをいうのであって、それを可能にした『自助力』とは、『ご近所力』、地域共同体ないしコミュニティの相互扶助力にほかならなかったのである」
「ご近所力」とは「自助力」であり、「相互扶助力」でもある!
「ご近所力」とは「隣人力」ということでしょうから、「隣人力」は「互助力」でもある!
わたしは、このくだりを読んで、互助会であるわが社が「隣人祭り」の開催を支援することには必然性があったのだと知りました。それにしても、「ご近所力」とは素敵な言葉ですね。これからの社会のキーワードになるのではないでしょうか?
著者は、現代の日本にも「互助」という日本人の精神的DNAが生きており、それが明らかになったのが東日本大震災であったとして、次のように述べます。
「3月11日、大量の帰宅困難者が生まれた東京のビジネス街でも、相互扶助による自助行動がさまざまに見られたからである。地震でスーパーの棚の商品が崩れても、略奪や持ち逃げが起きないどころか、客が棚に商品を戻していた。難民収容所のようになった都心のホテルでは、ホテル側が、ありったけの椅子をロビーに置き、無料で毛布やペットボトルの水を配っていた。徒歩で帰宅する者に対し、沿道の靴屋は『自由に使ってください』と運動靴を無料で提供していた。・・・・・・そういう同胞意識と相互扶助意識の発露が随所に見られたのである」
本書の最後でも、著者は次のように「相互扶助」社会について述べます。
「この新自由主義自助論を打破するためには、それがスマイルズの古典的自由主義と本質的に異なるものであることを明らかにするとともに、スマイルズの近代的自助論がもっていた限界―「個人的自助」と「自由な交換」がセットになればいいという考え方の限界―をものりこえなければならないのだ。
自助が成り立つ社会とは利己社会ではない。自助が成り立つ社会は、個人個人の自助が相互的に働いて相互扶助が成り立つ社会なのである」
『相互扶助論』を書いたのはロシアのアナキストであったクロポトキンです。本書『「自己啓発病」社会』もまた現代日本に生まれた『相互扶助論』であると思いました。できれば、『「自己啓発病」社会』というタイトルではなく、『自助と互助』とか『互助社会論』といったタイトルのほうが内容に即していると思いましたが、それじゃ本が売れないか?(苦笑)それにしても、スマイルズの「自助は相互扶助と両立する」という考えを知ったのは新鮮な驚きであり、大きな収穫でした。本書は、知的好奇心を刺激し、これからの社会について考えるヒントを与えてくれる好著であると思います。