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No.0632 人間学・ホスピタリティ 『「修養」のすすめ』 渡部昇一著(致知出版社)
2012.07.09
『「修養」のすすめ』渡部昇一著(致知出版社)を読みました。
サブタイトルは「人間力を高める」で、表紙には読書に耽る著者の横顔の写真が掲載されています。
本書の帯には「一流たちは、こんな工夫で自分を磨いていた」と大書されています。
その横には、新渡戸稲造、スマイルズ、カレル、野間清治、そして著者・渡部昇一氏自身の名前が記されています。内容は、著者がこれまでに大きな影響を受けてきた人物とその著作を紹介したものです。「まえがき」で、著者は「ここで取り上げた人々は、すべて私が恩書と言ってもよい本の著者であり、私の受けた恩恵はすこぶる大きい。今、書物の形にしていただき、読者の方にも私の受けた恩恵を少しでも分けてお上げすることができれば幸甚である」と書かれています。
本書の「まえがき」は、以下のような構成になっています。
「まえがき」
第一講:新渡戸稲造の「修養」に学ぶ
第二講:スマイルズの「自助論」に学ぶ
第三講:アレキス・カレル「人間 この未知なるもの」
第四講:野間清治に学ぶ「己を修める生き方」
第五講:私の自己修養法
ここで取り上げている人々の顔ぶれを見ると、著者がこれまで致知出版社から刊行してきたさまざまな著書のテーマと重なります。おそらく、それら一連の著書の集大成的な性格を持つのが本書ではないかと思います。
さて、タイトルにある「修養」とは何でしょうか。
有名な『武士道』の著者として知られる新渡戸稲造に『修養』という大著があります。著者は、第一講での新渡戸の説を紹介しながら、次のように「修養」について説明しています。
「新渡戸先生は、『修養』の意味をこう説いています。修養の『修』は、修身すなわち身を修めること。身を修めるとは欲望や散漫な心を抑え、自分に勝つことである。また、修養の『養』は、養う意味で、心を豊かにしていくことである、と定義しています。
そして『修養』した人としない人の違いも述べています。
『修養』は、やってもやらなくても、普通はあまりわからない。いいご馳走を食べさせた羊と、普通の餌を与えた羊とでは、見た目に変わりはない。ところがいざ肉にしてみる、毛を刈ってみると、その差は歴然としてくる。いいご馳走を食べた羊の肉は美味しい、毛の質もいい。人間も同じ。その人の価値は、ちょっと見ではわからない。いざという時を見なければわからない、と新渡戸先生は言います」
本書で、著者は「修養」はいざという時に役に立つと主張します。そして、次のように自らの経験を赤裸々に述べています。
「今から3、40年前の1970年代、中国では毛沢東の文化大革命が吹き荒れ、日本でもその影響を受けた学生運動が盛んだった時です。なかでも、その背後にあって日本中を震え上がらせていたのが部落解放運動でした。
私も書いたものの揚げ足をとられて学校に押しかけられたことがあります。
そのころは、いわゆる大学紛争が終わって、大学自体は平穏になってきたころです。10人ぐらいがいきなり教室に入ってきました。その時、私は多分、突然のことで顔が青ざめていたのではないかと思いますが、すぐに新渡戸先生の『修養した、しないというのは、何か起こった時にしかわからない。修養では、あっ、ここだなというところが重要なのだ』という言葉を思い出しました。今が、その時だ、と思ったのです」
自分が書いたものに誤りはないと自信を持っていた著者は、絶対に謝りませんでした。
そして、何度も教室に押しかけてくる連中と文書の交換などを繰り返しますが、ついには半年後に彼らの抗議は完全に消えました。なんでも、これは一言も訂正せず一言も謝らずに、相手が退いた最初の例になったとか。その後、著者が教える大学の事務局には、他の大学から「どのようにして克服したのか」という問い合わせが相次ぎ、職員が講習会の講師になって出かけて行ったそうです。この経験を踏まえて、著者は次のように述べています。
「どんなに怖くても、自分が悪くなかったらやられている当人が絶対に謝らないことです。謝ったら負けです。その時のことで、私は今でも自慢していることがあります。
それは、亭主が昼間、こうした凶悪な団体に襲われていることを、家庭では最後まで気づかせなかったことです。
これは新渡戸先生のおっしゃる通りでした。修養を心掛けている人間と、そうでない人間では、不当な抗議に屈するか、屈しないか、大きな差が出たのです」
その後も著者は似たような経験を何度かしたようで、次のように書いています。
「今でこそ北朝鮮や韓国を皆、平気で批判していますが、20年ほど前までは、恐い存在でした。私も随分、血書の手紙や剃刀入りの脅迫状をもらいました。日時まで明記して家を爆破するという脅しもありました。家の者が心配して、夜の散歩に長男が棒を持ってついてきた時期もあります。当時、北朝鮮を真正面から批判できた人間は数少なく、今では私の勲章になっています。
こうした暴力に一度でも屈すると、その後、ものは書けません。私が幸いにして、何度かの危機に遭遇しても克服できたのは『修養』のおかげだと思っています」
つまるところ、「恐れ」の克服が自分の修養テーマであったと著者は述べています。
あとは、野間清治を取り上げた第四講が興味深かったです。
野間清治は大正から昭和の初期にかけて、日本に「修養」という概念を確立した人物です。それを核として数々の雑誌を創刊し、講談社という世界的な出版社の礎を創り上げた快男児でした。野間清治は、江戸時代に隆盛を極めた心学的なアプローチを完全復活させて、「日本人であれば誰でも理解できる」という共通理解の水準を高めた人物でした。石田梅岩の心学では神道・仏教・儒教のそれぞれの良い部分を取り入れた「人間主義」をもって、日本の商人哲学の基本を作りました。著者は、この「心学」について「日本が世界に誇るユニークな思想があるとすれば、私は心学を第一にあげたいと思います」とまで言い切り、続いて次のように述べています。
「例えば、仏教でどんな偉い坊さんがいても、釈迦を超えることはできません。儒学も同じです。孔子より偉い儒学者はいません。キリスト教も同じです。ところが心学は別なのです。これは、普通の宗教を完全にひっくり返しています。キリスト教徒といえば殉教してもキリストの教えに従っていこうというのが良いキリスト教徒です。イスラム教もおなじです。仏教でも仏様を慕って土の中で即身仏になることが最高のお坊さんと言われています。それに対して心学は、『人間には心がある。心は玉みたいなものだ。玉であれば、これを磨いて立派にすればいいはずだ』という考えから、『玉を磨くには磨き砂が必要である。その磨き砂は神道でもいいし仏教、儒教でもいい。また3つあわせたものでもいい』としています。つまり『心を磨くためには、儒教でも、神道でも、仏教でも関係ない。何を使ってもいいし、また、あわせて使ってもいい』という思想です。これは、通常の宗教の教えを180度転換した考え方です」
著者は、「分けていく 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という心学の歌を紹介しています。「山に登る麓の道は多いけれど、登ってみれば峰から見える月は同じだ」という意味ですが、これが日本の心学の理想なのです。そして、野間清治はそれを果たしたのです。
第五講「私の自己修養法」では、著者は自身の人生体験と修養法の一端を披露しています。いずれも、著者が多くの先人から学んだ示唆や方法を実践してきた記録となっています。そして本書の最後で、著者は次のように述べています。
「目標を達成するためには、障害となるさまざまな欲望を抑えて自己を律し、しかもそれを継続させて実力を貯め込むことを説いた新渡戸稲造。
他を頼るのではなく、自らの知恵と工夫、そして行動力を発揮する者のみに成功がおとずれることを、多くの事例をもとに示唆したサミュエル・スマイルズ。
人間を医学的見地から総合的に解明しながらも、未だに解明できない領域が山のようにあり、しかも肉体を超えた精神の世界が存在することを示すことによって、人間の大きな可能性まで言及したアレキス・カレル。
そして、「面白くなければ絶対に感化力は人々に及ばない」と、誰もが親しみのもてる物語に、人間の勇気や優しさを込めた本を発行し続けた野間清治。
いずれにも共通することは、高い志と不断の努力、そして、それを続けることの大切さ、さらに付け加えれば個人1人ひとりを他にかけがえのないものとして大切にしていることです」
もしも、自らの人間力を高めたいと思っている人がいれば、本書を読んで、ぜひ先人のメッセージに学ぶことをおすすめいたします。