No.0677 人生・仕事 | 評伝・自伝 『成りあがり How to BIG~矢沢永吉激論集』 矢沢永吉著(角川文庫)

2013.02.27

『成りあがり How to BIG~矢沢永吉激論集』(角川文庫)を再読しました。
本書は社会現象にまでなった大ベストセラーであり、今でも多くの人々に読まれているロングセラーです。『成りあがり』という書名も相当に挑発的というか偽悪的な印象を受けますが、冒頭の「読者へ」には、すでに所得番付に名が出るようにまでなっていた当時28歳の著者が次のように語ります。

「銭が正義だ。こう思ってしか生きてこれなかった。ほんとは銭が正義だなんてウソなんだ。それはよく判ってる。でも、そう思わなければ生きてこれなかった自分に腹が立つ」

革ジャンにリーゼントにサングラス姿でテレビ出演したのは著者が初めてだそうですが、それくらいツッパっていた若者のわりには、本書には家族のことがウエットな筆致で綴られていて、ちょっと意外でした。血縁について語った部分で、著者は次のように言います。

「位牌は、ふたつあるよ。
親父のと、オフクロ。
親父は、オレの実の父親だけど、オフクロは、ちがうんだ。オレ、その位牌のオフクロから生まれたんじゃないの。
でも、親父の惚れた女じゃない。大切にしたいよ。
ふたり並べといてやりたい。それでいいと思う」

著者の父は、広島原爆の後遺症によって亡くなりました。著者が小学校2年生のときでした。父親が死んだときのことを次のように語っています。

「死んだ時、わからなかったね。遺体見ても、泣かなかった。涙、出なかった。正直なところ『あれ、死んだの?』って感じだったものな。
しばらく月日が流れて、『ああ、死んじゃったナ』と思ったら涙が出てきた。小さかったから、よくわからなかったってこともある。
死って、そういうものなのよ。
いまだったら、『親父!』、抱きつくかもしれないけど、やっぱり子供には『あ、おとうちゃん、死んじゃったの』って感じしかない」

そして、著者の実の母親は、父親と幼い自分を捨てて家を出ていきました。その実母について、著者は次のように語っています。

「おもしろいものだな。オレは、ずうっと、オフクロってのはとんでもない女だってことで、まわりから叩きこまれてきたんだけど・・・・・やっぱり、血というものは争えなくてね。オフクロに会ったら殺してやるぐらいの気持ちを、持っていたのに、二十歳過ぎて再会したら全部許せちゃったね。
わずか一分で許せた。二十年間の蓄積が、いちどに消し飛んだみたいだった。
やっぱり、血なのかな、これが。ふたりでワンワン泣いてる時に、『もう、オレ、全部いい』って気になってしまったものな。
やっぱり、生きててくれて、オレと会えただけでも十分というかね」

その実母との死別のエピソードも泣かせてくれますが、わたしは著者が血縁というものを大事にする人であったからこそ、BIGになれたような気がします。

自分の血縁を否定する人間は精神的紐帯を失い、糸が切れた凧のような不安定な精神状態になって、ついには不幸になります。反対に、自分の血縁を肯定し、特に両親に感謝できる人間ほど、心が安定し、結果として成功を収め、幸福になることができるのです。
わたしは、このことを『法則の法則』(三五館)に書きました。両親への感謝の心を持てる人は幸福になれる。これこそ、「幸福の法則」です。まさに、「幸福の法則」に従って、著者はBIGになったのでしょう。

その「BIG」という言葉ですが、そのへんの成金が使うとゲスな臭いがするものですが、著者の場合はまったく違います。著者にとっての「BIG」には一種の高貴さ、爽やかさがある。それは、「BIG」の意味が単なる拝金主義の連中とは違い、著者にとっては「理想の自分になる」という意味だからです。そう、つまり「自己実現」という言葉と同じ意味だからです。
「自己実現」といえば、この読書館でも紹介した名著『「人間らしさ」の構造』で、渡部昇一氏が「どんぐり」の話をしています。

ここに1個のどんぐりがあるとします。そのどんぐりにとっての生きがい、つまり本望は何でしょうか。それはコロコロと転がって池に落ち、そこでドジョウに見守られながら腐ってしまうことではないでしょう。また石の上に落ちて乾上がってしまうことでも、鳥か何かに食べられてしまうことでもないでしょう。どんぐりの生きがいは、しかるべく豊穣な地面に落ちて、亭亭たる樫の木になることでしょう。
どんぐりを割って、いくら顕微鏡で調べてみても、そのなかに樫の木の原型は見えません。しかし、しかるべき条件に置かれれば、やがて芽が出て、何十年後には大きな樫の木になるのです。つまり、どんぐりの中には樫の木になる性質が潜在していると言ってよいのです。

同じことは人間についても言えます。人間の女性の子宮の中で、卵が受精すれば受精卵となります。この受精卵を取り出して百万倍の電子顕微鏡で見ても、そこに人間は見えません。しかしこの受精卵は、しかるべき条件に置かれるならば、やがて小さな赤ん坊になります。したがって受精卵という微細な蛋白質か何かの粒の中には、将来、1.5メートル以上の人間になる可能性が潜在していることになるのです。受精卵にとっての生きがいは、堕胎されたり、流産になったりして、下水に流されて、汚水処理場で他の汚物と一緒に処理されてしまうことではなくて、ちゃんとした人間になることでしょう。
ここまでは、どんぐりも人間も同じことです。ところが人間には、生物的存在としての肉体の他に、自意識とか、心とか、精神と呼ばれるものがあります。受精卵の生物的生きがいは人間に成長することでよいでしょうが、この心のほうの生きがいはどうなるのでしょうか。

エイブラハム・マズローなどの心理学者たちは、「自己実現」という言葉を唱えました。どんぐりが樫の木になるのも自己実現ですし、受精卵が人間になるのも自己実現です。どんぐりも可能性のかたまりだし、受精卵も可能性のかたまりです。わたしたち人間も、自分の可能性を展開しているときに生きがいを感じるのだし、自己実現は生きがいそのものと言ってよいのです。
その意味で、広島の貧しい少年が音楽の世界で大成功を収める物語である本書は、「自己啓発」の書であるとともに「自己実現」の書であり、「生きがい」の書であると言っていいでしょう。どんぐりが樫の木になるように、受精卵が人間になるように、YAZAWAはBIGになったのです。

では、BIGになった著者にとっての「理想の自分」「なりたかった自分」とはどのような存在でしょうか。著者は、次のように述べます。

「オレ、あとくされのないように、負い目がないように生きてきたつもりだからね、ダメになったらパッとやめられる。
カッコいい男になりたいね。
でも、やれるうちは、やる。
オレのパワー、メロディー、ステージ、素晴らしい。すごくいいね、いま。
いいメロディー、ガンガン浮かぶ。きれいな曲、怒りの曲、湧いてくる。
ぶつけるよ。
これ、全部。
いけるとこまで、走りぬくよ。それが、オレのオレたる存在理由だよ」

そして、本書に登場する次の言葉などは、まさにBIGになった者にしか体験できない境地でしょう。なかなか言えるセリフではありません。
「オレ、最初は、ビートルズに憧れてた。ファンとしての気持ちでね。
ところが、自分がこの世界でメシ食うようになったら、もう、ファンじゃなくなってきた。同業者になってる。
同業者としては、『おまえには負けないぞ』って気持ちが出てくるんだ。夢、ロマン、かもしれない。
相手のことは、認めまくってるからね。
だけど、オレは、オレの世界を進む。どこまでやれるか、勝ち負けは別としても。
『オレも、もっといいもの作るからサ』って言いたいんだな」

本書の最後は、満場の客席に向かって、たった1人でステージに立つ著者の心境がドラマティックに語られています。

「うん。五万人の観客を相手にしたら、十万の目が一点を見つめてる。オレだけを怖いぐらいの目で射てるんだ。
何も考えていない。
歌ってるだけ。オレには、見えないんだよ。その会場が、ね。
逆光線になってる。
ピン・スポットの強烈なやつが、十本当たってるから・・・・・。
むこう側は、まるで、まっ暗闇なんだ」

このラストの言葉は、まるで詩のような美しさを持っています。
当代一のコピーライターであった本書のインタビュアー・糸井重里の言語感覚も加わっているのかもしれません。その糸井重里は、本書の「あとがき」である「『長い旅』を聴きながら」の冒頭に、次のように書いています。

「どれだけ多くの人々が、星になりたい、と思ったことだろう。
矢沢永吉も、星になりたかったひとりの少年だった。
彼は、世間という引力圏を猛烈な勢いで脱出し、星になることに成功した男だ」

これまた、美しい言葉です。本書は、初めてヤンキー言葉で語られた自己啓発書でありながら、きわめて美しい輝きを放つ不思議な本なのです。

最後に、世界で最も読まれた自己啓発書といえば、カーネギーの『人を動かす』ではないでしょうか。じつは著者は、この本を10代の頃から愛読しているそうです。そして、本書で「自分が何かしなきゃ、と思ってる時にぶつかった本は実に意味がある」と述べています。

本書『成りあがり』こそは、まさにそのような一冊ではないでしょうか。

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