No.0688 グリーフケア | 宗教・精神世界 | 心霊・スピリチュアル 『人生で大切な五つの仕事』 井上ウィマラ著(春秋社)

2013.03.13

『人生で大切な五つの仕事』井上ウィマラ著(春秋社)を紹介します。
著者は、ブログ「『遺体』とグリーフケア」で紹介したスピリチュアルケア学の第一人者です。1959年、山梨県生まれで、現在は高野山大学准教授です。「ウィマラ」という名前は「維摩」という意味で、『維摩詰』に由来するとか。

本書のサブタイトルは「スピリチュアルケアと仏教の未来」です。また帯には、「人生の“危機”を成長への“機会”に変えるスピリチュアルケアの秘密。」と大書され、続いて「くり返される死と誕生をありのままに見つめ、心を寄り添わせていくにはどうしたらよいのだろうか。心理療法と仏教瞑想の視点から、ホスピス・介護・医療・。子育てなどの臨床の現場を詳説する」と書かれています。

本書は、以下のような構成になっています。
第一章:人生で大切な五つの仕事――スピリチュアルケアの現場から
第二章:思いやりの心を養う――ケアへの志を支えるもの
第三章:ありのままを見つめる意識の技法
第四章:世代間を伝わってゆくもの――育む喜びに目覚める
第五章:本当の満足を求めて――大欲に至って欲を忘れる
第六章:目覚めよ仏教――自然の中で身体に生きる喜びと痛みの科学へ

第一章の「はじめに」で、著者は冒頭に「本書は、スピリチュアルケアという対人援助の臨床的な視点を通して仏教の本質を再考し、現代社会における仏教の可能性を探ってゆく試みです」と書いています。
本書の核心をなす「スピリチュアルケア」とはどういうものか。
続いて、著者は次のように述べています。
「スピリチュアルケアは、ホスピス運動におけるターミナルケアの中で注目されるようになってきました。身体的な痛みが緩和されたときに、あらためて浮上してくる人間存在の深い苦痛があります。スピリチュアルペインと呼ばれるそのような痛みに対する、全人的なケアとしてスピリチュアルケアがなされる必要があります。ところが終末期に露呈してくる魂の叫びに耳を傾けていると、そこにはその人の魂が形成された人生最初期のテーマがくり返されているらしいことに気がつきます」

著者によれば、スピリチュアルケアが必要とされているのは人生の終末期だけではないそうです。誕生や育児にまつわる人生の最初期においてもスピリチュアルな側面からの支援が必要とされているとして、著者は次のように述べます。
「地縁や血縁によるつながりが薄くなり、孤立しがちな環境の中で子育している現代の親たちをどのように支援してゆけるかというテーマは、想像以上にスピリチュアルな関わりを必要とします。世代から世代にいのちが伝えられてゆく現場では、目に見えない、意識されない仕方で人間存在の奥深い問題がくり返されているからです」

また、「スピリチュアルケアとは何か」について、著者は説明します。
「スピリチュアルケアは、身体的ケア、心理的ケア、社会的ケアといったさまざまなケアがなされる態度の中に必要不可欠なものとして秘められています。どのようなケアにおいても、スピリチュアルなケアの薬味があってはじめて、与え手と受け手とがともに喜び癒されるような関係性が成就されます。それは、ケアを提供する人の存在のあり方として、情報やサービスを伝える姿勢として、話し方や身振りや仕草の中ににじみ出てくるいのちへの思いやりです」

ここで、本書のタイトルにもなっている「人生で大切な五つの仕事」の内容について、著者は以下のように示します。
1.人生の意味を見出すこと
2.自分を許し、他人を許すこと
3.「ありがとう」を伝えること
4.「大好きだよ」と言うこと
5.「さよなら」を告げること

サブタイトルからもわかるように、本書には2つのキーワードがあります。
「スピリチュアルケア」と「仏教の未来」です。
仏教については、第六章「目覚めよ仏教」で著者の主張が展開されます。
日本の仏教といえば、「葬式仏教」と揶揄されることが多いのが現実ですが、著者はこの「葬式仏教」という言葉について次のように述べています。
「『葬式仏教』という言葉は、仏教が本来の意味と実践を失って儀式的なものになってしまったことを嘆いた言葉です。しかしそうは言っても、いざ家に誰か死者が出ると、仏教徒の家であれば仏式の葬式をすることになります。死という現実がもたらす悲しみや不安に向かい合うためには何らかの宗教的な儀式が必要なのです」

 

著者は、まさに「死の宗教的儀式としての葬式は必要である」と主張しているわけです。わたしも以前から同じことを考えて『葬式は必要!』(双葉新書)も上梓しましたが、さらに著者は次のように述べます。
「その人が生きていたときに関わった多くの人々が集うことによって癒されるものがあります。関わり合いの中で生きる人間にとっては、死にゆく本人にとっても残されるものたちにとっても、死は誰か1人だけのものでは済まされないのです。そういう意味で葬式や法事には深い意味と隠された智慧があります。苦しみを免れない人生において、いのちの光をよりよく輝かせるための教えとして、仏教は葬式や法事などの人生の重要な儀礼に実践的な意味を開くことを求められているのです」

また著者は、約6万年前に行われたというネアンデルタール人の埋葬について紹介しながら、次のように述べています。
「夜が明け朝日が昇り、大地を照らして巡る太陽が沈むと夜空には星が瞬きます。雨となって降り注ぎ大地を潤した水は、水蒸気として舞い上がり、霧となり雲となり循環しながら命を育みます。そんな大自然の限りないくり返しに抱かれて、生と死をくり返す自らの有限性に気づくことは、あらゆる宗教に共通するスピリチュアルな体験です。この生命現象への畏敬の念に支えられて、群れとして大自然の中で生きてきた人類は、埋葬や葬儀の儀礼を編み出してきたのです」

埋葬や葬儀の儀礼には、死者を送る生者たちのさまざまな思いがありました。
著者は、残された生者たちの思いについて、次のように書いています。
「今はなき仲間の亡骸を囲んで、太古の人々はさまざまな思いを抱いて涙し、言葉や仕草で表現し、分かち合い、受けとめ合い、慰め合ったことでしょう。亡き友に対して抱いていた愛情の念は悲しみとなり、やがては彼方に去った人への思い出として、居場所を見つけてゆきます。亡き友に対する憎しみや嫉みの念は罪悪感や不安となり、許しが求められます。こうして人々は、仲間の死を契機として、群れの中でお互いによりよく生きる方法を考えてきたのではないかと思います」

この文章を読んで、わたしは「隣」という字を連想しました。
「隣」の字の左にある「こざとへん」は人々の住む「村」を表します。
右には「米」「夕」「井」の文字があり、「米」は食べ物を、「夕」は人の骨を、「井」は水を中心とした生活の場を表しています。
すなわち、「隣」という字は、同じ村に住む人々が衣食住によって生活を営み、その営みを終えた後は仲間たちによって弔われ、死者となるという意味なのです。そこから、「死者を弔うのは隣人の務めである」といったようなメッセージが読み取れます。「おくりびと」とは「となりびと」のことだったのです。著者の言うように、埋葬や葬儀とはまさに「群れの中でお互いによりよく生きる方法」だったのでしょう。さらに言えば、「人間関係を良くする魔法」だったのです!

こうした死を契機にした精神的な営みから、人間は自分自身を見つめ、生きる意味を考えるようになりました。著者のいう「人生で大切な五つの仕事」はその内容を要約したものなのです。そして、それは人生の最初と最後をつなぐものでもあったとして、著者は次のように述べます。
「仏式による葬儀や法事の内容も、このように人類が死を悼みながら学んできた歴史の流れを鑑みたうえで、新たに理解しなおす必要があるのではないかと思われます。臨終の直後に枕経を読んでもらい、戒名をつけてもらい、通夜をして、納棺、告別式、荼毘、法要そして納骨と進む仏式の葬儀と法要は、実は死者が出家して悟りを求めて修行の旅に出る形式になっています」

当然ながら、仏式による葬儀や法事にはブッダの物語が背景にあります。
引導を渡すとは、もともとは生きている人をブッダの教えに導き入れることを指しました。また、初七日から四十九日までの七日ごとの法要は、ブッダが悟りを開いたあとに7日間ずつ7つの場所で悟りの安らぎを味わいながらその内容を吟味したという伝記に由来しています。縁起や因縁の教えは、その間にブッダが、悟りの内容を振り返りながら分析して体系化した教えです。そして、「スピリチュアルケアとしての仏教」において最も重要な役割を果たすのが枕経です。

枕経について、著者は次のように述べています。
「枕経とは、本来は死にゆくものの枕辺で、安らかに臨終の時が迎えられるように配慮して唱えられたものだと思われます。テーラワーダ仏教諸国では、本人が好きな花などを飾り、尊敬し信頼する僧侶を招いてブッダの教えを唱えてもらうことがあります。日本でも、古の臨終行儀には、家族や隣人たちがみんなで念仏を唱え、あるいは息合わせをする風習もあったようです。チベットの『死者の書』は、死にゆくものへの導きとしてその耳元で読み聞かさせるためのものでした。現在の枕経は、臨終後に僧侶を呼んでお経を唱えてもらうことが通常になっています。その際に戒名についての打ち合わせなどもするようです」

ここに出てくる「テーラワーダ仏教」とは「上座部仏教」のことです。
まさに著者と深い縁のあるミャンマー仏教も含まれます。
現在の日本のように臨終後に僧侶を呼んでお経を唱えてもらうことも大事ですが、わたしは、死にゆくものの枕辺で唱える枕経の復活を考えています。大量の高齢者を抱えた日本において、安らかに臨終の時が迎えられるように配慮して唱えられる枕経の存在が求められると思うのです。そして、大乗仏教には『般若心経』があるように、上座部仏教には『慈経』という最も基本となる経典があります。この『慈経』の普及なども、これからわたしの取り組みたい仕事です。

 

この世で最もケアを必要とする人は、末期患者と遺族、すなわち「死にゆく人」と「愛する人を亡くした人」ではないでしょうか。
わたしは『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)を書いて、グリーフケアの必要性を訴えました。スピリチュアルケアの道を拓かれている著者の井上ウィマラ氏も、本書で次のように述べています。
「大切な人を失った悲しみを表出する心の仕事を悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)と言います。喪失や離別の感情には、言葉や仕草で表出したときに、受けとめてくれる他者がいてはじめて自分のものだと自覚して受容することができるということがあります。葬式や法事の儀礼には、そのような共同体的な癒しの環境とプロセスを提供する意味合いがあるのです」

どれほど深い悲しみの中にある「愛する人を亡くした人」も、故人の四十九日を迎える頃には少しは心が軽くなるものです。ブッダは、人類史上最高の心理学者でもありました。わたしは、仏教という信仰体系はグリーフケア体系でもあるとつねづね思っているのですが、著者も本書で次のように述べています。
「喪失した対象に関する感情や想念を自覚し受容することができると、自分の人生の中でその人がどんな意味を持っていたのかが理解できます。こうして喪失した対象の意味が理解され、思い出として心の中に居場所ができると、次第に心は新しい対象との関係を結ぶ力を回復してきます。大切な人を失った後で、その対象が持っていた意味が理解され思い出として整理され新たな関係に心が開くまでの心の作業を喪の仕事と呼びます。喪の仕事は、ゆっくりと何年も時間をかけて進みます。法要に三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌などがあるのはそのためです」

著者は、「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二さんやわたしとともに「日緬仏教交流協会」の理事を務められています。上座部仏教の聖地である「世界平和パゴダ」を舞台に、これから著者のアドバイスを受けながら、わたしは一歩づつ、スピリチュアルケアおよびグリーフケアの道を進んでいきたいです。
井上ウィマラさん、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
なお、『死が怖くなくなる読書』(現代書林)でも本書を取り上げています。

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