No.0701 エッセイ・コラム | 宗教・精神世界 『アホは神の望み』 村上和雄著(サンマーク文庫)

2013.04.02

 村上和雄シリーズ7冊目は、『アホは神の望み』(サンマーク文庫)です。
 表紙カバーには「素直で正直、器が大きなアホであれ!」「バイオテクノロジーの世界的権威がたどり着いた究極の知恵」と書かれています。

 本書は、以下のような構成になっています。

プロローグ:アホが世界を変える
第1章:鈍いけれど深い生き方
第2章:陽気であきらめない心
第3章:愚か者こそ幸せ者
第4章:くさらない、おごらない、屈しない
第5章:アホは神の望み
「文庫化によせて」

 『アホは神の望み』とは、なかなかインパクトのある書名です。
 しかし、もともとは著者が信仰してきた天理教の教えにもとづく言葉です。天理教の教祖である中山みきは「あほが神の望み」と言いました。そして、素直で正直に生きる「陽気暮らし」を説いたのです。
 この教えを受け継ぐ著者は、人を救うのは「笑い」であるという考えに至ります。かの吉本興業の協力を得て、笑いが健康に与える影響を研究した実績をもつ著者は、次のように述べています。

 「笑いは、相手の不安や緊張をほぐし、心に潤いやおだやかさをもたらす、人の心と心をつなぐ、きわめて重要なコミュニケーションの道具なのです。また、大きな声で笑うと、私たちの『命』は揺れます。笑いは『生』の躍動でもあり充溢でもあるのです。体の免疫力を高めてくれる薬であると同時に、心の安定剤でもある。それに接した人に幸せをもたらす幸福の種であり、私たちの生命力を深いところで活性化してくれる動力でもある。それが笑いなのです」

 著者いわく、聖書のむかしから、神さまがもっとも嫌うのは、小利口な人間のこざかしさや傲慢さだそうです。この「愚かな罪」で、人間は神の手を焼かせてきました。それでは、神が好むものは何か。その反対概念を考えればいいのであって、つまり「器の大きなバカ」であり、「素直で正直なアホ」だそうです。
 著者の「陽気暮らし」の哲学は、本書の第2章「陽気であきらめない心」に登場する「インテリの悲観論よりアホの楽観論」という言葉によく表れています。

 楽天的におおらかにかまえる人のほうが病気にならない。その主張を踏まえて、著書は次のように述べます。

 「病気の治る人とは病気を忘れてしまう人という説があるそうです。病気になると治そう、治りたい治りたいとがんばる人がいますが、こういう人も病気に意識やエネルギーを集中させることでかえって病気にとらわれてしまい、治りにくいタイプに分類されてしまうというのです。納得できる話です。反対に、すべき治療をしながら、その結果については『前向きに放棄している』人。プロセスに力を尽くすが、結果は天の意思に預けてしまう人。こういう人は病気に心をとらわれることが少ないので、そもそも病気になりにくく、また、治りやすいタイプなのです」

 著者は「病気は人を成長させるチャンス」と訴えますが、この言葉には「ものごとを単純化しすぎている」という批判があるかもしれません。しかし、著者は次のように述べるのです。

 「真理の布は1本の糸で織られているといわれるように、真理というのは、単純で平易なものであると思います。アインシュタインも『解決策がシンプルなものだったら、それは神の答えである』といっています。
 その単純なものを複雑に、平易なものをむずかしく考えてしまうことから、人間の遠回りは始まってしまうのではないでしょうか。このことで思い出すのは、私の祖母が信仰していた宗教の経典です。その経典はすべて『ひらがな』で書かれていました。それは戦前の一般庶民を対象にした大衆の宗教でしたから、信者には農民が多く、読み書きがかろうじてできるくらいで学問のある人は少ない。そういう人にもわかるようにすべてひらがなで書いてあるのです」

 著者の祖母が信仰していた宗教とは、もちろん天理教です。そして、その「経典」とは、教祖の中山みきが著した『おふでさき』のことです。そう、『おふでさき』は、すべて「ひらがな」で書かれていたのです。著者は、「ひらがな」について次のように述べます。

 「私はいまの日本には漢字やカタカナが増えて、この『ひらがなの力』が欠けているように思えてなりません。
 いわば漢字は論理で、ひらがなは情緒といえますが、いまの日本社会は経済から家族関係にいたるまで論理や合理が優先されすぎていて(あるいは論理や合理だけですべてが解決できると考えられていて)、漢字で声高に理屈を通す人がひらがなの情緒をたたえたやさしい人を凌駕している。そのことが平成の日本を妙にぎすぎす、とげとげしくしている気がしてならないのです」

 本書を読んで最も感銘を受けたのは、人間の遺伝子の中にはもともと「他を利する」という精神が存在しているというくだりでした。著者いわく、利他行為や善行がうさんくさく感じられるのは、それを周囲にこれみよがしに見せびらかしたり、他人に強制したりするからだそうです。そういう見栄やパフォーマンスを除けば、人間は誰もが「利他」という美しい心を備えているといいます。人間の本質とは案外、性善説で「お人よし」なものだというのです。本書には、行動生態学者の長谷川真理子氏の興味深い研究が紹介されています。それによれば、集団の進化をコンピュータ・シミュレーションしてみると、「ゆずる心をもった人」の集団がもっとも生物として進化しやすいという結果が出ました。力の強い集団でもなく、自分のことを優先させる集団でもなく、競争で勝ち抜く力をもった集団でもなく、ゆずり合いの精神をもった人々が最後まで残ったそうです。

 「適者生存」こそが進化の要諦であるというのはダーウィンの説ですが、最近ではこれに異論が出されたり、疑問を投げかけるような証拠も発見されているとして、著者は次のように述べます。

 「たとえばケニアで発見された約150万年前の類人猿の遺跡からは、強いものが弱いものを圧迫したり、闘争したりした形跡がまったくなく、互いに食べ物を分かち合い、助け合って暮らした痕跡しか見つからなかったといいます。こうした状況証拠を重ね合わせてみると、人間はどうもこれまでいわれてきたように対立や競争、分断と個別化を原動力として進歩してきたのではなく、むしろ相互扶助――助け合い、ゆずり合い、分かち合いの『三つの合い』をテコに進化してきたと考えられるのではないか。そうであれば、『自分のため』という利己よりも『人のためにも』という利他の働き、やさしくお人よしの心こそが、私たち人間のDNAにより深く刻み込まれていても何の不思議もないはずです」
 わたしは、これを読んで本当に感動しました。そして、わたしが『隣人の時代』(三五館)で訴えた「助け合いは人類の本能だ!」というメッセージは間違っていなかったと思いました。
 さらに、著者は人類最大の問題である「死」についても言及します。これまでの著書を読んでも、著者が「死」を否定的にとらえていないことは明らかですが、本書でも次のように述べています。

 「個体レベルで見ても、生は死を前提にして成り立っているわけで、おびただしい死があってはじめて生が可能になるのです。
 そう考えてくると、生と死は対立の概念ではないことがわかると思います。生の反対概念に死があるのではなく、生の中に死があり、生はあらかじめ死を含んでいる。いいかえると、命の中につねに生と死の2つがあるのです。その2つがバランスをとることで命は生きている」

 この考え方には、わたしは全面的に賛成します。たしかに、生の中に死があり、生はあらかじめ死を含んでいるのです。さらに著者は、次のように続けます。

 「死を遠ざけることは生を遠ざけることにもなります。『死にたくない』『生きたい』のは生物それ自体の欲望といえ、それゆえ人間は一刻でも死を先に延ばそうと必死の努力をしてきましたが、だからといって死というものから目をそむけてばかりいると、生からも目をそむけることになるのです」

 もはや著者は科学者というよりも、人々に前向きな生き方を説く哲学者であることがわかりますが、その思想の根底には「サムシング・グレート」への意識があります。著者は、サムシング・グレートを「すべての生き物をこの世に誕生させた原始の親であり、いまもなおあらゆる命を生かしつづけている存在である」と定義します。そして、本書の最後に著者は次のように語るのです。

 「アホは神の望みであり、命はすばらしものである。サムシング・グレートが黙示するその教えを、社会に広く伝えるメッセンジャー役を果たすことがこれから私に課せられた大きな仕事なのです」

 本書を読めば、本当に幸せで豊かな生き方が見えてきます。

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