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No.0727 小説・詩歌 『キネマの神様』 原田マハ著(文春文庫)
2013.05.17
『キネマの神様』原田マハ著(文春文庫)を読みました。
一読して、心の底から温かくなったような気がしました。
また、無性に映画館に行って、映画が観たくなりました。映画や映画館をテーマにした小説は多いですが、本書は最高傑作ではないでしょうか。カバー裏には、次のように内容紹介が書かれています。
「39歳独身の歩(あゆみ)は突然会社を辞めるが、折しも趣味は映画とギャンブルという父が倒れ、多額の借金が発覚した。ある日、父が雑誌『映友』に歩の文章を投稿したのをきっかけに歩は編集部に採用され、ひょんなことから父の映画ブログをスタートさせることに。”映画の神様”が壊れかけた家族を救う、奇跡の物語」
とにかく、映画好きにはたまらない物語です。実在の映画のタイトルが次から次へと登場します。「フィールド・オブ・ドリームス」「七人の侍」「ニューシネマ・パラダイス」・・・・・誰でも知っている有名な作品の名前が出てくるたびに、ワクワクドキドキしてしまいました。本書はもちろん「映画小説」なのですが、ある意味で「ブログ小説」でもあります。80歳になった主人公の父親がネットカフェで慣れないパソコンを操作しながら、映画ブログを書き始めるところから物語は急展開します。彼は”ゴウ”というハンドルネームでブログを書くのですが、そのうち英語版がアップされ、海の向こうのアメリカに”ローズ・バッド”という好敵手が現れます。
日米の高齢者ブロガーによる映画論の応酬は、手に汗握るスリリングな展開です。ここには、著者のハンパではない映画についての知識と、これまたハンパではない映画への愛情が強く感じられます。アメリカ映画の本質とは父親を描くことにあります。日米両ブロガーのやりとりでも、この点が最大の焦点となります。「フィールド・オブ・ドリームス」をはじめとしたアメリカ映画から「父親」というメインテーマを論じるゴウに対して、恐ろしいくらいに映画を知り尽くしているローズ・バッドは、「どうやら君たち日本人は、我々アメリカ人の心の奥に柔らかく生えているもっとも敏感で繊細な『父性への憧れ』という綿毛を逆撫でするのが趣味らしい」と書き込みます。
その正体を知れば映画関係者なら誰でも驚くというローズ・バッドは、次のようにアメリカ映画の本質について述べます。
「アメリカにおける父性の問題は、しばしば製作者の大いなるコンプレックスとしてスクリーンに現れることがある。スティーブン・スピルバーグにとっても、長いあいだ関心を寄せるテーマのひとつだった。彼は、『フィールド・オブ・ドリームス』と同年に公開された『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』においてすら、このやっかいなお題目を取り上げようとした。後年になってからも、『ターミナル』でその片鱗が垣間見られる。トム・ハンクス演じる主人公がなんとしてもアメリカにやってこなければならなかったのは、父親が固執するジャズメンのサインを手にするためという、なんとも荒唐無稽で馬鹿げた理由だった。アメリカ人でもない男が、父親のためにすべてを賭けてアメリカに入国するという理由を捻出したあたり、スピルバーグの父性への執着が垣間見られて滑稽ですらある。ちなみにティム・バートン監督の『ビッグ・フィッシュ』の製作にも『父と息子の和解』を求めてスピルバーグは触手を伸ばしたともいう。『父性』のテーマには大監督すらおろおろと落ち着かなくなってしまうものなのだ」
(文春文庫『キネマの神様』p.198~199)
しかし、この小説の最大の魅力は、映画館で映画を見ることの至福を見事に描いていることでしょう。「映画」という文化が人間にとってかけがえのないものであることは言うまでもありませんが、本書にはさらに「映画館」という空間についての思い入れがたっぷりと語られており、これが映画好きの心の琴線に触れるのです。本書に登場する「映画館」についての文章はうっとりするほど魅惑的です。たとえば、ゴウは12年前に娘の歩が会社で書いた「新年度の抱負」の内容に心を動かされ、その文章を映画雑誌である「映友」のサイトに送ります。それがきっかけで、歩は「映友」のライターとして採用され、父親の”ゴウ”もブログをスタートすることになったのでした。
おそらくは著者が勤務していたという森ビルをモデルとした不動産開発会社のシネコン部門に在籍していた入社5年目の歩が書いた文章とは、次のように「映画館の臨場感」についてのものでした。
「映画館の臨場感とは、映画というシステムがこの世に誕生すると同時に作り出された究極の演出なのである。それは1世紀経った現在でも、ほとんど原型を変えることなく伝えられているのだ。ドライブインシアター、カウチポテト族、ホームシアターなど、映画を取り巻く環境は確かに変化しつつある。しかしそれでも映画館が滅びないのは、その臨場感こそが、『娯楽』を追求した人類がようやく獲得した至宝だからだ。映画館は一級の美術館であると同時に、舞台、音楽堂、心躍る祭りの現場でもあるのだ。
この世に映画がある限り、人々は映画館へ出かけていくだろう。家族と、友人と、恋人と・・・・・ひとり涙したいときには、ひとりぼっちで。
人間の普遍的な感情、笑いや涙、恐怖や驚きが映画館にはある。ありとあらゆる人生がある。人間が人間である限り、決して映画館が滅びることはない。たまらなく心躍るひとときを求めて、人はきっと映画館に出かけていくのだ」
(文春文庫『キネマの神様』p.28~29)
歩の父親であるゴウも、娘に負けていません。彼は、「映友」サイトに日記を連載している”ばるたん”宛のメールに、次のような文章を綴っています。
「パチンコやカラオケやディズニーランドができるはるか昔から、映画館は『娯楽の殿堂』でありました。しかし小生、映画館とは、実は『娯楽の神殿』のようなところではないかと思います。あの場所は、一歩踏みこめば異次元になる結界です。映画は、結界に潜む神様への奉納物です。
小生は子供の頃より、劇場のどこかで一緒に映画をみつめるキネマの神様の存在を、幾度となく感じたものです。この神様は、捧げられた映画を喜ぶというよりも、映画を観て人間が喜ぶのをなにより楽しんでおられる。神様に奉納される相撲や祭りを、結局いちばん楽しむのは人間なのです。それを神様はわかっておられるのです」
(文春文庫『キネマの神様』p.136~137)
このゴウの文章が、『キネマの神様』という本書のタイトルのもとになっています。それにしても、泣かせる名文です。ゴウと歩。この父娘は、ともに心の底から映画と映画館を愛しています。そこにギャンブル狂いの夫のせいで苦労続きの人生を送っている母親が加わり、大都会の片隅でひっそりと生きていく家族の姿が温かく描かれています。物語の最後になって、この家族は一緒にある映画を観るのですが、家族での映画鑑賞というのは「ささやかな幸せ」のシンボルかもしれませんね。
わが家も家族全員で映画館に出かけたのは「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」が最後で、それ以来はとんとご無沙汰です。でも、東京では長女と何度か一緒に映画を観ました。「家族」は、この小説のむ1つのテーマになっているように思います。
そして、本書の最大のテーマとは「なぜ人は映画を観るのか」という本質的な問題ではないでしょうか。それは、やはり「異界をのぞく」ためであり、究極的には「幸せになる」ためだと思います。本書を読み終えて、かつて読んだセオドア・ローザックの『フリッカー、あるいは映画の魔』上・下(文春文庫)の内容を連想してました。あの本も、映画の本質に迫る途方もなく面白い小説でした。
ビデオからDVD、さらにはブルーレイと映像の技術革新がせわしない時代ですが、今でも映画館という精神文化の殿堂が残されていることはありがたいことです。わたしが住む北九州市を含む福岡県は人口当たりの映画館の数が日本一だそうですが、観たい映画を気軽に観ることができる環境に満足しています。最新のシネコンもたくさんありますが、小倉には創業74周年の素晴らしい名画座「小倉昭和館」があることが一番の幸せです。松本清張も愛した映画館です。
本書には、東京の市ヶ谷にある「テアトル銀幕」という名画座が登場します。「イタリアの感動名画 豪華2本立て」として「ニューシネマ・パラダイス」と「ライフ・イズ・ビューティフル」を一緒に上映するような映画館ですが、小倉昭和館もまさにそんな感じなのです。そういえば、本書には最重要場面を含めて何度か「ニューシネマ・パラダイス」の名が登場しますが、「映画の映画」であるこの作品こそは映画への愛を最高に表現していると言えるでしょう。そう、本書はそのまま永遠の名作「ニューシネマ・パラダイス」へのオマージュ的小説となっています。
わたしは、これからも小倉昭和館をはじめとした北九州の映画館で、また娘と一緒に観る東京の映画館で、キネマの神様への奉納物を堪能したいと思います。