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死生観 『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』 前野隆司著(講談社)
2013.06.19
『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』前野隆司著(講談社)を読みました。
レモンイエローの帯には、かわいいパンダのイラストが描かれています。
また別バージョンの帯には、「『死ぬのが怖い』ことをちゃんと考えれば、『生きること』を再発見できるはず! 無宗教の日本人のために『死の恐怖』をはじめて真剣に論じた、全国民の必読書!」と書かれています。
著者は、1962年山口県生まれで、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。現在は、ヒューマンマシンシステム、社会システム、システムデザイン・マネジメント学の研究に従事しています。ロボットに人間と同等の機能をもたせるようプログラミングする「人工知能」の問題を追求し、その途上で意識に関する仮説「受動意識仮説」を見出したそうです。主著に『脳はなぜ「心」を作ったのか』(ちくま文庫)があり、わたしも読みました。
本書の構成は、以下のようになっています。
プロローグ:自分という存在の孤独
第一章:人はなぜ死ぬのが怖いのか?
死の脳科学、設計学、進化生物学
第二章:死んでも魂が生き残る方法とは?
死の宗教学、哲学
第三章:死ぬのが怖くなくなる方法とは?
死の統合学、システムデザイン・マネジメント学
第四章:ルート1「お前はすでに死んでいる」
心は幻想だと理解する道
第五章:ルート2「自殺は悪か?」
すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道
第六章:ルート3「人生は0・18秒」
自分の小ささを客観視する道
第七章:ルート4「死の瞬間は存在するか?」
主観時間は幻想だとする道
第八章:ルート5「あなたというメディア」
自己とは定義の結果だと理解する道
第九章:ルート6「達人へのループを描け」
幸福学研究からのアプローチ
第十章:ルート7「いい湯だな♪」
リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ
エピローグ:死ぬのは怖くない
この本は、どういう本なのでしょうか。
プロローグ「自分という存在の孤独」で、著者は次のように述べています。
「『死』に関連する学問分野には、脳科学、心理学、進化生物学、工学、宗教学、哲学、社会学、医学・カウンセリング学など、いろいろとある。
本書は、僕自身も渡り歩いてきたこれらの学問から見て、要するに『死ぬ』とはどういうことなのか、『死ぬのが怖い』とはどういうことなのか、そして、どうすれば死ぬのが怖くなくなるのか、を体系的に述べる本だ」
こんな本を書く著者は、昔は死ぬのが怖くて仕方なかったそうです。でも、今は「怖いというよりも、しかたないというか、まあそういうものだというか、眠っているときと大差ないというか、むしろ今も死んでいるようなものだというか、そんな、あっさりした感じで死を捉えられるようになった」とか。それは、哲学から脳科学、システム死生学まで、あらゆる学問を総動員して、理詰めで考えた結果、自分なりに「腑に落ちた」からであるとして、次のように述べます。
「僕はもともとロボティクスの研究者だった。ロボットハンドやヒューマンロボットインタラクションの研究をしていたのだが、人間の心のことがまだまだわかっていないのに、ロボットの研究をしている場合ではないと思い、人間の研究をするようになった。
1つは『心の哲学』。僕たちの心はなぜどのようにここに存在していてこれからどうなるのか。
2つ目は倫理学。僕たちはどう生きるべきか。
そして、幸福学と教育学。結局、人間は、どう生きれば幸せになれるのか。『感動』『共感』『成長』『自己実現』はどのようなメカニズムで実現できるのか。そのために、人は何をなすべきなのか」
これらを著者は「システムデザイン・マネジメント学」という学問の一部と考えるようになったそうです。要するに、「個別の学問分野だけを深堀りするのではなく、学問分野横断的に、システムとして、つまり、全体構造のつながりとして、俯瞰的に世界を見て、世界全体のあるべき姿を新しくデザインし、マネジメントする」という全体統合型学問だといいます。
第一章「人はなぜ死ぬのが怖いのか?」の冒頭で、著者は「怖い」という人間の感情を分析します。
「怖い」とは何か。進化論を唱えたダーウィンは、感情は基本的に7つから成ると主張しました。すなわち、「幸福」「驚き」「恐怖」「怒り」「悲しみ」「嫌悪」「軽蔑」です。また、心理学者エクマンは、表情から見た感情には6つあると述べました。「幸福」「驚き」「恐怖」「怒り」「悲しみ」「嫌悪」です。軽蔑を感情に含むかどうかだけが異なりますが、あとは同じだというのです。
これについて、著者は次のように述べています。
「『幸福』が感情だというと日本語ではやや不自然な感じがするかもしれないが、『ハッピネス』(happiness)を『楽しさ』と訳さずに『幸福』と訳したと解釈すれば、違和感はないだろう。ちょっと驚くのは、ポジティブな感情は『幸福(楽しさ)』だけで、他の5つないし6つはネガティブな感情だという点だ。ああ、人間のポジティブとネガティブは、なんて非対称なんだろう」
それでは、人間にとって感情は何のためにあるのでしょうか。
著者は、次のように述べています。
「感情があるから、記憶は複雑になり、記憶が複雑だから、複雑な記憶に基づく多様な行動ができるようになったと考えられる。感情があるから、コミュニケーションが複雑化し、その複雑なコミュニケーションを記憶して次の行動に活かすから、行動が複雑化した、といってもいい。言い換えれば、感情があること(そして、感情体験を記憶できること)によって、集団としてのコミュニケーションの高度化や、それに伴う行動の高度化が可能になる。そんなメリットがあったからこそ、生物は、感情を持つ人間へと『進化』したと考えるのが妥当だろう」
第二章「死んでも魂が生き残る方法とは?」の冒頭で、著者は宣言します。
「僕は宗教を信じない。死後の世界はないと思う。霊魂とか、幽霊とか、幽体離脱とか、心霊現象とか、前世とか、そういうものも信じない」
なぜ、そう思うのか。著者は「進化論や脳神経科学や分子生物学が積み上げてきた様々な事実から帰納して、それらの存在確率は極めて低い」と思うからだそうです。わたしは、優れた科学者ほど、これまでの研究結果の蓄積を超えた世界の存在を思い知り、科学の限界を痛感するように思うのですが……。
著者は「科学的な知見は学術論文になっているはず」として、「死後の世界学会」がないことから帰納すると、死後の世界があると考えることは科学的ではないと述べます。正直言って、このへんは大いにつっこみどころがあるのですが、さらに著者は次のように述べます。
「これまでに何百億、何千億という人間が死んだだろう。たとえば人間だけに死後の霊魂があると仮定しても、ものすごい数の霊魂がどこかに存在していることになる。そして、彼らの一部が心霊現象を起こせるのなら、彼らが現世に出現して写真に写ったり生きている人と話したりという事例が、きちんと確実な証拠として記録できる形で出現するはずだ。ちゃんと客観的な研究になる形で観測されているはずだ。『科学的には証明できない形でのみ出現している』としたら、極めて不自然だ。統計学の経験のある者から見たら、不自然きわまりない。よって、人類が蓄積してきた科学的、論理的経験から帰納して、死後の世界の存在は、認めがたい」
これはもう著者の科学観であり人生観ですので、他人には何も言えません。
でも、わたしは同じ科学者でも、村上和雄先生や矢作直樹先生などの発言にリアリティを感じてしまいます。だって、いくら帰納法で考えたって、宇宙や生命の誕生といった問題の謎は解けませんから。やはり、そこにはサムシング・グレートの存在を謙虚に認める姿勢が必要ではないでしょうか。
第三章「死ぬのが怖くなくなる方法とは?」で、著者は、「人類が蓄積してきた学問的な知の蓄積を論拠とした、確実で安全・なルート」を示してくれています。それは以下の7つのルートです。
ルート1 心は幻想だと理解する道(脳科学の道)
ルート2 すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
ルート3 自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)
ルート4 主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考の道)
ルート5 自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道)
ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
ルート7 リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思想の道)
本書では、この7つのルートについて説明していくわけですが、その中には納得するものもあれば、「これは、ちょっと無理なのでは」と思えるものもありました。わたしのハートに最もヒットしたのはルート3「自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)」でしょうか。第六章「ルート3「人生は0・18』」で、著者は次のように書いていますが、これがじつに壮大なスケールなのです。
「時間――宇宙と生命の歴史――について考えてみよう。生命の誕生は、今から40億年前といわれる。地球誕生から6億年経った頃。
霊長類が誕生したのは、6千5百万円前。
現生人類であるホモ・サピエンスが出現したのは25万年前。
中国その他で文明が生じたのが今から6千年前(から9千年前といわれる)。
そういわれても、どれも大きな数字すぎて実感がわかない。
そこで、試しに、137億年前のビッグバンを、1月1日の午前0時、現在を1年後の12月31日の24時にたとえてみよう。
つまり、宇宙の歴史を137億分の1に短縮してみると――。
ビッグバンは、1月1日午前0時。
地球誕生は、8月30日。
生命の誕生は、9月15日。
霊長類が誕生したのは、12月30日午前6時26分(新年まであと1日と約18時間)。
現生人類であるホモ・サピエンスが出現したのは12月31日午後11時50分25秒(新年まで9分35秒)。
中国その他で文明が生じたのが、新年まで14秒。
人間の命は、80歳まで生きるとすると、0.18秒。宇宙の年齢の、1億7千125分の1」
無限ともいえる宇宙の時間の長さに比べて、わが命の短さを思い知り、「なんだか自分の人生なんかどうでもいいわ」とは言わないまでも、発想の視野を極端に拡げることによって「死の恐怖」を散らせてしまう効果はあると思います。
考えてみれば、仏教というのも想像を超えるほどの壮大な空間論や時間論を背景として「空」や「無常」を説くわけですから、このルート3に近いのかもしれませんね。
本書の全篇を通じて、著者は「死ぬのが怖くなくなる方法」を読者に紹介し続けます。そして、エピローグ「死ぬのは怖くない」で、著者は次のように述べます。
「死を恐れることはフォーカシング・イリュージョンだ。そもそも、生は幻想だ。寂しさも、悲しさも、はかなさも、幻想だ。死後の永遠の時間も、永遠の愛も、幻想だ。人間が作り出したものに過ぎない。すべての概念は人間が作り出したものだ。人間無きところに概念はない。あなたのいないところに、あなたのための時空の概念はない。
よって、あなたという主観から見たときに、死後の世界などという概念はない。本来は、ない。想像はできても、想像していること自体が誤謬なのだ。
つまり、どこから見ても、死などない」
本書は「このように考えれば、死が怖くなくなりますよ」という考え方というか思考法のカタログです。でも、そのカタログの根底には、科学というものを絶対的に信頼するという著者のイデオロギーが横たわっています。著者は、一貫して宗教やスピリチュアルな世界を否定しており、これはこれで筋が通っています。まあ極端な考え方といえばそうだと思いますので、ブログ『死ぬことが怖くなくなるたったひとつの方法』で紹介した、まったく正反対の立場で同じテーマを扱った本と一緒に読むと興味深いかもしれません。やはり、死は人類最大の謎だと思います。それを怖がるか、怖がらないかは別として……。
なお、『死が怖くなくなる読書』(現代書林)でも本書を取り上げています。
*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。