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No.0767 神話・儀礼 『儀礼のオントロギー』 今村仁司・今村真介著(講談社)
2013.08.01
『儀礼のオントロギー』今村仁司+今村真介著(講談社)も久々に再読しました。
現代哲学・思想研究の第一人者であった今村仁司氏は、2007年5月5日に亡くなられました。本書は同年3月20日に刊行されており、遺作の1つです。共著者の今村真介氏は仁司氏のご子息です。本書は父子による共著なのです。
本書には「人間社会を再生産するもの」というサブタイトルがつけられ、帯には「社会や国家を維持・駆動する根源的なものとは?」「歴史と人類学の成果を動員し鍛え上げられた社会哲学の新理論」と書かれています。
また帯の裏には、「『善い、悪い』あるいは『役立つ、役立たない』というような効用倫理が登場するはるか以前に儀礼は生まれている。あるいは前とか後とかを言うよりもむしろもっと原理的に、社会のなかで人間が仲間と一緒に生きるかぎり、要するに社会生活があるかぎり、この生活の永続を可能にする条件としていつもすでに存在してしまっている」と書かれています。
本書の目次構成は、以下のようになっています。
「プロローグ」
第一章 社会を再生産する「儀礼的実践」
第二章 狩猟採集社会に儀礼はあるか
第三章 首長制社会の再生産装置
第四章 神聖王権と国家の本質
第五章 古代的国家儀礼
第六章 初期近代国家=絶対主義時代と儀礼
第七章 近現代国家と儀礼
「あとがき」
「参考文献」
「プロローグ」の冒頭には、次のように書かれています。
「儀礼という言葉を聞く、あるいは儀礼という文字を見るとき、言葉の意味を知る前にどんな印象をもつのだろうかと想像してみると、なんとなくどうでもいいような、あるいは時代遅れであるような、そんな消極的印象ではないだろうか。民族学者や人類学者のような専門家でなければ、現代人であるわれわれはおそらく繁文縟礼だという嫌悪感すらもつのではないだろうか。実際には同じ儀礼群に属する祭りやスポーツに対してはけっこう盛り上がるような肯定的反応をみせるのだが、例年のようにくりかえされる形骸化した成人式や外見的に荘厳にみえる国家儀礼(最近の例でいえば政治家の靖国神社詣など)からはじまって日常生活の節目ごとに行われるステレオタイプの儀式やセレモニー(義理と人情のからむ定型的な人間関係にまつわる行動)に対しては、ふつう誰しも嫌悪(「キライ!の一語」)しか感じないのではないだろうか」
書名にある「オントロギー」とは「存在論」の意味です。つまり「儀礼のオントロギー」とは「儀礼の存在論」ということになります。そもそも、儀礼とは何のために存在しているのでしょうか。儀礼も目的や用途とは何でしょうか。本書には、次のように書かれています。
「個々の儀礼や儀式や祭礼などにはそれぞれに固有の、したがって妥当する範囲が限定された目的や用途があり、それぞれの目的・用途は他の目的・用途に還元され、代替されることはけっしてできない。その意味では個別の儀礼・儀式・祭礼は自己閉鎖的で、ひとつの独立宇宙である。視野を個別儀礼に局限するときには、数々の異なる儀式等々が無連絡にあるにすぎないとも見えるが、実際にはその反対である。個別の儀式等々は、個別の目的と用途への拘束を解かれて1個の『有機的組織』のなかに結びあわされている。社会生活の必要からそうした結合が起きる」
こうしてまとめられた儀式の集合体を本書では「儀礼装置」と名づけ、次のように述べます。
「儀礼装置のなかにまとめられた個別の儀式はその自己閉鎖性を解消して、全体のなかの一要素となる。有機的組織のなかの要素はアトム的要素というよりも、全体に不可欠な構成的要素となる。個々の儀式等々を儀礼装置の有機的構成要素に切り換えるものがあるにちがいない。われわれはそれを『儀礼的実践』と呼ぶ」
さらに「儀礼的実践」について、以下のように説明します。
「儀礼的実践は目に見えない、その意味では抽象的な、個別諸儀礼の統合作用である、と。この統合作用は人間の社会生活が分解しないで安定的に存続することを可能にする条件である。これは人間があるかぎりある。それは人間にとっていわば『永遠的』である」
さらに「プロローグ」の最後、「儀礼的実践」について次のように述べます。
「儀礼的実践は維持と解体の両面をもっていることにあらかじめ注意しておきたい。諸種の制度からなる社会と国家が再生産される(存続する)ためには、共同倫理の母胎をなす儀礼的実践が必要不可欠なのである。おそらく儀礼のなかにはよくできたものもまずくはたらくものもあるだろう。効率的か非能率かを問わず、うっとうしいかどうかにもかかわりなく、儀礼の装置と実践は人間の知的操作(理論)以前に、言わば身体生活の深部から生み出されるものである」
第一章「社会を再生産する『儀礼的実践』」において、本書では「社会は儀礼的なものなしには存続しえない」として、次のように述べています。
「たとえば、身近なところで日本における習俗慣例を見ればよい。ひとは家を新築するとき必ず地鎮祭をおこなう。施主がそうするばかりでなく、工事請負人の「合理主義者」であるはずの建築技術者もいそいそと率先して祭儀をとりおこなう。神主は新築のばあい無くてはならない存在であることは、西欧人の目には奇異に見えるが、日本人にとって自明のあたりまえの原風景である。さらに、日本の『経済合理主義』の最先端の実行者である大企業のなかには、自社ビルの屋上に神社をまつっているところがあり、毎朝、社長や重役が柏手を打つ風景も一種の民俗風景になっている。カミもホトケも混合する『日本人の精神』は骨の髄から感情的であり、儀礼的である」
また、人類とは儀礼的人間であると訴え、次のように述べます。
「もちろん、土俗習俗の儀礼慣行に浸っているのは日本人に限ることではない。その点で、洋の東西を問わず、人類は想像的人間であるがゆえに儀礼的人間である。人間性や社会の存立にとって、『儀礼的なもの』はほとんど不可欠とさえ言えるのである。つまり、人間とは徹底的に儀礼的動物であり、社会は、徹頭徹尾、儀礼社会なのである」
さらには、儀礼的なものこそは「人間の条件」であると断言しています。そして、それを踏まえた上で次のように述べています。
「『儀礼的なもの』を最も拡張的に解釈するならば、それは、人間を人間たらしめている社会的な記憶や意味の『かたち・パターン』(普通は『表象』一般として語り得るもの)ということになるだろう。要するに、われわれの日常的な体験の大半は、実は『儀礼的なもの』のカテゴリーに収まってしまうのである。その意味で、『儀礼的なもの』は人間の条件であり、ある意味で『人間性』そのものですらある。また、このような意味での『儀礼的なもの』は、社会システムの存続を可能にする最も根底的な地盤でもある。つまり、それは人々の『心』(記憶、感情、意味、表象、等々)を一定のパターンを備えたかたちへとたえず整形し続けることによって、『想像の共同体』(細かい差異はあるにしてもおおむね類似する仕方で、意味づけられ想像され生きられる共同体)としての社会システムを不断に支えるものとして機能しているのである」
ここでいう「想像の共同体」とはべネディクト・アンダーソンの名著の書名として有名ですが、もともとはマルクスの『ドイツ・イデオロギー』からの引用です。
これまで儀礼について、人類学者たちは多くの見方を示してきました。バリ島の儀礼的世界観を研究した名著『ヌガラ』を書いたクリフォード・ギアツは、非合理的な残滓や束の間の非本質的な現象ではなくて、まさに社会の現実としての儀礼を唱え、「儀礼実在論」を訴えました。日本を代表する文化人類学者である青木保氏は、真実のメッセージを開示するメタ・コミュニケーションとしての儀礼という見方をしました。
さらに竹沢尚一郎氏は「人間身体に直接作用することを通じて、そこに社会的な秩序をもたらす象徴装置としての儀礼」を訴え、清水昭俊氏は「メタ機能(超越的なものや非日常的なものを表象する機能)を担う形式化されたパフォーマンスを儀礼的なもの一般として捉えること」を打ち出しました。それは、象徴論的立場や機能主義や現象学的社会学の立場などを総合して柔軟な解釈の仕方を打ち出したものであり、本書によれば、現在では最も妥当性をもつ主流的な考え方とされています。ところが福島真人は「人間と環境とのインタラクションとしての儀礼」という考え方を持っています。それは近年有力になりつつある認知科学的立場に基づくものと言えます。
本書では、儀礼的なもの=社会の再生産の条件であると考えます。そして、さらに次のように述べています。
「社会が単に静態的に存在するのではなく、日々不断に再生産されているという点は決定的に重要である。社会は、その成員の生命が物質的に維持され続けると同時に、新たな成員が加わり続けなければ成り立たなくなるが(この点だけを取り出すなら、この再生産は生物的再生産すなわち生殖と繁殖である)、それだけではなく、社会の同一性を支える『情報』全般、とりわけ、社会的な『記憶』や『意味』のシステムが全体として不断に維持されねばならないのである。『儀礼的なもの』が重要であるのは、とりわけ後者の過程においてである」
本書の白眉は、第六章「初期近代国家=絶対主義時代と儀礼」における「王権の演劇的表象システム」です。次のように述べられています。
「王権の演劇的表象システムとは、王を主人公ないし主催者とする定型化された演劇的体裁を備えた種々の儀礼的システムである。具体的には、そこで用いられる物的装置と、儀礼に参与する人々の意識や情動や身振りの総体である。この表象組織は、フランス王権の場合には、主に以下のような形態をとっていた。すなわち、第1に、宮廷儀礼、第2に、国王葬儀やリ・ド・ジュスティス(親臨裁判)や成聖式、触手儀礼、入市式、テ・デウム等の国家儀礼、そして第3に、スペクタクルである」
ここで、宮廷儀礼、国家儀礼、スペクタクルについて、以下のように個別に説明がなされます。
「宮廷儀礼とは、王宮内で日常的に展開される著しく型にはまった儀礼作法のシステムのことであって、それが独特の秩序維持装置として作動していた。国家儀礼とは、宮廷人のみならず、さまざまな社会層の人々に向けて、王の演劇的表象を通じて王の威光を印象づけるべく仕組まれた特別な式典のことである。
スペクタクルとは、王の娯楽として催される馬上槍試合、バレエ、騎馬パレード、祝祭等々であり、演劇的表象システムのなかでもとりわけ演劇的性格と娯楽性の強い見せ物の類であった。宮廷儀礼や国家儀礼とは違って、王にとって必ずしも義務的ではなかったこれらの催しは、王およびそこに参加することを許された少数の特権的観客たちを楽しませると同時に、それらの観客たちに王の威光を印象づけ、その威光に直接あずかる喜びと特権とを自覚させる装置だった。参加者の限定性という点で、スペクタクルは宮廷儀礼とよく似ているが、スペクタクルの方がより娯楽性が強い分だけ、人々を王に心服させる効果がより強く発揮される場合があり得た」
第七章「近現代国家と儀礼」では、「国家のイデオロギー装置と『儀礼的実践』」について触れられ、次のように述べられます。
「国家装置には抑圧装置(軍隊、行政府、裁判所、等々)とイデオロギー装置がある。抑圧装置が前面に出る社会と国家は危機のなかにあるか、崩壊に瀕している。抑圧装置ではなく、民衆の心を舞台として現存秩序の存続と安定性を確保する装置が不可欠であり、それがイデオロギー装置と呼ばれる」
なお「国家装置」という用語は、フランスの哲学者ルイ・アルチュルセールのものです。
最終章である第七章の終わりで、本書の趣旨が簡潔にまとめられています。
「儀礼的装置は歴史が現代に向かって下るにつれて複雑多様になり、ついには現代国家において社会のなかのすべての制度と機関が公私の別なく儀礼装置になる。現代国家は太古の諸社会や共同体、古代の社会と国家、封建的社会と国家などにくらべてずっと多くの、ずっと複雑多岐にわたる儀礼装置を生みだし、あらゆる人間をそのなかに封じ込めるようになった。儀礼装置は鋳型であって、そのなかであたかも学校が具体的個人としての子どもを画一的な『生徒』に変形するように、あらゆる個人を定型的人間にする。儀礼装置は国家として組織される社会にとってなくてはならない『担い手』・『支え手』を生産する装置でもあり、『自由から逃走できる』ぬるま湯の安息所にして同時に地獄である。
しかしこうした装置と『儀礼的実践』は、けっして付録的でも外部的でもない。それらは人間内在的であり、人間の社会的存在の構成要素であり、人間的本質の一構成要素である。人間とは儀礼的存在である」
最後の「人間とは儀礼的存在である」という言葉が心に残ります。まさに、この一語に本書のメッセージはすべて集約されると言えるでしょう。