No.0814 宗教・精神世界 『本当はすごい神道』 山村明義著(宝島新書)

2013.10.21

『本当はすごい神道』山村明義著(宝島新書)を読みました。
20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮、60年に一度の出雲大社の大遷宮が重なることもあって、空前の神社ブームが起こっています。そんな中、神道に関する本がたくさん刊行されていますが、本書は非常に読みやすく、また面白かった一冊です。

 伊勢神宮の内宮にて

帯には「日本を守る最古で最強の存在」と大書され、続いて「世界一勤勉な民族性、秩序と思いやり、和の精神、匠とモノ作り、おもてなしの心」「日本人のアイデンティティは『神道』の中にこそある」と書かれています。また、帯の裏には「日本人よ 自信と勇気を取り戻そう!」として、以下のように書かれています。

●東日本大震災で証明された不屈の精神
●高度経済成長を支えた企業と守り神
●匠とモノ作り、おもてなしの心の源流
●スポーツで日本人が見せる荒ぶる魂
●神道の教えは「超ポジティブシンキング」
●日本人はなぜ世界一勤勉なのか?
●科学の分野で役立つ日本人の感性
●世界を守る鎮守の森の思想

出雲大社の神楽殿にて

さらに、カバーの裏には以下のような内容紹介があります。

「日本は今、史上空前の「神社ブーム」を迎えている。しかし『現代の日本の神道』について正確に語れる人は、日本の神主を含めた神道人しかいない。その約千人以上の神主の声を拾い集め、数千年の時を超えて今に生きる『日本人らしさ』の画期的な考え方が続々と集結。伊勢の神宮をはじめ、日本の神社には、東日本大震災の時に見せた日本人の『秩序正しさ』と『クール・ジャパン』の本質を理解できる『美徳』が存在する。混乱した時に、日本人はなぜ冷静さを取り戻せるのか、日本人のアイデンティティを保つ方法・・・・・。これまで誰にも語れなかった『神道ノウハウの集大成』も一挙公開」

本書の目次構成は、以下のようになっています。

「はじめに」
第一章:スポーツ・ビジネスを支える神社と神道
第二章:日本を守る最古で最強の思想
第三章:伊勢神宮とグローバルで大らかな神道精神
第四章:人と自然環境を守る要・神社と鎮守の森
第五章:神と祭とまつりごと
第六章:日本の神道の「間」がもたらす効用
第七章:科学に通じる神道の力
第八章:日本人よ、今こそ素晴らしき神道精神を取り戻そう

「はじめに」で、著者は次のように述べています。

「日本人が固有の精神性を失い、『日本人自身の原点や、その良さを知らない』という実態は、日本の戦後教育や政治に問題があったせいですが、『日本人らしさ=日本人のアイデンティティ』は、実は日本の「神道」の中にこそあるのです。
実際に海外では、普遍的な科学や思想として、キリスト教やイスラム教などの『宗教文化』が根づいています。一方、多くの日本人がいまなお正月に参拝し、いざというときの心の拠りどころとしている神社の『奥』にあるもの、それが『神道』です。
しかし、一般的に日本人は、身近でありながら、その誇るべき神道に対して、昔から大切さに気づかなかったり、逆に古いものと捉えて遠ざけたりしがちでした。
ところが、日本の神道は、いま広く世界的に通用し、また固定的な宗教概念を超越する思想や文化となりつつあります。詳しくは本書の中で説明しますが、古くからの言い伝えと最新の文化が融合した日本の『和』の精神性、それが神道なのです」

第一章「スポーツ・ビジネスを支える神社と神道」で、著者は「古くからの神道家たちは、人間には普段の落ち着いたときの魂である『和魂』というものと、戦うときの『荒魂』があると説いてきました」と紹介します。この考え方は日本の武道や武士道に取り入れられました。日本人の荒ぶる魂である「荒魂」は、神道の鎮魂法の「魂振り」などによって呼び出すことが出来る、とされています。一方、試合が終わったときには鎮魂法による「魂鎮め」を行い、自らの「和魂」を取り戻します。著者は「武道や相撲などで、日本人がガッツポーズをしないのは、『和魂を取り戻せない人間は、精神的に未熟だ』と見られていたからだ」として、このような、「戦い」から「平和」と「安定」を取り戻す日本人の精神性についても、神道は大きな役割を果たしていたと指摘します。

また、神社は鎮守の森の聖域の中だけでなく、企業の中にも鎮座しています。著者は、さまざまな企業神社、企業の氏神神社や崇敬神社を紹介しつつ、企業が「守り神」を持つことの理由を説明します。それによれば、まずはチームワークを結集するという意味があり、加えて「祈り」の効果もあります。また、幹部を含めた社員が集まることで「原点回帰」という意味があります。そして、もう1つは「使命感の再確認」であるとして、次のように述べます。

「自分が企業という社会共同体の一員であることを自覚し、会社に対する責任を負っているという使命感を改めて確認できます。さらには地域社会の一員、日本社会の一員、国際人の一員としての役割と自らの使命感を再確認できる場となるでしょう」

わたしが本書で最も興味深く読んだのは、「おもてなし」の源流についての記述でした。滝川クリステルさんの東京オリンピック招致プレゼンで「おもてなし」は時代のキーワードになった感がありますが、著者は次のように述べています。

「もともと日本人の『おもてなし』や『思いやり』の心は、言葉を交わさなくても相手の気持ちを『察する』という行為そのものにあり、日本人はその心に長けているのです。 その秘訣は、日本の神道の『神祭』にあります。
『神祭』は、自然の厳かな雰囲気など目に見えない貴いとされる神々、あるいは太古の昔から人々に畏れられた自然の脅威や、その自然からの恵みを大切に敬う精神性に基づいています。そもそもは、その人がもっとも大切だと思うものに何かを差し上げることが『まつり』の意味のひとつなのです。
その場合には、神聖な場所において魂と心を込めて作った食べ物や、『幣帛』という絹布などを神様に差し上げるための『神祭』が執り行われます。
これが日本人の『おもてなし』の原型にあるのです」

「おもてなし」の心は、「察する」という心の手法に長けた日本人が育ててきたものです。著者は次のように述べます。

「日本人には、取り立てて相手が口に出していわなくても、自分が『察する』、『気づく』という心の手法を使って、何かをしてあげたいという気持ちを抱く人が多いものです。これが世界でも高く評価されているのです。
つまり、『目には見えなくても、思いやりや、相手をいたわる心はわかる』というのが日本人であり、これは、キリスト教の神(God)とは異なる神(kami)を大切にするところから来ています。
日本人が元来、目には見えないコミュニケーションの仕方がとても上手な民族なのは、神道の『自然に対して真摯に向き合う』という精神性があるからなのです」

第二章「日本を守る最古で最強の思想」で、著者は日本人の「魂」について以下のように述べます。

「日本人の『魂』とは、いったい、どういうものなのでしょうか。
これは、日本という固有の場所と時空間の中で、自然発生的に語り伝えられてきた『伝統精神』でしょう。
それが日本の伝統宗教である神道の要素です。現に日本では、生きとし生けるものにはすべて『魂』がある、と見立てます。かつてギリシア哲学者のソクラテスが思索し、西欧にはなくなった『魂』が、日本には『存在する』と考えるのです」

日本人の信仰を考える上で、「先祖崇拝」が大きなキーワードになります。著者は、次のように述べています。

「先祖の霊を『祖霊』、『御仏』として祀るという『お盆』や『お彼岸』などの行事は、いまは仏教行事でもありますが、神道に『先祖崇拝』という考え方があったために影響を受けたものです。このような『先祖崇拝』や、共同体を構成する『御霊崇拝』は、日本の代表的伝統宗教の要素をもつ神道の特長です」

わたしも、『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)で、日本仏教の「お盆」のルーツは神道の「先祖祭り」にあり、「先祖崇拝」こそは日本最大の信仰ではないかと述べました。
また著者は、神道の構造を明らかにするとともに、現代日本人の信仰の問題点を以下のように指摘します。

「日本人の『時空を超越した目に見えない存在』を意識する力が、『祈り』や『感謝』、『賞賛』の心となって、この三角形を作る神道の構造を支えます。美しい自然を残そうという強い祈り。日本が理想の国家になって欲しいという切なる願い。このような日本人の希望の中心が日本の『神』であり、その振る舞いが、『祭』だったわけです。
ところが、現在では、東日本大震災で犠牲になった方々を『公』に慰霊し、祀ることさえできなくなっています。その理由は、現在の憲法に定められた政教分離規定では、国や地方公共団体は、御霊を祀るという宗教行為を中心になって行ってはいけない、と解釈されるからです」

禍言(まがごと)を正す「祓へ」の力についても、述べられています。

「日本は、周辺に4つのプレートを抱え、地形的に地震や津波など災害が起きるのが当たり前の国家です。だからこそ、日本においては、自然と神は同じだと見なされました。一方、西欧社会では、人為的な戦争などが『災害』そのものでした。この自然への『諦観』があったからこそ、日本人は太古の昔から、何かしら自らの身を犠牲にすることが『貴いこと』とみなされ、長らく日本人の美徳とされてきました。すなわち日本人は、自然という『神』に対して何がしかの『代替物』を支払う行為によって、明日からの生活に希望を見出そうと、これまで歩んできました。要するに、この『祓へ』の精神は、ユダヤ=キリスト教的な『博愛精神』や『生け贄』という発想ではなく、日本人の『明日への希望』の精神なのです」

さらに著者は、日本人の「神道精神」について以下のように述べます。

「神道の『日本人の生き方』には、いま現時点の自分の持てる力を精一杯出し切るという『中今』という精神性もあります。いい換えれば、『いままさに、自分のベストを尽くす』という実践精神です。最近流行している『いつやるの?いまでしょう』というセリフも、私から見ると極めて『神道的』なのです。
日本人は『感謝』と『祈り』だけでなく、自分が生きている『いま』を精一杯生き抜いてこそ『蘇り』が果たせると考える――これが神道精神なのです」

第三章「伊勢神宮とグローバルで大らかな神道精神」では、珍しいことは「おめでたい」に通じるというくだりが興味深かったです。戦後、神社神道の「理論的支柱」と呼ばれた故・小野祖教國學院大學元教授が『神社神道神学入門』の中で述べた次の言葉が紹介されています。

「『めでたい』といふ気持は、『いはひ』と結びついたもので、『いはひ』をする事は『めでたい』事としているが、『いはひ』という事は神道信仰を行的にあらわしたもので、一種の『まつり』に他ならない。『いはふ』は不浄を避けて神を迎えるつつしみの神事である。それを『いはひ』それを『めでたい』と喜ぶのである」

つまり、古くからの日本では、神様が降臨してくるときに「祝祭」を行い、神様を「珍しいもの」、「最初の出来事」、「いとおしいもの」として捉え、精一杯、愛でていたというのです。その際、かつての日本人たちは、心の底から「おめでとう」という言葉を使っていたのでしょう。

人生儀礼には人を幸せにする力があります。そして、ほとんどの人生儀礼に神道は関わっています。本書には、次のように書かれています。

「神道では将来、その人に起こるであろう出来事をその時期の節目節目で予測し、『祝詞』で始まる神事や儀礼において祈り、あらかじめ祝います。これは一般的には『予祝行為』と呼ばれており、その例としては、初宮参りや七五三、雛祭り、端午の節句など、数多くの行事が挙げられます。
また、悪い気運が起こりそうであれば、それを事前にぬぐい去ってしまうという『お祓い』という行事を行います。夏越しの『茅の輪くぐり』や地方に残っている『虫送り』、その人の厄年の『お祓い』などがそれに当ります。
このように、その人の人生をシュミレーションし、そのサイクルの中で起こるであろう出来事をあらかじめ『予測』して動くのが神道です」

初宮参り、七五三、成人式などの「人生儀礼」は「通過儀礼」とも呼ばれます。

「『通過儀礼』は、キリスト教の『幼児洗礼』のように、海外でも『イニシエーション』として普通に行われています。実際に『予祝』をあらわす外国の言葉としては、キリスト教では『ゴッド・ブレス・ユー』、イスラム教では『インシャ・アッラー』(インシャラーとも聞こえます)という言葉が有名です。それぞれ『神の恵みがありますように』、『神の思し召しのままに』という意味ですが、これも言葉による人間に対する『予祝行為』であることは間違いないでしょう」

日本最大の祈る人は天皇陛下です。天皇陛下は宮中祭祀において、常に「国中平らけく安良けく」と祈られています。また、かつての日本には、「祝人(ほかいびと)」と呼ばれる人々がいました。「祝人」について、著者は次のように述べています。

「じつは日本には昔、神職ではなく、『祝人』という、他所の村々に出かけては誉める役割の一般の人がいたそうです。その『祝人』は、出向いた先の村を褒め、『鶴は千年、亀は万年、東方九千歳』などとめでたい言葉を述べ、厄払いなどをして回ったといいます。
『おめでたい人たち』といってしまえばそれまでですが、極めて日本らしい文化ですし、現代でも、地方で『町興し』、『村興し』などを行うコーディネーターなどは、この『祝人』に当たるかもしれません」

これを読んで、わたしはぜひ「祝人」になりたいと思いました。また、わが社もぜひ「祝人集団」を目指したいと思います。

第四章「人と自然環境を守る要・神社と鎮守の森」の冒頭には、次のように書かれています。

「いま、神社の「鎮守の森」が、世界の各地で見直され始めています。
日本を代表する森林学の権威である横浜国立大学名誉教授の宮脇昭氏によると、日本の鎮守の森は、「日本人の命の森」として6千年以上も続いてきた、世界に誇れる日本の森だそうです。
古代の日本では、森という自然の中に「神が宿る」とされ、「木の魂」として崇められてきました。種類の多い重層的な森の木々は、芽吹きから年とともに成長し、やがて天にも届くような大きな「神霊」であると考えられてきたのです」

キリスト教では、人間が自然を支配するという考え方がありました。そして、西欧社会の近代合理主義も「自然は人間のためにある」「人間は自然を改変して当たり前」という近代的自然観を生み出し、その結果、西欧から森はどんどん消えていきました。著者は、次のように述べています。

「ところが、日本においては、いまだに鎮守の森が残っています。それは、主に全国に8万社以上が鎮座する神社の『社叢』とも呼ばれています。『社叢』とは、土地の神様を祀る神社の社である『お宮』と、『鎮守の森』の両方で成り立つ概念です。とりわけ鎮守の森は、古代から人々の寄り合いの『会所』となり、共同体で物事を決める『盟約の場』となり、さらには、神様を楽しませ、慰めるための神楽などを行う『芸能の場』ともなってきました。すなわち、自然の神々と人々が『交流し、共存できる場』が、鎮守の森だったのです」

いま、鎮守の森がなぜ見直されているのか。著者によれば、それは鎮守の森が人間にとって精神の「蘇り」を起こす場所としての多層的な樹木の集まりだからだそうです。著者は、「生物多様性」という考え方を紹介して以下のように述べます。

「重要なのは、いまは科学的に証明されている『生物多様性』の効用を、古くからの日本人は発見し、それをいまも継続させてきたという点です。
ちなみに、鎮守の森は、日本の天台宗や真言宗、曹洞宗系などの寺院にもありますが、タイなどの仏教国の寺院の周囲には『森林』というものはありません。同じく、キリスト教の教会やイスラム教のモスクを見てもわかるように、『森林』はありません。つまり、『鎮守の森』は海外のキリスト教・イスラム教・仏教という『世界の大宗教』といわれる宗教施設にはまったく存在しないのです」

これは、わたしも気づきませんでした。完全に盲点でした。

世界の宗教施設には森が存在しないという事実から推測できることは何か。それは、日本の「鎮守の森」が、日本人と共に育んできた日本の神道が中心になって取り入れたものだということです。日本のほとんどの古い神社の境内には、いまも「ご神木」と呼ばれる樹齢数百年から数千年の樹木が根を生やしています。著者は「日本の神道は、日本人が大切にしてきた『自然と心の間』の世界に、緑の木々を植え続けてきたといえるでしょう」と述べています。

第五章「神と祭とまつりごと」には、「日本人はなぜ世界一勤勉なのか」について次のように述べられています。

「天皇陛下におかれても、毎年5月下旬から6月の時期になると、自ら『お田植え』を行われるのが習わしです。さらに今上天皇になってからは、新稲の種まきまでご自身で行われています。
これは、相手から略奪をしたり、搾取をしたりするのではなく、稲穂の国では自ら収穫物を作るという『自立自尊』の精神をあらわしています。
日本の神社では、毎年秋になると、伊勢神宮を皮切りに、神嘗祭(10月15日~)という祭を行い、収穫物に対する感謝の祭を行います。春を迎える2月17日には祈年祭を行い、五穀豊穣を祈ってきました」

本書には「まつりごと」の4つの機能が紹介されており、参考になりました。それは、「祭」、「祀」、「奉」、「政」の4つです。

1つめの「祭」は、共同体の人々の意思である「心の絆」を結び合わせ、力とエネルギーを中心(御祭神)に集める機能です。
2つめの「祀」は、神社の八百万の神々や先祖の霊を「祀る」ときの表現です。つまりは、日本の神霊を大切に扱うということです。
3つめの「奉」は「奉る」といいますが、「まつる」とも呼ばれます。誠意と真心を常に抱く人々の「奉仕」の精神を指します。
4つめの「政」は、「政治」、「政事」の「政」です。本来の「政」とは、人々のことだけではなく、自然の森羅万象を含めた政治をも司る機能です。

さらに著者は、「祭」について、次のように述べています。

「『祭』とは、その人や組織の求心力を高める『リーダーシップ』と『チームワーク』です。とりわけ組織では誰を『中心』に据えるかが重要です。メンバーそれぞれが役割分担を行い、その組織社会がまとまるための準備や調整が重要です。
『祀』とは、その個人や社会が掲げる社会的『目的』、あるいは『目標』です。普遍的な目的や目標がなければ、その組織の存在意義が問われます。
『奉』とは、人や組織の公に対する純粋な『使命感』です」

最後は「政」ですが、著者は次のように述べます。

「日本の神道の考えでは、政治の『政』は『まつりごと』といいますが、その役割の1つは『治らす』です。『治らす』とは、『統合する』と、『神の恵みを感じ取る』という2つの意味があると、私自身は考えています。すなわち、『祭』と同じで、国民がバラバラになっては、政治も機能しません。とりわけ日本の為政者は『神々の意思』、つまり国家の自然や歴史、伝統に基づく自らの『使命感』を感じ取ることが大切です」

このような「祭」の思想をふまえて、著者は次のように述べます。

「日本人だけでなく、全世界の人々が『自助自立』の上に、『互恵・互助・互譲』によって『共存共栄』を図る。こうすることが、日本を良くすることに繋がります。そして、これこそが、世界に誇れる優れた神道的な『政治観』なのです」

第六章「日本の神道の『間』がもたらす効用」では、言葉を交さなくても相手に自分の真心を上手く伝える方法が述べられます。まるでテレパシーのような話ですが、これこそ「おもてなし」の心にも通じる方法だと言えます。現代のようにケータイ、メール、SNSなどがなくても、昔の日本人は相手にメッセージを伝える手段と方法を普段から考え抜いていたといいます。その1つは、「結びの心」です。著者は、次のように述べます。

「古代から日本では、男女の恋愛を始め、人と人、心と心を結ぶ『文』は、植物の蔓を相手の家の前で結ぶ、などの行為で表現されていました。自分の心と相手の心が繋がり合い、『言霊』と『言霊』が結ばれるという行為は、じつは自然の植物などが『媒介』となって実現されていたのです」

これが日本の「メディア」の原型であり、神道には、その「結び」の精神があるというのです。著者は具体的な例をあげます。

「例えば、同じ宗教でも、後から入ってきた儒教や仏教と『習合』していったのは、日本固有の神道の持つ『媒介力』によるところが大きいでしょう。さらに、明治維新後の日本に入ったキリスト教とも日本国内で『共存共栄』したのは、神道の『結びの心』、『繫ぐ力』が大きいと思います」

そして、日本的な「おもてなし」の本質が以下のように説明されます。

「日本料理店や客間での『上座』は、『神座』を意味しているからです。
つまり、日本では、『神』が降りてくる方の大事な座席に客を座らせるのが正しい作法なのです。したがって、日本においては、『祭る者』が常に『主人』=『ホスト』になります。一方、『祭られる者』は『客』=『ゲスト』を意味します。
これに対して、欧米型社会であれば、『ホスト』は、自分が『主人』として周辺を見渡せる真ん中の一番良い席に座り、『ゲスト』は、『主人』を取り囲むように座るのが一般的です。このように、神道の神祭では、『祭る』側の者と『祭られる』側の者との位置づけが、西欧とは正反対なのです」

「おもてなし」と「ホスピタリティ」は基本的に異なるわけです。神道におけるコミュニケーションについて、著者は次のようにまとめています。

「世界に共通する『神道流コミュニケーション』とは、自らの精神性をしっかり保つことで、積極的に相手の『魂の世界』に入り、『思いやり』や『おもてなし』を行うことです。たしかに会話する手段として『英語』は大切ですが、それ以上に大事なのは、『日本人としての心と魂』というわけです」

第八章「日本人よ、今こそ素晴らしき神道精神を取り戻そう」では、「絆」よりも「結び」の方が大事であるという重要な指摘がなされます。新しい時代の「神ながら」の道について、著者は次のように述べます。

「人と人との『絆』を繫いでいくことは重要なことですが、『絆』より大事なのが、『結び』です。『絆』だけでは、いつしか切れてしまうからですが、神道には、それを永遠に繫ぐ『結び』(むすひ)の精神があります。
『結び』とは、自分の仲間、同僚、男女のみならず、動植物を含めた自然の生物、そしてライバル(敵)ですら融合し、新たなものを生み出す、という神々の優れたはたらきを指します。そしてあたかも『素粒子』のように、自然と人との『間』に入り、人間社会を取り結んで、守り、継続させてゆきます。
この日本的な精神性は、日本の原初にあった『調和』であり、『和の精神』です」

「絆」よりも「結び」の方が大事という指摘には、感銘を受けました。たしかに、その通りです。また、わたしは孔子の説いた「礼」というものを尊重していますが、「礼」の中心には「和」があります。それを見抜いた人こそ聖徳太子でした。「結び」も「和」も、神道の核となる思想であると言えるでしょう。本書を読んで、「日本人のアイデンティティは神道にあり!」ということを再確認しました。そして、日本人としての自信と誇り、そして勇気が湧いてきました。

Archives