No.0841 宗教・精神世界 『アップデートする仏教』 藤田一照・山下良道著(幻冬舎新書)

2013.12.18

『アップデートする仏教』藤田一照・山下良道著(幻冬舎新書)を読みました。ともにカリスマ僧侶とされている二人による対談本です。
藤田氏は、1954年愛媛県生まれ。曹洞宗国際センター2代所長。東京大学大学院教育心理学専攻博士課程を中途退学し、曹洞宗僧侶となりました。87年よりアメリカのヴァレー禅堂で禅の指導を行っています。山下氏は、1956年東京都生まれ。スダンマチャーラ比丘。鎌倉一法庵住職。東京外国語大学仏語科卒業後、曹洞宗僧侶となりました。88年、アメリカのヴァレー禅堂で布教、のち京都曹洞禅センター、渓声禅堂にて坐禅指導を行う。2001年ミャンマーにて比丘となり、日本人として初めてパオ瞑想メソッドを終了。

本書の帯には「心と体に即効性がある。それが仏教だ!」「仏教3.0へ。」とあります。また、帯の裏には「激変する世界の仏教最前線のすべて!!」として、以下のような記述が並んでいます。

●日本の仏教では修行すると怒られる!
●「心の調子」が悪いのを治すのが仏教。
●仏教は本当に幸せになれる教義と実践方法を完備している。
●アメリカで坐禅を教えることから逆に学ぶ。
●ヒッピーとカウンターカルチャーと禅の関係。
●マインドフルネスを日本仏教に再導入する!
●テーラワーダの瞑想とは何か。
●ニルヴァーナの状態に入る。
●「気づき」で「怒り」は本当に消しさることができるのか。

さらに、カバーの裏には以下のような内容紹介があります。

「欧米の仏教が急激に進歩しているのに、なぜ日本の仏教だけが旧態依然としているのか。ともに日本の禅宗(曹洞宗)からスタートして、アメリカで仏教を教えた二人。その後、藤田はアメリカに留まり、山下は東南アジアやチベットで仏教を学んだ。三十年にわたり修行を実践し深めてきた二人のカリスマ僧侶が、日本の仏教を根底から更新する。『形骸化した仏教』(仏教1.0)と『方法・テクニックとしての仏教』(仏教2.0)の現在から、ラジカルな『本来の仏教』(仏教3.0)へ―」

本書の目次構成は、以下のようになっています。

「はじめに」   藤田一照
第一章:僕たちはなぜ安泰寺で出会ったか?
第二章:「アメリカ仏教」からの衝撃
第三章:マインドフルネスという切り口
第四章:「瞑想メソッド」を超える
第五章:アップデートする仏教
第六章:「仏教3.0」へ向けて
「あとがき」   山下良道
付録
参考文献

「はじめに」の冒頭で、藤田氏は次のように述べています。

「わたしと山下良道さんはこの対談の中で、自分たちの周りにある日本の伝統的仏教、2人がアメリカやビルマ(ミャンマー)で体験した海外の仏教、そして自分たちがいま現在開拓しつつある仏教、という『バージョン』の違う3つの仏教のことを『仏教1.0』『仏教2.0』『仏教3.0』という聞きなれない新造語を持ち出して縦横に語っている。そういう大胆なくくり方をしてみると今自分たちがやっていることの意味や日本の内外での仏教の風景が面白いくらいくっきり浮かび上がってくるのだ」

それぞれのバージョンの仏教とは、どのような内容を持っているのでしょうか。藤田氏は、次のようにわかりやすく説明しています。

「『仏教1.0』は現在いろいろと批判にさらされている日本の仏教を指す。その特徴は形骸化、つまり外見だけを残して実質的な意味を失っているかに見えるところにある。『仏教2.0』はここ十数年の間に日本に定着してきた外来の仏教(われわれは主にテーラワーダ仏教を念頭に置いている)を指す。その特徴はメソッド化、つまり仏教を問題解決の方法として提示しているところにある。『仏教1.0』が心の苦しみを解決する具体的で有効なやり方をほとんど説かないのに対し、『仏教2.0』は『心を観察する』という仏教独特の方法をきちんと説いて、それによって人生万般の問題を解決できると公言するからその語り口には大きな違いがある」

「アップデート」というのは、情報機器においてソフトウェアやWebサイトの情報を最新の状態に保つこと。スマホではOSやアプリのアップデートがありますね。アップデートによって新しい機能が追加されたり、不具合が解消されたりするわけですが、わたしが愛用しているiPadもiPhoneも常にアップデートを繰り返しています。それがあまりにも多過ぎるので、「おい、おい、アップルさん、ちょっと落ち着きなさいよ」と言いたくなりますね。そして、企業にも初期設定とともにアップデートが求められます。わが社の初期設定が「創業守礼」ならば、アップデートは「天下布礼」でしょう。 さらに言えば、わが社の初期設定が皇産霊神社や天道館ならば、アップデートは隣人館であり、「禮鐘の儀」であり、さらには「月への送魂」であると言えます。

本書でいう「仏教3.0」ですが、じつは現在の仏教にとってのアップデートであり、同時に初期設定でもあります。藤田氏は次のように述べています。

「『仏教3.0』の本質的な部分はわれわれが新しく言い出したことではなく、実はブッダや道元がもともと説いていたことに他ならない。それが『仏教1.0』や『仏教2.0』に頽落している現実があるからあえて『仏教3.0』としてアップデートした形でよみがえらせなければならないのである。『これまでの仏教』から「これからの仏教」へのアップデート、それがわれわれ二人が細々ながら、これからベストを尽くしてやろうとしていることである。この本はそんな二人の『仏教3.0』マニフェスト(宣言)第1号なのだ」

さて、本書を読んで興味深かったのは、山下良道氏が修行したミャンマー仏教についての記述でした。ミャンマー仏教の強みは「瞑想」と言われていますが、第三章「マインドフルネスという切り口」で、山下氏は以下のように述べます。

「ビルマにはマインドフルネスを深めるさまざまな瞑想技法があることがわかったので、そこまで行ったわけです。もともとわたしにとってお釈迦さまがなんといっても最重要だったのです。一照さんもたぶん感じてきたと思うけど、曹洞宗という教団に入るとどうなるかというと、やっぱり曹洞宗の教えというものが最初に出てきますね。まあ当然だけれど。ただわたしはそれでは少し順番が違うのではないかと感じたのです。わたしはまずはお釈迦さまと繫がりたかった。お釈迦さまと繫がりたいから、道元禅師に繫がったわけです。 なぜかというと、道元禅師はお釈迦さまと繫がってる人だから」

しかし、このような山下氏の態度は日本では受け入れられませんでした。日本の仏教にはさまざまな宗派があり、それぞれの宗祖がいて、その権威は絶対的です。山下氏の話を受けて、藤田氏は「たぶん曹洞宗に限らないと思うけど、日本の宗派というのは主流になっているのは鎌倉仏教が起源のものがほとんどで、親鸞さんとか日蓮さんといった方々が宗祖になっているので『宗祖無謬説』で、宗祖は間違いないということになる。それを受け入れるところからすべてが始まっているんですよね。だからお釈迦さまとどのぐらい違うこと言ってるかって、そういうのはまず問題にされないんですよ」と言います。

さらに山下氏は、以下のように語っています。

「わたしが犯したタブーというのは2つあって、1つは曹洞宗の枠の外へ出てお釈迦様と直接繫がろうとしたこと。2番目は自分の症状を実際にチェックしたこと。この2つなんだけれども、でももう覚悟を持ってはっきり申し上げます。この2つだけが曹洞宗をはじめとする日本のすべての仏教教団をこれから救うことになるはずです。なぜかというと、日本のすべての仏教教団はお釈迦様にもう一度直接繫がる必要がどうしてもある。そしてお釈迦様から処方していただいた薬を、実際に飲んで自分の症状をチェックする。そのとき本当の意味での只管打坐や絶対他力の意味がわかってきます。このことに関してはもうなんの疑いもないですね。わたし自身がそうでしたから」

 「仏教文化交流シンポジウム」のようす

これを読んで、わたしは「仏教文化交流シンポジウム」というパネル・ディスカッションにおいて、「日本仏教は制度疲労を起こしているのではないか」とパネリストとして発言したことを思い出しました。

それは、以下のような内容です。日本人の「こころ」は仏教、儒教、そして神道の三本柱から成り立っていますが、日本における仏教の教えは本来の仏教のそれとは少し違っています。インドで生まれ、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わってきた仏教は、聖徳太子を開祖とする「日本仏教」という1つの宗教と見るべきだと、わたしは考えています。聖徳太子にはじまって最澄、空海、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮・・・といった偉大な僧が日本に出現していきました。

2010年1月に、日本人の「こころ」に暗雲を漂わす2つの言葉が生れました。「無縁社会」と「葬式は、要らない」です。前者はNHKスペシャルのタイトルで、後者は幻冬舎新書の書名ですが、わたしは両者は同じ意味だと思います。このような言葉が生れてきた背景には、日本仏教の制度疲労があると思います。何の制度かというと、いろいろあるのですが、最も大きなものは檀家制度でしょう。身寄りのない高齢者、親類縁者のない血縁なき人々が急増して、それこそ檀家という制度が意味を成さなくなってきています。檀家制度とは、もともと戸籍を管理するという非常に政治的な発想で生れてきました。もちろん、今でも多くのお寺には多くの檀家さんがおられ、仏教を通じての縁を結んでおられるわけですが、そういった幸せな方々とは無縁の孤独な方々も増えているという事実を見逃してはなりません。

そこで、登場するのがこれまで日本人には馴染みの薄い上座部仏教です。わたしは思うのですが、最澄、空海、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった方々はブッダのエージェントというか、代理人のような存在でした。ならば、代理人によらないブッダという情報発信源にダイレクトにつながる仏教もあるはず。それが、上座部仏教ではないかと思います。無縁社会を生きる身寄りのない方々は、ぜひ、ブッダと直接つながるべきでしょう。
くれぐれも誤解しないでほしいのは、わたしは日本仏教、大乗仏教を否定しているわけではありません。檀家としてお寺と縁を結んでおられる方々は、そのまま続けられるとよいでしょう。でも、檀家になれない方々には、上座部仏教と縁を結ぶという選択肢もあるのではないでしょうか。

わたしは、日本で唯一のミャンマー式寺院である世界平和パゴダの支援をさせていただいています。その関係で、上座部仏教の教義やミャンマー式瞑想についても学んでいるところですが、本書の第四章「『瞑想メソッド』を超える」の中の「慈悲の瞑想との出合い」のくだりが特に印象に残りました。ここで、山下氏は以下のように述べています。

「『わたしが幸せでありますように』は、単なるエゴの自己中心的な願望ではないか、と誤解しそうになるけれど、なんかとんでもない真理がここにはあると感じました。それから何年もたってようやくわかってきたのが、『わたしが幸せでありますように』というのは、これはエゴに対する死刑宣告なんだということです。なぜかといえば、エゴが幸せを望むことはあり得ないから、それを望むことで、エゴを存在できなくさせるわけです。こうして慈悲の瞑想では、最初のところでエゴを根こそぎにしてしまうのですね」

ここには、仏教という思想の根本の部分が語られているような気がしました。その山下氏は「仏教1.0」について、次のように語っています。

「やっぱり一番大きな違いは、アメリカやビルマで出会った人たちは自分自身の心の問題を仏教を通して真剣に解決しようとしていたということでしょうね。これが『仏教2.0』の特徴の1つ。そこから見ると仏教国のはずの日本では、仏教という薬が自分の人生の問題を解決するリアルな力を持っているということが実は信じられていない。信じられていないから本気で実践されてもいない。そこでは仏教が単なる社会風俗の一部になっている。名だけがあって実がないというか、形だけのものになっている。これが『仏教1.0』と言ったらいいのでは」

さらに山下氏は、「仏教1.0」について詳しく語ります。

「『仏教1.0』の状況を喩えて言うと、病で苦しむ人が山ほどいて、『病院』という看板のかかった場所もたくさんあって、そこには医者や看護師もいる。だけど、病人のほうは医学が自分の病気を治してくれるとは思っていないし、医者や看護師もそれを信じてはいない。でも病人は病院に出入りしている。そこで何をしているかといえば、庭で紫陽花の花を見たり、食堂でヴェジタリアンの食事をしたり、病室で宿泊したりしている。でも、医療行為だけは行われていない。こういう不思議な状況が日本の仏教の現状なんじゃないですかね。医療行為が行われていない病院がいっぱいあるって不思議じゃないですか。それを不思議と思わないのが、さらに輪をかけてとても不思議なんですよ、わたしには」

この「たとえ」は非常にわかりやすいですし、説得力がありますね。「仏教2.0」についてですが、こちらは藤田氏が第五章「アップデートする仏教」において、専門用語を使いながら次のように述べています。

「マインドフルネスについても、過剰なまでにメソッド化されるから『言われた通りにちゃんとやるぞー!』ってだけでやってるから、僕らからすればマインドフルネスになっていない人が多いように見える。マニュアル通りにサティを入れられた・入れられないということにどうしてもこだわって、『どうしたらできますか』『わたしはどうしてサティができないんでしょう?』という質問がしょっちゅう出てくるわけよ。『仏教2.0』的というのはここだね」

ちなみに、「マインドフルネス」とはパーリ語の「サティ」という語の英訳であり、もともとは「こころにとどめておく、覚えておく、思い出す」という意味でした。
しかし、近年の認知/行動療法において、マインドフルネスの定義は「ある特定の方法で自分の体験に対して注意を向けること」というものが一般的です。

第六章「『仏教3.0』へ向けて」では、山下氏がもう一度、「仏教1.0」について触れます。山下氏は、次のように述べています。

「実は『仏教1.0』でも『無為法としての自分』のことは『本来成仏』とか「煩悩即菩提」「即身成仏」とかあらゆる言葉で語っているんですよ。『仏教1.0』もその源は大乗仏教なんだから。でも、いろいろな事情で、無為法として自分に目覚めるということが具体的にどういうことなのかという道理があいまいになり、それをめぐる実践的プロセスも失われてしまったのでしょう。だから、掛け声だけになってしまって、内実がどんどん空疎になってしまって形骸だけが残った。これが『仏教1.0』だったのではないかな」

最後に「あとがき」で、山下氏が「仏教3.0」について述べています。

「現在の状況を一言で言えば、対談の中でも触れたように『いろいろ活動しているように見えても、肝心の医療行為だけは行われていない病院』になってしまっている。これはあまりにも、もったいなさすぎる。どうしてこうなってしまったのか、これを根本的に変える道筋はないのか。実はわれわれ自身がそういった状況の中で、もがき苦しんできた当事者でもありました。そうしていま、ようやく、改革の道筋が見えてきたのです。それが勿論『仏教3.0』」

本書を読んだ感想を一言でいえば、「仏教3.0」は制度疲労を迎えた日本仏教を再生させることであり、それがそのまま「アップデート」ということになります。でも、仏教に必要なものは「アップデート」とともに「初期設定」でもあります。わたしが『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)にも書いたように、仏教の「初期設定」とは開祖であるブッダの考え方にほかなりません。そのブッダの考え方に最も近い上座部仏教(テーラワーダ仏教)、すなわち「仏教2.0」の存在も無視することはできません。ヘーゲルの弁証法にならえば、「仏教1.0」としての現存の日本仏教とともに「仏教2.0」の上座部仏教も取り入れれば、正・反・合で「仏教3.0」が誕生するのかもしれません。それが日本人の精神生活のベースとなれば、葬儀や墓の問題も新たな展開を見せ、無縁社会をも乗り越える道筋が見えてくるような気がします。

 「儀式文化創造シンポジウム」のようす

そして、わたしは「仏教3.0」だけでなく「冠婚葬祭3.0」についても考えるべき時期が来ていると思います。制度疲労を迎えているのは、けっして日本仏教だけではないのです。かつて開催された「儀式文化創造シンポジウム」で、わたしはパネリストとして儀式のイノベーションの必要性を訴えました。いま、七五三も成人式も結婚式も、そして葬儀も大きな曲がり角に来ています。現状の冠婚葬祭が日本人のニーズに合っていない部分もあり、またニーズに合わせすぎて初期設定から大きく逸脱し、「縁」や「絆」を強化し、不安定な「こころ」を安定させる儀式としての機能を果たしていない部分もあります。

禮鐘の儀」は、アップデートする冠婚葬祭?

いま、儀式文化の初期設定に戻りつつ、アップデートの実現が求められているのではないでしょうか。そう、「冠婚葬祭3.0」の誕生が待たれているのです。
たとえば、わが社が提案する「禮鐘の儀」などもその1つだと思います。
そのうちに、わたしが『アップデートする冠婚葬祭』という本を書くことになるかもしれません。いや、ぜひ書いてみたいですね。

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