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No.0836 論語・儒教 『孔子 我、戦えば則ち克つ』 高木智見著(山川出版社)
2013.12.12
『孔子 我、戦えば則ち克つ』高木智見著(山川出版社)を読みました。
著者は1955年生まれの山口大学人文学部教授です。専攻は中国先秦文化史だそうで、著書に『先秦の社会と思想』(創文社)があります。
本書は表紙とサブタイトルに惹かれて購入しました。まず、目玉をぎょろっと剥いて恐ろしい表情の孔子の絵が表紙を飾っています。これは、明代、曲阜・衍聖公府蔵「孔子像」の写真だそうです。恐ろしい表情は、おそらく軍略家としての孔子を描いているのでしょう。また、「我、戦えば則ち克つ」という副題がわたしのハートにヒットしました。なぜなら、わたしは『論語』こそは最強の兵法書であると信じているからです。
本書は、山川出版社の「世界史リブレット人」の1冊です。同社の人気シリーズである「世界史リブレット」の伝記ヴァージョンで、第一期刊行は5冊でした。本書の他には、アレクサンドロス大王、カール大帝、バーブル、ビスマルクが取り上げられています。世界史の教科書で有名な山川出版社の刊行物だけあって、まずは孔子の生涯と思想の概略を示し、ついで「仁」の由来についての著者の考え方が示されています。
本書の目次構成は以下のようになっています。
「孔子とその史料状況」
「生涯と理想」
「春秋という時代」
「戦士としての孔子」
「軍礼とその存在基盤」
「仁の誕生」
「生涯と理想」では、孔子の生涯がわかりやすく説明されます。最後まで理想の仕官が叶わず、不遇ともいえる人生を送り、さらには自身の不運を嘆き続けた孔子ですが、著者は次のように述べています。
「自らにたいする不満や絶望を吐露し続けたことは、彼が死の瞬間にいたるまで理想を追い求め続けたことの証でもある。『道をめざして進み、途中で力が足りぬときは休めばよい。老いを忘れ、余命が充分でないことにも気がつかず、ひたすら毎日努め励んで怠らず、死の瞬間まで止めない』(『礼記』表記)と孔子が述べたのは、それが君子のあるべき姿であり、自分自身の生き方でもあった。つまるところ、挫折した徹頭徹尾の理想主義者、これが、孔子の生涯をあらわすもっとも適切な言葉であろう」
本書の白眉は、なんといっても「軍礼」についての記述です。「軍礼とその存在基盤」において、著者は次のように述べています。
「宋の戦士にとりわけ濃厚に観察できる軍礼は、仁の精神の実践として理解することが可能である。すなわち負傷兵、幼兵、老兵、逃走兵、降伏兵には危害を加えない。隊列が整わぬ敵、窮地にある敵、戦意を喪失した敵は、やはり攻撃対象としない。これらは要するに、敵の立場に立って、敵が望まぬ攻撃を控えているのであって、まさに、『己の欲せざるところは、人に施すことなかれ』という『恕』の実践にほかならない」
続いて、著者は以下のようにも述べています。
「一方、敵の窮状を救う、敵に戦闘態勢を整える機会を与える、敵に食糧を贈って慰労する、敵を鼓舞する、自軍の窮状を伝える、ときには自らを攻撃する機会すらも与える。これらもまた、敵の立場に立って、敵が望む臨戦ならびに攻撃態勢の確立を、己のそれより優先させているのであり、まさに『己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達する』という『忠』を践みおこなっている」
すなわち軍礼の本質とは、忠・恕、すなわち「仁」の実践にほかなりません。
当時の軍礼の具体的な内容については、『司馬法』という兵書が紹介されています。これは『軍礼司馬法』とも称され、内容は、湯王や武王がおこなった仁儀・礼譲を根本とする戦争の「遺事」であるとされます。その冒頭の「仁本」篇には、以下のように書かれています。
「古は仁を以て本と為し、義を以てこれをおさめた・・・・・・それゆえ、人を殺してもそれ以外の人を安んずることができれば、これを殺してもよい。
その国を攻めても、その民を愛するならば、攻めてもよい。戦によって戦を止めるのであれば、戦ってもよい・・・・・・原則として、農時に戦を興さず、疾病流行時に兵を動員しないのは、吾が民を愛するためである。
喪中の国を攻めず、飢餓に乗じて攻撃しないのは、敵国の民を愛するがゆえである・・・・・・敵国の地に入っても、神祗(天地山川の神々およびその施設)に狼藉を働かない。田猟をおこなわない。土木施設を破壊しない。民家を焼かない。材木を伐らない。家畜・穀物・物資を掠奪しない。老幼を見れば、保護して家に帰し傷つけてはならない。壮年の者でも抵抗しなければ敵視はしない。敵兵が傷ついていれば、手当をしてから返す」
これを読むと、軍礼とはまさに仁の実践であったことが確認できます。
「仁」の実践としての軍礼を行う者、すなわち兵士にはどのような人材が選ばれたのでしょうか。著者は、次のように説明しています。
「人材選抜は、郷射礼、大射礼、燕射礼、賓射礼など、階層に応じて定められた射礼によっておこなわれた。射礼では、的に適中させる能力を『賢』なる語であらわしたが、それは、射礼の目的が、勇猛にして武芸に秀でた人物を選ぶことにあったことを意味する。社会的地位の上昇のためには、射術の修得が不可欠であった。それゆえ、六芸、すなわち子弟教育の6項目(礼・楽・射・御・書・数)のうち、とりわけ訓練の必要な礼・楽と射・御とが重視され、さらにそれらのなかで、とくに射術が重んじられたのである」
射術が重んじられたというのは、よく理解できます。弓とは「いのち」そのものであり、矢とは「たましい」だからです。中国で生まれた「礼」は、日本においては小笠原流礼法として開花しましたが、もともと小笠原流とは「弓の道」であり、それが「礼の道」へと発展していったのです。
「仁の誕生」では、当時の観念的基盤について興味深く述べられています。春秋戦国交代期以降、「君」への忠誠心が薄まり、軍礼そのものも消滅していきます。そこには、祖先観念の形骸化という社会背景がありました。著者は、次のように述べています。
「当時の祖先祭祀集団の世系を記した書物『世本』によれば、春秋時代の諸侯大夫の始祖は、ひとしく夏以前にまで遡り、それらの始祖に始まる祖先祭祀集団が春秋時代まで存続している、と観念されていた。司馬遷が『史記』太史公自序で、『春秋』には弑君事件が36、滅国が52記録され、諸侯の君主が逃亡して社稷を保つことができなくなった事例は、枚挙にたえない、と表現した春秋時代の状況は、まさに数多くの祖先祭祀集団の消滅を物語っているのである。こうした現象の因とも果ともなって、祖先観念は、もはや社会秩序の基盤としての機能をはたせなくなる」
そして、著者は次のように「仁」の出現について述べます。
「結局、孔子が唱えた仁とは、祖先祭祀集団から析出された個としての人間が、自分自身の力によって克己・修身してこそ、自らのものとすることができたのであった。仁の実現・保持のためには、克己こそが不可欠なのである」
ここで「克己」というものが重要な価値を帯びてきます。
「我、戦えば則ち克つ」という孔子の言葉は、本来、戦う相手である敵に克つことを意味しました。しかし、それはとりもなおさず、自分自身との戦いに克つことをも意味していたのです。そのように考える著者は、次のように述べます。
「血族的な共同体が崩壊し、祖先祭祀集団から析出された人々が自分自身を生きるようになったとき、孔子は、射術の錬磨の過程で己に克つ力を獲得し、それにもとづく仁愛によって人は結ばれるべきである、と主張したのであった。繰り返せば、祖先と人とが構成する共同体から、人と人とが構成する共同体へと移行するとき、人は他者にたいして仁愛をもって接するべきであり、そのためには克己が必要である、と唱えたのである。
戦士としての孔子は、克己する力を、射術を錬磨する過程で身につけた」
最後に書かれた次の一文を読んで、わたしは深く感銘しました。
「克己する力とは、時代や社会が自らに与えた課題を、ほかならぬ自分自身の力で解決・遂行していく努力精進の過程において、自覚的かつ能動的に獲得すべき心の力なのである。つまるところ、人を人として扱い、愛し思いやるため、『我は、我にこそ克つべし』、と孔子は訴え、歴代の儒家思想もまた、一貫して克己の必要性を唱え続けているのである」
「仁とは、克己によって、人を愛し思いやる心のあり方」と、著者は力説します。子曰く、我、戦えば則ち克つ。孔子は敵とだけでなく、己自身とも戦っていたのです。そう考えると、たとえ思い通りにならない人生であろうと、生きることに対する勇気が湧いてきます。
この孔子の思想は、武田信の「敵の悪口はいうな」という名言にも明らかに通じます。また、信玄のライバルであった上杉謙信も「非道を知らず存ぜず」という言葉を残しています。わたしは、この両雄の名言を織り込んで「非道など知らず存ぜず 敵であれ悪口いうな 己を正せ」という道歌を詠みました。戦って克つべき真の相手とは敵などではなく己自身なのです。おそらく信玄・謙信の両雄は「軍礼」というものを意識していたのではないでしょうか。
本書で紹介されている軍礼も、単なる歴史上の遺物としてではなく、現代のビジネス社会が学ぶべき点をふんだんに含んでいます。本書は100ページにも満たない小冊子ですが、内容は非常に豊かで示唆に富んでいました。