No.0867 国家・政治 『自立国家への道』 渡部昇一著(致知出版社)

2014.01.28

 『自立国家への道』渡部昇一著(致知出版社)を読みました。
 「強い日本を造るためになすべきこと」というサブタイトルがついています。帯には、著者の顔写真とともに「日本を間違った方向へ導いてはならない 安倍首相、今こそガッツを!」と書かれています。

 また、カバーの前そでには「期待されるのは、政府のガッツです。特に安倍首相のガッツに期待したい。私の見るところでは安倍首相は、敗戦後ではお爺さんの岸信介首相以来のガッツのある政治家だと思います」というプロローグの一部が掲載されています。「ガッツ」という、今ではあまり聞かなくなった言葉が、どうやら本書のキーワードのようです。ガッツ石松の「ガッツ」です。

 本書は、平成24年10月25日から平成25年11月22日にわたって、致知出版社が運営する「昇一塾」のニュースレターとして配信されたものに加筆・修正をし、さらに新たな原稿を加えて再構成したものだとか。 百田尚樹氏との対談本『ゼロ戦と日本刀』を読み、日本の未来を拓くための著者の具体的な提言に興味が湧き、本書を読んだ次第です。

プロローグ「いま、ガッツのあるリーダーが求められている」
第一章 政治リーダーの資格と使命
第二章 原子力発電の再稼動を急げ
第三章 やっかいな隣国とのつきあい方
第四章 反日の底流
第五章 社会再生への道筋
エピローグ「小泉元首相の脱原発論に直言する」

 本書を読んで、ここまでストレートに自分の考えを述べることができる著者の豪胆さに感服しました。しかも、原発再稼動、領土問題、改憲、靖国問題、自衛隊の軍隊化といった、左寄りの連中が見たらヒステリーを起こしそうなテーマばかりです。「豪胆さ」というより、日本を良くしたいと真剣に考えているがゆえの「真摯さ」と呼ぶべきかもしれません。『論語』の為政篇には「七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」という言葉が出てきます。

 「70歳になってからは、自分のやりたいことをやっても、道から外れないようになった」という意味ですが、今年で83歳になられる著者は、さらに悠然たる境地に立たれているようです。まさに、本書には「もはや何も怖れるものはない」著者にしか言えない発言が満載です。NHKの新会長が発言すれば大騒ぎになるようなことでも、渡部氏ならバンバン語ります!

 プロローグ「いま、ガッツのあるリーダーが求められている」では、それこそ『論語』の考え方、つまり孔子の思想に基づいて、次のように述べています。

 「昔から人間にとって、知・仁・勇の3つが大切だといわれています。『知』を司るのは頭脳です。『仁』は思いやりの心であり、それは心臓です。『勇』は肚が据わっていること、胆が太いことであり、腹部のことです」

 この「知」「仁」「勇」の3つを踏まえて、以下のようなリーダー論が展開されます。

 「知の足りないトップを助ける参謀役は見つけることができます。情の足りないトップを補佐する人はいくらでもいるでしょう。しかし、肚の据わらないトップ、ガッツのないトップはどうしようもないのです。
 思えば、戦後約70年の教育は、知能の啓発と、情け深い心の養成には十分力を尽くしてきたと思われますが、ガッツを鍛えるということは教育の主流からはずされてきたように思います」
 ここで、著者は江戸時代におけるリーダー論にまで言及します。

 「旧幕時代の日本の指導者層の教育は、武士としての教育でした。この教育において知も情も重んじられてはいましたが、その主眼は何といっても肚を鍛えること、つまりガッツのある人間をつくることでした。ガッツが男を評価する基準でした。臆病と言われては、学問ができようと、情け深い人間であろうと、武士としては認められませんでした。武士は文字通り『腹を切る』覚悟のある人でした。
 明治維新はこういう人たちを中心に成し遂げられました。日清日露の戦役のリーダーは武士として育った人たちでした。この人たちのやったことに通底するのは『肚が据わっている』ことでした」

 第一章「政治リーダーの資格と使命」では、「日本とアジアの未来を左右する首相外交への期待」で安倍首相のミャンマー訪問に込められた大きな意味が述べられます。まず、ミャンマーの国際的な位置づけが次のように説明されます。

 「日中戦争の頃、アメリカとイギリスは蒋介石を軍事援助しましたが、その援蒋ルートが通っていたのがこのミャンマーでした。その頃からミャンマーは中国とインド洋を繋ぐ重要な位置にあったのです。アメリカはミャンマーが軍事政権だというレッテルゆえに判断を誤り、日本のミャンマー援助を喜ばす愚かにも中国のミャンマー進出を許し、ミャンマーにおける重大な経済的地位を中国に与えてしまったわけです」

 2013年5月にミャンマーを訪問した安倍首相は、ティン・セン大統領に対して910億円のODA(政府開発援助)を約束。併せて2000億円の対日債務を放棄し火力発電などインフラ整備を支援することを表明しました。この行為を「日本にとってのチャンス」ととらえる著者は、以下のように述べます。

 「ミャンマーの地下に眠る膨大な地下資源の活用という点においても、ミャンマーの開発に貢献することは結果的に日本にも大きなプラスになるはずです。
 両国首脳による共同声明では、南シナ海の安全確保を視野に入れた『法の支配の強化』が盛り込まれました。ミャンマーは2014年に、ASEAN(東南アジア諸国連合)の議長国になることが決まっています。そうなれば自由圏の連携が一層強化され、中国もやすやすと進出できなくなるのは明らかです」

 本書で最も感銘を受けたのは、第三章「やっかいな隣国とのつきあい方」の「他国の宗教に干渉するのは野蛮国である―靖国神社参拝をめぐって」です。

 「靖国神社問題は日本人の宗教の問題」であると断言する著者は、中国か韓国はもとより、アメリカなどが安倍首相の靖国神社参拝を批判するのは「ウエストファリア条約」に違反していると喝破します。
 高校の世界史で学んで以来、久々にその名を思い出した「ウエストファリア条約」とは何か。著者は、次のように説明しています。

 「17世紀に入って、ヨーロッパはカトリックとプロテスタントの対立に各国の利害が絡み合って戦乱に突入しました。30年戦争です。この終結に当たって1648年に締結されたのがウエストファリア条約です。この条約は、他国の宗教に干渉してはならないことを規定しています。そしてこれ以後、先進国はこの規定を守り、内政に干渉することはあっても宗教には一切干渉しなくなりました。
 そのいい例が、ブッシュ政権時代のアメリカがイラクに介入したイラク戦争です。これは内政干渉もいいところですが、アメリカはスンニ派とシーア派の対立といったイスラム教内部の宗教問題には一切手を出しませんでした。ウエストファリア条約を守ったのです」

 しかしながら、ウエストファリア条約に違反した例が3つありました。
 1つめは、「ヒトラーのユダヤ人弾圧」です。すなわち、ユダヤ教弾圧でした。
 2つめは、戦後日本を占領した「マッカーサーの司令部による神道指令」です。
 そして、3つ目のウエストファリア条約違反は、現在ただいま行われている「中国と韓国の靖国神社参拝に対する執拗なまでの反発、批判」です。

 著者は、靖国神社問題の本質を以下のように述べます。

 「靖国神社問題は純粋に宗教の問題です。先祖、先人の霊を慰め供養するというのは、長い歴史と伝統によって培われた日本人の宗教的感情であり行為です。国のために命を捧げた人々を慰霊する靖国神社参拝は、この日本人の伝統的宗教感情の発露に他なりません。 中国と韓国の剥き出しの対日批判は、日本人のこの宗教行為に手を突っ込み、伝統を破壊しようとしている、ということです。
 こういうのを野蛮と言うのです。中国や韓国が靖国神社参拝に罵りの声を高めれば高めるほど、これらの国の経済的発展にもかかわらず、その内実は相も変わらぬ野蛮な後進国であることを喧伝していることになる、ということです。こういう国は軽蔑する以外にはありません」

 野蛮国は軽蔑すべし! このシンプルな物言いには説得力があります。

 第四章「反日の底流」では、「沖縄に流れる”空気”を払拭せよ」が考えさせられました。著者は、沖縄について次のように述べています。

 「いつも沖縄は本土の犠牲になるばかりで、沖縄だけがひどい目に遭う―私が懸念する沖縄に流れる”空気”とはこのことです。沖縄には自らを本土と分け隔て、常に犠牲を強いられている、といった被害者的な怨念が強く流れています」

 わが社は本土復帰の翌年から沖縄に進出しており、かの地の人々の苦労や悲しみを少しは理解しているつもりですので、「沖縄に流れる”空気”を払拭せよ」という言い方に違和感もあったのですが、次の一文を読んで納得しました。

 「日本が沖縄を見放し、犠牲を押しつけてきたというのは本当でしょうか。戦争末期の特攻隊。前途ある若者たちが命を懸けて敵艦に突っ込んでいったのはほとんどが沖縄戦であり、沖縄を守るためでした。不沈戦艦といわれた『大和』が絶望的な状況を承知で出撃し、沈没したのも沖縄を守るためでした。日本は沖縄を守るために多大の犠牲を払い、全力を尽くしたのです。決して見捨てたりはしていません」

 また、著者は次のように東アジアにおける沖縄の重要性を説きます。

 「地図を見れば明らかですが、沖縄は東アジアの平和にとって重要な位置を占めています。この地政学的な位置は沖縄の持つ宿命だと言えるでしょう。日本が独立した後も沖縄がアメリカの軍政下に置かれたのはそれ故です。当時も完全復帰の名で沖縄を含めた全日本の独立を求める議論はありましたが、それをあくまで主張すれば、東西対立が激化していた当時の世界状況ではアメリカが応じるはずもなく、日本の独立は遅れるばかりでした」

 第四章では、「東京オリンピック決定ではしなくも露呈したもの」も非常に興味深かったです。2020年のオリンピック開催地決定をいち早く報じたのは「朝日新聞」のツイッターでした。しかし、それは「東京最下位落選。開催地はイスタンブールに決定」という誤報でした。その直後に、中国の報道機関である新華社が直ちに呼応し、「東京は惨敗。第1位はイスタンブール」と誤報しました。この経緯を見て、著者は「朝日―中国報道機関の反日キャンペーン・ラインが露呈した」ことを示します。

 しかし、東京オリンピック決定の話題でもっとわたしの興味を引いたのは、「石原慎太郎氏への配慮を欠いた猪瀬都知事」の項でした。著者は述べます。

 「そもそも2020年のオリンピック開催を東京でと発案し、提唱したのは、東京都知事時代の石原慎太郎氏です。石原氏が言い出した当初はオリンピックの東京開催は必ずしも評判がよくなく、それでも日本にとってオリンピックの東京開催は必要なのだと石原氏が力説していたのを記憶しています。
 今回の招致活動で、石原氏はほとんど表舞台に出てきていません。
 それは石原氏の謙虚さの表れでしょうし、それはそれでいいのですが、東京が開催地に決定したからには、発案者である石原氏に対して一言ぐらいは顕彰の言葉があって然るべきです」

 わたしは、これを読んで膝を叩きました。まさに、その通り! 猪瀬氏の失脚には金銭問題以前に「礼」の欠如があったのです。

 最後に第五章「社会再生への道筋」の「飢えを知らない人間は生きる本能が失われていく」が心に強い印象を残しました。

 「私は鯉を飼っています。海外旅行に出たりすると、何日間も餌をやらないことになります。だが、鯉が死ぬことはありません。
 ところが、餌をやりすぎると死んでしまうのです。
 人間もこれと同じです。人類がこの世に誕生して約40万年としましょうか。そのうち、39万9900年間、人類は飢えの中で過ごしてきました。大部分は飢えに耐えてきたのです。豊かさを享受するようになったのはごく最近のことです。それで飢えの中では生の本能が刺激され耐性ができていますが、豊かさには抵抗がありません。まさに餌を与えすぎると死んでしまう鯉そのものです」

 この一文を読んだとき、わたしは「やはり渡部氏は現代の賢人だ」と思いました。渡部氏よりも前の世代の「賢人」に陽明学者の安岡正篤がいます。わたしは安岡正篤の著書はほとんど全部読んでいますが、『照心語録』では、こんなことを述べています。

 「人類滅亡後、何が地球を支配するかという議論の起こったことがある。 猫だという説がある。生物は文明化すると文弱になって滅ぶが、猫だけはいくら優生学的に手を加えても二代三代になるとヒョイともとの原種にもどってしまい、決していわゆる文明族にならない。だから残るだろうというのだが、実に面白い話だと思う」

 これほど安岡正篤という人の思想の柔らかさ、好奇心、スケールの大きさを示す言葉はないと思いました。渡部氏の鯉のエピソードを読んだとき、わたしは、この安岡正篤の猫のエピソードを思い出しました。いずれも鯉や猫について語りながら、人類の未来を憂えています。
 そう、賢人というものは、結局は「人類の教師」に近づくのでしょう。

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