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No.0863 芸術・芸能・映画 『「風立ちぬ」を語る』 岡田斗司夫著&FREEex著(光文社新書)
2014.01.22
『「風立ちぬ」を語る』岡田斗司夫著&FREEex著(光文社新書)を読みました。
スタジオジブリ・宮崎駿の最後の長編アニメーション監督作「風立ちぬ」が第86回アカデミー賞の「長編アニメーション部門」にノミネートされました。いま、映画「風立ちぬ」が再び脚光を浴びています。
本書には「宮崎駿とスタジオジブリ、その軌跡と未来」というサブタイトルがついています。帯には「これは、美しいものを追ってしまう人間の『罪』を描いた映画です」「『On Your Mark』『ゲド戦記』『借りぐらしのアリエッティ』・・・・・・他のジブリ作品も交え、評論家・岡田斗司夫が宮崎駿の実像に迫る」と書かれています。
著者の岡田氏は、社会評論家にしてFREEex主宰です。1984年にアニメ会社ガイナックス設立後、東京大学やマサチューセッツ工科大学の講師を経て、現在は大阪芸術大学客員教授を務めています。主な著書に『評価経済社会』(ダイヤモンド社)、『オタクの息子に悩んでいます』(幻冬舎)、『遺言』(筑摩書房)などがあります。またFREEex(フリックス)とは、社員が給料を払い、岡田斗司夫の活動を助けるユニークな組織だそうです。フリー(無料)化された岡田の原稿、発言を基に、メンバーが書籍の執筆やコンテンツの公開などを行うとか。
本書の目次構成は、以下のようになっています。
プロローグ 人間・宮崎駿に迫る 第1章 『風立ちぬ』を語る
第2章 アニメ作家・宮崎駿のすごみ
第3章 父と息子
第4章 ジブリはどこに向かうのか
第5章 『風立ちぬ』への疑問に答える
エピローグ 『風立ちぬ』と『火垂るの墓』、宮崎駿と高畑勲
「あとがき」
著者は、プロローグ「人間・宮崎駿に迫る」で「最新作『風立ちぬ』において、人間『宮崎駿』という視点は強力です。というのも『風立ちぬ』は、宮崎駿が初めて自分の作りたいテーマに真正面から向き合い、作った作品だからです。ある種、私小説的な要素を持った作品ともいえるでしょう」と書いています。また第1章「『風立ちぬ』を語る」では、「『風立ちぬ』は、宮崎駿監督の最高傑作です。正直、ここまでの作品に仕上げてきたのは、僕にとってまったく予想外でした」とも述べています。
著者は「この映画は、薄情者の恋愛の話です」として、主人公の堀越二郎のことを「女の子によく見られたい」という自意識が人並以上あるのに、ど近眼というコンプレックスのせいでそれを表に出せない人間であると指摘しています。「二郎には人情がありません」など、著者の見方はなかなか鋭くて刺激的なのですが、わたしが最も感心したのは、映画に登場するカプローニやカストルプといった異国人たちの正体についての以下の分析でした。
「カプローニやカストルプの顔がアップになったとき、放射状に輝く彼らの目の虹彩が怪しく動いたり回ったりしているのが印象的です。これは、2人の異国人はともに人ならぬ存在であり、二郎を天国と地獄とが表裏一体になった世界に誘っていることを表しています」
この映画は堀越二郎が零戦を開発する物語ですが、彼が作った零戦は実際の戦争で使用されます。著者は、このことについて次のように述べています。
「二郎が零戦を開発したからこそ、第二次世界大戦は長引き、結果的に日本は無条件降伏することになります。最後のシーンは、冒頭の関東大震災とほとんど同じ構図で描かれていますが、街はもっと広範囲に焼けています。関東だけではなく、日本中が焼け野原になる戦争をしたのです。
確かに、戦争を遂行するかどうかを決めたのは、天皇や政治家、軍人かもしれません。しかし二郎も、零戦という稀有な能力を持つ戦闘機を作り出すことで、日本人に坂の上の雲を見せてしまいました」
『坂の上の雲』というのは、司馬遼太郎の小説のタイトルです。明治以降の日本人は、国民全員が欧米のような生活を望み、軍部は飛行機や軍艦を独自で持ちたがりました。庶民も軍人も政治家も、みんな坂の上に輝く白い雲をめざしていたのです。その結果、日本人には先の戦争での敗戦という過酷な運命が待っていました。著者は、次のように述べています。
「あらゆる人の営みは、犠牲の上に成立しています。だからこそ、せめて綺麗な夢を見せたい。それが、『風立ちぬ』のラストシーンで宮崎駿監督が伝えようとしていることではないでしょうか」
それでは、「風立ちぬ」という映画の本質とは何なのか。自らもアニメ製作に携わり、アニメそのものに造詣の深い著者は次のように述べます。
「『風立ちぬ』は、宮崎駿監督による『火垂るの墓』(1988年、監督・脚本:高畑勲)や『エヴァンゲリオン』への返戻でもあると、僕は思っています。宮崎駿監督は、若い頃に共産主義運動をしていましたが、『風立ちぬ』では戦争と日本人のあり方についてより深い思索がなされ、『今の俺はそこじゃない』という主張を感じました。そして、残酷さや美しさの描写です。『エヴァンゲリオン』のように、画を描いて『残酷だろう?』『美しいだろう?』と見せるのではなく、演技によってそれを表現する。『庵野君はその程度か? 俺がやったらこうだ!』という意気込みを感じる作品になっています」
著者が映画のテーマについて語るときには、2つの観点があるそうです。考察と分析です。第2章「アニメ作家・宮崎駿のすごみ」の冒頭で、著者はこの2つの観点について述べています。
「『考察』は、自分の言葉で語ればいいので、実は知識がなくてもできます。なので考察のほうがハードルは低いのですが、誰でもやれるぶん、凡庸な意見しか言えないとつまらなくなってしまいます。それをいかに自分にしか言えない意見にもっていけるのか、力量が問われるところです。
一方、アニメーションの『分析』というのは、どう作り込まれているかを見抜くことで、これには知識が必要です」
本書を読んで、アニメの見方というのが非常に参考になりました。稀代のアニメ通である著者は、次のように述べています。
「宮崎駿監督に限りませんが、優れたアニメ作家は無駄なカットを一切入れません。なぜかといえば、アニメ作家は偶然に頼れないからです。実写だと、たまたますごく綺麗な夕焼けが撮れたり、花火が美しく光ったり、俳優がぽろっといい笑顔を見せたりといった、偶然のサプライズに恵まれることもあるでしょう。それだけで、映画の面白さは1パーセントくらい上がることがあるのです。
しかし、アニメではそんな偶然に頼れません。自分がデザインした画面の中で、見ている人の心を動かして感動させなければいけません。だから、画面の隅から隅まで、それこそ1センチ四方に至るまで、絶対に意味のあることしかしないのです」
第5章「『風立ちぬ』への疑問に答える」で、著者は「これは僕の持論ですが、物語に感動するのは、その人の罪悪感が解消されるからなんですよ」と語り、『風立ちぬ』における「罪」と「罰」の問題について次のように述べています。
「『風立ちぬ』は美しいものを追ってしまう、人間の『罪』を描いた映画ですが、『罰』は描いていません。ただ、二郎、そして宮崎駿監督にも後ろめたさがあります。だからこそ、死んだ菜穂子に『生きて』と、赦しのセリフを言わせたのです」
本書の一番の白眉はエピローグ「『風立ちぬ』と『火垂るの墓』、宮崎駿と高畑勲」でした。宮崎駿と高畑勲の2人はスタジオジブリの両巨頭であるだけでなく、日本アニメ界における永遠のライバルでもあります。著者は高畑監督の代表作である戦争アニメの名作「火垂るの墓」と「風立ちぬ」とを比較しながら論じていきます。
まず、「火垂るの墓」の清太と節子の兄妹は、どうして2人だけで生きようと思ったのか。戦火に追われてと思いがちですが、じつは映画の内容を思い出すと、ちょっと違います。著者は次のように、その本当の理由を書いています。
「理由は、お兄ちゃんの清太が親戚の世話になって暮らしていくことに耐えられなかったからです。他人の言いなりになる屈辱、自分たちをいいように扱おうとする大人たち、母親が死んでしまった心細さ。そんな状況の中、自分でかわいい妹を守るというプライドだけで、清太は独立します」
これを読んで、わたしは「あっ」と思いました。確かに、そうでした。さらに続けて、著者は次のように書いています。
「悲しいことに、節子を死なせたのは貧しさではなく、清太のプライドでした。 確かに2人は貧困の中で暮らしていました。畑泥棒を農家の人に見つかり、殴られて土下座までしています。しかし、節子が死んだとき、銀行にはまだ預金が残っていました。もっと早くにお金を銀行から下ろして栄養のあるものを食べさせていれば、節子は死なずにすんだのです」
そして、著者は宮崎監督の最高傑作と絶賛する「風立ちぬ」を持ち出して、次のように述べるのです。
「この視点から見ると、『風立ちぬ』と『火垂るの墓』は、まったく同じ話なのです。『風立ちぬ』の二郎は、菜穂子を大事にしていて一緒に暮らそうとするけれど、結局は自分のやりたいことをやり、彼女をひとり寂しく死なせてしまいます。両作品とも、主人公が意地とプライドで、大事な人を死なせてしまうのです」
ところが、2本の映画は最後のシーンが異なります。著者は述べます。
「『火垂るの墓』では、節子は清太に何も答えてくれず、迎えにも来ません。清太は、戦争が終わって何十年が過ぎても、時間が止まったまま幽霊で居続けるしかない。しかし『風立ちぬ』では、カプローニといる二郎のところに菜穂子が現れ、救いの言葉をかけてくれます」
著者によれば、この違いは「芸術」と「芸能」の差であるといいます。 「芸術」と「芸能」の差とは何か。著者によれば、芸術の根本的な目的は、生きることの不安を観客に伝え、衝撃を与えることにある。それに対して芸能の目的は、感動や満足を観客に与えること。このポイントを踏まえて、著者は次のように述べています。
「高畑勲監督は正しく芸術家であり、宮崎駿監督はどこまでいっても芸能家なのです。芸能の作家である宮崎駿監督が、精一杯、芸術に寄せてくると、ちゃんと『風立ちぬ』ができる。一方、芸術家である高畑勲監督が芸能に寄せようとすると、変にサービスしすぎて『平成狸合戦ぽんぽこ』のようになってしまいました。 『火垂るの墓』と『となりのトトロ』が同時上映されたとき、宮崎駿監督は高畑勲監督に負けたと思ったのではないでしょうか」
うーん、この著者の見方には唸ってしまいました。なるほど! これまで著者のことを「オタキング」とか「レコーディング・ダイエットの専門家」ぐらいに思っていたのですが、本書を読んですっかり見直してしまいました。
この秀逸なエピローグの内容は本書のゲラ(校正刷り)が出た後に思いついたそうですが、これがあるとないとでは大違いではないでしょうか。このエピローグはそのまま新たな『風立ちぬ』論となっており、こればなくては随分と物足りない本になったように思います。このエピローグの追加によって、本書は見事な宮崎駿論にもなりました。何よりも、宮崎監督に対する著者の深い愛情が感じられる一冊でした。