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No.0858 読書論・読書術 『読書脳』 立花隆著(文藝春秋)
2014.01.16
『読書脳』立花隆著(文藝春秋)を読みました。
現代日本における「知の巨人」の最新刊で、「ぼくの深読み300冊の記録」というサブタイトルがついています。帯には「電子書籍と紙の本では脳の働き方が違う!」「ソーシャル・リーディング、ヴァーチャル図書館・・・・・・石田英敬(東大図書館副館長)と語り尽くした対談と、『読書日記』6年分を収録。」と書かれています。また、カバー前そでには「本のデジタル化によって『読む』という行為が、そして『知』の世界が、大変貌しつつある―」とあります。
本書は2つの部分から成っています。巻頭には「読書の未来」のタイトルで、東京大学付属図書館の石田英敬副館長と著者との対談が収録されています。また、本体部分は「週刊文春」で現在も連載が続いている「私の読書日記」の2006年12月7日号から2013年3月14日号までの約6年分が収められています。1992年からスタートしたこの連載からは、すでに『ぼくはこんな本を読んできた 立花式読書論、読書術、書斎論』、『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』(ともに文春文庫)、 『ぼくの血となり肉となった500冊 そして血にも肉にもならなかった100冊』(文藝春秋)が刊行されており、本書で4冊目になります。
著者は、毎週、3冊の本を取り上げて紹介してきました。いずれも読みごたえがあるハードカバーが中心で、ジャンルも多岐に渡っていますが。膨大な冊数の本をどのようにして選ぶかというと、一番の基準は広義の「面白い」ということに置いているそうです。といっても、娯楽本読み物本のたぐいは一切排除しているそうで、「まえがき」で次のように述べています。
「フィクションは基本的に選ばない。20代の頃はけっこうフィクションも読んだが、30代前半以後、フィクションは総じてつまらんと思うようになり、現実生活でもほとんど読んでいない。人が頭の中でこしらえあげたお話を読むのに自分の残り少い時間を使うのは、もったいないと思うようになったからである。選択で気を使うのは、取り合わせである。私の場合、関心領域が広いから、領域の取り合わせ、本の内容のむずかしさ、肩のこらなさなどの取り合わせにも気を使いながら、次に取り上げる本を選んでいる」
さらに、他にも本選びの基準があるようで、次のように述べています。
「もう1つ気を使っているのは、あまり知られていない本だが、『こんな本が出ているということそれ自体にニュース価値がある(人に知らせる価値がある)』と思うような本に出会ったときは、それを積極的に取りあげるということである。その反対に世評が大きすぎる本の場合は、ワンランク下の入れ方にして、取りあげないか、取りあげても軽い言及にとどめるということである」
今後の書物の世界について、著者は次のように「まえがき」で予測しています。
「少くとも目先数年は、書物の世界(雑誌も含め)はそう簡単には電子書籍に移行しないで、紙の本と電子書籍がそれぞれの特長を生かしつつ共存する時代がつづきそうな気がする。
その一方で、書物のデジタル化も一層進むだろうという気がする。保管の容易さと検索の容易さの点において、デジタル書物の便利さはアナログ書物(紙の本)より圧倒的に有利だから、権利問題がクリアされた古い書物はこれからデジタル・アーカイブにどんどんおさめられていく方向にある。国会図書館などの公共図書館を中心に、過去の書物はどんどんデジタル化されつつある。紙の本と流通と利用が残るのは、ナマもの的に新しいものだけという方向にいずれ行くのではないか。そういう流れの中で、読書という行為が持つ意味もどんどん変り、人間の情報生活のあり方、学習の様態などもどんどん変っていくのではないか」
巻頭対談「読書の未来」には、次のような両者の発言が続きます。
立花
何かものを考える上で、いまでも本は重要だと思いますね。結局、「考える」という行為は頭の中で言葉を並べていく行為ですから、言葉を並べることで著者の思考過程を伝えるメディアである本を読むことが考えるのにいちばん役に立ちます。「書き言葉」の使い方を学ぶのにも本を読むことがいちばんです。
石田
別の言葉でいえば、抽象化ですね。考える対象を抽象化するための言葉の力を育ててくれるのが書物だと思います。ディスプレーで文字を読むときの脳活動と、紙の本で文字を読むときの脳活動は相当違うことが明らかになりつつあると聞きます。
ここで「ディープ・リーディング」と「シャロー・リーディング」という言葉が登場して、非常に興味深かったです。
まずは「ディープ・リーディング」について、著者が次のように述べます。
「ぼくは、学生時代の購読ゼミで、古典的な意味でのディープ・リーディングを結構やりました。ゼミに参加する学生は5、6人でしたが、それぞれ順番で、テキストの決められた範囲についてレポートしていく。そのレポートに対して、みんなで議論していくというのが購読ゼミの一般的なスタイルですが、経験者にはよく知られているように、意地の悪い先生は徹底的に学生をいじめる。一節の解釈をめぐって、あらゆる角度から学生を問い詰めて、絞り上げるんです」
たとえば、中国哲学の「荘子」のゼミでは、「荘子」の歴史的注釈本をまとめた『荘子集解』をテキストにして、異なる解釈を全部ふまえた上で、漢字1つ1つの故事来歴をたどって、場合によっては象形文字まで遡って解読していくそうです。1回でせいぜい1ページしか進まないため、「荘子」全篇を読み通すのに数年かかります。他にも、著者はいろんな購読ゼミに参加し、プラトンをギリシャ語で、トマス・アクィナスをラテン語で、聖書をヘブライ語で、ヴィトゲンシュタインをドイツ語で読んだそうです。著者は「毎日がまさにディープ・リーディングの連続で、毎時間脳ミソが脂汗を流す思いがしていました」と語っています。きっと、この過酷な読書鍛錬があったからこそ、著者は「知の巨人」となれたのでしょう。
一方の「シャロー・リーディング」については、石田氏が次のように述べます。
「ディープ・リーディングの対極にあるのが、シャロー・リーディング(浅い読み)ですね。デジタル・メディアは注意力を分散させるといわれます。パソコン、スマートフォン、タブレットなどで何か読んでいても、途中でメールをチェックしたり、リンクをクリックしたり、あるいは検索したりしたくなる。いまのコンピュータのOS(オペレーティングシステム)は並行していくつもの作業を行うマルチタスクができるように設計されています。そのためユーザーは次々と画面を切り替えながら作業するのが普通です。そうするとマルチタスク的な注意力ばかり使って、読むことになかなか集中できない」
これは、わたしにも思い当たる節が大いにありますね。
紙の本から電子書籍への移行も劇的変化ですが、歴史を見れば、スクロール(巻物)からコデックス(冊子本、綴じ本)への移行も書物史における革命的な出来事でした。コデックスになって初めて本にタイトルが付けられるようになりました。写本から活版印刷への移行も同様で、本に目次や索引を付けるようになったのは活版印刷の登場後です。
ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』には、ノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロが、印刷されたばかりのグーテンベルクの印刷本と寺院の大伽藍を比較して、「コレがアレを殺すだろう。書物が建物を」とつぶやく場面が登場しますが、実際にはグーテンベルクの印刷本がノートルダム大聖堂を殺すことはありませんでした。この事実を踏まえて、石田氏は次のように述べています。
「メディア史研究でも一般に、古いメディアを新しいメディアが完全に乗っ取ってしまうとは考えられていません。広く受け入れられているのは、成層論、つまり、新しく登場するメディアが古いメディアを完全に消し去るわけではなく、層が堆積していくように、各メディアの関係が変っていくという説です。これまで新しいメディアが登場するたびに『コレがアレを殺す』という議論がくり返されてきましたが、スレートとコデックスの関係だけでなく、テレビ、ラジオ、映画などマルチメディアとの関係についても考えなければならないと思うんですね。マーシャル・マクルーハンは、活版印刷技術が生みだした文化圏としての『グーテンベルクの銀河系』による文明がまもなく終焉を迎え、テレビに見られる視覚優位の電子メディアによる文化圏の到来を予見しました。しかし、実際にいま見られるのは、マクルーハンが描いた未来像より複雑な状況です」
その「複雑な状況」について、両者は次のように発言しています。
石田
たしかに電子メディアは世界を席巻していますが、活字メディアの中心的役割を果たした文字が消えてなくなったわけではなく、むしろインターネットの登場で文字が復権してきたともいえます。ただし文字は復権したけれども、紙の上の文字においてではないという点が状況を複雑にしているわけですが。 立花 たしかにメール、メッセンジャー、ブログ、ソーシャルネットワーキングサービスなど、ウェブ上のいたるところに文字が踊っている。インターネットの登場で、人類がやりとりする文字量は爆発的に増えたことは間違いありません。 そして、「読書」という行為の核心について、次のように語り合われます。
立花
読書の核心は、著者と自分との文字を通じた対話にありますよね。そこに本を読む快楽があると思うんです。その快楽は極めて個人的で、他人の容喙を許さない感性世界の中で生まれる。
石田
そういう個人的な体験を積み重ねる、ということが立花さんご自身が何かモノを書くという行為につながっていくんでしょうか。
立花
かなり関係がありますね。ディープ・リーディングによって、その本から感じたいちばんディープな部分は、他人に伝えようと思ってもなかなか伝えられません。それを伝えるためには千万言を費やさなければならない。それが言葉の力だと思うんですね。
時代を越えて人に影響を与えうるのが、書物の世界だと思うんですね。 巻頭対談の最後に、立花氏は「書物が歴史的に培ってきた構造は、あらゆるものを考える基本だと思います。ぼくの読書日記がその助けになれば嬉しいですね」と述べています。その立花氏の読書日記はあまりにバラエティ豊かな本が300冊も紹介されており、個別に取上げていたらキリがありません。
2006年からの読書日記なので「内容的に古いのでは」と最初は思っていましたが、読んでみると、金融関係の本は別にして、いずれも普遍的なテーマを扱った本ばかりであり、まったく古さは感じさせませんでした。
今回も本書を読んだ後に多くの本をアマゾンに注文しましたが、特にわたしの読書魂に深くアクセスしてきたのは『アンチキリスト』バーナード・マッギン著(河出書房新社)、『「世界地図」の誕生』応地利明著(日本経済新聞社)、『今世紀で人類は終わる?』マーティン・リース著(草思社)、『天皇がバイブルを読んだ日』レイ・ムーア編(講談社)、『ルーダンの憑依』ミシェル・ド・セルトー著(みすず書房)、『開戦神話』井口武夫著(中央公論新社)、『原爆で死んだ米兵秘史』森重昭著(光人社)、『超大陸―100億年の地球史』テッド・ニールド(青土社)、『神樹と巫女と天皇』山下紘一郎著(梟社)、『幕末維新 消された歴史』安藤雄一郎著(日本経済新聞社)、『一万年の進化爆発』グレゴリー・コクラン、ヘンリー・ハーペンディング著(日経BP社)、『河原ノ者・非人・秀吉』服部英雄著(山川出版社)などです。
これらの本の紹介文を読んだだけで、非常に驚かされました。 文系・理系を問わない著者の知的好奇心には感嘆するばかりです。300冊の中には、わたしの愛読書が15冊ほど含まれていました。なんだか、「知の巨人」に少しだけ親近感をおぼえましたね。