No.0876 幸福・ハートフル 『ゆとり発見』 一条真也著(東急エージェンシー)

2014.02.15

かつて、わたしは「リラックス」とか「ホリデー」とか「リゾート」とか、そういった問題を考えつづけていた時期がありました。そして、「遊び」の次の時代のキーワードとして「ゆとり」に注目し、
『ゆとり発見』(東急エージェンシー)を書きました。

『ゆとり発見』(1990年12月25日刊行)

ハートフルに遊ぶ』、『遊びの神話』に続いて上梓した3冊目の著書です。サブタイトルは「余暇社会からゆとり社会へ」で、帯には「新世代のゆとり幸福論」というキャッチコピーに続き、「花火、温泉、プラネタリウム、水族館、リゾート・・・・・・トレンディなアイテムの中に『ゆとり』を探り、豊かなライフスタイルを描く」と書かれています。

また同書の目次構成は、以下のようになっています。

●「ゆとり」って何?
●休日を考える
●コズミック・アートのすすめ
●夜空のスペクタクル
●湯のエクスタシー
●カラカラ浴場の話
●星のファンタジー
●魔法の水族館
●おまじないの季節
●大尽というライフスタイル
●「いき」と「風流」
●日本人の感性
●シャガールを楽しむ
●モーツァルトの流れる世界
●最近の映画に思う
●旅の目的地
●リゾートについて
●南太平洋入門
●ゴールデン・ライフのために
●あとがき

本書が上梓されてから間もなく四半世紀を迎えようとしていますが、1990年当時は「内需拡大」を謳った前川リポートが注目されており、「レジャー」や「リゾート」がビジネスにおいても有望な市場と見られていました。『ゆとり発見』の内容には、そんな時代背景がありました。わたしは当時、27歳でした。すでに2冊の著書を世に問い、東急エージェンシーを退社したばかりで、ハートピア計画という企画会社を東京の西麻布で立ち上げてプランナーとして活動していました。

本書の内容は、もともと「平成義塾」(経済界)という月刊誌に連載してきた「ゆとり考現学」と「悠々自適・南太平洋」というエッセイがベースでした。それだけではページ数が足りないこともあり、他の部分を書き下ろしたのです。「ゆとり考現学」の連載中、わたしのエッセイに企業が協賛するという広告タイアップ方式がとられたのですが、光栄なことに、高島屋、時計のオーデマ・ピケ、グラスのスチューベン、和光、ゴルフパターのT.P.ミルズ、帝国ホテル、ロイヤル・コペンハーゲンのフローラ・ダニカといった超一流の顔ぶれが揃いました。

いま考えても、とても信じられないような超豪華な顔ぶれでした。毎回、わたしのエッセイとそれらの企業の商品写真が一緒に掲載されました。わたしのエッセイは精神的なテーマが多く抽象的なところもあるので、モノの写真と並べることによってバランスが取れ、効果的でとても良かったのではないかと思います。

「悠々自適・南太平洋」のほうは、世界各地にリゾートホテルをもつサザン・パシフィッククラブからのオファーでした。わたしはタヒチ、モーレア、フィジーを訪れ、南太平洋の素晴らしいリゾートの中でエッセイを書きました。いま思えば、時代はバブル経済のど真ん中だったのですね。その他、『ハートフルに遊ぶ』、『遊びの神話』で書き残したテーマ(花火、温泉、水族館など)を書き加えてみました。特に、当時大流行していた水族館については「ぜひ書いてほしい」という読者からの要望が多かったことを記憶しています。

「余暇社会からゆとり社会へ」というサブタイトルについてですが、わたしは「余暇」という言葉が嫌いでした。「余った暇」を意味する「余暇」という言葉自体が労働主体の発想から生まれているわけで、むしろ「余暇」というよりも「自由時間」といった方がいいと思っていました。そして、「自由時間はけっして労働の植民地ではない!」とも思っていました。こういう考え方の背景には、出身地の北九州市が典型的な工業都市であり、「製造業が最も大事で、サービス業などは問題外」といった価値観に反感を抱いていたからかもしれません。この考えは今でも変らず、相変わらず地元経済人が「北九州はモノづくり」などとオウムのように連呼しているだけでは北九州市の未来はないと思います。

その後の方向性を暗示するイラスト

本書では、「ゆとり」というものの正体について求めました。「ゆとり」には「経済的ゆとり」、「空間的ゆとり」、「時間的ゆとり」があるが、この中で最も大切なのは「時間的ゆとり」であると述べました。
なぜなら、お金や空間の問題というのは本人の努力次第でどうにでもなるものですが、時間というのは絶対量が決まっているからです。人間はみんな必ず死にます。これは変えられないことです。現在は平均寿命が長くなって「人生80年」と言われますが、「時間的ゆとり」は80年という絶対量の中からひねり出していかなければならないのです。

ここで忘れてはならないことは、経済にしろ、空間にしろ、「ゆとり」の基本は健康であるということです。健康あっての「ゆとり」なのです。健康がスタンダードなら、「ゆとり」はオプションと言ってもいいでしょう。健康とは、身体的健康、精神的健康、社会的健康の3つから成るものです。わたしたちは本来の意味での健康人、つまり「ウェルビーイング」(かつてのサンレーグループのキーワードであり、社内報のタイトルでもありました)でなければならないのです。そして、「心のゆとり」という人生の宝を得たいものです。

「ゆとり」の問題は「幸福」の問題であり、「ゆとり」について考えることは幸福論そのものであると言えます。わたしは本書で、アリストテレスの『二コマコス倫理学』やセネカの『人生の短さについて』や九鬼周造の『「いき」の構造』や谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』といった多くの名著も取り上げながら、「ゆとり」について考察しました。しかし、わたしがここまで考え抜いた「ゆとり」という言葉はあまり流行せず、結局は時代のキーワードにはなれませんでしたね。「ゆとり教育」の失敗も一因でしょうが、何よりもバブルがはじけて「ゆとりどころじゃないだろう!」といった風潮が生まれたのだと思います。

「あとがき」で、わたしは「本書は色々な読み方をしていただくことができると思う。『ゆとり』をキーワードにした幸福論として、ライフスタイル・ブックとして、トレンド・ウォッチングとして、そして気軽に読めるエッセイとして。みなさんの好きなように読んでいただければ幸いである」と書いています。わたしの大好きなモーツァルトやシャガールを本書の中で取り上げることができたのも忘れ得ぬ思い出になりました。わたしは彼らの芸術のように、「しなやかな感性で、聴く者や観るものを魅了していく」本を目標として書いたのです。

カバーの「著者紹介」には次回作の予告が・・・・・

カバー左そでの「著者紹介」を見ると、最後に「近刊予定に『リゾートの思想』(河出書房新社)『リゾートの博物誌』(日本コンサルタントグループ)がある」と書かれています。そう、次はこの2冊が世に出る日を待っていました。

Archives