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No.0911 社会・コミュニティ 『迷惑行為はなぜなくならないのか?』 北折充隆著(光文社新書)
2014.04.16
『迷惑行為はなぜなくならないのか?』北折充隆著(光文社新書)を読みました。
最近、携帯電話の使用が禁止されている場所で携帯で話している若者を注意した老人が刺されたり、杖が足に当たったことに腹を立てられて全盲の女性が半殺しにされたり、とにかく異様な事件が目立ちます。また、電車内でのベビーカーの問題も議論を呼んでいるようです。こんなご時勢に、「迷惑行為」についての本を読んでみました。
著者は、金城大学人間科学部(多元)心理学科准教授で、『社会規範からの逸脱行動に関する心理学的研究』(風間書房)、『社会的迷惑の心理学』(ナカニシヤ出版)などの著書があります。
帯には迷惑校行為の写真が・・・・・・
本書の帯には「続々現れる新しいタイプの迷惑・・・・・・」として、USJ大学生および飲食店バイトのツイッターといった迷惑行為の写真が掲載されています。また、歩きスマホ、電車の座席での大股開きなど、とかく今の日本は迷惑行為だらけです。著者は「迷惑学」の観点から、この現象を徹底的に考えていきます。本書のカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「『まったく迷惑! 』と、ひと口に言うものの・・・・・・
本書では、「迷惑行為」について、さまざまな視点から考えてみた。迷惑という言葉で連想される、その典型的なものはおそらく、駐車違反や、電車やバスの中で座席を占領したり、 ゴミをポイ捨てするといったたぐいの行為であろう。しかし、何が迷惑なのか、何が正しいのかなどというのは、実は微妙なバランスで成り立っており、ちょっと視点をずらせば、良いとか正しいという基準は、かんたんに変わってしまうのである。
しかし私たちは、『そんなの迷惑に決まっている』とか『あの人は迷惑な人だ』という場合、それ以上そのことについて深く考えたりしない。迷惑についての自分の認識を、本当に正しいのかなどと疑ったりはしないのである」
本書の目次構成は、以下のようになっています。
プロローグ 「そもそも迷惑行為とは?」
第1章 なぜ、夜の幹線道路は誰も制限速度を守らないのか?
―「記述的規範」と「習慣」の影響力
【コラム1】新東名は迷惑な存在?
第2章 電車内では携帯電話の電源を切るべきか?
―迷惑行為と、場所・時代との関係
第3章 なぜツイッター騒動は繰り返されるのか?
―ルールと迷惑の微妙な関係
第4章 どうすれば列の横入りをやめさせられるの
―迷惑行為の抑止策
【コラム2】共感劇を通して見えてくるもの
第5章 ベビーカー問題はどうしたら解決できるのか?
―クリティカル・シンキングで考える「落としどころ」
あとがき「それでも迷惑行為はなくならない」
「引用文献」
迷惑行為とは、社会規範の問題です。第1章「なぜ、夜の幹線道路は誰も制限速度を守らないのか?」では、以下のように書かれています。
「米アリゾナ州立大学のロバート・チャルディーニ教授が、社会規範に関する興味深い理論を提唱した。社会規範とは、道徳や倫理など、多くの人が『守らなければならない』とされる決まりのことで、かんたんにいえば『社会のルール』である。チャルディーニ教授は、社会規範の専門家というよりも、主に説得研究で高い評価を得ている。著書『影響力の武器』は、ビジネスパーソンのバイブルとして、コンサルタントのブログなどにも、非常に多く取り上げられている名著である」
そのチャルディーニ教授は、社会規範には命令的規範と記述的規範の2つがあることを提唱しています。本書には、以下のように説明されています。
「命令的規範とは、個人の知覚に基づく規範である。かんたんにいえば、「こんなことやったら、ふつうはまずいよね」などと行動を控えたり、「常識的には、こうしないとね」などと、ものごとを判断する上での決まりごとである。これには社会や集団の価値観が反映されており、そこから逸脱する行為は、他者に不快感や脅威を抱かせるもとになったりする。そのため、これらの行為は社会的にタブーとされたり、被害が大きくなればこれを抑止すべく、法律やルールとして明文化されることになる」
しかし、社会規範に含まれるのはそれだけではありません。もう1つチャルディーニ教授は、「記述的規範」と呼ばれる概念を提唱しています。これは、「周囲の他者がとる行動を、その状況における適切な行動の基準と見なすこと」です。簡単に言えば、「みんながやっているから正しいことだ」という認識であり、迷惑行為を規定する重要な要因の1つであると言えるでしょう。
本書を読んでいて、「痴漢の効果的な撃退法」というのが面白かったです。著者は、痴漢の撃退法について以下のように述べています。
「女性が痴漢の被害に遭ったときはどうすればいいのか。『やめてください!』と叫ぶのは、あまり意味がない。なぜならば、まわりの人は『もしかしたら痴漢かな』と思いはするものの、誰が何をやめたらよいのかなど、見当がつかないからである。それに、朝の忙しいときに面倒事に巻きこまれたくないし、きっと自分以外の誰かが救いの手をさしのべるだろうという、責任の分散も生じる。こうして、周囲が知らんぷりを決めこむため、助けの手がさしのべられる確率は、残念ながら高くない。これも『誰も痴漢だと騒いでいるわけでもない、きっと助けも不要だろう』という、記述的規範が誤った方向に作用しているパターンである」
では、女性が痴漢の被害に遭ったときはどうすればいいのでしょうか? 著者によれば、記述的規範を自分に有利な方向に持っていき、痴漢を逃さない方向に仕向けていくことが重要だそうです。カギとなるのは、「助けてくれそうな相手を特定する」ことだとか。著者は、次のように具体的に述べています。
「一緒に捕まえようにも、女性の腕力では難しい場合、もう一度周囲を見回して、頼りになりそうな男性を見つけ、『すみません、痴漢を駅員に突き出したいんです。手伝っていただけませんか?』と、指をさしてお願いするのである。とにかく大切なことは、特定の相手をきちんと名指しし、できそうな仕事をきちんと割り振ることである。これにより、責任の分散を回避できるし、まわりも『この人を何とかしなきゃいけない、援助が必要な状況なのだ』と、自覚することができる」
第2章「電車内では携帯電話の電源を切るべきか?」では、携帯の電波とペースメーカーとの関係について次のように述べられています。
「電話が各家庭につながり始めた明治時代、『電話線を通じてコレラが広がる』といった騒ぎが起きたという。感染者が電話を使った後、受話器の通話口より経口感染する可能性はあっても、電話線を通じて広がるというのは、現在では笑い話のレベルである。しかし、携帯電波とペースメーカーの関係うんぬんも、もしかしたら同じようなものかもしれない。つまり、これまでになかった新しい技術が普及していく中で、それに対する畏怖心や反発心といったものが、こうした話に過剰に反映されているということである」
また、「尾崎豊は『社会不適応のバカ』?」という項を興味深く読みました。著者は女子大に教員として着任したとき、ゼミの時間に、ある学生が発した一言が忘れられないそうです。それは、尾崎豊の名曲「15の夜」の一節「盗んだバイクで走り出す」という歌詞について、「そもそも、バイクを盗むことなど論外です」と言ったというのです。彼女たちは、管理教育がすっかり下火になった頃、義務教育を受けた世代なわけですが、これを聞いたとき、著者は「時代が変わった」と思ったそうです。
「15の夜」を聴いたとき、著者はこの曲にこめられた心の叫び、つまり「教師たちへの反抗や戦い」「嫌というほど思い知らされる無力感」に強い共感を覚え、辛かった学校時代の記憶が蘇るとしながらも、続いて次のように述べます。
「しかし、後の世代がこの曲の歌詞から感じるのは、そういったものではない。第1に目につくのは、バイクを盗むような犯罪者を賞賛することに対する、いらだちの方なのである。彼らにとって、学校や教師に対して不満を爆発させる15歳のクソガキなど、迷惑この上ない存在だろう。窓ガラスを壊して回ったり、校舎の片隅でタバコを吹かすなどという歌詞は、(笑)以外の何ものでもない」
さらに著者は、続けて次のように書いています。
「現に、インターネットを少し検索しても、尾崎のことを『社会不適応のバカ』などという、ファンとしては悲しくなる記述も目につく。筆者の世代が感じていた、『尾崎はわかってくれている』といった共感は、彼らにはおそらく微塵もないに違いない。このように、時代や状況が変われば、かつては賞賛されていたことも、迷惑に感じられたり、バカげたことと思われるようになる」
第3章「なぜツイッター騒動は繰り返されるのか?」では、「ルール」というものの本質が考察されます。「1人では生きていけないからルールが生まれた」という著者は、次のように述べています。
「そもそも、どうして世の中に、守らねばならないルールが存在するのだろうか。この問いに答えるのは難しく思われるが、実は非常にかんたんである。答えは『人類が集団生活をする種であるから』ということ。この1点に尽きる」
著者は、「社会と人間」について、以下のように述べます。
「人間は社会の中で、個人の能力・労働力を、特定の分野に投入するだけでいい。お金という共通尺を用いることで、分業が図れるからである。私たちは、資本や労動力を提供することで、お金を手に入れることができる。腹が減っても、お金を払えばかんたんに食べ物を入手できるので、食料の確保に奔走する必要はない。財産や生命を脅かす者が現れたら、110番通報すればいい。必死になって撃退しなくとも、税金で雇われた警察が駆けつけてくれる。病気で弱っていても、ネコのように外敵から身を守るべく、隠れる必要はない。
病院に行けば、適切な治療を施してもらえるし、薬局に行けば薬も出してもらえる。こうして、人間は分業を担う代わりに、群れなければ生きていけなくなった。原始時代の共同生活体より、世代交代を繰り返す中で、社会を構築するに至ったのである」
著者は「ルールとは何か」についても次のように述べます。
「ルールとは何かについては、2つの考え方がある。
専門的な言い方になるが、1つめは『みんなそう思っている』といった、『外在化した基準』である。この場合、ルールは『集団規範』であり、所属する集団が、個人の行動に圧力をかけるかたちで機能する。心理学でも『特定の集団や、組織のメンバーとしての行動期待を指す』や、『さまざまな状況下において、とるように期待されている行動を、個人に対して示すものである』など、ルールを外からの強制力として定義しているものは多い。法律も、定義としてはこちらになる。
そして、ルールは制裁があるからこそ、守られている面も強い。罰を受けることが、逸脱行為への強い抵抗につながるのである」
著者は、人類が生き残る上での必要不可欠なものとしての「返報性」を紹介し、以下のように述べています。
「返報性(互恵性)とは、『何かしてくれた人にはお返しをしなければならない』とか、『そういう相手を傷つけてはいけない』といった、いわゆる『ギブ・アンド・テーク』のことである。社会学者のアルヴィン・グルドナーは、これを『人類が生き残る上で必要不可欠なものである』と述べている。彼は、『搾取が社会構造の中で何をもたらすのか』といった観点から、返報性について多岐にわたる検討を加えた結果、『ユニバーサル(世界共通)な規範である』と結論づけたのである」
さらに著者は、「返報性」の重要さを以下のように説きます。
「返報性は、人間の行動を広く、かつ強く規定するため、迷惑学の立場からも注目すべき、興味深い原理である。たとえばビジネスは、基本的にこの原理で成り立っているといってもよい。『以前ウチの製品を買ってくれたから、御社と取引をしましょう』というのは、会社間でよくある話である。自社の製品をまとめて購入してくれる顧客がいたら、お礼に接待することもあるだろう。顧客にしても、『ここまでしてくれたのだから、またおたくで買いましょう』ということになる。この発想は、返報性以外の何物でもない」
そして、1890年の「エルトゥールル号の遭難事故」や1985年の「トルコ航空機のイラン残留日本人救出」といった、日本・トルコ間の国と時代を超えた一連の返報性を紹介した後で、著者は「これらの一連のエピソードは、心理学的に見れば、返報性の連鎖とも解釈できる。返報性の原理は、国境を超え、時間を超越するほど人間を強力に縛るものなのである」と述べます。
ただし、返報性の原理を超越するものが1つだけあるといいます。それは恋愛です。著者は、次のように述べています。
「あなたが男なら心当たりがあるかもしれないが、加藤登紀子の『百万本のバラ』の歌詞に出てくるような、『彼女のためなら何でもしてあげたい』という気持ちは、『してもらったから、お返しにしてあげる』というものではない。まさに『無償の愛』なのである。どんな心理学の理論も、100%当てはまるわけではないことを付け加えておこう」
第4章「どうすれば列の横入りをやめさせられるのか?」では、著者は「お礼型」メッセージというものを以下のように紹介します。
「社会心理学の枠組みでは説明できないが、個人的によく考えたなと思うのは、古都・京都などで実際に目にしたこともある、電柱に点在する極小の鳥居である。これは立ち小便除けで、神様におしっこはかけられないという心理を突いた、巧妙なテクニックである。
また、サッカーの選手が、エスコートキッズと手をつないで入場するのも、『フェアプレーを誓う』といった効果に加え、フーリガンによるブーイングや、選手に物を投げつけるといった行為を防止するといった効果もある。単に禁止を訴えるのでなく、抵抗感を引き出すかたちで迷惑行為を抑止しようとするこうした手法は、よく考えたものだなと思う」
また、「恥」のアピールについての以下の部分も面白かったです。
「かなり前のことだが、『暴走族を珍走団と呼称しよう』という、面白い呼びかけが起こったことも特筆しておきたい。これでどの程度、暴走族が減少したとか、当の暴走族がどの程度不快に感じていたかといった、その効果は測定されていない。しかしこれは、暴走行為が『恥ずかしい』ものであることを世間にアピールするやり方で、『お礼型』メッセージと並んで、巧妙な迷惑行為の抑止策なのである」
この「恥」について、著者は「そもそも日本は『恥の文化』である。だから本来、この手法は有効であるに違いない。だから、恥を恥と思わない人に対しては、毒をもって毒を制す以上に、猛毒をもって猛毒を制す必要があるということである。そういう意味で、自尊心を貶める戦略は、迷惑学の立場からも、イチ押しの手法なのである」と述べています。
このへんから著者の筆致は冴えてきて、次のように書いています。
「それにしても、日本人はきれいごとを並べたがる。『スピードの出しすぎは事故のもと』などという、当たり前すぎるスローガンを見るたびそう思う。それよりも、『流れに乗れ!空気読め! 恥を知れ!!』とか、『猛スピードで突っ走ってるバカ、おまえだよ!まわりの車に白い目で見られてるの、気づかないの?』くらいのきついアピールの方が、確信的に流れを乱す人にとって、その抵抗は大きくなると思うのだが」
極め付けは、以下のような提案でしょう。これには笑いました。
「たとえば、未成年の喫煙を禁止する目的で、『あなたの健康を損ねます』と箱に書いても、『バレたら即退学』と校則を変えても、タスポがないと自販機で買えないようにしても、親のタスポを黙って持ち出し、校舎の隅で隠れて吸うだけである。それよりも、美人・イケメンのタレントに、『ヤニ臭い男の子なんてムリ!』とか、『ヤニのついた歯の女の子とは絶対キスできない』と、CMやドラマの中でいってもらう方がよほど効果的である」
まあ、美人女優やイケメン・アイドルの中にも愛煙家がいるでしょうけどね。(苦笑)
このように、真面目なテーマを取り上げた本書ですが、著者がだんだんヒートアップしていくさまが非常に楽しめました。最後に、本書には2本のコラムが掲載されています。その中の「新東名は迷惑な存在?」の中の以下のくだりが興味深かったです。
「小学校の頃、怪談話の本で、『高速道路のそばには、なぜかお墓が多い、だからか事故が多発する場所がある・・・・・・』などという話を読んだ。よほど怖かったのか、強く印象に残っていたのだが、あるとき事実を知った。そもそも高速道路は、墓地だった場所など、地価が安いところに建設されているのである。つまりは因果関係が逆であり、高速道路のそばにお墓がつくられているのではなく、もともと墓地を選んで買収していたというわけである。お墓をつないでいくので、必然的にくねくね道になり、そういう場所で事故が起きやすくなるのは当然であろう」
なるほど。本を読めば、はからずもこういった知識も得られます。
これだから、読書はやめられません!