No.0912 人生・仕事 『今こそ読みたい ガンディーの言葉』 マハートマ・ガンディー著、古賀勝郎訳(朝日新聞出版)

2014.04.19

『今こそ読みたい ガンディーの言葉』マハートマ・ガンディー著、古賀勝郎訳(朝日新聞出版)を再読しました。
「ALL MEN ARE BROTHERS」というサブタイトルがついています。もともと本書は、『抵抗するな・屈服するな《ガンディー語録》』K・クリパラー二―編、古賀勝郎訳(朝日新聞社)として1970年に刊行された本です。東日本大震災をきっかけに、2011年9月に同書を改題、再編集を加えて復刊されたものです。

ガンディーのイラストが描かれた本書の帯

本書の帯には、ガンディーを描いたイラストとともに、「小出裕章氏(京都大学原子力実験所助教)がガンディーの『七つの社会的罪』を用いて政府の在り方を問いただしたように、今こそ我々に必要なのは、平和・寛容・愛の言葉―ガンディーの思想である」「核の脅威、世界の混迷に、ガンディーはどう立ち向かったか!」と書かれています。

本書の目次構成は、以下のようになっています。

序(S・ラーダークリシュナシ)
第1章  自伝
第2章  宗教と真理
第3章  アヒンサー――非暴力への道
第4章  自己修養
第5章  国際平和
第6章  潤沢の中の貧困
第7章  民主主義と民衆
第8章  教育
第9章  雑録
出典一覧
ガンディー年譜
七つの社会的罪

「序」は、S・ラーダークリシュナシ(政治家、哲学者、インドの第2代大統領)が1958年8月15日に語った言葉です。冒頭でラーダークリシュナシは「偉大なる師はごくまれにしか現れないものである。そのような師の到来には数世紀を要するかも知れない。偉大なる師はその生涯によって知られるものであり、まず自らが生き、そして他人にそのように生きる術を語るのであるが、ガンディーはまさにそのような師であった」と述べます。

そしてガンディーその人については、「ガンディーの生涯は、熱烈な真理探究、生命への畏敬、無執着という理想および、神についての認識のためにはあらゆる犠牲を惜しまぬ覚悟といった、インドの宗教上の伝統に根ざしたものである。彼は全生涯を不断の真理探究に捧げたのであった」と述べています。

またラーダークリシュナシは、ガンディーの宗教について次のように述べます。

「ガンディーが帰依した宗教は、理知的・倫理的なものであった。彼は、自己の理性に訴えかけない信条、あるいは、自己の良心が是としない命令を受け入れようとはしなかった。われわれは、頭の中ばかりでなく、全存在を傾けて神を信ずるのであれば、人種とか階級、国家とか宗教の差別を超越して万人を愛するだろうし、人類の和合を目指して働くであろう」

有名なガンディーの「非暴力」についても、ラーダークリシュナシは述べます。

「ガンディーは、自らを夢想家でなく実際的な理想主義者である、と断定した。非暴力は単に聖徒や賢者のものとしてあるのではなく、民衆のためのものでもある。『非暴力は人間の掟であり、暴力は獣の掟である。獣にあっては、精神は眠っており、腕力のみが掟であるのに対し、人間の尊厳は、精神力という、一段と高等な掟に従うよう求める』ガンディーは、非暴力の原理を個人的な水準から社会的・政治的水準にまでひろげた点で、史上最初の人である。彼が政治に足を踏み入れたのは、非暴力を実験し、その有効性を立正するためであった」

そして「序」の最後に、ラーダークリシュナシは以下のような最大級の賛辞をもって、ガンディーの偉大な生涯を語っています。

「われわれの生きているこの時代は、自らの敗北と道義的な荒廃に気づいており、また古い確信がくずれ落ち、慣れ親しんだ様式が傾いたり砕けたりしている時代である。偏狭と苦難の度合は一段と増してきており、偉大な人間社会を照らした創造の炎は消えかかっている。全く不可解にして多様な人の心は、一方では仏陀やガンディー、他方ではネロやヒトラーといった対立する型を生み出すものである。史上最大の偉人の1人がわれわれと同じ時代に生き、ともに歩き、われわれに語りかけ、気品のある生き方を教えてくれたことは、われわれの誇りとすべきことである。だれにも不正を行わぬ人はだれをも恐れぬ。何ものをも隠さぬ人は勇敢であり、臆せず人の顔を見る。その足どりは確かであり、姿勢はまっすぐであり、言葉は直裁簡明である。その昔、プラトンは言った。『数少なくはあるが、世の中には霊感を授かった人たちが常にいるものであり、その人たちとの交際は何ものにも代えがたいものである』

それでは、本書に登場する膨大なガンディーの言葉から、わたしの心に強く響いたものを紹介したいと思います。なお、ガンディーの発言には長いものも多く、その中からわたしが短く切り取った言葉も含まれていることをお断りしておきます。

ひとつ私の心に深く根をおろしたものがある。それは、道徳こそ万事の基本であり、真理こそあらゆる道徳の本質であるという確信である。私は真理のみを目標とするようになった。それは日一日と大きくなり始め、私のその定義もますます幅をひろげてきている。

人生のいろいろな出来事のおかげで、私はいろいろな信条やいろいろな共同体の人たちと深く交わってきた。そうした出来事を含め、私の経験から正しいことが証明されるのだが、私は親類と他人、同国人と外国人、白人と有色人、ヒンドゥー教徒と―イスラム教徒であれ、拝火教徒であれ、キリスト教徒であれ、ユダヤ教徒であれ―その他の信仰を抱くインド人との間に差別を設けない。私の心にはそのような何らかの差別を設けることができない、と言ってもよい。

私が主張するただ一つの徳は、真理であり非暴力である。私は自分に超人的な力が備わっているとは主張しないし、そのようなものは何一つ欲しくない。私の体も最も弱い人間と同じく脆いものであり、私も人並みに過ちを犯す。私の奉仕には足らぬところが数多くあるのだが、神はこれまでそれらを祝福して下さっている。

「ガンディー主義」などというものは存在しないし、私の死後に一派を残したいとも思わない。私は新しい原則や新しい教義を編み出したのではなく、われわれの日常生活や問題に、永遠の理法を私なりに応用しようとしたに過ぎない。

広島が原子爆弾で全滅したと最初に聞いたとき、私は微動だにしなかった。それどころか、「世界は今、非暴力を受け入れなければ、人類はきっと自滅することになる」とつぶやいたのだった。

私は人間への奉仕を介して神に会えるように励んでいる。というのは、私は、神が天界にましますのでも下界にましますのでもなく、一人ひとりの心の中にましますのを知っているからだ。

宗教は一カ所に到る別々の道である。同じ目的地に到達するのであれば、別々の道を歩んだところでどうということはない。事実、宗教は人間の数ほど多数存在するものである。

世界中の偉大な宗教はすべて多かれ少なかれ真実だと思う。「多かれ少なかれ」と言うのは、人間の手が触れるものは、人間が不完全であるという、まさにその理由によって、不完全であると思うからである。完全は神のみの特性であって、言語を絶したものであり、翻訳不可能なものだ。私は、万人にとって神と同じほど完全になることは可能である、と信じている。われわれすべてが完全を熱望することが肝心なのだ。しかし、その祝福された状態に到達すると、それは言語を絶した、定義できないものとなる。そしてそれゆえに、私は、もっとも謙虚にではあるが、ヴェーダやコーランやバイブルでさえも神の不完全な言葉であり、数多の劇場に揺り動かされている不完全な存在である人間には、この神の言葉を完全に理解することすら不可能なことを認めるのである。

世界最高の三人の師、すなわち、仏陀、イエス、マホメットは、祈りを通して啓示を得たのであって、祈りを捧げずにはとても生きておられなかったという絶対明確な証拠を残している。多数のヒンドゥー教徒やイスラム教徒やキリスト教徒が、祈りに人生の唯一の慰めを見出しているのである。

嵐の海でわれわれを導き、山を動かし、大洋を跳び越えるのは信仰である。その信仰は、内なる神を明瞭に油断なく自覚することにほかならない。そのような信仰を抱くに至った人は何ものをも求めない。肉体は病んでも精神的には健康であり、物質的には貧しくとも精神的には豊かである。

まず真理を追究すべきである。そうすれば、美と善は備わってくるだろう。これこそがイエスの山上の垂訓なのだ。私にはイエスは偉大な芸術家であったと思える。真理を見、真理を実現したからである。同じことはマホメットについても言える。コーランはアラビア語文学の最高傑作だからである。ともかく、これは学者の言である。二人はまず真理に向かって奮励したので、おのずと表現が典雅なものとなったのだ。それにもかかわらず、両人とも芸術について論じたのではなかった。私が渇望し、生き甲斐としているのは真理であり、美である。

非暴力は人間に委ねられた最大の力である。
愛は世界最強の力であるが、なおかつ、もっとも慎ましいものである。

真の意味の文明は欲望を増加させることではなく、欲望を慎重に、かつ自発的に制限することにある。これこそが真の幸福と満足を増進し、奉仕の能力を増大するものだ。

私自身の体験で知ったことであるが、妻を肉欲の対象と見ていた間は夫婦の間に真の理解は生まれず、夫婦愛は高い水準に至らなかった。二人の間にはいつも情愛はあったのだが、二人というよりむしろ私が自制すればするほど、夫婦の仲は密接になった。妻には、自制が足らないということはけっしてなかった。もっとも、妻は、しばしば自制を示し、しきりに気乗りせぬ様子を見せながらも、めったに私に抵抗することはなかった。私が肉欲の快楽を求めた時にはいつも、私は妻に報いることはできなかった。私が享楽の生活に別れを告げると、ただちに、夫婦の関係はすべて精神的なものとなった。肉欲は死に絶え、代わって愛が君臨するようになった。

自己、家族、国家、世界といった四つのものに対する義務は、個々に独立のものではない。自分や自分の家族に害を加えることによって、国家に対し害をなすことはできない。同様に、世界全体に害を加えて国家に奉仕することもできない。結局のところは、家族が生き長らえるためには、われわれが死なねばならず、国家が生き長らえるためには、家族はしなねばならず、また、世界が生き長らえるためには国家が死なねばならぬ。しかし、犠牲として捧げることができるは、純粋なものに限られる。したがって、自己浄化が第一歩ということになる。人は、心が純粋であれば、そのときどきの義務が何であるかをただちに悟るものだ。

私は、世界がひとつにならないのであれば、この世界に生きていたいとは思わない。

身体はわれわれの最後の所有物である。そこで、人間に奉仕するには、喜んで死を受け入れ、肉体を放棄する覚悟ができたときに初めて完全な愛を発揮できるのである。

最大の努力を払っても、金持ちが真の貧乏人の保護者にならず、貧乏人がますますうちひしがれ、餓死するとすれば、何をなすべきか。私は、この難問の解決法を見出そうと努力するうちに、絶対に正しい方法として非暴力的非協力的および市民的不定に出くわしたのである。金持ちは、社会では貧乏人の協力がなければ、蓄財することはできない。この認識が金持ちの間に浸透し、ひろがって行くならば、貧しい人たちは強くなり、彼らを餓死寸前に追い込んでいた圧倒的な不平等から、非暴力的方法によって自由の身となる方法を学ぶであろう。

私は個人の自由を重んずるが、人間は本質的に社会的な存在であることを忘れてはならない。人間が現在の状態にまで到達したのは、個人主義を社会の進歩の要求に適合させることを学んだからである。無制限な個人主義はジャングルの野獣の掟である。われわれは、個人の自由と社会の制約との中庸を取ることを学んだのである。社会全体の福利のために、社会の制約に喜んで従うことにより、個人と、個人が構成員となっている社会との両方が豊かになるのだ。

立派な運動はいずれも、無関心、嘲笑、非難、抑圧、尊敬という5つの段階を経るものである。

もし私が、人間一人ひろちがいかに肉体は弱かろうとも、自らの名誉と自由の守護者であるとの信念を人間家族に植えつけることに成功するならば、私の仕事は終わるだろう。たとえ全世界が抵抗者個人に反対しようとも、この防備は役立つことだろう。

私はユーモアを解する心を持ち合わせていなかったならば、とっくの昔に自殺していただろう。

あらゆる大義において、重きをなすのは、戦う人の数ではない。決定的な要因になるのは、戦う人をつくり上げているものの質である。世界の偉人たちは常に孤独であった。ゾロアスター・仏陀・キリスト・マホメットといった人たちは、その他にも数えられる多くの人と同じように孤独であったが、自己と神とに強い信念を寄せていた。そして、神がいつも味方であると信じて行動したので、けっして孤独には感じなかった。

われわれは、美しいものは役に立たなくてもよく、役に立つものは美しくなくてもよい、と教えられてきているが、私は、役に立つものは美しくもあり得ることを示したい。

本書の最後には、「七つの社会的罪(Seven Social Sins)」が紹介されています。これはガンディーが英語で刊行していた「ヤング・インディア」紙の1925年10月22日号に掲載されたものです。ガンディーの思想を最もわかりやすく表現しているとされ、ガンディー慰霊碑にも刻まれています。「七つの社会的罪」は以下の通りです。

1.理念なき政治
  Politics without Principles
2.労働なき富
  Wealth without Work
3.良心なき快楽
  Pleasure without Conscience
4.人格なき学識
  Knowledge without Character
5.道徳なき商業
  Commerce without Morality
6.人間性なき科学
  Science without Humanity
7.献身なき信仰
  Worship without Sacrifice

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