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No.0975 日本思想 『和の思想』 長谷川櫂著(中公新書)
2014.08.27
『和の思想』長谷川櫂著(中公新書)を読みました。
「異質のものを共存させる力」というサブタイトルがついています。著者は1954年(昭和29年)、熊本県生まれ。俳句結社「古志」主宰、朝日俳壇選者、「季語と歳時記の会」代表です。東京大学法学部卒業後、読売新聞記者を経て俳句に専念。1990年に『俳句の宇宙』でサントリー学芸賞、2003年に句集『虚空』で読売文学賞を受賞しています。本書のカバー見返しには、以下のような内容紹介があります。
「和食、和服、和室・・・・・・、『和』はいろいろな言葉に添えられて日本的という意味を付け加えているにすぎないようにみえる。だが本来、和とは、異質のものを調和させ、新たに創造する力を指すのだ。倭の時代から人々は外来の文物を喜んで迎え、選択・改良を繰り返してきた。漢字という中国文化との出会いを経て仮名を生み出したように。和はどのように生まれ、日本の人々の生きる力となったのか。豊富な事例から和の原型に迫る」
本書の目次は、以下のような構成になっています。
第一章 みじめな和
第二章 運動体としての和
第三章 異質の共存
第四章 間の文化
第五章 夏をむねとすべし
第六章 受容、選択、変容
第七章 和の可能性
「おわりに」
第一章「みじめな和」の冒頭は、アテネ・オリンピックのシンクロナイズド・スイミングのテーマに「歌舞伎」や「日本人形」が選ばれたことを取り上げ、著者は以下のように書いています。
「日本といえば、まるで条件反射のようにすぐ『ゲイシャ、フジヤマ』と返していた時代がある。それははじめ外国人たちが無邪気な侮蔑をこめて口にし、それをおもしろがった日本人がやはり無邪気な自嘲をこめていうようになったものだった。その『ゲイシャ、フジヤマ』が何十年かの間に無邪気どころか無意識の自嘲となって日本人の心にしみこんでしまった。それがシンクロナイズド・スイミングのテーマを決めるとき、『カブキ、ジャパニーズ・ドール』となってふたたび姿を現わしたとも思えたのである」
いま、女性向けの雑誌は、和食、和服、和菓子、あるいは和風建築など、頭に和とか和風とかついているものや、あえてそう銘打たなくても明らかに和風のものを主要なテーマとしています。この、ことさら多くの日本人が和風に憧れるようになった現象について、著者は次のように述べています。
「それは明治時代にはじまった日本の近代化と深い関係がある。今から140年ほど前、江戸幕府に代わって明治政府がこの国を動かすようになったとき、それまでのいわゆる鎖国体制から打って変わって、ヨーロッパやアメリカの模倣がはじまった。政治、経済の仕組みから衣食住にいたるまで生活と文化のあらゆる分野で西洋文明の産物が大量に流入しはじめた。これが日本の近代化といわれるものだった。はっきりいってしまえば、それは西洋の模倣、西洋化にほかならなかった」
元号が慶応から明治に改まり、天皇が京都から江戸に移って江戸が東京となりました。そのとき、日本の近代化、つまり西洋化を進める役割りの最初の荷い手となったのは明治維新を推進した人々であり、それは当然のことながら江戸時代に生まれた人々でした。政治家でいえば、西郷隆盛や大久保利通といった人々です。著者は述べます。
「この日本の近代化第一世代の特徴は、彼らこそが日本の近代化の方針を決めた人々だったということだ。日本を幕藩体制のままにとどめるか、日本の近代化を進めるかどうか、さらに、どのような形で進めるかという難題が彼ら第一世代の人々の判断にゆだねられた。そして、彼らは日本の近代化をイギリス、フランス、ドイツ、アメリカといった西洋の列強諸国をモデルにして進める道を選択した」
続いて、日本の近代化第二世代が登場します。それは、第一世代の子供にあたる人々でした。著者は、第二世代について次のように述べています。
「彼らは自分たちで日本の近代化の方針を決めたわけでもなく、明治維新をみずから推進したわけでもない。というのは、日本の近代化をめぐり、国を二分して議論が戦わされていたとき、彼らはまだ子どもであったか、ほんの赤ん坊だったからである。文学者をあげると、坪内逍遥は横浜、長崎、函館の3つの港が外国船に開放された安政6年(1859年)の生まれ。明治元年には10歳。森鴎外は和宮が徳川家茂に嫁いだ文久2年(1862年)の生まれ。明治元年にはまだ7歳だった。夏目漱石、尾崎紅葉、幸田露伴、正岡子規はそろって慶応3年(1867年)の生まれ」
この第二世代の人々は、親の世代である第一世代の人々が決めた西洋化という近代化の方針とその土台を受け継いだ人々です。いわば、近代化の最初の遺産相続人、二代目にあたります。彼らには第一世代が持っていた近代化の方針の選択権はもはやありませんでした。親の築いた土台の上で西洋化という方針に沿って大いに近代化を進めることが期待されていたのです。
そして、第三世代が登場します。著者は、「日本の近代化の第三世代は明治時代になって生まれた人々である。永井荷風は明治12年(1879年)、谷崎は19年(1886年)に生まれた。彼らが青春期を迎えたとき、明治という輝かしい時代はすでに後半に入り、やがて、年老いて終わろうとしていた。祖父の世代、父の世代の人々によって西洋を模倣した近代日本の枠組みは完成に近づき、揺るぎないものとなりかけていた」と述べています。
ここで大事なことは、荷風や谷崎のような第三世代の人々を悩ませたのが自分たちの外部にある、すでに近代化された日本であったことでした。著者によれば、「それは第二世代の漱石たちを悩ませたのが日本の近代化に加担する自分自身への疑問であったのと対照的」だったのです。
第二章「運動体としての和」では、著者は以下のように述べます。
「この国の人々ははるかな昔から自分のことを『わ』と呼んできた。ただ、それを書き記す文字がなかった。中国から漢字が伝わる以前のことである。これは今でも『われ』『わたくし』『わたし』という形で残っている」
しかし、あるとき、この国の誰かが倭国の倭を和と改めました。この人物を「天才的」と表現する著者は、次のように述べます。
「この人物が天才的であったのは和は倭と同じ音でありながら、倭とはまったく違う誇り高い意味の漢字だからである。和の左側の禾は軍門に立てる標識、右の口は誓いの文書を入れる箱をさしている。つまり、和は敵対するもの同士が和議を結ぶという意味になる。
この人物が天才的であったもうひとつの理由は、和という字はこの国の文化の特徴をたった1字で表わしているからである。というのは、この国の生活と文化の根底には互いに対立するもの、相容れないものを和解させ、調和させる力が働いているのだが、この字はその力を暗示しているからである」
もともと、「和」とは何を意味していたのでしょうか。著者は述べます。
「和という言葉は本来、この互いに対立するものを調和させるという意味だった。そして、明治時代に国をあげて近代化という名の西洋化にとりかかるまで、長い問、この意味で使われてきた。和という字を『やわらぐ』『なごむ』『あえる』とも読むのはそのためである。『やわらぐ』とは互いの敵対心が解消すること。『なごむ』とは対立するもの同士が仲良くなること。『あえる』とは白和え、胡麻和えのように料理でよく使う言葉だが、異なるものを混ぜ合わせてなじませること」
そして、著者は「和」の本来の姿を次のように明らかにします。
「和とは天地、鬼神、男女、武士のように互いに異質なもの、対立するもの、荒々しいものを『力をも入れずして・・・・・・動かし、・・・・・・あはれと思はせ、・・・・・・和らげ、・・・・・・慰むる』、こうした動きをいうのである。これが本来の和の姿だった」
第三章「異質の共存」の冒頭で、著者は以下のように述べています。
「離婚の理由でいちばん多いのは性格の不一致だそうだが、考えてみると、これはおかしな理由である。ちょっと立ち止まって考えれば、すぐわかるとおり、人間はみな生まれも育った環境も違うのだから、性格といっても人によって千差万別であって結婚する2人の性格が一致することなど滅多にない。というより、ありえない。それにもかかわらず、この性格の不一致なるものが正当な離婚理由として白昼堂々と通用しているわけだから、どうやら世間には結婚は性格の一致する者同士がするものという結婚幻想がまかりとおっているということだろう。この広い世界のどこかに性格のぴたりと一致する男女がいて、そんな2人がいつの日かめぐり合って結婚する。これが実際の結婚の実態からいかにかけ離れているか」
第四章「間の文化」では、著者は草月流の花道家に「生け花とフラワーアレンジメントはどう違うのですか」と尋ねてみたそうです。すると、「フラワーアレンジメントは花によって空間を埋めようとするのですが、生け花は花によって空間を生かそうとするのです」という明快な答えが返ってきました。そのとき、著者は「この答えは生け花とフラワーアレンジメントの違いをいいえているだけでなく、日本の文化と西洋の文化の違いにも触れているのではないか」と思ったといいます。
そして、著者は「間」の文化というものに気づき、次のように述べます。
「生け花は花を生かすと書くのだから花を生かすのはいうまでもないが、『フラワーアレンジメントとどこが違うのか』という私の疑問に対する『花によって空間を生かす』という即答は花を生かすことによって空間を生かし、その花によって生かされた空間が今度は逆に花を生かすということなのだろう。このように日本の生け花では空間は花によって生かすべきものであって、フラワーアレンジメントのように花で埋め尽くすものではない。花とそのまわりの空間は敵対するものではなく、互いに引き立てあうものとしてある。その花の生けられる空間とはいうまでもなく私たちが呼吸をし、生活をしている空間である。それはそのまま、間といいかえていいものなのだ」
さらに著者は、「間」の文化について以下のように述べます。
「こうして日本人は生活や文化のあらゆる分野で間を使いこなしながら暮らしている。それを上手に使えば『間に合う』『間がいい』ということになり、逆に使い方を誤れば『間違い』、間に締まりがなければ『間延び』、間を読めなければ『間抜け』になってしまう。間の使い方はこの国のもっとも基本的な掟であって、日本文化はまさに間の文化ということができるだろう」
日本画と西洋絵画を比べた場合、余白や沈黙というものに対する日本と西洋の考え方の違いが横たわっているとして、著者は次のように述べます。
「西洋絵画の場合、絵は絵である以上、絵の具で埋め尽くされていなくてはならない。なまじ余白などあれば、それは未完成の絵とみなされてしまう。芸術家は全能の神のように絵を創造するのだから、その手の及ばない余白など決しであってはならない。『松林図屏風』で等伯が描いた松の間のいきいきとした余白などはじめからありえないのだ。
西洋音楽の場合も同じで、それが音楽であるためには音で埋め尽くされていなくてはならない。沈黙など決してあってはならない。おそらくバッハもモーツアルトもそう考えていたにちがいない」
第五章「夏をむねとすべし」では、以下のように「挨拶」が取り上げられます。
「挨拶の仕方をみても、外国人は互いに抱きあったり、手を握りあったり、キスをしたりするのに対して、日本人は遠くから、あるいは少し離れてお辞儀をするだけである。外国人は盛んに体を触れあって親愛の情を示そうとするが、日本人は決して体を触れあわない。なぜなら、この高温多湿の国では体を触れあうこと自体が暑苦しいからである。とくに夏には肌がべたべたしているので、そんな人同士が挨拶のたびに体を触れあっていたのでは皮膚病や伝染病に感染しやすい。それを防ぐためにも互いに体は触れあわず、離れたままでお辞儀をすることになったのにちがいない」
第六章「受容、選択、変容」では、著者は「日本独自と考えられているものもその由来をたどってゆくと、ほとんどが外国産のものにゆきつく」と言います。そして、それを解体してはぎとってゆくと、最後に残るこの国独自のものは何か。それは「緑の野山と青い海原くらいのものだろう」というのです。
この一文を読んで、わたしは「なるほど!」と思いました。客員教授をしている北陸大学の講義を行う日、わたしは小倉から金沢に行くのによくJRを利用しました。小倉から京都までは新幹線のぞみに乗り、京都駅からは特急サンダーバードに乗り換えます。そのとき、車窓を眺めるたびに「日本は本当に緑豊かな国だなあ」と思ったものです。著者は、以下のように述べています。
「『緑青で塗ったのか』と思うほど緑滴る日本列島の山々を子規が眺めたのは明治時代半ばのことだったが、稲をたずさえてきた大陸からの移住者たちも、ヨーロッパからの長旅の果てにこの島国にたどりついた南蛮船のカピタンも、太平洋を越えてきた黒船の乗組員たちも、そして、第二次世界大戦後、飛行機で訪れたアメリカのビジネスマンたちもみな子規が見たのと同じ、海原に浮かぶ日本の緑の山々を見た。日本とは太古の昔からずっとこの緑の山々のほか何もない島々だった」
だからといって、日本がつまらない国というのではありません。著者は、以下のように述べています。
「何もないからといって嘆くことも卑屈になることもない。それどころか、空っぽであることは大いに誇るべきことなのである。というのは、日本という国は大昔から次々に海を渡ってくるさまざまな文化をこの空っぽの山河の中に受け入れて、それを湿潤な蒸し暑い国にふさわしいものに作り変えてきたからである。それこそ和の力であり、この和の力こそ日本独自ということのできる唯一のものである。その力によって生み出されたものが和服であり、和食であり、和室だった」
「おわりに」で、著者は次のように述べています。
「和とは本来、さまざまな異質のものをなごやかに調和させる力のことである。なぜ、この和の力が日本という島国に生まれ、日本人の生活と文化における創造力の源となったか。これがこの本の主題である。
その理由には次の3つがある。まず、この国が緑の野山と青い海原のほか何もない、いわば空白の島国だったこと。次にこの島々に海を渡ってさまざまな人々と文化が渡来したこと。そして、この島国の夏は異様に蒸し暑く、人々は蒸し暑さを嫌い、涼しさを好む感覚を身につけていったこと。こうして、日本人は物と物、人と人、さらには神と神のあいだに間をとることを覚え、この間が異質のものを共存させる和の力を生み出していった。間とは余白であり、沈黙でもある」
本書を読んで、わたしは「和」の底力と可能性を再認識しました。全部で208ページのコンパクトな新書ですが、「和」の本質について見事に解き明かした好著だと思います。一度だけでなく、何度も読み返したい本です。また、もっと「和」についての本が読みたくなりました。