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No.1030 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『相撲よ!』 白鵬翔著(角川書店)
2015.01.19
大相撲初場所の最中です。最大の関心は、なんといっても横綱の白鵬が歴代最多優勝回数の単独1位となる33回目の優勝を果たすかどうかに尽きます。18日の「中日」は、2011年初場所以来の天覧相撲でした。白鳳は前頭3枚目の安美錦を引き落とし、唯一の中日勝ち越しを決めました。しかも、横綱通算600勝も達成しています。わたしは中学生の頃からの大相撲ファンなので、白鵬の偉業達成には非常に注目しています。というわけで、『相撲よ!』白鵬翔著(角川書店)を読みました。
大横綱 白鵬、思いのすべてを語る。
帯には著者自身の顔写真とともに「大横綱 白鵬、思いのすべてを語る。」「初の著書緊急出版」と書かれています。また帯の裏には、「相撲史上初! 現役横綱の語り下し」として、以下のような内容のダイジェストが並びます。
●双葉山との夢の中での対戦
●天皇陛下からのお言葉
●モンゴルの英雄である父
●蒙古斑と誕生の秘密
●”力士スカウト・ツアー”で来日
●相撲部屋からは注目されず
●国技の伝統を守ること
●大相撲問題からの教訓
本書の帯の裏
帯裏の最後に書かれた「大相撲問題からの教訓」とは、2007年の相撲部屋での暴力によって若い力士は亡くなったこと、08年から09年にかけて大麻取締法違反容疑で力士が解雇処分になったこと、さらには横綱・朝青龍の暴行事件、暴力団と力士の癒着、野球賭博、そして八百長問題へと至る一連の大スキャンダルです。本書は2011年9月の刊行ですので、まさに大相撲に逆風が吹き荒れた真っ只中で書かれた本ということになります。
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「序」
「プロローグ」
第一章 日本の国へ
第二章 モンゴルの英雄
第三章 運命の絆
第四章 相撲の道
第五章 伝統の継承
「エピローグ」
「プロローグ」は、著者が大関になったばかりの2006年5月(東京)場所で念願の初優勝を果たした後、当時の小泉純一郎総理に面会したときのエピソードから始まります。そのとき小泉総理は「13世紀後半に、チンギス・ハーンの孫、フビライ・ハーンが日本に攻めてきたけれども、思いを果たせなかった。いまのモンゴル人力士の皆さんの活躍ぶりを見ていると、フビライ・ハーンが果たせなかった夢を、7世紀以上たったいま、実現しているように思いますね」と語ったそうです。これは、なかなかの問題発言のようにも思えますが、白鵬は嬉しくて「頑張ります」と答えたとか。
著者自身もチンギス・ハーンのことはリスペクトしているようで、以下のように述べています。
「チンギス・ハーンが言っているではないか。
『人に差別なし、地に国境なし』と。
私の体には蒙古斑がある。日本人にも蒙古斑があると聞いた。いまは日本とモンゴルという『国』の壁があるが、歴史をどんどんさかのぼっていくと、日本人のルーツはモンゴルの大草原にあるのかもしれない」
これはもっと問題発言のような気がしますね。(苦笑)
しかし著者は日本を愛しており、以下のように述べています。
「日本語には『住めば都』という言葉があるが、私は年を追うごとに日本に愛着がわき、いまや日本が大好きである。相撲というのは、日本の伝統と文化が凝縮されたものだが、知れば知るほど、日本文化には、奥深いところがたくさんある。また味わい深い言葉もある。
『実るほど頭を垂れる稲穂かな』
『勝って驕らず』
『相撲は、心・技・体』
などは素晴らしい言葉だ」
本書を読んで思ったのは、現役の横綱である著者は、日本文化としての相撲の良き解説者であるということです。第五章「伝統の継承著者」で、著者は相撲の本質について以下のように述べています。
「まず、相撲は格闘技の1つではないということだ。
競技であることは間違いないが、神事であることを見落としてはいけない。(中略)モンゴルにも国を挙げて行うナーダムという祭りがあるが、その祭事の1つとしてモンゴル相撲の競技が行われる。これは神様に捧げる儀式である。そういう意味では少し共通点がある。
さて、大相撲が『神事』であるという点だが、大相撲における『神』とは、八百万の神である。土俵のしつらえや力士が行う所作の1つ1つが、神と関わっている」
「土俵」については円形であることから、わたしは「日の丸」「円」「和」などに通じる、まさに日本人の「こころ」を「かたち」にしたものであると思っています。著者は、この土俵における神事について詳しく説明してくれます。
「実は、大相撲の場所の前日には、土俵祭を行う。相撲の神様を神聖な土俵にお招きするための神事なのだが、土俵の真ん中に日本酒、米、塩などを奉じて、場所中の安全を祈る。大相撲が開催される15日間の土俵は、『神様の庭』という捉え方だ。
これもテレビの大相撲中継では映らないので、知らない人が多いと思うが、千秋楽の表彰式が終わって、いちばん最後に土俵上で行司を新弟子らが胴上げするしきたりがある。これは『神送りの儀』という。15日間、見守っていただいた神様に感謝し、天にお送りするというのがその意味だ」
さらに著者は、神聖な土俵について以下のように述べます。
「とにかく土俵は神が降りる場所であるから、穢れを入れないのが大原則。だから、四股は土の中にいる魔物を踏みつぶす所作であるし、取組の前に塩をまくのは、土俵に穢れを入れないためと、己の穢れをはらい、安全を祈るためである。立合いで手をつくように厳しく言われるようになったが、それにはちゃんと意味があり、悪霊を追い祓う所作なのである。
勝負に勝って、懸賞金を受け取る手刀には、勝負の三神への挨拶だ。手刀をする場合、手は左、右、中央の順に動くが、三神とは、左=神産巣日神、右=高御産巣日神、中央=天御中主神を意味する。手刀とは、それらの神への感謝の意を示す作法である」
神事としての相撲のシンボルである「土俵入り」についても述べます。
「土俵入りの意味としてまずあげられるのは、地面の下の悪霊を踏み潰すことである。柏手を打ち四股を踏む。そうすることで、地鎮、つまり地の神を鎮める目的がある。さらに、土俵を活性化させ、五穀豊穣を願う意味もある。『せり上がり』は見せ場の1つである。大きく四股を踏み、不知火型ならば、両腕を広げ、足を地面に擦りつけながらぐいぐいとせり上がっていく。
そして、上に向いていた手のひらをサッと返す。それは何の意味があるかというと、腕の上に載せた600貫の邪気を持ち上げてはねのけるための所作である」
では、横綱が土俵入りをすることが、なぜ神事となりうるのでしょうか? その問いに対して、著者は「横綱が力士としての最上位であるからだ」と即答し、以下のように述べます。
「そもそも『横綱』とは、横綱だけが腰に締めることを許される綱の名称である。その綱は、神棚などに飾る『注連縄』のことである。さらにその綱には、御幣が下がっている。これはつまり、横綱は『現人神』であることを意味しているのである。横綱というのはそれだけ神聖な存在なのである」
著者は、相撲の所作を細かく見ていくと、日本文化のいろいろな側面を垣間見ることができて勉強になるとして、以下のように述べています。
「たとえば、『作法』についても、さまざまな意味合いがある。
まず、呼び出しに名前を呼ばれ土俵に上がり、水をつけられ、口や体を拭いて塩をまく。水、塩、どちらも清めるためのものである。相撲が膠着状態になって4、5分たっても勝負がつかない場合に、『水入り』になるが、このときにつけるのが『力水』という。これは水が持つ生命力を力士に流し込むという意があるらしい」
さらに著者は、相撲の魅力について以下のように語ります。
「相撲には、芸能的な要素を含んでいることもあって、優雅さというか、美しさが随所にちりばめられている。
たとえば花道である。歌舞伎にも花道があるが、由来は平安時代にさかのぼるそうだ。平安時代には、天皇が宮中で相撲を観覧する相撲節会という行事があったそうだが、力士(相撲人)の出入り口は青竹で垣根がほどこされ、左右二手に分かれていた。左側から出場する力士は葵の造花をさし、右側から出場する力士は夕顔の造花を髪にさしていた。ちなみに、大関、横綱と対戦する場合、下位の力士が先に入場するのが礼儀となっている」
著者は、相撲には「美しさ」が大切であるとして、次のように語ります。
「美しさと厳しさ、雄々しさと色気、そして番付を上げていく中で漂ってくる力士の品格・・・・・・そこに大相撲の深さや魅力があると思う。
相撲とは、このような伝統文化であるから、たんなる勝負ではない。土俵上の所作や態度から滲み出る『美しさ』を大事にしなければならない。
細かな話をするようだが、たとえば、塩のまき方も、ぞんざいであってはならない。相撲は『礼に始まり礼に終わる』というのが原則であるから、蹲踞から柏手、仕切りはもちろんのこと、正々堂々と戦う姿勢、そして花道を戻るところまで、すべて礼を尽くしたものでなくてはならない」
伝説の名横綱・双葉山が「双葉山相撲道場」を開設したとき、安岡正篤が「力士規七則」というものを作りました。これは吉田松陰の「士規七則」にあやかったものだそうですが、その五条には「人にして礼節なきは禽獣にひとし。力士は古来礼節をもって聞ゆ。謹んでその道の美徳を失ふことなかれ」と記されています。
2008年5月(東京)場所の朝青龍戦で、著者は土俵上で睨み合いをして非難を浴びたことがありますが、そのときにこの「力士規七則」の五条を聞かされたそうです。著者は、「相撲は神事としての側面をもち、日本の伝統が強く反映されたものだ。それを横綱である私が積極的に伝えていかなければならないと思っている」と述べています。
本書は相撲の素晴らしさを力説した好著ですが、読了したわたしは「ここに書かれていることを、ぜひ著者に実行してほしい」と思いました。著者は神事としての相撲の最上位にある横綱の神聖さを説きます。そういう神聖な立場の横綱には、当然ながら「品格」が求められます。しかし残念ながら、この本を刊行してから4年後の現在、白鵬の土俵での態度が物議を醸しています。ずばり、「ダメ押し」や「懸賞金の取り方」が問題視されています。また、「カチ上げ」「張り手」「立ち合いの駆け引き」「土俵入りのアレンジ」など、最近の白鵬の土俵での態度は荒れているのが事実です。何よりも、白鵬が取組前に汗をタオルで拭かないために、相手力士がすべるという品格以前の振る舞いが問題になっています。前人未到の大記録達成を前にして、白鵬は実力と品格を兼ね備えた真の大横綱になってくれることを1人の相撲ファンとして切に願っています。