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2015.02.19
『異端の数ゼロ』チャールズ・サイフェ著、林大訳(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)を読みました。
「数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念」というサブタイトルがついています。帯には「これが面白くないという人は、ゼロを全く知らない人か神かどちらかだろう―小飼弾(ブログ『404 Blog Not Found』より)」と書かれ、さらには「〈数理を愉しむ〉シリーズ」「2009年度日本数学出版賞受賞」とあります。
小飼弾氏の推薦の言葉が入った本書の帯
またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「この数字がすべてを狂わせる―。バビロニアに生まれ、以来、無を拒絶するアリストテレス哲学を転覆させ、神の存在を脅かすが故にキリスト教会を震撼させ、今日なおコンピュータ・システムに潜む時限爆弾として技術者を戦慄させるゼロ。この数字がもたらす無と無限は、いかに人類の営みを揺さぶり続け、文明を琢磨したのか?数学・物理学・天文学から宗教・哲学までを駆け巡る、一気読み必至の極上ポピュラー・サイエンス」
一時期、わたしは「ゼロ」のことばかり考えていました。なぜかというと、この読書館でも紹介した『0葬』のせいです。同書の著者である島田裕巳氏が提案されている「0葬」とは葬儀も行わない、火葬場で骨も灰も持ち帰らない、墓も作らないというものです。唯物論の極みといえますが、このような考え方が話題を集めているというので、非常に憂慮しています。かつて島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』に対抗して、わたしは『葬式は必要!』という反論書を世に問いました。今度も、『0葬』に対する反論の書として『永遠葬』を上梓する次第です。
「0葬」という言葉は、百田尚樹氏の大ベストセラー『永遠の0』を意識していると言えます。相手が「0」ならば、わたしは「永遠」で勝負したい。もともと、「0」とは古代インドで生まれた概念です。古代インドでは「∞」というサンレーマークに通じる概念も生み出しました。この「∞」こそは「無限大」であり「永遠」です。もともと、わたしは「0」というのは「無」のことですが、「永遠の0」は「空」を意味すると考えています。話が脱線しました。本書『異端の数ゼロ』に戻ります。
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
第0章 ゼロと無
第1章 無理な話―ゼロの起源
第2章 無からは何も生まれない―西洋はゼロを拒絶する
第3章 ゼロ、東に向かう
第4章 無限なる、無の神―ゼロの神学
第5章 無限のゼロと無信仰の数学者―ゼロと科学革命
第6章 無限の双子―ゼロの無限の本性
第7章 絶対的なゼロ―ゼロの物理学
第8章 グラウンド・ゼロのゼロ時―空間と時間の端にあるゼロ
第∞章 ゼロの最終的勝利
付録A 付録B 付録C 付録D 付録E
「訳者あとがき」
第0章「ゼロと無」には、「さまざまな文化がゼロに対して身構え、さまざまな哲学はゼロの影響のもとで崩れさった。ゼロは他の数とは違うからだ。ゼロは、言語に絶するもの、無限なるものを垣間見させてくれる。だからこそ、恐れられ、嫌われてきた―また、禁止されてきたのだ」と書かれています。
また著者は、ゼロの本質について以下のように述べています。
「ゼロが強力なのは、無限と双子の兄弟だからだ。二つは対等にして正反対、陰と陽である。等しく逆説的で厄介だ。科学と宗教で最大の問題は、無と永遠、空虚と無限なるもの、ゼロと無現大をめぐるものである。ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった。あらゆる革命の根底にゼロ―そして無限大―が横たわっていた」
さらに第0章の最後に、著者は次のように書いています。
「ゼロは東洋と西洋の争いの核心にあった。ゼロは宗教と科学の闘いの中心にあった。ゼロは自然の言葉、数学でもっとも重要な道具となった。そして、物理学でもっとも深刻な問題―ブラックホールの暗黒のコアとビッグバンのまばゆい閃光―はゼロを打ち負かす闘いなのだ。
だが、ゼロは、その歴史を通じて、排斥されながらも、それに立ち向かうものを常に打ち負かしてきた。人類は力づくでゼロを自らの哲学に適合させることはできなかった。それどころか、ゼロは宇宙に対する―そして神に対する―人類の見方を形づくったのだ」
あと、本書の内容を抜書き風に紹介していきたいと思います。
第2章「無からは何も生まれない―西洋はゼロを拒絶する」には、「無限と空虚には、ギリシャ人を恐れさせる力があった。無限は、あらゆる運動を不可能にする恐れがあったし、無は、小さな宇宙を1000個もの破片に砕け散らせる恐れがあった。ギリシャ哲学は、ゼロを斥けることによって、自らの宇宙観に2000年にわたって生きつづける永続性を与えた」
第4章「無限なる、無の神―ゼロの神学」には、こう書かれています。
「ゼロと無限は、16世紀と17世紀に繰り広げられた哲学上の戦争のまさに中心にあった。無はアリストテレス哲学を弱め、無限に大きな宇宙という考えは、クルミの殻のような宇宙を打ち砕く力になった。地球は神の創造物の中心にはありえなかった。教皇庁は信者を支配する力を失い、カトリック教会はいっそう強くゼロと無を斥けようとしたが、ゼロはすでに根を下ろしていた。どんなに信心深い知識人も―イエズス会士たちも―古いアリストテレス的な考え方と、ゼロと無、無限大と無限なるものを受け入れる新しい哲学の間で引き裂かれていた」
ここで登場するのがイエズス会士であった哲学者デカルトです。デカルトにとってのゼロは無限と同じく、神の領域に潜むものでした。本書には、デカルトの考えが次のように述べられています。
「古代人と同じく、デカルトは、無からは何も、知識さえも創造できないと考えた。これは、あらゆる考え―あらゆる哲学、あらゆる概念、あらゆる将来の発見―は、人が生まれたときにその胸のなかにすでに存在しているということだ。学習とは、かつて定められた、宇宙の仕組みについての法則を発見する営みにほかならない。私たちの心のなかには無限にして完全なものの概念があるから、この無限にして完全なもの―神―は存在するはずだと、デカルトは論じた。他のものはすべて神以下である。有限なのだ。それらはすべて神と無の間のどこかにある。無とゼロを組み合わせたものだ」
しかし、ゼロはデカルトの哲学に繰り返し登場しましたが、それでも彼は「無」すなわち究極のゼロは存在しないと主張続けました。本書には次のように書かれています。
「反宗教改革の申し子だったデカルトは、教会がアリストテレスの教義にもっとも頼っていたときにアリストテレスについて学んだ。その結果、デカルトは、アリストテレス哲学をたたきこまれ、真空の存在を否定した」
第6章「無限の双子―ゼロの無限の本性」にはこう書かれています。
「ゼロと無現大は同じコインの裏と表である。対等にして反対、陰と陽、数の世界の両極端にあって、等しい力をもつ対立物だ。ゼロの厄介な本性は無限大のもつ奇妙な力とともにあり、ゼロを探ることによって無限なるものを理解することが可能である。このことを学ぶために、数学者は虚の世界に乗り出さなければならなかった。それは、円が直線、直線が円であり、無限大とゼロが両極にある奇怪な世界だ」
「ゼロと無限大は、あらゆる数を飲み込む闘いを永遠につづける。マニ教の悪夢のように、両者は数の両極にあって、小さなブラックホールのように数を吸い込む」
第7章「絶対的なゼロ―ゼロの物理学」の最後には、次の通りです。
「量子力学と一般相対性理論によれば、ゼロの力は無限大であり、人々がその潜在的な力を開発できればと思うのは意外ではない。だが、今のところ、無からは何も出てこないようだ」
また、第8章「グラウンド・ゼロのゼロ時―空間と時間の端にあるゼロ」の最後には、次のように書かれています。
「ゼロは、物理法則を揺るがすほど強力である。この世界を記述する方程式が意味をなさなくなるのは、ビッグバンのゼロ時であり、ブラックホールのグラウンド・ゼロだ。しかし、ゼロは無視できない。ゼロは私たちの存在の秘密を握っているばかりでなく、宇宙の終わりの原因にもなるのだ」
そして、本書の結びとなる第∞章「ゼロの最終的勝利」の最後には、次のように書かれています。
「科学者が知っているのは、宇宙が無から生まれたこと、そして無に帰るということだけである。宇宙はゼロからはじまり、ゼロに終わるのだ」
本書に書かれている最後の言葉を読む限り、わたしたち人間はゼロの呪縛から逃れられないような気もします。本書でいう「無限大」とは「永遠」と同じ意味であると考えていいですが、わたしは「永遠」を考えるときには数学上の概念だけでとらえるのは間違っていると思いました。「永遠」は神話あるいは儀式という発想からとらえる必要があるのではないでしょうか。人類にとって、神話も儀式も不可欠であることは言うまでもありません。
わたしが唱える「永遠葬」という言葉には、「人は永遠に供養される」という意味があります。日本仏教の特徴の1つに、年忌法要があります。初七日から百ヶ日の忌日法要、一周忌から五十回忌までの年忌法要です。渡部先生は先日、郷里の山形県鶴岡で亡き父上の四十回忌を行われたそうです。五十回忌を終えた場合、それで供養が終わりというわけではありません。故人が死後50年も経過すれば、配偶者や子どもたちも生存している可能性は低いと言えます。そこで、死後50年経過すれば、死者の霊魂は宇宙へ還り、人間に代わって仏様が供養してくれるといいます。つまり、五十回忌を境に、供養する主体が人間から仏に移るわけで、供養そのものは永遠に続きます、まさに、永遠葬です。ちなみに、「世界最高の宗教学者」と呼ばれたエリアーデは「儀式とは永遠性の獲得である」という言葉を残しています。やはり、「0」を超えるキーワードは「永遠」しかありません!
わたしは本書を読んで、そのことを再確認しました。
また、本書には哲学や数学の概念が次から次に出てきますが、わたしは拙著『法則の法則』(三五館)を書いたときのことを思い出しました。