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2015.04.06
名著『共同幻想論』に続き、同書の最高の解説書として名高い『吉本隆明「共同幻想論」の読み方』宇田亮一著(菊谷文庫)を読みました。著者は1953年兵庫県生まれの広島県育ち、大阪大学経済学部経済学科卒業後、キリンビール(株)に入社。山口支社長、(株)キリンビジネスシステム取締役社長、横浜工場副工場長などを経て、退職。現在は、臨床心理士を務める傍ら、立教大学心理教育相談所の研究員でもあります。
本書の表紙に書かれたコピー
本書の表紙には、「最高の吉本入門書」として、「なぜ集団を意識した人間は個人を押しつぶすのか、吉本が『共同幻想論』で追求した問題を、心のありかたとしてとらえや名著。あたらしい吉本理解と世界像がここからはじまる」と書かれています。
アマゾンの出版社からのメッセージには、次のように書かれています。
「吉本隆明のもっとも重要な著作『共同幻想論』を、いままでにないわかりやすさで解説した最高の吉本入門書。 図も豊富に取り入れ、ヴィジュアルで吉本思想が理解できます。”なぜ集団を意識した人間は個人を押しつぶすのか”という人間にとって本質的な問題にも答えます。臨床心理士の視点から語られた本書は、学校、企業、家族、恋愛などの場面で、他者との”心のあり方”に悩む現代人に多くの示唆を与えるはず。『共同幻想論』のその後の可能性についても触れ、古くからの吉本ファンも満足できる内容になっています」
本書の目次構成は、以下のようになっています。
「はじめに」
第一章 “共同幻想”って何だろう
第二章 『共同幻想論』の”凄さ”って何だろう
第三章 『共同幻想論』を読む
第四章 『共同幻想論』は”近未来”を予言する
「あとがき」
「主要な引用・参考文献」
「はじめに」の冒頭で、著者は「『共同幻想論』は世界水準の傑作です。『共同幻想論』によって、私たちは”人類の未来予想図”を手に入れることができます」と堂々と宣言しています。また、以下のように書いています。
「共同幻想をとりあえず共同観念・共同規範とよぶことにすれば、ひとりの人間にとって、共同幻想(共同観念・共同規範)は、ある時は”いきがい”や”張り合い”ともなりますが、ある時は”心の不満”の原因ともなるのです。”心の不満”は共同幻想(共同観念・共同規範)と密接な関係を持っています。ひとりの人間が共同幻想(共同観念・共同規範)に自分をあわせようとして(同調させようとして)、うまくいかなくなる”心の不調”が強迫性障害、うつ病、不安障害などです。ひとりの人間が共同幻想(共同観念・共同規範)に自分を押しつぶされそうになる”心の不満”が統合失調症、自閉症、ひきこもり、対人恐怖症などです」
第一章「”共同幻想”って何だろう」では、著者は『共同幻想論』のキーワードとなる「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」という概念を説明します。
「共同幻想とは(集団の共同観念・共同規範であると同時に、構成員にとっては、つながり・怖れ・縛りの源泉となるもの)です。対幻想とは〈特定の二者の対観念・対規範であると同時に、当事者ふたりにとっては、つながり・怖れ・縛りの源泉となるもの〉です。個人幻想とは〈個人観念・個人規範であると同時に、個人の実存の源泉となるもの〉です。
そして、もうひとつ忘れてはいけない大事なことは、集団であればどんな集団であっても共同幻想が生じ、一対のペア(二者間)であればどんなペアであっても対幻想が生じるということです」
著者によれば、吉本隆明は「”社会”は”共同幻想”によって、”家族”は”対幻想”によって形成される」と考えるといいます。そして、これは人間的本質であり、東洋人であろうが、西洋人であろうが関係なく”普遍的”にそうだという考えだといいます。また著者によれば、本物の近代主義者は共同幻想、対幻想、個人幻想という考え方を受け入れないそうです。彼らにとって人間は徹底的に”個”だというのです。
本物の近代主義者といえば、たとえば丸山真男の名前が浮かびます。著者は、丸山真男と吉本隆明の違いについて次のように書いています。
「戦後、日本の国体が”天皇制”から”民主制”に変わった時、丸山真男さんは『日本国民は”民主制”を大事にすべきだ』と訴えました。丸山さんは『戦前の”天皇制”という〈不合理で宗教的な国体〉から、戦後、”民主制”という〈合理的で理詰めの国体〉に移行したのに、なぜ、君たちは”民主制”を大事にしないのか』と大衆(国民)にむかって語ったのです。
これに対して、吉本さんは”民主制”を宗教のように崇めるのであれば、”民主制”は”天皇制”と同じだと語ったのです。宗教という意味では同じだと語ったのです。そして、吉本さんは言い放ちます。『もし”民主制”になんらかの価値があるとすれば、それは崇めなくてもよいからだ』と」
近代主義者は、意識的には”共同幻想を拒否”しているのに、結果的には無意識のうちに”民主制”という共同幻想(宗教)を求めているのです。
著者は、『共同幻想論』は単なる国家論ではないとして、その基本的枠組みを以下のように説明しています。
「吉本さんは人類の歴史、十万年という時間をまず視野に入れたうえで、人間社会の”見取り図”を描きます。そして、この”見取り図”から国家を論じるのです。何が言いたいのかといえば、日本における初期国家の成立は古代(弥生時代)だということです。そうだとすると日本の国家は、人間の歴史十万年の中で、たかだか数千年程度の時間しかもっていないということになります。吉本さんの考えの起点には『人類は何万年もの間、国家を必要としなかったのに、なぜ、数千年前から国家が必要になったのだろうか』という問いがあるのです。言い換えると、共同幻想が長い年月の中でどういう経路をたどって国家に結晶していくのかに注目するのです。つまり、国家の存在そのものを自明のものとして論じないのです。これが『共同幻想論』の基本的枠組みです」
第二章「『共同幻想論』の”凄さ”って何だろう」では、著者は「〈アジア的段階〉の特徴は上位・下位の共同幻想が強く結びつくことにある」として、以下のように述べています。
「古代日本において、大和朝廷(統一部族共同体=非血縁共同体)が立ちあらわれてきた時、この支配的部族共同体は支配下の各部族・氏族(血縁共同体)の共同幻想の内部構造には立ち入りませんでした。特に日本における”アジア的”特質は、単に最上位の共同幻想が下位の共同幻想の内部構造に立ち入らないだけでなく、祭祀・儀礼・宗教を通じて上位・下位の共同幻想が強く結びつくことに際立った特色があるのです。この祭祀・儀礼・宗教的なつながりの強さこそ、日本の共同幻想の特質なのです」
第三章「『共同幻想論』を読む」では、「他界論」を取り上げ、「”あの世”が”この世”の生き方を規定する」として、以下のように述べます。
「『他界論』の主要なテーマは、”死とは何か” “他界(あの世)とは何か”です。吉本さんは死について、こう自問します。『”死”は決して自分では体験できず、他者の死を通じて想像するしかないものである。本来、体験できず想像するしかないものは”妄想”である。しかし、人間は、家族や知人の生理的な”死”に際して誰もが悲嘆し、自分の”死”を想像して怖れたり不安にとらわれる。これは一体なぜなのだろうか。もし、”死”が”妄想”ならば、いろんな”妄想”があっていいはうではないか』と。吉本さんはこの問いに対してこう自答します。『”死”は共同幻想として存在しているのだ』と。これが吉本さんの”死”に対する基本的な考え方です。死を”絶対恐怖の共同性”として位置づけるのです」
著者は、吉本隆明の”あの世”に対する考え方にも言及します。
「”死”のむこう(彼岸)に”あの世”があります。吉本さんは”あの世”を臨死体験から導き出しますが、臨死体験を体験していない人にとって”あの世”は”死”と同じく体験できず想像するしかない世界です。つまり”あの世”も死と同じく共同幻想なのです。ただ、”あの世”は必ずしも、”絶対恐怖の共同性”ではありません。”絶対安心の共同性”でもありうるのです。地獄ともなりうるし、浄土(天国、極楽)ともなりうるのです。いいかえると、人々は”絶対安心の共同性”としての”あの世”を祈り、願うことになります。ここにあの世の問題がこの世の規範に転化する契機が生じます。つまり、”この世”で善行を積めば、浄土(天国、極楽)へ行けるという宗教規範が生じてくるのです。”あの世”の問題が”この世”の生き方の宗教的規範へ『べき』『べからず』に転化するのです」
ここまでが「他界論」前半の概要です。
「他界論」後半は、”あの世”の時間制、空間性がテーマとなっており、著者は以下のように要約しています。
「”あの世”の時間性とは『霊所』(観念的場所)のことであり、空間性とは『墓所』(現実的場所)のことです。言い換えると、『霊所』とはメタフィジカルな”あの世”のことであり、『墓所』とはフィジカルな”あの世”のことです。原始未開社会の人あっちは”土地所有”とは無縁でしたから、”あの世”には空間性は存在しませんでした。”あの世”は時間制(霊性)としてのみ存在したのです。これが『霊所』です。”あの世”が”時間性(霊性)”としてのみ存在して”空間性”を持たなかったということは『”あの世”は〈どこにもない〉と言ってもいいし、〈いたるところにある〉と言ってもよい』ことだったのです。
これに対して、前古代社会では原始農耕に伴い”定住”が始まります。定住に伴い、”あの世”にも空間性が生じます。『ダンノハナ』や『蓮台野』という地名の場所は、かつて”あの世”が空間性として存在した場所をさしています。これが『墓所』です。私たちは原始農耕(前古代社会)を歴史年表上、約六千年前から始まったと規定しましたから、”あの世”の空間性の問題もこれ以降、生じてきたと考えることができるでしょう」
第三章では「対幻想論」を取り上げた「共同幻想に”男女神”を組み込むことには深いわけがあった」が興味深かったです。吉本隆明は、前古代社会において「なぜ、共同幻想と対幻想とは分離したのか」という本質的な問題に焦点を当てますが、著者は以下のように述べています。
「吉本さんが注目するのは〈時間〉です。そもそも人間が〈時間〉の観念をもったのは原始農耕によってです。原始農耕を始めたことで、人間は穀物が育ち、枯死し、その種を地中に埋めることで、そこから、また穀物が芽生えるという四季の移り変わりを〈時間〉としてとらえるようになるのです。そして、穀物のサイクルを〈時間〉としてとらえるようになると、人間は女性が子供を産み、育て、老いて死ぬことも〈時間〉として把握できるようになります。この時、人間にとっての〈時間〉とは何よりも子供を産む女性によって支えられていました。そのため、穀物の〈時間〉と女性の〈時間〉が重ね合わせられ、女性は穀物母神になぞらえられたのです」
第四章「『共同幻想論』は”近未来”を予言する」では、史的唯物論では歴史は予測できないとして、以下のように述べています。
「”史的唯物論”とは『資本主義社会は資本家と労働者の階級闘争によって、必ず共産主義社会になる』という考え方です。吉本さんは、これをマルクス主義者の”宗教”だといいます。そして、それはすでに完全に破綻した”宗教”です。吉本さんは、経済学というものはマルクス経済学に限らず近代経済学も含めてすべて、『経済社会構成をこういうふうに運営(マネジメント)したい』『こう運営することが一番、理想なんだ』という主義・主張(信条・信念)だと思います。だから、こんなもので歴史を予測してはいけないと言うのです、こんなもので歴史は予測できないと言うのです」
それでは、何に基づけば、歴史を予測することができるのでしょうか。それがマルクスの”自然哲学”であるというのです。著者は、次のように書いています。
「『人間は”すべての非有機的身体(外界=自然)を有機的身体に変えようとする生き物であり、これをやめることはできない』ということが歴史の予測に使えるというのです。ここから”歴史とは、単なる偶然の積み重ねとはいえない”という考え方が出てきます。歴史は単なる事実の積み重ねではなく、ひとつの大きな意志(非有機的身体を有機的身体にするという意志)をもつものだという考え方が立ちあらわれてくるのです」
著者によれば、ここが吉本隆明とミシェル・フーコーの考え方の違いであり、吉本は〈ヘーゲルからマルクスへ〉という文脈を手放しません。
「”近未来”社会とはどのようなものか」というテーマで、著者は述べます。
「問題はマルクスの”自然哲学”から、具体的にどのような手立てで”近未来”を予想するのかということです。これが重要なのです。結論を先にいえば、吉本さんは”産業構成比”から”未来社会”を読み解こうとします、第一次産業(農業)、第二次産業(工業)、第三次産業(サービス業)の構成比から”未来社会”を読み解こうとするのです。吉本さんは『”産業構成比”は人間社会の移り変わりを示す”もっとも確かな指標”だ』と言います」
著者は、さらに”産業構成比”について以下のように述べます。
「”産業構成比”を読み解くうえで大事なことがふたつあります。ひとつは第一次産業から第二次産業へ、第二次産業から第三次産業へという産業構成比の移り変わりは、マルクスがいう”自然哲学”のプロセスであり、これは不可逆のプロセスだということです。あとで実際に数字をみますが、産業構造は農業から工業へ、工業からサービス業へと重点が移って生きます。この進行を自然史過程(必然のプロセス)としてとらえるということです。
大事なことのもうひとつは、産業構成比(人口)を”生産と消費”という観点あらとらえるということです。第一次産業と第二次産業は”モノづくり”の産業ですが、第三次産業は”サービス”の産業です。このことが意味することは、第一次産業と第二次産業の就労者は生産活動に従事していますが、第三次産業(サービス業)の就労者は(生産、消費という観点からみれば)生産活動には従事していないということです。”生産と消費”という観点から言えば、第三次産業就労者は”消費者”としてのみ存在しているということになります」
吉本隆明は、このような第三次産業中心の産業構造を”消費資本主義社会”と呼びました。そして、彼は「”消費資本主義社会”を通過することによって前古代が見えてくる」という読み解き方を行いました。これは、『共同幻想論』の現代版とされた『ハイ・イメージ論』に受け継がれていきます。著者によれば、『共同幻想論』が〈国家生成〉に関する論考だとすれば、『ハイ・イメージ論』は〈国家解体〉に関する論考となります。
ここで著者は、ドラッカーの名前をあげ、以下のように述べています。
「ピーター・ドラッカーは『今後、第二次産業(工業)はいずれ、現在の第一次産業(農業)の構成比と同じ水準にまで下がっていく』と述べています。つまり、第三次産業は、さらに第四次産業、第n次・・・というふうに新たな産業領域を生み出していくことになるでしょう。そのことは今後、さらに消費者として存在する就労者の割合が拡大していくことを意味しているのです。将来、日本の就労人口を仮に100人だとすれば、90人以上が生産活動に従事していない事態が起こりうるのです。だとすれば、現代人の存在様式はさらに原始未開、前古代に似てくるのです。
最近、経済学において”贈与”という考え方が改めて注目をあびていますが、これは原始未開社会での”贈与”と無縁ではありません。今後、”贈与”という考え方は、さらにクローズアップされていくことになるでしょう」
そして、著者は以下のように具体的に歴史を予測します。
「世界レベルで『国家の次の共同幻想』の姿が見えはじめるのはいつごろでしょうか。私は2030年までにそれがはっきりとみえてくると思っています。その根拠は2030年までに、たぶん中国の第三次産業就労者の構成比が50%を超えるからです。そうだとすれば、中国の政治体制は”内的に”大きく変わらざるをえないのです。それは表面上、”人権”の問題として発火するかもしれませんが、本質はそこにあるのではありません。『国家という共同幻想』が内的に揺さぶられるのです」
本書を読んで、わたしは『共同幻想論』という書物が時代を超えた、また場所を超えた普遍性を持つことに改めて驚きました。著者は最初に「『共同幻想論』は世界水準の傑作です。『共同幻想論』によって、私たちは”人類の未来予想図”を手に入れることができます」と述べましたが、まさにその通りであると思いました。