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2015.12.29
『生と再生』ミルチャ・エリアーデ著、堀一郎訳(東京大学出版会)を再読しました。
「イニシエーションの宗教的意義」というサブタイトルがついています。原書は1958年に刊行されていますが、この邦訳は71年に初版が刊行され、わたしは93年に刊行された第5刷を読んでいます。
一般に「成年式」とか「加入儀礼」とか訳されることの多い「イニシエーション」については、この読書館でも紹介したエリアーデの代表作『聖と俗』においても言及されていますが、本書にはさらに詳しく書かれています。
本書の「目次」は以下のような構成になっています。
「日本語版への序」
「序説」
第一章
未開宗教における加入礼秘儀
第二章 イニシエーション的試練
第三章 部族儀礼から秘儀宗教へ
第四章 個人的加入礼と秘儀集団
第五章
英雄とシャーマンのイニシエーション
第六章
高等宗教における加入礼の型
「結びの言葉」
「おわりに」
「訳者あとがき」
「序論」の冒頭で、著者エリアーデは以下のように述べています。
「近代世界の特色の1つは、深い意義を持つイニシエーション儀礼が消滅し去ったことだとよくいわれる。伝承社会では第一義的な重要性を持つこの儀礼も、近代の西欧世界ではめぼしいものは実際上存在していない。たしかに、いくつかのキリスト教団には、程度の差はあれ、構造上イニシエーション的な秘儀の痕跡を残している。洗礼式は本質的にもイニシエーション儀礼だし、司祭叙任式も1つのイニシエーションから成っている。しかし忘れてはならないのは、キリスト教がこの世で勝利を収め、世界的宗教たり得たのは、じつにみずからをギリシア・東方的(オリエンタル)な密儀宗教の風土から切り離し、万人にかなう救済宗教たることを宣言したからだということである」
「イニシエーション」とは何か、著者は以下のように述べます。
「イニシエーションという語のいちばんひろい意味は、一個の儀礼と口頭教育(oral teachining)群をあらわすが、その目的は、加入させる人間の宗教的・社会的地位を決定的に変更することである。哲学的に言うなら、イニシエーションは実在条件の根本的変革というにひとしい。修練者(novice)はイニシエーションをうける以前に持っていたものとなったくちがったものを授けられる。きびしい試練をのり越えて、まったく『別人』となる。いろいろのイニシエーションの範疇のなかで、成人式(Puberty Initiation)はとくに前近代人には大切なものと考えられていた」
続けて、著者はイニシエーションについて述べます。
「こうした『過渡の儀礼』(”transition rites”)はその部族の全少年に義務づけられている。おとなの仲間入りを許される権利を獲得するために、少年は一連のイニシエーション的苦業を通過しなければならない。彼がその社会の責任あるメンバーとして認められるのは、これらの儀礼の力によるのであり、またその苦業が課すところの啓示に負うのである。イニシエーションは志願者(candidate)を人間社会に、そして精神的・文化的価値の世界に導き入れる。彼はおとなの行動の型や、技術と慣例(制度)を習得するだけでなく、またその部族の聖なる神話と伝承、神々の名や、神々の働きについての物語を学ぶ。何よりも、彼はその部族と超自然者との間に、天地開闢のときの始めにあたって樹立された神秘的な関係について知らされるのである」
儀礼とはもともと、宇宙開闢の神話を再現することだとされます。
これについて、著者は以下のように述べています。
「宇宙開闢を儀礼的にくりかえすことは、カオスへと象徴的に逆戻りすることがつねに先行する。新たに創造されるためには、古い世界はまず滅ぼされなければならない。新年に結びついて演ぜられる種々の儀礼には、2つの主要なカテゴリーがあてはめられる。すなわち、第一はカオスへの逆転をしめす儀礼(すなわち、火を吹きけすこと、『悪』と罪の祓浄、慣習的行為の傾錯、オージー〈Orgies〉、死者のこの世への帰還)であり、第二は天地開闢を象徴する儀礼(新しい火を点ずること、死者のあの世への出発、神々がこの世をつくりなせるわざのくりかえし、きたるべき年の天候の厳粛な予報)である。イニシエーションの儀礼の筋書きでは、『死』はカオスへの一時的な逆戻りにあたる。したがって、それは存在様式の終焉―無知と子供の無責任性の様式が終焉したことの典型的表現である。イニシエーションでの『死』は新しい人間形成を目的とする次々の啓示がやがて書き込まれる真白な石板、タブラ・ラサ(tabula rasa)を準備することなのだ」
さらに著者は「イニシエーションと死」について述べます。
「イニシエーションにおける『死』は、精神生活の始原に欠くことのできぬことである。その機能は、それがどのように準備されるのかという点に関連して理解されなければならない。すなわちより他界存在様式への誕生ということである」
著者はまた、イニシエーションにおける「死」はしばしば、暗黒、宇宙的な夜、大地の胎、小屋、怪物の腹などによって象徴されると指摘し、次のように述べています。
「これらすべての形像は全体の帰無(例えば、近代社会に属する人々が死について考えるような意味での)というよりは、むしろ前形態的状態、存在の潜在的様式(天地開闢以前のカオスと互いに補足しあう)への逆転をあらわすのである。儀礼上の『死』のイメーヂとシンボルは、植物の発芽形態(germination)、動物の胎生形態(embryology)といったものと密接に関連せられている。それらはすでに準備段階における新生命をしめす」
第一章「未開宗教における加入礼秘儀」では、一般的に宗教史ではイニシエーションを3つの範疇もしくは型に分けることを紹介します。
第一の範疇は集団儀礼から成るもので、その機能は幼年期もしくは少年か聖人(大人)への移行(過渡)させることで、特定社会の全成員に義務づけられている。民族誌の文献では、これらの儀礼を「成人式」(puberty rites)、「部族加入礼」もしくは「年齢集団加入礼」と呼びます。
第二の範疇は秘儀集団、ブント(Bund)すなわち講集団に加入するためのあらゆる型の儀礼を含みます。秘儀集団は性によって限定されており、それぞれの秘密が漏れないように極度に用心します。ほとんどは男性の秘密講を構成しますが、女性だけの秘儀集団というものも存在します。
第三の範疇は、神秘的召命に関しておこるもの、すなわち、未開宗教の段階における呪医やシャーマンの召命です。この第三の範疇の明らかな特徴は、この召命に含まれる個人的体験の重要性です。
これら3つの範疇を紹介した後、イニシエーションの本質が述べられます。
「イニシエーションは人類の歴史でもっとも重要な精神現象の1つをしめしている。それは個人の宗教生活、『宗教』という語の近代的意味における宗教生活だけではない。その個人の全生活を含む行為なのである。未開社会や古代社会にあって、人がどのような人となり、またならねばならぬか―つまり神の生活に対して開かれてある存在とならねばならぬかは、まさにイニシエーションを通してであって、したがって、人が生れてきたその文化にあずかり得る人となるのである。なぜならやがてふれるように成年式は何よりもまず聖の啓示をしめし、そして、未開人の世界では、この型はわれわれが現在、宗教として理解しているあらゆることがらのみならず、またその部族の神話的・文化的伝承の全体を意味するからである」
さらに著者は、イニシエーションの本質を述べます。
「ひじょうに多くの場合、成人式儀礼はいろいろの仕方で性的なるものの啓示を含んでいる―しかもすべての前近代世界では、性欲もまた聖にかかわるのである。要するに、イニシエーションを通じて志願者は自然の様式―幼児の様式―を超えて、文化的様式へと近づくのである。すなわち、志願者は精神的価値を教えられる。ある観点からすれば、原始世界にとっては、イニシエーションを通して人々ははじめて人間の地位(身分)に到達するのだともいい得よう。イニシエーションをうけるまでは、まだ宗教生活に入っていないのだから、まさしく人間の状態に十分あずかっているとはいえない。このゆえに前近代社会の成員にとってイニシエーションが決定的体験となるのだ。それは基本的な実存体験である。これを通して人はその全体としての存在様式を身につけ得るようになるからである」
第三章「部族儀礼から秘儀宗教へ」には「胎児のシンボリズムの多様な意義」という興味深い項があります。そこで著者は次のように述べます。
「未開人たちはつねに宇宙的脈絡で生命の起源を考える。世界の創造はすべての生きとし生けるものの規範的モデルを構成する。究極的な意味で生命のはじまりは世界の誕生にひとしい。太陽は夜ごとにいまだつくられざるもの、虚なるものの象徴たる死の暗黒と原初の海に突入する。これは母胎にいる胎児と加入礼用の小屋に隠される新入者のいずれにも似ている。太陽が朝昇るとき、この世は再生すること、あたかも加入者がその小屋から起ちあらわれる如くである。死者をほとんど胎児の姿勢で埋葬する風習は、死とイニシエーションと胎内帰還の間の神秘的な相互連関から説明できる。ある文化圏では、この密接な関連は要するに死をイニシエーションと同一視することになる。―死者もイニシエーションを施されると考えられるのだ」
続いて、著者は以下のように述べています。
「胎児の姿勢で葬るのは、新しい生命の始まりを強く希望することにもなる。それは単なる生物的次元へ還元されることを意味しない。なぜなら、未開人にとって、生きることは宇宙の聖性にあずかることである。このことはすべての加入礼と胎内復帰のシンボルがただ生物としての存在を引きのばそうとする欲求だけで解釈することの誤りを防ぐに足る。人間をただ生物学的存在とする考えは人類史上ではごく新しい発見で、それはまさに自然を根本的に非聖化することで始めて可能となったものである。この研究段階では、生命はいぜん聖なる実在である。思うに、一方で古代の儀礼とイニシエーション的『新生』のシンボル間、他方では長寿、精神的再生、神化のテクニークと歴史時代のインドやシナで見出される不死と絶対自由の観念との間にさえ、1つの連続のあることをあきらかにするものであろう」
「結びの言葉」で、著者は以下のように述べています。
「古代型の文化で、加入礼的死がすでにその起源神話によって正当化されていることを考察した。これは次のように要約されうる。すなわち、超自然者は再び『変えられた』生命を与えるために、人びとを殺して更新しようと試みている。いろいろの理由から人びとはこの超自然者を殺したが、のちにこの劇に啓示をうけて秘密儀典を祝った。もっと正確にいうと、超自然者の横死が中心の秘儀となって、新しい加入礼ごとに再現されるようになった。加入礼的な死はかくして、この秘儀の創始者である超自然者の死をくりかえすことになる。この原初の劇は加入礼の期間にくりかえされ、加入礼にあずかる者はまた、超自然者の宿命―その横死―を模倣する。この儀礼の予見するところから、死もまた聖化され、すなわち、宗教的価値を負わされることになるのである」
そして最後に、著者は以下のように述べています。
「死は超自然者の存在における本質的要素と評価される。儀礼的に死ぬことで、受礼者はこの秘儀の創立者の超自然的状況にあずかることになるのである。この評価を通して、死と加入礼とは相互に交換しうるものとなる。要するに、具体的な死は結局はより高い状態への過渡の儀礼に同化されるということになるのだ。加入礼的な死は、すべての精神的再生、霊魂の残存、その不死性にとっての『必要欠くべからざるもの』(sine qua non)となる。加入礼と儀典と原理が人類史上に持ってきたもっとも重要な結果のひとつは、この儀礼的死の宗教的評価が、ついに人びとをして本当の死の恐怖に打ち克たしめ、人間存在の純粋に霊的な残存の可能性に対する信仰に導いた点にある」
この最後の一文を読んで、わたしは「20世紀最大の宗教学者」と呼ばれたエリアーデの志のようなものを感じました。