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2015.12.30
『神話と夢想と秘儀』ミルチャ・エリアーデ著、岡三郎訳(国文社)を再読しました。
原書は1957年に書かれ、1972年に日本語版が出ました。エリアーデ比較宗教学の精髄を集めた論文集で、全9編が収録されています。
本書の目次構成は、以下のようになっています。
【英語版へのはしがき】
序文
第一章 現代世界の神話
第二章 善き野蛮人の神話、または始源の威力
第三章 宗教的シンボリズムと苦悩の価値づけ
第四章 未開人の伝承における楽園へのノスタルジア
第五章 未開人における感覚的体験と神秘的体験
第六章 上昇のシンボリズムと《目覚めた夢想》
第七章 宗教史におけるちからと聖性
第八章 地母神と宇宙的な聖体婚姻
第九章 秘儀と精神的再生
原註
訳者あとがき
索引
「序文」では、いきなり次のような神話論が展開されています。
「神話はその存在の仕方によって自らを規定している。つまり神話は、あるものを十分に表示されたものとして啓示してゆき、その表示がひとつの人間的行動と同時にあるリアルなものの構造の基礎となる点で創造的でかつ典型的なものである限りにおいて、はじめて神話は神話として把握されうる。神話はつねにある事柄が、実際に起こったものとして―たとえ世界の創造とか、ごくつまらぬ動物なり植物、あるいは1つの制度なりが造り出されることを述べるにしても、言葉の正しい意味で実際にそのことが起こったものとして語っている。生起した事柄について語るというまさにそのことが、問題の事柄がどのようにして実現したかを明らかにしている(しかもこのどのようにしては等しくなぜの代わりにもなっている)。また実在しはじめるという行為は、同時にひとつの現実の出現であり、その根源的構造の解明ともなる。宇宙開闢説的神話がこの世界はどのように創造されたかをわれわれに語る場合に、その神話は宇宙というこの総体的な現実の出現とその存在論的法則とを明らかにしている。つまりこの世界がいかなる意味において実在するのかを教える。宇宙進化論はまた存在示現、つまり存在の完全な顕在化でもある。またすべての神話は何らかの仕方で神話の宇宙論的な型に関与するので、―というのは、かの時に(in illo tempore)何が起こったかについてのあらゆる説明は、原型的な歴史つまりどのようにしてこの世界が実在するようになったかのヴァリエイションに過ぎないので、―当然すべての神話は存在示現となる」
続いて、エリアーデは以下のように神話について述べます。
「神話はリアリティの構造とこの世界における存在の多様な様態を顕示する。だからこそ神話は人間の行動の典型的モデルとなるのだ。つまり真実の物語を明らかにし、リアリティにかかわりをもってゆく。しかし存在示現はつねに神体示現ないし聖体示現を含んでいる。この世界を創造し、とりわけ人間的なものから昆虫の存在様式に至るまでの無数のこの世の存在様式を設定したのは神々ないし準・神的な存在者たちである。かの時に何が起こったかの歴史を明らかにすることによって、同時に聖なるものがこの世界に侵入したことを明らかにしている。ある神ないし教化者的英雄がある行動様式―例えば食物の特殊なとり方―を身につける場合、その行動のリアリティを確実にするばかりでなく(というのは、その時までその動作は存在せず利用されもせず、従って《非現実的》であった)、その行動がその神の発明したものであるというまさにそのことによって、それはまた神体示現であり、神聖な創造となるのだ。人間はその神ないし教化者的英雄と同じような仕方で食事をし、その身振りを繰り返し、いわば彼らの存在にかかわり合う」
第一章「現代世界の神話」でも、神話について言及しています。
「すでに《未開の》ならびにアルカイックな社会において、すなわち神話が社会生活およびその文化のまさに基礎となっているような人間集団によって丹念に作りあげられてきた神話の価値を、人々がようやく知るようになり、理解しはじめている。そこでまずひとつの事実にわれわれは注意をひかれる。すなわち、そのような社会において神話は、それが聖なる歴史を、つまり原初に(in illo tempore)という聖なる時間のなかの偉大なる時間の夜明けに起こった超人間的啓示を語っているゆえに、絶対的真実を表現しているのだと考えられていることである。神話はリアルでかつ神聖であるゆえに典型的となり、その結果として繰り返しうるものとなる。なぜならひとつの模範として、と同時に正当化の手段として、あらゆる人間的行為に役立つのである。言葉をかえて言えば、神話は、時間の始まりにおいて生起したところの、かつまた人間的行動の模範として役立つような、真の歴史なのだ。アルカイックな社会の人間は、ある神ないしある神話的英雄の典型的行為を模倣することにより、あるいはたんに彼らの英雄的行為を物語ることによって、世俗的時間から離れて、聖なる時間という大いなる時間のなかに魔術的に再び入ってゆく」
また、エリアーデは現代世界の神話について述べています。
「もし神話が《未開の》人間の幼稚な、あるいは異常な産物ではなくて、この世界におけるひとつの存在様式の表現であるとするならば、現代世界においては神話はどのようなものになるのだろうか。もっと正確にいえば、伝統的社会において神話が占めていたような本質的な位置を何が占めているのかということである。というのは、もし神話および集団的シンボルに対する何らかの《かかわり》が現代世界にもなお残存しているとしても、伝統的社会において神話が演じていた中心的役割を果たすのとはほど遠く、伝統的な社会に比較すれば現代社会は神話に欠乏しているように思える。現代社会の病患と危機とは、まさにその適切なる神話の欠如に帰せられるのだとさえ主張されてきた。ユングがその著書の1冊に『魂を求める現代人』と題したとき、彼は現代世界が―キリスト教との深い断絶をつくってしまってから危機にあるが、―新しい神話を求めており、それのみが新しい精神的力づけとなり、創造的ちからを回復できるだろうという意味を含めていたのだ」
神話と教育についても、エリアーデは以下のように述べます。
「いかなる社会も完全に神話をなくすことはできないように思われる。なぜなら、神話的行動に本質的なもの―典型的なモデル、反復、世俗的持続の切断、および初源的時間への統合など―のうち少なくとも最初の2つは、あらゆる人間的条件にとって同質的である。したがって現代人が指導、教育、および教訓的文化と呼んでいるすべてのもののなかに、アルカイックな社会で神話によって充たされていた機能を見出すことはさして難しいことではない。それは単に神話が祖先からの伝承に違反しないことが重要なことになっている数々の規範との総和を表現しているばかりでなく、そうした神話の伝達―一般的には神秘で秘伝的である―が現代社会の多かれ少なかれ公式の《教育》に相当しているからである。神話と教育の機能的な相互の同質性は、とくにヨーロッパの教育によって提唱された模範的モデルの起源というものを考える場合にはっきりする。古代においては神話と歴史の間にまったく隙間がなかった。つまり歴史的人物は神々や神話上の英雄といったその原型を模倣しようと努力した」
神話と儀礼は不可分の関係にありますが、エリアーデは「儀礼的起源」という言葉を持ち出しています。現代人は自らの《歴史》から解放され、質的に違ったある時間的リズムを生きようと努力しており、そうすることによって知らず知らずのうちに神話的行動に回帰しているとした指摘した上で、以下のように述べています。
「このことは、現代人が利用している2つの主なる《逃避》の方法、見ることと読むことを考察すれば一層はっきりわかるだろう。見る娯楽の大部分の神話的手順にいちいち言及しなくても、闘牛、競争および体操競技の儀礼的起源を思い起こせば十分であろう。こうしたものはすべて、ある《集中化した時間》、神話的宗教的時間の剰余ないし継承としての強化された時間のうちに現われているという共通点がある。この《集中化した時間》はまた劇や映画の特殊な次元でもある。芝居や映画の儀礼的起源と神話的構造とを全然考慮に入れなくても、芝居と映画はわれわれを《世俗的持続》とはまったく違った性質の時間のなかに、つまり一切の美的意味内容とはまったく別に、観客の心に深い反響を呼びさましてくれるある集中的でかつ屈折した時間的リズムのなかに入れてくれる娯楽であるということはやはり重要な事実である」
第四章「未開人の伝承における楽園へのノスタルジア」では、アフリカの楽園神話に言及しつつ、「シャーマニズム」の本質について述べています。
「要約すれば、シャーマニズムというアルカイックな社会でのもっとも神秘的な体験は、楽園へのノスタルジアすなわち《堕落》以前の自由と至福の状態を回復しようとする願望、天界と大地との間の連絡を復活させようとする意志、簡単に言えば宇宙の構造自体において、また初源的な分裂後の人間の存在様式において変化のあったことを一切廃棄しようとする意志を表わしている。シャーマンの放心は楽園的状態の大部分を回復している。つまり動物との親近性をとりもどしたし、その飛翔ないし上昇によってシャーマンは新たに大地を天界に結びつけ、天界というその高みにおいて改めて天上の神と直接に向かいあい、はじめにすでにそうしていたように神に直接話をするのだ」
第四章の最後には、仮面劇の儀礼を取り上げ、以下のように述べます。
「仮面劇の儀式は美しく、ある種の踊りは無気味であり、イニシエイションのある種の儀礼は野蛮ないし異常である。しかし、もしこれらすべての表われの根底にあるイデオロギーをあえて理解しようとするならば、もしこうしたものを規定している神話およびシンボルを研究するならば、その印象の主観性から解放され、より客観的な見通しに達するだろう。時にはイデオロギーの理解だけで、あるひとつの行動の《正常性》を確立するのに十分なこともある。一例だけ思い起こせば、それは動物の叫び声の模倣である。じつに1世紀以上もシャーマンの奇妙な叫び声はその精神的な平衡喪失の証拠であると信じられてきた。ところが実はそれはまったく別の問題であった。かつてイザヤやウェルギリウスにつきまとい、教会の教父たちの聖徳をはぐくみ、かつアッシジの聖フランチェスコの生涯のなかに決定的に花咲くに至った、あの楽園へのノスタルジアの問題であったのだ」
第八章「地母神と宇宙的な聖体婚姻」では、「迷路」をテーマとします。ひとりの巨大な母の肉体として描かれる大地のイメージの問題を取り上げ、エリアーデは以下のように述べます。
「もし鉱山の坑路や河口が地母神の膣に同一化されていたとすれば、明らかに、同じシンボリズムは洞穴や洞窟にもいっそう有力な理由をもって(a fortiori)当てはまるはずである。ところで洞窟は、旧石器時代以来、宗教的役割を果たしてきたことが知られている。先史時代において洞窟はしばしば迷路と同じものとされたり、儀礼的に迷路に変えられたりしたが、同時にイニシエイションの舞台であり死者を埋葬する場所でもあった。いっぽう迷路のほうは、地母神の肉体と同質的なものとされていた。迷路ないし洞窟へ入りこむことは、大いなる母への神秘的な回帰―すなわちイニシエイションの儀礼と同様に葬送儀礼が追求している目的―と等しいのだ」
また、第八章では「人身御供」をテーマとして、以下のように述べています。
「初源的な全体性から出発するにせよ、あるいは宇宙的な聖体婚姻の方法によるにせよ、創造神話がどのような意味で地母神についての儀礼、すなわち儀礼的な結合(聖体婚姻の名残り)、ないしは狂宴(初源的な混沌への退行)を含んでいるような儀礼のなかに再現実化されているのかをわれわれは検討してきた。そこでいまわれわれには天地創造についての別の神話、すなわちある地下の女神の犠牲による食用植物の創造の秘儀を明らかにしているような神話との関連で、いくつかの儀礼を思い起こしてみることが残されている。ところで人身御供ということは土地に関係した宗教ではほとんど到るところで確認される。ただし多くの場合そうした犠牲は象徴的なものになってしまっている。にもかかわらず、現実のそうした犠牲に関する証拠資料をわれわれはもっている。そのうちもっとも著名なものはインドのコンド族におけるメリアー(meriah)のそれとアズテック族における女の犠牲である」
本書の白眉ともいうべき第九章「秘儀と精神的再生」では、さまざまな事例をあげた後で、怪物の腹のなかに呑みこまれることによる死のシンボリズムを見出します。そして、エリアーデは以下のように述べています。
「このシンボリズムは成人のイニシエイションにおいてきわめて重要な役割を果たしているものである。もう一度ここで、秘儀結社への入会儀式が部族生活に関係するイニシエイションにあらゆる点で照応していることに注目しよう。すなわち隠遁生活、イニシエイション的な拷問と試練、死と復活、新しい名前の賦与、秘儀の言語の教授等々がそれである」
最後に、精神的再生の最高の方法としての死のアルカイックな価値づけが、世界の大宗教においてすら継承され、キリスト教によってもやはり利用されていたようなイニシエイション的筋書きを構成していることを証明していると指摘した上で、エリアーデは以下のように本書を締めくくります。
「それはあらゆる新たな宗教体験によって更新され再体験され、再評価されてゆく基本的な秘儀である。しかし、こうした秘儀の究極的な結果をさらに精密に検討してみよう。すなわち、もしひとがすでにこの世で死を知っていたなら、もしひとが別のものに再生するために 絶え間なく無数に死ぬならば、―ひとはすでにこの世で、この地上で、この地上のものではなくて聖なるもの、神にかかわるような何ものかを生きるということになる。彼は不死のはじまりを生き、次第に不死になってゆくと言えよう。その結果、不死はもはや死後の(post mortem)生存と考えられるべきではなく、ひとが絶えずつくり出してゆき、そのために準備をし、またいまから、すなわちいまこの世界においてひとがかかわり合うひとつの状態として考えられるべきなのだ。無死つまり不死とは、ある限定的な状態、すなわちひとが自らの全存在をかけて努力し、不断に死に、かつよみがえることによって征服しようと努力する理想的な状態なのだ」