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No.1172 哲学・思想・科学 『インベンション』 高山宏・中沢新一著(明治大学出版会)
2016.01.03
今年最初の書評をお送りいたします。
じつは読書館の書評のストックが溜まっていて、かなり以前に読んだ本の感想をアップしなければなりません。今回ご紹介する『インベンション』高山宏・中沢新一著(明治大学出版会)も昨年(2015年)5月に読んだ本です。
著者の高山氏は1947年、岩手県生まれの明治大学国際日本学部教授。批評家、翻訳家。文学、美術、建築、文化史、思想史、哲学、デザイン、大衆文学、映画、江戸文化等、学問領域を横断して論文、エッセイを執筆。
中沢氏は1950年、山梨県生まれの明治大学研究・知財戦略機構特任教授。宗教から哲学まで、芸術から科学まで、あらゆる領域にしなやかな思考を展開しています。本書は、そんな二人の対談本です。
本書の帯
本書の帯には、「縦横無尽! 天衣無縫! 言語道断!」「3.11から世界の構造までをめぐって知の狩猟民ふたりが織りなす、これぞ『会話術』!」「明治大学 野生の科学研究所が送る」「新しい〈知〉への招待状、叢書”ボッシュ”創刊!!」と書かれています。
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「まえがき」中沢新一
第1章 〈自然〉新論 自然とは何か
第2章 カタストロフィを突き抜ける 〈3・11以降〉を生きるために
第3章 思想の百科全書にむけて
第4章 軽業としての学問 山口昌男をめぐって
第5章 英語と英語的思考について
「あとがき」高山宏
「索引」
「まえがき」の冒頭で、中沢氏は高山氏について次のように述べています。
「高山宏の魅力は、どんなに語っても語りつくせるものではない。
『シェイクスピアという名前は股間の槍(スピア)を振り立てる(シェイク)という意味だ』というような話題を、涼しい顔をして髙山宏が語りはじめるとき、我が国の英文学研究に取りついてきたとりすました教養主義は足下からガラガラと崩壊し、グローブ座の舞台で演じられているマクベスとインドの裸電球のもとで演じられている祭礼の舞台とが、またたくまに通底器でひとつに結び合ってしまうのが見える。『ピンチョンなんかよりもフィッツジェラルドのほうが熱力学をちゃんと取り込んだ文学をやっている』などと語られてごらん。『華麗なるギャツビー』に登場する料理のメニューやドレスのデザインの溢れんばかりの豊富さが、じつはエントロピー増大の原理の文学的表現であったことを知らされた私たちは、逃げ場を失った動物みたいにただオロオロするしかない。こんな知性がいままで日本に存在したことがあっただろうか。ところが多くの日本人がいまだにそのことに気づかずにいる。なんとももったいない話ではないか」
第1章「〈自然〉新論」の「ヨーロッパ近代の特異点」では、今度は高山氏が中沢氏について次のように述べています。
「僕が『目の中の劇場』を出した1985年に中沢さんも『雪片曲線論』を出版されたわけです。僕はそのとき、ふたりとも同じことを扱ってるはずなんだけど、なんでこう表と裏なんだろうという発見というか、ショックがあったわけだね。自然を自分の思惟のかたちと同じにする、いわゆる「自然哲学」をついに一種の憧れにしてしまう文化を一生懸命追っていた。僕自身にとっても手の届かない憧れだったロマン派の自然哲学を今の東京で生身で生きているやつがいる。本当にびっくりした」
第3章「思想の百科全書にむけて」では、『ハリー・ポッター』の話題が登場。「『ハリー・ポッター』の謎」で、高山氏が以下のように語っています。
「『ハリー・ポッター』なんか、日本でもあんなに人気があるのにちゃんとした批評が出ないのは、イングランド対スコットランドの本当の問題が理解されていないせいだよね。だいたい『ポッター』って、壺つくりのことだよ。人間を土からこねて作るという、要するにゴーレム思想みたいなものだよね。一方で『ハリー』って悪魔のことだからね。特に『オールド・ハリー』といったらサタンのことだ。だから、『ハリー・ポッター』って聞いただけで、とんでもないストーリーだってことがわかるはずなんだ」
なんと、『ハリー・ポッター』は悪魔の物語だったのです!
その証拠に、高山氏いわく、ほとんどの話は地下で進みます。
なんと、『ハリー・ポッター』は悪魔の物語だったのです!
中沢氏が「3巻目からはちょっとがっかりしてしまったけど」と言えば、高山氏は「最初の2巻は錬金術の基本的な教科書みたいなものだけれどね。特に『秘密の部屋』」は素晴らしい」と述べています。たしか荒俣宏氏も同じ意見だったと思いますが、いずれにせよ『ハリー・ポッター』の正体とはガチンコのオカルト書なのです!
また、日本人のヨーロッパ・ロマン派理解は遅れているという話題になり、以下のような会話が交わされます。
【中沢】 ロマン派は無限の問題、アレフの問題にもかかわっていますからね。
【高山】 大学に入ったときに文学やろうかな、面白そうだなといったときに、由良君美が先生だったからね、僕も否応なくロマン派を研究することになっちゃったんだけどね。『クリスタベル』とか『老水夫行』を書いたコールリッジって数学者なんだよ。ゲッチンゲンに留学したのも、数学を勉強しにドイツに行ったんだ。ところが、帰りにはロマン派をたっぷり持って帰ってきちゃった。そのコールリッジにドイツで相当するのは誰かというと、鉱山技師で、高等数学を操っていたノヴァーリスだ。(『インベンション』p.70)
また、「世界はピクチャレスク」というテーマでは、以下のような会話が交わされています。
【中沢】 チベットでは、地震があると聖者が生まれるという。チベットに行っているとき、チドンというダキニの聖地に温泉があって、そこの温泉につかっているときにものすごい地震にあいました。そしたらチベット人たちがみんな喜んでいて、「また生まれた」っていって。
【高山】 いい話。だからそれこそアウエハントの『鯰絵』、あれなんかもヨーロッパ人から見ると面白くてしょうがないと思うね。地震が来るたびにナマズの大きいやつが切腹しておなかから大判小判が出るって。あれ吉祥のしるしに変えられちゃっているね。(『インベンション』p.78)
さらに、「さまざま学を横断する」という、まさに二人の真骨頂というべきテーマでは、以下のような会話が交わされています。
【高山】 シャーロック・ホームズが尊敬しているのはキュヴィエ。いったい博物学って何なんだろうという問題だよね。博物学って科学とどういう関係なのか、誰も議論してないわけだし、やってないことだらけだ。そのへんがフーコーとかセールは、体系的ではないけれども、いいところ突いているんだよ。
【中沢】 僕が経済学に目覚めたきっかけはフーコーでした。『言葉と物』で重商主義、重農主義を分析しているじゃない。あのとき初めて、経済学って面白いんだということに目覚めたんです。でも、やっぱりフーコーは『言葉と物』に尽きるんじゃないのかなという気がするんですよ。
(『インベンション』p.94)
そして佳境に入った二人の会話は以下のように続くのでした。
【高山】 僕が80年代、90年代に本が出るのを楽しみにしていたのは、ニュー・アカデミズムと荒俣宏だね。荒俣の方は「アカデミズム」のかけらもないけど(笑)。でも、このふたつともが次の仕事を楽しみにさせてくれた。中沢くんもそうだし、荒俣もそうだ。次に書く仕事がこの前のとどうつながるのだろうか。全然関係なさそうだろ。でも、今から見ると、両方ともちゃんとストーリーがあって進んでいる人生だろうなと思うんだよ。80年代、90年代のころって、出てくるたびに、前の仕事とどうつながるんだ、こいつら、と思っていたよ。それなりに専門的なところまで行っているじゃない。化け物だよね。百科全書派とか呼ばれたことない?
【中沢】 ヘーゲルの『エンチクロペディー』からはすごく影響を受けてます。ああいう仕事をしたいんですよ。要するに、存在論、生命論、人間論。
【高山】 ロマン派の最後の学問だよね、百学連環学。ヘーゲルがロマン派だっていう捉え方はみんなしないけどね。
【中沢】 ヘーゲルはすごく大きいんです、僕にとって。今、生命科学とかニューロサイエンスが、ヘーゲルのいっていたのと同じことをいっているんだといい始めているフランス人などが出始めていますね。
(『インベンション』p.95~96)
第4章「軽業としての学問」では、2013年3月10日に亡くなられた文化人類学者の山口昌男先生をめぐって会話が交わされますが、髙山氏が次のように語っています。
「結果的に山口さんは単著としては42冊の単行本を残したわけだけど、70冊、80冊という印象があるんだよ。それは何なんだろうと考えていたらなかなか不思議なことを思いついたんだけれど、ある本に入れた文章を別の本に入れるとそこにある別の本から取ってきた別の文章と新しい関係ができる、そうやってこれで1冊作るとどうだろうという本がけっこうあるんだ。これはマリオ・プラーツとかボルヘスのようなある種のマエストロにしか許されない試みであって、山口さんが意識してやっていたのか、編集者の意向だったのかはわからない。でも本は42冊であっても、結果として表れてくる作品は70や80にも感じるというのはまさにアルス・コンビナトリアだよね」
わたしのブログ記事「山口昌男先生の思い出」でも紹介しましたが、わたしは山口昌男先生と『魂をデザインする~葬儀とは何か』(国書刊行会)で対談をさせていただきました。同書には、山折哲雄氏や井上章一氏、横尾忠則氏などとの対談も収められています。何よりも、義兄弟の鎌田東二氏に初めてお会いしたきっかけとなった本であり、忘れられない人生の宝物です。
『魂をデザインする』で、山口先生とわたしは次のような対話を行いました。
【山口】 だいたい、人間というのはどこかで無駄なことをやらなくちゃいけないんじゃあないですか。葬儀というのも、いってみれば全部が無駄なわけでしょう。なんの生産にもつながらない。あるいは、むしろ葬儀のために考えておいて金を使う、それが人間のまっとうなやり方かもしれない。そのためにも普段はもっと切り詰めてよけいな遺物を買い漁るのはやめたほうがいいと思うぐらいだ。
【一条】 つまり、葬儀のためにパーッと使ってしまって、後に何も残さない死に方ですね。それもたしかに人間の精神性の現れ方かもしれませんね。
【山口】 いずれにしろ、葬儀という無駄がなくなることはないでしょう。
(『魂をデザインする』P.22~23)
『魂をデザインする』では10人の方々がわたしに胸を貸して下さいましたが、そのトップバッターこそ山口昌男先生でした。山口先生という「知の巨人」をいきなり対談相手に迎えたことは、その後のわたしの人生に大きな影響を与えたと思います。もちろん、山口先生が未熟なわたしに合わせて下さった部分が大きいのですが、それでも何とか対談が成立したことで、わたしは自信のようなものを持つことができたのです。「自分は天下の山口昌男と対談したのだから、少々の論客が相手でも大丈夫だ」と思えたのです。20年後、『葬式は、要らない』の著者である島田裕巳氏とNHKの討論番組で対決したときに、そのときの自信が自分を支えてくれたように思えます。
さて、『インベンション』に話を戻します。第5章「英語と英語的思考について」も知的好奇心に満ちていて、とても面白かったです。たとえば、「ミステリー」について以下のような会話が交わされます。
【高山】 たとえば、ミステリーって何? 探偵小説を誰が、いつからミステリーって呼ぶようになったんだ? だって、あれはもともと、カソリックの究極の言葉「秘蹟」という意味でしょう。あれほど人を殺してどうしたこうしたという俗中の俗の世界に、どうして「ミステリー」という言葉を使うんだ?
【中沢】 本来、「ミステリー」というのは解決しないことをいいますからね。解決って何か。たとえば、方程式のソリューションというのは、分解することをいいます。分解を起こす最終的な数体がどうなっているかを研究するのがソリューションです。ある犯罪が起こったときに、それをソリューションするとは何かというと、主人公や周りの人間の行為にそれを当てはめて、分解を行っていく。すると最初はひとつだった世界が分解して、犯人が分離されてくる。ところが、この世界のミステリーでは分解ができない。むしろミステリー(秘蹟)は分解不能な対称性の方に向かっていく。探偵小説とミステリーは実は正反対のものでしょう。(『インベンション』p.161~162)
そして、第5章では以下のように衝撃的な発言が飛び出します。
【中沢】 僕は自分でむしろ佐久間象山だと思ってたんだけどなあ。若いころに松代行ったとき、神懸かりのお婆さんがでてきて、「あなたは佐久間象山の生まれ変わり」だっていきなりいわれたことがあるんです(笑)。すごくうれしくなった。でも、馬上で斬り殺されるのは嫌だなとも思いました。
【高山】 鎌田東二はギリシャでゼウスの生まれ変わりだっていわれたらしいよ。
【中沢】 それはもっとすごい(笑)。でも、あとで町の人に聞いたら、「あのお婆さんはちょっと・・・・・・」っていわれた(笑)。そうそう、僕は山片蟠桃も佐久間象山もとても気に入ってます。(『インベンション』p.171)
なんと、高山氏が「鎌田東二はギリシャでゼウスの生まれ変わりだって言われたらしいよ」と述べているのです。驚いたわたしは早速メールで鎌田氏に真相を問い合わせたところ、鎌田氏からは「わたしは、そんなことは一言も言っていません。すべて高山宏のフィクションです」との返信が届きました(笑)
わが書斎の高山宏コーナー
わが書斎の中沢新一コーナー
それにしても、博覧強記のお二人の自由な対話はとても刺激的でした。
わたしの書斎にはお二人の著作がほとんど置いてありますが、かつては新作が出るたびに読み耽ったものです。高山氏とは、『じぶんの学びの見つけ方』フィルムアート社編(フィルムアート社)でご一緒しました。また、中沢氏とはわたしのブログ記事「京都こころ会議懇親会」で紹介したように、2015年9月13日の夜にパーティー会場でゆっくりお話をさせていただきました。その際、「葬儀」についても大いに意見交換させていただき、勉強になりました。
中沢新一氏と
中沢氏と葬儀について語り合う