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2016.07.24
『無意識という物語』一柳廣孝著(名古屋大学出版会)を読みました。 「近代日本と『心』の行方」というサブタイトルがついています。著者は1959年、和歌山県生まれ。南山大学文学部卒業。名古屋経済大学専任講師などを経て、現在は横浜国立大学教育人間科学部教授を務めています。主著に『〈こっくりさん〉と〈千里眼〉 日本近代と心霊学』(講談社選書メチエ)、『催眠術の日本近代』(青弓社)があります。
本書の帯
本書のカバーには、ゴッホの「ローヌ川の聖月夜」(1888年、オルセー美術館蔵)の図版が使われています。また、帯には「重なりあう科学とフィクション」と大書され、続いて以下のように書かれています。
「フロイト精神分析や『無意識』の受容は、日本における『心』の認識をどのように変化させたのか。民俗的な霊魂観と近代的な心身観がせめぎあう転換期を捉え、催眠術の流行や文学における表象をも取り上げつつ、『無意識』が紡ぎ出した物語をあとづける『心』の文化史」
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
第一部 「無意識」の時代
第1章 「霊」から「無意識」へ
第2章 意識の底には何があるのか
―催眠術・霊術の言説戦略―
第3章 超感覚の行方
第4章 変容する夢
第5章 「心理研究」とフロイト精神分析
第二部 芥川龍之介と大正期の「無意識」
第6章 消された「フロイド」
―「死後」をめぐる疑念―
第7章 夢を書く
―「奇怪な再会」まで―
第8章 「無意識」という物語
―「海のほとり」を中心に―
第9章 最後の夢小説
―「夢」と「人を殺したかしら?」と―
第10章 メーテルリンクの季節
―芥川と武者小路実篤のあいだ―
第11章 怪異と神経
―「妖婆」という場所―
第12章 さまよえるドッペルゲンガー
―「二つの手紙」と探偵小説―
補 論 「無意識」の行方
―芥川から探偵小説へ―
終 章
「注」
「あとがき」
「図版一覧」
「索引」
本書の「あとがき」を著者は以下のように書き出しています。
「いままで、明治期における心霊学の受容や催眠術ブームといった文化現象に注目して、近代以降の日本の霊魂観を担ってきた。そのプロセスのなかで、どこかで『無意識』の問題とフロイト精神分析を取り上げなければならないと思っていた。本書は、そのささやかな中間報告である」
わたしは著者の『〈こっくりさん〉と〈千里眼〉』および『催眠術の日本近代』を何度も読み返すほど愛読していますので、「無意識」がテーマである本書を読むのが楽しみでした。「あとがき」によれば、1994年の夏、著者の最初の単著である『〈こっくりさん〉と〈千里眼〉』を刊行したとき、すぐに連絡をくれたのが名古屋大学出版会の編集者だったそうです。そのとき、『「無意識」の受容史』をテーマにした本を書くことが決まったのだとか。本書の刊行は2014年ですから、なんと20年も時間がかかったことになりますね。
「はじめに」の冒頭で、著者は以下のように書いています。
「19世紀から20世紀にかえて、『心』のイメージは大きく変容した。魂の属性としての『心』から、脳内現象としての『心』への変化である。英米圏では、それはsoul、spiritからmindへの移行という形で現れた。ドイツではさらに先だって、18世紀から19世紀にかけて、ドイツ観念論の影響下にSeele(心)からGeist(精神)への移行が起きていた。古代からつづく心身二元論に対して、人間をひとつの有機的な統一体とみなす考え方が優劣になった結果である。こうしたダイナミックな『心』イメージの変容は、遠く日本にあっても大きな影響を与えることとなった」
続いて著者は、本書の意図について以下のように述べています。
「本書の根底にあるのは明治期のパラダイム・チェンジがもたらした、霊をめぐる言説布置の再編の問題である。古代から連綿と継続し、現代もなお形を変えながら機能しつづけている日本人の霊魂観は、明治期のこの激変によってどのような変容を強いられたのだろうか。この問いかけからは、例えば日本『精神』、大和『魂』といった、イデオロギッシュな場所に再配置された『霊』の問題なども浮かび上がってくる。しかしここで主に取り上げたいのは、学的パラダイムの変化によって生じた現象である」
フロイトが開拓した精神分析は、20世紀の思想に強烈なインパクトを与えました。心理学、精神医学は言うに及ばず、歴史学、社会学、文化人類学、文学など、その影響はきわめて広範にわたります。フロイト精神分析は日本にも紹介され、さまざまな領域で取り上げられましたが、著者は以下のように述べています。
「ここで考慮すべきは、フロイト精神分析の正当性、事実性の如何ではない。フロイト精神分析がもたらした『無意識』という物語が、日本においていかなる文脈の中に取り入れられ、再編され、新たな物語を生成していったのか、という点にある」
著者は、「無意識」の存在を最初に日本社会に知らしめたのが、アカデミズム経由の情報ではなく、明治30年代後半に訪れた催眠術ブームであったと強調し、以下のように述べます。
「催眠術ブームを牽引した当事者たち、催眠術書の執筆者や催眠術家たちは、肉体を凌駕する精神の力を強くアピールした。彼らの主張はやがて、我々の内面に存在するという力がどこに秘められているのか、という問いを呼び覚ます」
催眠術によって顕在化するという、潜在意識下に眠る無限の力への憧れと気球は、超感覚の実在をめぐって学界やマスコミを紛糾させた「千里眼事件」(明治43~44年)を引き起こしました。
同じく明治43年には、柳田國男が『遠野物語』を刊行しました。同書は実話怪異譚としての側面を持ちますが、その背景には当時分断で流行していた「怪談」への眼差しがありました。著者は以下のように述べています。
「図らずも同時期に生起した、文壇における『怪談』ブームと千里眼事件は、超感覚を媒介にして文学と科学の両面から『心』の再認識を迫ったトピックだったのだ。 しかし千里眼事件が、物理学アカデミズムの否定的見解の表明によって収束していった結果、『心』の神秘性もまた、科学のレベルではほぼ否定された。だが、その『心』観に『無意識』という概念が導入されることで、『心』は再び『科学』によって解明されるべき未開の原野、闇の領域とみなされていくのである」
著者によれば、20世紀初頭に「心」に新たな光を当てつつ、そのブラックボックス化を進めたのが精神分析だとすれば、その精神分析によって特権的な意味を付与されたのが夢でした。やがて夢は、新時代にふさわしい「不気味なもの」の物語を紡ぎます。1900年にフロイトが『夢判断』を書いて以降、夢は「無意識」への王道たり続けました。
1900年前後から、20~30年代にかけて、日本では活字文化が産業として発展し、文化装置としての価値を高めていきました。その中でも文学は最重要ジャンルでしたが、著者は以下のように述べています。
「そもそも『無意識』をめぐる問題系は、人間の心の深奥を探っていた明治期の文学者にとって焦眉の課題であった。二葉亭四迷や夏目漱石、森鷗外らが意識と『無意識』をめぐって独自の思索を深め、作品に反映させていたことについては、近年さまざまな研究成果が公になっている。そして、大正期の先端的なフロイト受容とも関わりながら、持続的に『無意識』の文学的表象に取り組んだほぼ唯一の存在が、芥川龍之介である。その意味で芥川の描いた軌跡は、大正期における物語としての『無意識』の、代表的な様態を示している」
第一部「『無意識』の時代」の第4章「変容する夢」では、夢をめぐる言説空間について述べられます。 著者は、日本における夢について、以下のように述べています。
「古来から世界各地で夢には重要な意味が託されてきたが、日本でも同様に、古代から夢には多様な文脈が与えられている。例えば、神牀(かむとこ)である。神牀は夢で神告を受けるために清浄潔斎した寝床であり、天皇は神牀で眠ることによって、神からの啓示を受け取った。特定の祭式によって夢を見るシステムだが、そこで受けた告示は、皇位継承など、政治にも深く関わるものだった。ここでの夢とは、聖なる次元から神意を得るための回路である。さらにそこは、神と人が交流する特異な場でもある」
王朝時代になると、夢は売買の対象となりました。また中世にも、夢の話は数多く残されています。そして江戸時代について、著者は述べます。
「江戸時代に至ると、七福神信仰と結びついた初夢の習俗が生まれ、定型的な夢占いを収録した夢占い書が人気を呼び、夢解きが広範に流布した。ただしこうした流行は、夢信仰がふたたび興隆した結果ではない。貨幣経済が浸透し、庶民の間で合理的な現実主義が定着することによって、夢信仰の脱神話化が進んだ末の現象だった。夢信仰は世俗化し、娯楽化した」
続けて著者は、江戸時代の夢について以下のように述べます。
「とはいえ、江戸時代の夢が完全に神秘的な性格を失ったかといえば、必ずしもそうではない。西欧でも夢は徐々に世俗化されていったが、夢に形而上的、霊的、哲学的な創造の源泉を見いだすロマン派の登場によって、夢の聖化が図られた。日本においても上田秋成、曲亭馬琴らによって、夢の神秘的側面は復活している。近代以降、彼らの系譜は、泉鏡花、内田百閒らのテクストに受け継がれた」
また著者は、日本における心霊学について以下のように述べます。
「心霊学は明治40年代以降、日本でもさまざまな形で受容されたが、心霊学における夢の研究とは、古代から連綿と続いてきた、夢を『他界への通路』とする思想を『新しき化学』によって再解釈し、補強する試みだった。この流れのなかに、鈴木大拙によるスウェーデンボルグの紹介といった仕事を含めることもできよう。夢想を媒介とした『天界と地獄』世界の提示である。こうしたアプローチは当時のアカデミズムにおいても一定の評価を得ており、なかでも心霊学は、心理学アカデミズムと密接に関連していた」
著者は、晩年のフロイトが『続・精神分析入門講座』(1932)に「夢とオカルティズム」という項目を設け、次のように述べていると紹介します。
「オカルト的な主張のうち、真であると判明したものがあれば、科学はそれを受け入れ、加工するだけの力量をもっているのでして、それが信じられないようでしたら、科学に大いなる信頼を抱いているなどとは、お世辞にも言えないでしょう。思考転移だけに限って言わせていただければ、それは科学的思考法―敵対陣営に言わせれば機械論的思考法ということになりますが―を、きわめて把握しがたい心の領域へと広げてゆくのを促すように思えます」「精神分析は、物理的なものと、これまで『心的』と呼ばれていたものとのあいだに無意識的なものを挿入することによって、テレパシーのような出来事を受け入れる準備をしてきたということです」
第二部「芥川龍之介と大正期の『無意識』」の第6章「消されたフロイト」では、著者は芥川の自殺について以下のように述べています。
「芥川が若くして自殺したことで、彼の文学的営為は、強固な物語から逃れられなくなった。彼の人生を『自殺』というゴールへ向かって整序する。物語の誕生である。この物語によって、芥川のあらゆる行為、作品、人間関係を。彼の自殺を暗示する構成要素として読み解く眼差しが生まれた」
第10章「メーテルリンクの季節」では、日本におけるメーテルリンク受容について、著者は以下のように述べています。
「戯曲『青い鳥』(1908)などで知られ、1911年にノーベル文学賞を受賞したベルギーの詩人、劇作家モーリス・メーテルリンク。日本では上田敏が精力的に紹介し、広く知られるに至った。メーテルリンクは幻想的な象徴詩人として、または神秘主義的、理想主義的な思想家、小説家、戯曲家として、明治末期以降の日本の文学にさまざまな形で影響を与えた」
メーテルリンクの日本文学への影響は広範で、森鷗外、木下杢太郎らをはじめとする新浪漫主義の戯曲の登場、自然主義の文脈から派生した岩野泡鳴らの象徴詩運動、また宮沢賢治への思想的波及など、多岐にわたっています。大正期には、冬夏社から刊行された『マーテルリンク全集』全8巻をはじめ、数多くのメーテルリンクの著作が翻訳されました。 芥川は、明治43年(1910年)4月に知人宛ての書簡でメーテルリンクの『青い鳥』に言及し、「深奥な自然観の片鱗が御伽芝居の中にちらばっているのを見ても単なる御伽芝居でなくシムボリカルな所の多いのがわかります」と記し、同44年4月には『青い鳥』の英訳本を2日で読了しています。
著者は、「メーテルリンク受容の光と影」として、以下のように述べます。
「大正期のメーテルリンク受容が、生に対する肯定的な理想主義と、心霊学に隣接した独自の神秘主義的アプローチの両極のあいだで展開されたとすれば、武者小路と芥川は、結果的にこの各々の極からメーテルリンクにアクセスしたと言えよう。武者小路がメーテルリンクの思想を恰好の跳躍板としての『唯我独尊』思想を獲得し、自然という靭帯の下に自己と他者、そして人類を円環的に脈絡づける思考の場を得たとすれば、芥川は心霊学をはじめとする大正期の神秘主義的なコンテクストのなかで、夢や『無意識』への関心を強めていった」
この神秘への関心は、志賀直哉に代表される白樺派にも内在しました。 志賀直哉も、メーテルリンクに多大な影響を受けたことで知られています。 芥川と志賀には共有する基盤があったとも言えますが、彼らの夢を媒介とした「無意識」への深い関心を、メーテルリンクの思想を内包する大正生命主義の流れで読み解くこともできるでしょう。しかし、メーテルリンクの「霊智」は、芥川にとっては結局は「他者」でした。彼は、『侏儒の言葉』に「我我は我我自身すら知らない。況や我我の知ったことを行に移すのは困難である。『知恵と運命』を書いたメエテルリンクも知恵や運命を知らなかった」と書いたのでした。
第11章「怪異と神経」では、ポーやホフマンのような近代幻想文学の系譜を髣髴とさせながらも、本人は失敗作と考えていたらしい芥川の「妖婆」が取り上げられます。この物語には、赤電車の幽霊という同時代の怪異の影が色濃く反映しており、それが異様なリアリティを醸し出しています。いわゆる現代でいう「都市伝説」の類でしょうが、電車の中に棲みつく幽霊の怪異譚です。著者は以下のように述べています。
「近代化、科学化の象徴が霊と結びつく例は、明治初期から数多く見られる。専門家でなければ理解できないような『科学』の産物は、それ自体がしばしば異界に変容する。近代的に合理化された社会にあっては、最先端技術の内部にこそ霊が宿る。新蔵が泰さんと電話で話しているさなか『悪あがきは思い止らっしゃれや』という声が混入するという怪異の描写っまた、この範疇に該当する。乗る人もいない停留所で車掌が電車を止めてしまうという『妖婆』のエピソードもまた、同様である」
また著者は、「大正期日本の『神下ろし』」として、以下のように述べます。
「大正中期の日本では、大本教、太霊道などの新宗教や霊術団体が活性化していた。明治25(1892)年に神がかりした出口なおと出口王仁三郎を教祖とする大本教は、大正期には『立替え立直し』をスローガンに、一気に教勢を拡大していた。一方太霊道は、創始者の田中守平が唱えた『霊子』概念を核とする一元哲学に独自性があり、十万人の会員を有すると豪語した。霊能祈祷師は明治以降、長きにわたって抑圧されてきたのだが、その霊能祈祷師に一定のリアリティを感受させる環境が、この時期には現出していたのである」
そして第12章「さまよえるドッペルゲンガー」では、著者は大正期の探偵小説ブームについて以下のように述べています。
「芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫と並べれば、大正文壇のトップランナーたちとまとめてみたくなるが、彼らは同時に探偵小説中興の祖でもあった。例えば江戸川乱歩は、谷崎の1917~20年に発表された諸作品をあげながら『私はこれらの作を憑かれたるが如く愛読した記憶がある。そして私の初期の怪奇小説はやはりその影響を受けているし、横溝君なども谷崎文学の心酔者であった』と述べ、『谷崎潤一郎についでこの種の作風に優れた作家は芥川龍之介と佐藤春夫であった』と指摘していた」
日本における探偵小説史において、谷崎、佐藤、芥川の3人は特別な地位を与えられ、今日に至っています。芥川は自身の探偵小説に「ドッペルゲンガー」や「夢」といった精神分析的要素を加えていくことになるのでした。
本書を読んで、わたしは高校時代に自分が書いた短編小説を思い出しました。わたしは一時、小倉高校の文芸部に所属していたのですが、そこで「愛宕」という同人誌に寄稿したのです。「夢中問答~あるいはSの幻想」という題名でした。当時、三田誠広氏の処女作である『Mの世界』という形而上的な小説を読んだばかりで、おそらくはその影響を受けて書いたものと記憶しています。内容は、夢の中で高校生のわたしが散歩しているとき、芥川龍之介とおぼしき人物に出会い、さまざまな会話を交わすというものです。
中学の終わり頃に、岩波書店から何度か目の『芥川龍之介全集』が刊行され、わたしはそれを毎月購読していました。そのため、龍之介の存在がわたしの中でも大きかったのでしょう。「夢中問答」の最後に、龍之介は、わたしにこう言うのでした。「いいかい、S君、これだけは憶えておきたまえ。この宇宙全体と全世界史は、ある異界の生物が見ている夢に過ぎないのだよ」。この若書きの小説のことはすっかり忘れていましたが、本書を読んで思い出しました。