No.1293 冠婚葬祭 | 民俗学・人類学 | 神話・儀礼 『葬式は誰がするのか』 新谷尚紀著(吉川弘文館)

2016.08.08

『葬式は誰がするのか』新谷尚紀著(吉川弘文館)を再読しました。 2015年5月10日に刊行された本で、「葬儀の変遷史」というサブタイトルがついています。著者は1948年広島県生まれの民俗学者で、現在は國學院大學大学院および文学部教授、国立歴史民俗博物館名誉教授、綜合研究大学院大学名誉教授です。

カバー表紙の写真「戦前の葬儀風景」

カバー裏表紙の写真「七本仏と塔婆」

カバー表紙には「戦前の葬儀風景」(1937年10月11日、服部照雄氏提供)、またカバー裏表紙には「七本仏と塔婆」の写真が使われています。 また、カバー裏表紙には以下の内容案内があります。

「高齢社会を迎え、死と葬送への関心が高まっている。葬法の歴史を追跡し、各地の葬送事例から、葬儀とその担い手(隣近所と家族親族)の変遷を民俗学の視点から解き明かす。葬祭ホールなど、現代の葬送事情も紹介する」

本書の帯

帯には「人は死ねば土へ帰る」と大書され、続いて「土葬・火葬・血縁・地縁・無縁・・・・・・。民俗学から読み解く”死と葬送”」と書かれています。

本書の帯の裏

本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

第1章 天皇と火葬―2010年代のいま  
1 葬儀と選択―厚葬と薄葬のはざまで
2 土と人間―人は死ねば土へ帰る
第2章 葬送の民俗変遷史―血縁・地縁・無縁
1 日本民俗学は伝承分析学Traditionologyである
2 伝統的な葬儀とその担い手―1990年代の調査情報から
3 血縁から地縁へ
まとめ
第3章 葬送変化の現在史―ホール葬の威力:中国地方の中山間地農村の事例から  
1 公営火葬場と葬祭ホールの開設
2 浄土真宗地域の講中と葬儀
3 日本民俗学の「伝承論」
まとめ
「あとがき」
「挿図表一覧」
「索引」

第1章「天皇と火葬―010年代のいま」の1「葬儀と選択―厚葬と薄葬のはざまで」の(1)「天皇と火葬の選択」の冒頭で、著者は「2013年(平成25)11月15日、日経・朝日・読売・毎日など新聞各紙は、天皇・皇后両陛下の葬法は火葬を採用する予定であるという宮内庁の発表をいっせいに報じた」と書き、その詳細を紹介した上で、以下のように述べています。

「両陛下は、陵の簡素化という観点も含め、火葬によって行なうことが望ましいというお気持ちだった。これは、用地の制約の下で、陵の規模や型式をより弾力的に検討できること、今の社会では火葬が一般化していること、歴史的にも天皇、皇后の葬送が土葬、火葬のどちらも行なわれてきたことからだった。火葬施設は、多摩のご陵域内に専用の施設を設置したい旨申しあげたところ、節度をもって、必要な規模のものにとどめてほしいとのお気持ちだった」

また著者は、「天皇の火葬」について以下のように述べています。

「火葬への転換とご陵を昭和天皇より小規模にするという方向性は現代にふさわしい。天皇・皇后陵を隣り合わせにするという配置も家族を大事にするという国民の理想を体現しており、象徴天皇制に合っていると思う。歴史を振り返っても、天皇の埋葬形式には変遷があり、上円下方墳も明治期からで、いわば小さな伝統だ。火葬の採用は、王政復古以来の形が終わるとも言えるが、大きな伝統としては、持統天皇以来の薄葬思想にも共通するところがあり、両陛下はこうした流れに沿いながら新しい伝統を作ろうとしているのだと感じている。 一方で、今回の発表では即位したときから象徴天皇である陛下の事績と記憶をどう後世に伝えていくのかという視点が不足しており、今後の検討の課題にすべきだ」

さらに著者は、日本人の葬送民俗について以下のように述べます。

「これまでの葬送民俗の要点は故人の『安らかな成仏を』という祈りであった。しかしいまは故人の『記憶と記念』を大切にしようという配慮へと変わってきているのである。人それぞれに生きた証しを大切にという思いが広がっているのである。そして、そのような故人の生きた証しを記憶にとどめ、それに学びながら自分の生き方や生きがいに活かそうとする葬送の民俗のあり方は、確かに現在の新しい変化のようでありながらも、実はよく追跡してみると歴史の中に長く底流してきているものであることにも気づく」

(4)「『個人化』から『無縁化』へ」では、2010年に焦点を当てて、著者は以下のように述べています。

「世代交代のリズムにあわせて世の中は約20年で大きく変わる。たとえば宗教学者の島田裕己の『葬式は、要らない』が話題を呼んだのは2010年(平成22)のことであった。その2010年から20年前の1990年(平成2)当時は、脳死や尊厳死をめぐる問題、葬儀やお墓をめぐる問題が一気に噴出した時期だった。当時『現代お墓事情』を著して家族と墓の変化を読み取った社会学者の井上治代は1991年(平成3)を『山が動いた年』ともいっている。1989年(昭和64年)昭和天皇が長い闘病生活を経て崩御し『尊厳死』が話題となった。翌1990年元駐日米大使ライシャワーがみずからの希望で生命維持装置をはずし、遺骨灰は太平洋へと散骨された。1991年は東海大学病院安楽死事件、脳死臨調中間報告、そして葬送の自由を進める会(安田睦彦会長)の発足の年でもあった」

続けて、著者は以下のように述べています。

「あれから20年、2010年は葬儀と仏教という伝統的な関係を根本から揺るがす動きが起こっていた。葬祭業者やJAなどによるセレモニーホールの建設が日本列島をくまなく覆い、その簡単・便利なホールでの葬儀が一般化してきていた。従来の家や檀那寺での葬儀はほとんど見られなくなり、僧侶はホールに呼ばれて読経するだけになりつつある。そこに島田裕己の『葬式は、要らない』の大ヒットである」

そして著者は、わたしの名前をあげて以下のように述べています。

「さっそく葬祭業界から一条真也『葬式は必要!』が刊行された。 また、アメリカでの葬儀社サービスを学んだエンバーマーの橋爪謙一郎の『お父さん、「お葬式はいらない」って言わないで』も刊行され、遺族へのグリーフケアの大切さが説かれている。しかし、仏教界からの本格的な書籍の刊行はいまのところまだないようである」

「日本経済新聞」2010年9月5日朝刊

さて、わたしのブログ記事「葬儀めぐる議論」で紹介したように、2010年9月5日の「日本経済新聞」の「SUNDAY NIKKEI」で、著者は島田氏の『葬式は、要らない』と一緒に拙著『葬式は必要!』を写真入りで取り上げてくれました。

 常磐松ホール前で、新谷尚紀氏と

また、わたしのブログ記事「還暦と年祝い」で紹介したように、2014年10月21日、國學院大學の渋谷キャンパス「常磐松ホール」において第4回「國學院大學オープンカレッジ特別講座~人生儀礼への取組みをより深く知る」が開催され、わたしも参加しました。テーマは「老いる:還暦と年祝い」で、國學院大學教授である著者が特別講義を行いました。わたしは、そのとき初めて著者にお会いしました。

本書の内容に戻ります。著者は、日本社会が無縁化する流れの中で変化する葬送儀礼について、以下のように述べています。

「かつての農山漁村や町場など伝統的な社会では、相互扶助を基本とする『イエ(ムラ)・テラ・ハカ』の三位一体の葬儀マニュアルが存在し機能していた。しかしいま、それはない。いやそれどころではない。流通大手のイオンが『寺院紹介』で戒名や布施の金額の相場を知らせるサービスを始めたのである。ただまもなく大きな批判が起きてイオンはそのサービスをやめた。しかし、自然の流れは止められない、いつまただれかが再開するかわからないというのが現状である。こうした『葬儀の商品化』の激流の中で、日本の仏教界はどのように対応していくのか。末木文美士の『近世の仏教』は、内容も充実しており、たしかに仏教界にとっては心地よい著作かも知れないが、現代の眼前の問題も大事である。六道輪廻や因果応報、一切皆成などの教えを思い出しながら、全国で7万以上もある寺院、歴史的な文化財でもある寺院の歴史と伝統を思えばその未来永却へ向けて繁栄あらんことを念じるのみである」

2「土と人間」の(3)「両墓制と埋葬墓地」では、著者は述べています。

「日本の葬式の歴史を古代・中世へとさかのぼってみてわかったことは、もともと死者の石塔、墓石というのは早い例で中世後期の戦国期、一般的には近世になってから普及してきたものにすぎないということであった。それ以前の長いあいだの墓地とは、この両墓制の埋葬墓地のようなものだったのである。つまり、両墓制の埋葬墓地とは、石塔の普及以前の埋葬墓地の景観とその実態とをよく伝えて来ていたものなのである。それは、すべての人間の遺体を個々の記憶や執着から解き放ち、自然に帰る摂理にまかせる場所だったのである。先祖伝来の家屋の近くの墓地に埋葬や埋骨をされるにしても、移住先で埋葬されたり火葬されるにしても、しょせん人間は土に帰る存在であるということを、日本各地の民俗は教えてくれているのである。まさに『人間いたるところ青山あり』ということなのである」

第2章「葬送の民俗変遷史―血縁・地縁・無縁」の1「日本民俗学は伝承分析学Traditionologyである」の(2)「民俗学とは何か―folklore(フォークロア)ではなく、traditionology(トラディショノロジー)である」で、著者は以下のように述べています。

「柳田國男が折口信夫の理解と協力を得て創生したのが日本の民俗学である。それはフォークロアやフォルクスクンデの翻訳学問などではなく、もちろん文化人類学の一分野でもない。それは日本民俗学の創世史を追跡してみれば明らかである。文化人類学のアンチテーゼが西洋哲学であるのに対して、柳田の創始した日本民俗学のアンチテーゼは文献史学である。それは東京帝国大学を窓口として輸入された近代西欧科学の中には存在しない日本創生の学問である。だから官の学問ではなく野の学問だといわれるのである。それだけに、近代科学の中では理解されにくく誤解に満ちているのが現状である。しかし、文献記録からだけでは明らかにならない膨大な歴史事実が存在する。その解明のためには民俗伝承を有力な歴史情報として蒐集調査し分析する必要があるという柳田の主張は独創的であった。その柳田はイギリスの社会人類学やフランスの社会学に学びながら日本近世の本居宣長たちの学問をも参考にして、フランス語のトラディシオン・ポピュレール Tradition populaireを民間伝承と翻訳して、みずからの学問を「民間伝承の学」と称した。折口信夫はそれを民間伝承学と呼んでいる」

また、日本民俗学の特徴について、著者は以下のように述べます。

「日本民俗学(伝承分析学traditionology)の特徴は、文献記録を中心とする歴史学の成果はもとより考古学の成果にも学びつつそれらの研究現場にも学際的に参加しながら、みずからの研究対象分野としての民俗伝承を中心として、伝承的な歴史事象を通史的に総合的に研究することをめざす点にある。その伝承分析学(日本民俗学)は『変遷論』と『伝承論』という2つの側面をもつのが特徴であり、基本的な方法は比較研究法である」

本書で特に興味深く読んだのは、柳田國男の『先祖の話』のくだりです。著者は、以下のように述べています。

「国民と社会を不幸にしてしまうまちがった政治が行なわれないようにするためには国民1人ひとりが学問をして賢明なる判断ができるようにしなければならない。そのためには自分たちの先祖から現在までの生活の歴史と変遷を知ろうとするこの民間伝承学をはじめとするさまざまな学問こそが重要であるというのである。柳田の世界ははるかの高みにある崇高なものと思うが、あとに続く者の中の1人として、その民間伝承学の視点と方法である『幸いにして都鄙・遠近のこまごまとした差などが、各地の生活相の新旧を段階づけている。その多くの事実の観察と比較とによって、もし伝わってさえいてくれるならば、大体に変化の道程を跡付け得られるのである』という柳田の教示を大切にしたい。そしてそれを受けて、自分なりにその作業に取り組んでみたい。そう思ってまとめてみたのが本書である」

そして、「あとがき」で、著者は以下のように述べています。

「歴史学・考古学・民俗学の3学協業をもとに分析科学を加えた学際的で先端的な広義の歴史学創生のための研究機関として、井上光貞初代館長の格別な覚悟と努力によって、1981年4月に創設された国立歴史民俗博物館というたいへんめぐまれた場所で、およそ20年近くの研究生活を与えられてきた私が、あらためて柳田國男や折口信夫という日本民俗学の創生に尽力された大先達にゆかりの深い國學院大学という、研究と教育のやりがいある働き場を与えられたのは、2010年4月のことであった。あれから5年ばかりが経つが、柳田や折口をはじめとする先人たちへの感謝と恩返しの思いから、次の世代を担う若い研究者たちの育成へと微力ながら努力しているつもりである。そして、少しずつ小さいながらも確かな実を結んできている実感がある。『伝統は力である』ということを、歴史の古い國學院大学では深く静かに感じている」

著者の國學院でのますますの御活躍を心よりお祈りしたいと思います。

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