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No.1314 心理・自己啓発 『心配学』 島崎敢著(光文社新書)
2016.09.12
昨日は、「9・11」から15年目の日でした。米同時多発攻撃について、国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)の最高指導者アイマン・ザワヒリ(Ayman-Zawahiri)容疑者が米国に対し、同様の攻撃は「何千回でも」繰り返されるだろうと警告しました。これを知った米国民はきっと心配でしょうね。
そこで、『心配学』島崎敢著(光文社新書)を読みました。
「『本当の確率』となぜずれる?」というサブタイトルがついています。
本書の帯
本書の帯にはえらくカラフルなスカーフを首に巻いた著者の顔写真とともに、「人名は尊い。パニックもこわい。しかし、テロリストたちの本当の狙いは、私たちを『心配させる』ことにある!」「元トラックドライバー、異色の心理学者の初論考」と書かれています。
著者は1976年生まれの心理学者です。小学校から高校まで一貫してストーブ係として冬の教室のリスク管理に努めました。静岡県立大学国際関係学部卒業後、大型トラック運転手などを経て、早稲田大学大学院人間科学研究科博士課程単位取得満期退学。早稲田大学人間科学学術院助教を経て、現在は、国立研究開発法人・防災科学技術研究所特別研究員です。
本書の帯の裏
また帯の裏には、以下のように書かれています。
「日本脳炎の予防接種を受けて亡くなる確率は?
授乳中にアルコールを飲むことは本当に危険?
結局、携帯電話は脳に悪いのか?
シートベルトをしている助手席と、
シートベルトをしていない後部座席はどっちが安全?
なぜ切干し大根は高カロリーなのか?
そして、原発のリスクは―?
物事を”ありのまま”に捉えるための新しい学問、ここに誕生」
さらにカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「人々の『心配』こそがテロリストの狙いです。極端な話、テロリストたちにとって、テロは未遂に終わっても良いのです。『テロが起きるかもしれない』とみんなを心配な気持ちにさせるだけで、旅行がキャンセルされたり、街や空港のセキュリティ強化をしなければならなくなったりします。精神的打撃に加えて経済的打撃も与えられるのです。(本文より)
飛行機が落ちることを心配するが、実は車に乗って空港から自宅へ帰る間のほうが死ぬ確率は何倍も高くなる。このように、心配の度合いと、本当の確率がずれることで、あらぬ心配をし、本当に心配すべきことが疎かになる。心配すべきか、心配せざるべきか、人生の正しい選択を求める人のための学問―『心配学』の世界へようこそ!」
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに―テロリストが狙う『心配』」
第一章 どうせいつかは死んじゃうのに、なぜ「心配」するのか?
第二章 セレブと自分を比べて凹まない、ひとつの方法
第三章 ゴキブリに殺された人はいないのに、なぜこわい?
第四章 もっとも悲観的な情報が安心させてくれる
第五章 実践!心配計算学講座
第六章 心配しすぎず、安心しすぎず生きるには
「おわりに―幸せな生き方」
「はじめに―テロリストが狙う『心配』」で、著者は以下のように述べます。
「私たちはテロに巻き込まれたらどうしようと心配している一方で、車を運転する時や道を歩く時に事故に巻き込まれたらどうしよう、とそれほど心配していないような気がします。本当は事故に巻き込まれてしまう確率のほうがずっと高いのに・・・・・・。
このように『本当の確率』と私たちが感じている『心配』の間には『ずれ』があります。また、心配性の人とそうでない人がいるように、この『ずれ』には個人差があります」
続けて、著者は以下のように述べています。
「本当は危ないのに心配しなさすぎると、危ないものから身を守ることができません。一方、実際にはほとんど危なくないことを、過剰に心配するのもあまりよいことではありません。つまり、『心配』の度合いは『本当の確率』あまりずれていないほうがよいのです。本書では、私たちの心配はどこからくるのか、どうやって『本当の確率』を見極めるのか、そして、そこからあまりずれないように適度に心配する方法について解説していきます」
現代日本の「心配」のチャンピオンは原発でしょうが、著者は述べます。
「たとえば原子力発電所から漏れだした放射性物質が私たちの健康にどんな影響を及ぼすのかを考える場合、原子炉の仕組みとか、放射性物質、人間の身体や病気に関してなど、いくつもの専門知識が必要です。さらに『心配』について考えるためには、心理学の知識も必要になってきます。原子力工学と放射線物理学と医学と心理学、どれかひとつを専門とする人はそこそこの数いるでしょう。でもふたつの分野にまたがった専門家の数はぐっと減ります。さらに、3つ4つの分野を専門的に知っているという人はほとんどいないのではないでしょうか。ただ、そう考えた上で、専門家じゃなければ心配している中身がわからないといってしまうことは、結局誰一人わからないといっているのと同じなのです」
第二章「セレブと自分を比べて凹まない、ひとつの方法」では、「危ないという情報が氾濫する理由」として、著者は以下のように述べています。
「私たちのまわりには、私たちを心配させる情報が溢れています。食品添加物とか、放射性物質とか、殺人事件とか、あげればきりがありません。でも実際のところ、これらの物質やできごとは、心配しているほど危険ではないことがほとんどです。何かのきっかけでニュースで報道されると、私たちは心配しますが、しばらくすると忘れてしまいます。ただ、忘れてしまっても、大した問題は起きません。本当に危険なことであれば、忘れてしまうと被害が拡大しそうですが、実際はそうならないのです」
また著者によれば、リスクに関する情報の多くは、危険性が強調されて報道されることが多いそうです。この理由は主に次の3つです。
1 滅多に起きないことのほうがニュースバリュー(価値)が高い
2 ショッキングな内容や、感情に訴える内容のほうが興味をひける
3 リスクを高めに報道しておけば、あとで批判を浴びずに済む
さらに著者は「メディアとニュース価値」として、以下のように述べています。
「無機質に淡々と情報を読み上げるだけのニュースや、統計情報が網羅的に掲載されている資料は、客観的ではあってもとっつきにくく、わかりにくいものです。それよりも、コメンテーターが『こわいですねえ』とか『許せないですねえ』などと訴えるほうがずっと感情移入しやすいし、理解したような気にもなるので、私たちはそういうメディアを好んで選択します。つまり、ショッキングで感情に訴えるような報道をしたほうが、見てもらいやすくなるし儲かりもするのです。こういった事情から、私たちは実際の頻度以上に、ショッキングなできごとや感情的な表現を目にすることになります」
第三章「ゴキブリに殺された人はいないのに、なぜこわい?」では、「ゴキブリに殺された人はいない」として、著者は以下のように述べています。
「私も実はあまり得意ではありませんが、ゴキブリがこわいという人もたくさんいます。しかし、ゴキブリに殺されたという話は聞いたことがありませんので、冷静に考えてみると何がこわいのか、よくわからなくなってきます」
著者に、わたしたちはハラハラ・ドキドキするものを求める性質も持っているとして、以下のように述べます。
「心配症の方には信じられないかもしれませんが、多かれ少なかれ人間にはこの性質が備わっているようです。私たちの脳は、同じ刺激にはすぐに慣れてしまい、飽きてしまいます。個人差はあるものの、どんなに心配症の人でも、窓がなく壁だけの部屋に長時間閉じこめられると、刺激がほしくてたまらなくなります。その部屋が安全で、外には危険があったとしても部屋から出たくなるでしょう」
続けて、著者は以下のように述べています。
「このような心の働きを、心理学の世界では『センセーションシーキング』と呼んでいます。『センセーション』とは感情に強く訴えること、『シーキング』は探すとか求めるという意味です。タイヤを鳴らしながらギリギリの速度でカーブを曲がるとか、自分の伴侶に飽きて不倫をするとか、私たちはいろいろなセンセーションシーキングをしています。ジェットコースターに乗ったりアクション映画を見たりするのは、こういったハラハラ・ドキドキに対する欲求を比較的安全に満たすことができるからでしょう」
著者は、「本当はこわいもの、本当はこわくないもの」として、サメに襲われるという心配について、以下のように述べます。
「サメが人間を食べ物だと思って襲う可能性は非常に低く、実際にデータもそれを裏付けています。サメに襲われて亡くなる人は少なすぎて年によって増減していますが、世界で年間5~10人程度、飛行機事故で亡くなる人の100分の1以下の人数です」
また著者は、「喫煙はこんなにこわい?」として、以下のように述べています。
「『本当にこわいもの』の代表例は『喫煙』です。『禁煙』『死者数』などのキーワードで検索するとWHO(世界保健機関)のページが出てきます。そこには、日本で喫煙が原因と考えられる死者数は、年間16万人あまりだというデータがあります。単純計算すると、交通事故死者数(約4000人)の40倍です。これだけでも『結構多いな』と思うのですが、さらに気をつけるべきところがあります」
著者は自身の喫煙について、以下のように述べています。
「今はやめてしまいましたが、私もかつては喫煙者でした。飛行機よりも2万倍も危ないタバコを吸っていながら、自分がタバコのせいで死ぬことはないと思っていました。その一方、タバコより2万倍も安全な飛行機に乗る時に、『墜落したらどうしよう』とビクビクしたりします。空港の出発ロビーの喫煙所で『吸いおさめかもしれない』なんて思っている人、けっこういるんじゃないでしょうか。余談ですが、この原稿は、タバコの煙が充満した喫茶店で書いています。私は昭和の雰囲気が残る場所が好きで、古い喫茶店を見つけるとすぐに入ってしまうのですが、最近はタバコが吸えない場所が多いからか、街中の喫煙者が集結しているのです。『みんなこわいもの知らずだなあ』と思う反面、私はお酒も大好きなので、大差ない気もします」
さらに著者は、「原発だって『ドンペリ持ってこーい!』感覚」として、原発問題について以下のように述べています。
「福島第一原発は事故を起こしてしまったので、通常より解体しにくい状態ですが、そのほかの原発もマンションとは比べ物にならないほど莫大な解体費用がかかります。また、長期にわたって放射線を出し続ける使用済み核燃料は、なんと10万年も安全に管理しなければならないそうです。キリストが生誕してから現在までのおよそ50倍の期間、管理費を払い続けるわけですから大変です。このコストが電気代に上乗せされていたら、大変な金額になるはずですが、私たちの電気代には含まれません。つまり、私たちは、自分たちの子孫にツケを回して『ドンペリ持ってこーい!』をやっているともいえるのです」
著者は「『次も大丈夫だろう』の危険性」として、以下のように述べます。
「よく『こわいのは○○の被害そのものよりも、人々がパニックになることだ』といわれます。たしかに非常時は人間の判断力が落ちるといわれていますし、慌てた群衆が出口などに殺到して大変な事故になるケースもないわけではありません。現に、2015年11月、テロに見舞われたパリでは、ちょっとした音に驚いてパニックになったパリ市民の映像がニュースで流れていました」
続けて、著者は以下のように述べています。
「しかし逆に、パニックになるどころか、一見、冷静に映る行動が犠牲者を生むこともあります。記憶に新しいところでは、2014年、韓国で転覆、沈没したセウォル号の事故です。船内の動画がニュースで流れていましたが、乗客たち(多数は高校生)は、すでに大幅に傾いた状況でも実に冷静に振舞っています。一目散に逃げ出したクルーからの待機指示や、多くの学生が泳げなかったことなどが原因として指摘されていますが、なぜ、彼らはあれだけ傾いた船内から逃げ出さず、沈んでしまったのでしょうか。当事者の高校生たちは残念ながらほとんどが亡くなっており真相はわからないのですが、私は、『正常性バイアス』と呼ばれる現象が起きていたのではないかと考えています」
そして著者は、以下のように述べるのでした。
「自分が危機的な状況にあるということは、私たちに強いストレスを与えます。危機的な状況かどうかは、周囲の情報で判断するのですが、私たちはそのストレスを回避するために、『危機的な状況ではない』という証拠を探そうとします。これを正常性バイアスと呼ぶのです」
著者は「同調行動」にも言及し、次のように述べています。
「私たちは、自分の行動や考えが適切だったかどうか、他の人と比べることでたしかめています。危機的な状況から逃げるべきかどうかを決める場合も、近くにいる人の行動を参考にします。したがって『隣の人もまだ落ち着いているから大丈夫だろう』と思ったとしても、実は隣の人も、落ち着いている自分を見て、同じように考えている可能性があります。複数の人の行動は増幅されがちです。我先に、と逃げ始める人がいると、それを見ていた周りの人も逃げ出してくれるのですが、日本人は周囲と同調するように教育された、おとなしい民族です。誰も逃げようとしないのに、自分だけ慌てて逃げるような空気の読めない行動はなかなかできません。そんなわけで、1人より誰かと一緒にいるほうが、逃げ遅れる確率は高くなります」
第四章「もっとも悲観的な情報が安心させてくれる」では、「ウィキぺディアは信用できるか」として、著者は以下のように述べています。
「誰でも編集できるなら、嘘や間違いが書いてあると思われがちで、ウィキペディアをレポートの引用元にすることを禁止している大学の先生もいます。しかし、内容は世界中の人に読まれていて、誰かが嘘や間違いを見つければ、すぐに訂正される仕組みです。
一方、旧来の百科事典は、知識のある専門家が書いており、出版社の内容チェックを経てから世に送り出されます。ミスは別として、悪意を持って間違いが書かれることはなさそうです。違いが掲載される確率は低いが、それが修正される可能性が少ない紙の書籍と、間違いが掲載される確率は高いが、それが修正される確率も高いオンラインの情報、私はどっちもどっちだと思っています。重要なポイントは、どちらを用いるにせよ、ちゃんと仕組みを知ることと、その情報の正確性を、他の資料などと比較することかもしれません」
そして、第四章の最後には以下のように書かれています。
「リスクの計算には分母(リスクに晒されている総数)と分子(実際に被害を被った数)が必要です。比較をしたい場合には、比較対象にも分母と分子が必要なので、数字が4つ必要です。また、リスクの計算には誤差やよくわからないことがたくさん混入します。だから、よくわからない部分は安全寄りの想定で計算することをおすすめします」
第五章「実践! 心配計算学講座」では、「心配が先か、安心が先か」として、著者は以下のように述べています。
「飛行機が安全に運行できるのは、航空関係者の並々ならぬ努力によると思います。そのモチベーションはどこからくるのでしょうか。私は、多くの人が飛行機に乗ることをとても心配したことが、結果的に今日の安全を作り上げたのではないかと考えています。みんな飛行機がこわい、飛行機に乗るのは心配だと思っているために、他の乗り物よりずっと高いレベルの安全性を提供しないと、利用してもらえなかった―。
原子力発電所についても同じことがいえます。原発もみんなが心配しまくったおかげで、他の発電技術に比べてずっと慎重に、ずっと安全な設計をせざるを得なかったといえます。
飛行機も原発も新しい技術です。この本では、過剰な心配はあまりよいことではないと繰り返してきました。それと矛盾するようですが、新しいものを導入する時には、こういう慎重さも必要なのかもしれません。リスクがあっても新しいものを導入したい人と、心配な人とのバランスをとって、適正なリスクを保つのが健全な社会のあり方ではないでしょうか」
そして、第五章の最後には以下のように書かれています。
「昔テレビに出ていた、あるアーティストの言葉が印象に残っています。その人は彫刻家で、鬼とか妖怪とかエイリアンとか、とにかくこわいものばかり作っている人なのですが、『私は、心の中にあるこわいものを形にしている。形にしてしまえば少しこわくなくなるから』といっていました。
なるほど、リスクも同じです。実際にどのくらいの危なさかわからないから心配になるのです。もちろん、具体的な数字にしてみても、心配な部分は残ります。それでも漠然とした不安から少し前に進むことができます。その数字を見て、リスクを減らすために行動を起こすのか、これぐらいならまあいっかと思うのか、ただ心配するだけではなく、今後の方針を決めることができます。読者のみなさんも、是非ご自分の心配なことを『数字』にしてみてください。それまでよりも、少し心配じゃなくなるかもしれません」
第六章「心配しすぎず、安心しすぎず生きるには」では、「癌が目立つ国・日本」として、日本人の死因のトップは癌で、おおよそ3人に1人が亡くなっていることを指摘した後、著者は以下のように述べています。
「日本の癌患者がなぜこれほど多いのか、最大の理由は、日本では癌以外のリスクが排除されていることにあります。癌は現代の最新の医療技術をもってしても、治療することが困難な病気です。ほかにも治療が困難な病気はたくさんありますが、メジャーな病気の中で癌ほど治療が困難な病気はあまりないでしょう」
また、著者は癌について以下のように述べています。
「癌は、年齢が上がるにつれて、罹患率が高くなります。50代ぐらいから上がり始め、60代、70代でかなり上昇します。それより前に死んでしまった場合、癌の確率はあまり高くないということです。日本は世界有数の長寿国です。一方で、発展途上国は先進国ほど平均寿命が長くありません。先進国に比べて、病気や事故、犯罪、公害などのリスクが低く抑えられていないからです。したがって、これらの国に住んでいる人の多くは、『癌になる年齢まで生きられない』いうのが実態なのです。このように数字だけを見ても、その背景を理解しないと、実態を見誤ることになります」
さらに著者は、「行動を事前に決めておく」として、以下のように述べます。
「私たちは緊急時には判断力が下がります。特に危機的な状況に陥った最初の5分間は極端に低下します。こういった状況に陥ると私たちは過緊張状態になり、正常な判断力を失います。そして意味のない行為を繰り返したり、注意が一点に集中することがあります。
こうならないためには、普段からどういう行動を取るかを決めておくことです。たとえば、大地震が発生して津波から逃げるには、どこに行けばいいのか。正常な判断力を失った状態では間違った方向に逃げてしまうかもしれないし、右往左往してしまうかもしれません。仮に正しい選択肢を選べたとしても、一刻を争う災害時、判断に時間をかけるべきではありません」
続けて、著者は以下のように述べています。
「そこで有効なのが、大地震が起きた時に逃げるルートを決めておくことです。時間があれば、実際そのルートを歩いてみましょう。思っていたより時間がかかるとか、通れない場所があるとか、初めてわかることがあるはずです。
ルートやプランを複数用意することも大事です。予定していたルートが障害物で通れなくなっていたりすると、途端にパニックになるかもしれません」
著者は「『どうするか』を共有しておく」として、以下のようにも述べます。
「『津波てんでんこ』いう言葉をご存知でしょうか。これは東北地方の沿岸部、まさに2011年の東日本大震災で甚大な津波の被害を受けた地域に伝わる言葉です。大きな地震が起きたら、とりあえず人のことは気にしなくていいので、てんでんばらばらに逃げて、自分の身を守ろう、一家全滅を防ごうという意味です。この地方は100年に1度ぐらいの割合で、何度も大きな津波に見舞われてきました。そこから生まれたこの言葉には、重い意味があります」
また著者は、以下のようにも述べています。
「本当に小さな子どもや動けないお年寄りは別ですが、健康でそこそこの判断力がある10歳ぐらいから上の子どもたちは、とにかくまずは自分の身を自分で守れるようにしておくことです。通学路の途中、丈夫な高い建物がどこにあるのか、その建物の入口や、鍵の有無など、普段から地震が起きた時のことを考えておくことで、適切な行動を取ることができます。これは津波に限らず、あらゆるリスクに使えることです」
続けて、著者は以下のように述べています。
「そして、少し勇気のいることではありますが、『本当の緊急時には、お互いのことは気にせずに自分の命を守ることにする』という取り決めをするのも1つの手です。事前の取り決めというと、家族がどこで落ち合うかを決めておくことを想像するかもしれません。この取り決めも重要ですが、生きていなければ落ち合うことはできません。自分以外の家族も全力で自分の身を守っていると信じて、まずは自分が生き延びることに徹する。これを家族全員が徹底すれば、また生きて会える確率が高まります」
さて、著者は「目標水準を変えるもの」として以下のように述べます。
「もう時効なので告白しますが、若い頃は夜な夜なバイクに乗って箱根を攻めたり、第三京浜で賭けレースをしたり、暴走族を見かけるとおしりペンペンをして逃げたりと、比較的、リスクの高い行動を繰り返してきました。世間では若気の至りと呼ぶようですが、今はあまりそういうリスクの高い行動は取らなくなりました。私同様、若気の至りにあった人は、ある程度の年齢になると落ち着く傾向にあるようです」
著者は、以下のようにも述べています。
「若気の至りが落ち着く最も大きな原因は、『リスクの目標水準』の変化だと思います。歳を重ねるにつれて、守るべき対象ができたり、失うことができないものが増えたりします。結婚して子どもができたり、社会的な地位が向上していくと、自分が怪我をしたり、死んでしまったり、警察のお世話になったりすることで、家族が路頭に迷ったり、これまでの努力が水の泡になることがあります。昔は何とも思わなかった危ない運転も、ふと家族の顔が浮かび、こわくなってしまうのです。こういったことが私たちの『このぐらいならまあいっか』いうリスクの目標水準を変え、行動を安全なものにしたのでしょう」
そして、著者は「話を聞いてもらおう」として以下のように述べるのでした。
「心配は一種の悩みです。そして1人で悩むことはあまりいいことではありません。だから、心配なことを他人に打ち明けて、話を聞いてもらうだけでも、意外に心がすっきりするものです。この時、あまり心配性の人に打ち明けるのはオススメではありません。その人が自分以上にそのことを深刻に捉えて心配していたりすると、こちらも相談する前以上に心配になることがあるからです。逆に相談された時(心配に限らず、相談全般において)は、相手の話をなるべく否定しないのがコツです。他人に話をして、自分が落ち着いたり癒やされたりするのは、共感してもらっているからです」