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2016.10.11
『情報の強者』伊東洋一著(新潮新書)を読みました。 著者は経済評論家、エコノミスト、ジャーナリストで、1950年長野県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。現在は、株式会社三井住友トラスト基礎研究所主席研究員です。
本書の帯
本書の帯には「ネット頼みでは弱者のまま」と大書され、続いて「『情報弱者』に陥らないための超実践的情報処理術」と書かれています。 またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「溢れるニュースに溺れてしまっては、『情報弱者』になってしまう。情報を思い切って捨て、ループを作る思考を持つことが、『強者』となる条件なのだ。『夜のテレビニュースは見ない』『大事件とは距離を置け』『新聞は”浮気”して読め』『ネット記事は「自己メール」で管理する』『情報は放出してこそ価値を増す』・・・・・・多方面で発信を続ける著者が、具体的なノウハウを公開しながら示す、情報氾濫社会の正しい泳ぎ方」
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに―情報の海で溺れないために」
1 情報の拾い方
「特ダネ」が流れるのは午前3時
朝は「薄目あけ」で頭の準備体操をしておく
海外の情報に触れるには
デバイスは用途に合わせて複数持つ
不必要な情報を拾わない
本にはまだメリットがある
人に会うことこそ情報だ
「電車でスマホ」の功罪
自分にとっての「ラクダ」を探す
2 情報の読み方
新聞は遅い。が、侮れない
新聞はニュースの配置を読む
お気に入りの新聞を作らない
テレビとはなるべく付き合いを少なくする
毎年恒例のニュースはすぐ捨てよう
大きな事件が起きたらニュースから離れろ
海外のニュースで情報を相対化する
ニュースから国の主張を読む
日本の新聞は「内向き」だ
ネットの記事は「自己メール」でメモする
ネット情報に溺れるな
情報の土台を定めておく
タイムラインは雑多で極私的
快楽情報に溺れるな
3 情報のつなげ方
情報のループをつくる
ループ作りを前提に情報を評価する
情報には前後関係がある
「ベタ記事」にこそ注目する
「常識を壊す小さなニュース」を発見する
既存の情報とのズレから書き換えを行う
知らない世界のニュースを積極的に読む
専門家を選ぶ基準
専門的なニュースは語源から確かめる
ループ作りのベースには論理性が必要
4 情報の出し方
紙の資料はとっておかない
アウトプットが脳内を整理する
情報は惜しまずに放出する
アウトプットが発信力を強化する
アウトプットは情報を捨てること
毎日何でも幅広く書く
写真や映像もアウトプットしておく
井戸端会議気分で発信をするな
注目されたい欲求を抑える
「昼の常識」が働かない危険を自覚する
「論理よりも言葉」に気をつけ「流す勇気」を持つ
「おわりに―『よそ者』の視点を持とう」
「はじめに―情報の海で溺れないために」で、著者は情報を整理することに重要性について、以下のように述べています。
「家具やモノが多く、それらが雑然と置かれている家より、不必要なものが捨てられて、少なめのモノがきちんと配置されている家の方が住み心地がよいし、美しい。情報も同じである。情報は頭の中に雑然と放り込んでも何の役にも立たない。そればかりでなく、時間の無駄使いを誘い、我々を惑わし、場合によっては生き方の邪魔をする。家を綺麗にするコツは不必要なものを処分することだが、情報も同じだろう」
また著者は、情報の「捨て方」が大事であるとして、以下のように述べます。
「長年情報に携わってきて思うのは、効率的に有用な情報を得る時にも、そして情報を一応頭に入れたあとでも、『捨て方』が非常に重要だということである。そして、ここで重要なのが『ループ』を意識するという点である。家を片付けるにあたって、要らない物を思い切って捨てたとして、それではまだ住みよい家とはいえない」
続けて、著者は「ループ」について以下のように説明します。
「残ったものをどのように配置するか、どうすれば快適な家になるか。ここにはまた別の視点が必要になる。ひたすら効率だけを求める人もいるかもしれないが、ある程度『遊び』の部分があったほうが、いい家になるかもしれない。選んだ情報を有効に整理、活用するためには、『捨てる』以外の視点が必要であり、それが『ループ』だと私は考えている」
1「情報の拾い方」では、著者は「自分にとっての『ラクダ』を探す」として、以下のように述べています。
「よく言われる話だが、ラクダと生きる民族は、ラクダに関する様々なる言語を持つ。言語を持つということは、ラクダに関する情報が分化しているということだ。たとえば、普段ラクダを使わない日本人には、『ひとこぶラクダ』と『ふたこぶラクダ』の違いくらいしか分からないが、彼らはその呼び名だけで数百通り、一説には数千もの言葉を持つのだという。それは彼らにとっては極めて有用な情報であるが、私たちにとってはほとんど無意味な情報でもある。もちろん、何が必要な情報となるかは、その人の仕事、住む場所、環境にも左右される。人がどこに住むか、何を手段として生きていいるかによって変わる。何が自分にとってのラクダなのか。そのことを常に私たちは意識しておく必要がある。そればかりは、他人に聞いてもわからない」
2「情報の読み方」では、「大きな事件が起きたらニュースから離れろ」として、著者は以下のように述べています。
「私は大きなニュースがあると、一定の情報が入った段階でそのニュースを遮断することにしている。世間が騒いでいる中でなかなか難しいかもしれないが、『遮断する』と強く意識し、実行しない限り、同じような情報を繰り返し摂取することになってしまう。そして、ある程度時間が経ち、事態がいくらか推移した段階で必要であれば、関連情報を取りに戻る。この繰り返しにより、情報の重複と陳腐化を防ぐのだ」
また著者は、「日本は海外の事態を大げさに伝える」として、以下のように述べています。
「日本の報道は、日本についての海外の反応を実態より大きく伝える傾向がある、ということも頭に入れておきたい。たとえば、経済摩擦や政治問題などで海外諸国と軋轢が生じたときに、『アメリカは日本に強い圧力をかけている』『日本に非常に腹を立てている』など、実態以上に過敏に報じる。日本の報道だけ追っていると、非常に深刻な事態に思える。株安や円高を惹起したり、政治不安を煽ったりするからなのだが、相手国の報道を見ると大した問題ではないことが多い」
そして、「情報の土台を定めておく」として、著者は情報の信頼性の問題について述べるのでした。
「現在、ブログやSNSなどでは、個人が多くの情報を発信している。しかし私は、こういう情報を見るとき、かなり注意をするようにしている。第一に、情報の信頼性の問題だ。『マスゴミ』などと言われて叩かれることもあるが、マスコミの取材には一定のクオリティがほぼ保証されている。記者たちは、情報を扱うプロフェッショナルとして常に訓練されている。一方で、個人のレベルで情報を発信しているブロガーについては、平均的に見た場合に、その信頼性が低いと言わざるをえない。正確な情報や鋭い分析もあるだろうが、噂レベルの情報も同じように扱われている危険もある」
4「情報の出し方」では、「アウトプットは情報を捨てること」として、著者は140字というツイッタ―の文字数制限に言及します。短い文章にはデメリットがあると指摘し、長い文章の重要性を説く著者は、「なぜ長い文章が必要か。それは長い文章を書く際には、どうしてもより多くの情報を用いて、さまざまなループを盛り込まないと、整合性のあるものが作れないからだ」と述べます。
ツイッタ―でつぶやくには準備はいりませんが、長めの文章(たとえば2000字のもの)では、そうはいきません。著者は述べます。
「まず読んでもらえるようなタイトルなり導入を考えなくてはいけない。作家の身辺雑記ならいざ知らず、ある程度のデータ(事実)は必要だから、書く前にそれらを揃えておかなければならない。その中でどれを使い、どれを捨てるかも考える。データばかりが詰め込まれた文章は読みづらく、最後まで読んでもらえないかもしれない。私自身、文章を書くときいつも抱くのは、『この事も書きたいけど、それを書くと今日の主張の焦点がぼける』などという思いだ。短い文章でも情報や論理の取捨選択はあるが、長い文章を書くと、よりその必要性が増す。それらを並べるにあたっては、論理性が必要になる。論理が破綻していては、誰も賛同しないだろう。時には遊びも必要かもしれない。そのためには、本題とは別のジャンルの情報を盛り込む必要もでてくるだろう」
また「毎日何でも幅広く書く」として、著者は以下のように述べています。
「毎日書くという『大変さ』を凌駕するメリットがある。その時自分が何に注目していたのか、何が実際に起こっていたのか、その時のデータや記事のリンク先はどこだったのか、など多くの情報と事実をネット上に残しておけることである。人は思った以上に忘れっぽい。単なる情報ではなく、その時自分がどう感じていたか、何を思っていたか、といったこともすぐに忘れてしまったり、勝手に記憶を作り変えたりするものだ。自分の行動や思考を辿る必要が生じた時に、ブログは『伊藤洋一専用にカスタマイズしたデータベース』として機能してくれる」
これはブログやHPの文章をそのまま「一条真也専用にカスタマイズしたデータベース」として重宝しているわたしには深く共感できました。
それから著者は、いわゆる匿名ブロガーについても言及しています。 冠婚葬祭業界にも、某大手葬儀社の社員(正体はバレバレ)が匿名ブログで互助会業界の誹謗中傷を繰り返している事例があります。これはいずれ刑事事件となって立件され、グルであった彼の会社にも社会的制裁が下ることが予想されますが、著者は以下のように述べています。
「ネットの世界には”匿名”は存在しない―そう覚悟しておく必要がある。ネットを使っている人は実はすべて『実名』で発信しているのと同じである。そもそも『何かを発信する』ということには、どこかに『自己顕示の意欲』がある。自分の考えを知ってもらいたいとか、自分はこの問題についてこう思う、とか。それは決して悪いことではない」
「自分はこんなことも知っているんだよ」という自慢したい気分でツイッタ―の書き込みをしている人も多いですが、著者は以下のように述べます。
「『注目されたい』『自慢したい』が無理のないかたちで進行しているうちはいいが、しばらくすると『もっと自分は注目されて良いのではないか』と考えるようになる。社会で注目されている人も、注目されていない人もそう考えるケースが多い。そこでつい、『注目される発信』『注目される写真や動画』をアップしてしまう。『珍しいこと』『異常なこと』『世の中から非難されるかもしれないこと』とエスカレートする。アルバイトのバカな行動も、『注目されたい』という気持ちのあらわれである。しかし、その軽はずみな行動1つで、ネット上のさらし者になり、バイト先からは解雇され、店も代償を支払うことになる。昔は、ちょっとしたいたずらで済んでいたことが、今は簡単に社会問題になる。ネット社会のなせる業だ」
著者は「ネットで書くことは、基本的には『個人のつぶやき』であるという認識は常に頭の片隅に置いておきたい。反応が多くても、『いいね!』をたくさんもらえても、実生活には影響はない」 この著者の考え方に、わたしは100%賛同します。 くだんの葬儀業界の匿名ブロガーの場合もそうですが、ネットで発信を続けているうちに、本人は「自分は社会に対して影響力を持っている」と勘違いしたり、さらには愚かにも「ネットを使えば何でもできる」などの万能感を抱いたりすることがありますが、そういう馬鹿に限って、リアルライフは充実していません。そもそも「リア充」などという言葉があること自体、ネットが虚構=妄想の世界であることを示しています。 わたしもブログを書いていますが、いつも「たかがブログじゃないか」と思っています。たかがブログ、たかがツイッタ―、たかがフェイスブックという意識を忘れてはいけないと思いますね。
「おわりに―よそ者の視点を持とう」で、著者以下のように述べています。
「結論を簡単に述べれば、私たちは情報を意識して摂取し続ける必要がある。それは『快感の極大化』と『リスクの極小化』のためである。このように言うと堅苦しく思われるかもしれないので、少し身近な話から説明してみたい。まず、『そもそもそんなに必要か』ということについて。私は、こういう疑問を抱く人は、情報というものをとても狭く捉えているような気がしてならない。新聞やテレビ、書籍など『商品化された情報』のみを情報だと考えてはいないだろうか」
そして、著者は「新しいアイディア」の重要性を説きながら述べるのでした。
「新しいアイディアを求めていない職場は、ほとんどない。では、その新しいアイディアはどこから生まれるのか。多くの人が指摘するように、既存のアイディアの組み合わせという場合がほとんどである。特に現代のように技術が進歩した時代においては、『まったくゼロから新しいものが生まれてくる』ということは滅多にない。革命的と思われる商品であっても、既存のアイディア、技術の組み合わせによって作られるのが通常である」
これを読んで、わたしは拙著『最短で一流のビジネスマンになる! ドラッカー思考』(フォレスト出版)で述べた「イノベーション」のくだりを連想しました。そこで、わたしは「価値の革新」としての「バリューイノベーション」の重要性を説きました。これは「ブルーオーシャン戦略」とも呼ばれます。競争のない市場空間を生み出して、競争を無意味にすることです。 実例としては、いま世界中を席巻している任天堂の「ポケモンGO」。これはかつて同社の「Wii」が果たしたようにブルーオーシャン戦略を実現し、新しい大きな市場を創造したのでした。
ブルー・オーシャン戦略は、主に「増やす」「付け加える」「減らす」「取り除く」の4つのアクションが中心ですが、わたしは「組み合わせる」が非常に重要であると、注目しています。IBM・シティバンク・マイクロソフトなど全米400社以上の有力企業のマーケティング・コンサルタントを務めたジェイ・エイブラハムも著書『ハイパワー・マーケティング』で指摘しているように、アイスクリームが発明されたのは紀元前2000年ですが、アイスクリームコーンは3900年後に登場しました。それまで、この世にソフトクリームはなかったのです。紀元前2600年にはパンがすでに焼かれており、そのはるか以前から人類は肉を食べていました。ところが、その二つを組み合わせてハンバーガーをつくったのは、それから4300年も後のことでした。
わたしは、まだまだ結ばれていない運命のカップルがこの世には無限に存在すると思っています。この世界には、未だその姿を見せていないソフトクリームやハンバーガーのような商品があるに違いない。そして、それを発見したとき、発見者は大きな青い海に漕ぎ出すことができるのです。この話は、わたしが本名で書いた『ホスピタリティ・カンパニー~サンレーグループの人間尊重経営』(三五館)でも紹介しました。
もともと、冠婚葬祭互助会というビジネスモデルそのものがブルー・オーシャン戦略だったのではないでしょうか。結婚式場、衣裳店、写真スタジオ、そして葬祭業などを見事に組み合わせたからです。そして、サンレーが推進している「隣人祭り」や「グリーフケア・サポート」がまさに新しい市場を開拓すると思います。人間の死というものを「イン」だととらえた場合、「隣人祭り」は「ビフォアー」であり、グリーフケア・ワークとは「アフター」です。同様に、長寿祝いは「ビフォアー」であり、法事・法要は「アフター」です。本書を読んで、わたしは冠婚葬祭という営みの本質を考え抜き、新しい組み合わせの可能性を知りたいと思いました。