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2016.12.05
『21世紀の論語』佐久協著(晶文社)を読みました。
「孔子が教えるリーダーの条件」というサブタイトルがついています。
著者は1944年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同大学院で中国文学国文学を専攻。後に慶應義塾高校で教職に就き、国語・漢文・中国語などを教えました。同校生徒のアンケートで最も人気のある授業をする先生として親しまれたそうです。退職後に執筆した『高校生が感動した「論語」』がベストセラーとなり、NHKでも『論語』の講座を担当しています。
本書の帯
本書の帯には「ニッポン社会のネジを巻きなおす!」というキャッチコピーに続いて、「不透明な時代を生き抜くためには、今こそ孔子の知恵が必要だ。ベストセラー『高校生が感動した「論語」』の著者による現代版『論語と算盤』!」と書かれています。
またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「古くから日本人の精神と道徳を支え、福沢諭吉、渋沢栄一など知識人にも大きな影響を与えてきた『論語』。近代以降においても黒船来航、敗戦といった国難を乗り切ってきたのは孔子の教えだった。 バブル崩壊、リーマンショック、3・11・・・・・・政財界は迷走し、人々は閉塞感から抜け出せずにいる。ニッポン再生のためには、今こそ孔子の知恵が必要なのだ。『論語』には人間教育のエッセンスが充ち満ちている! ベストセラー『高校生が感動した「論語」』の著者による21世紀的『論語』再考」
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
The 1st Step 三つの主義
The 2nd Step 一つの願望
The 3rd Step 四つの心
The 4th Step 五つの力
The 5th Step 三つの養
The 6th Step 三つの論
The 7th Step 二つの観
「おわりに」
本書の帯の裏
「The 1st Step 三つの主義」では、「徹底した現実主義者としての孔子」として、著者は以下のように述べています。
「世界の三大聖人のうち、ブッダ(ゴーダマ・シッダールタ)と孔子はほぼ同時代人であり、ソクラテスは孔子の死後10年ほど後に生まれていますが、3人の主張を比べてみると孔子の特色が明瞭になります。ブッダならば、父子の庇い合いはもとより、父親が迷い羊を自分のものにしようとした行為そのものを「煩悩」として斥けるでしょう。ソクラテスは、皆で認めた法ならば悪法でも従うべきだと主張して自らの死刑を受け入れたくらいですから、葉公と同じく躬を褒める立場に立つでしょう」
続けて、著者は以下のように三大聖人を比較します。
「ブッダとソクラテスの共通点は、〈理性〉や〈知性〉の力で、人間の〈感情〉を押さえ込もうとしている点です。2人は、感情に基づく行為を野放しにすれば社会秩序は乱れ、個人の平安は得られないと考えているのです。これに対して孔子は、諦念や法律によって感情を押さえつけたのでは、かえって本当の心の平安や社会秩序は生まれないと考えているのです」
また著者は、孔子の人間観および社会観について以下のように述べます。
「”人は人の中で人となる”というのが孔子の人間観および社会観でした。世間に背を向けて引き籠もったり、隠遁したところで、人間社会から完全に離脱できるわけではありません。人間である限り、どこにいようと、どんな生活をしようと、広い意味での人間社会にいることに変わりはないのです」 さらに著者は、「人間社会を『俗世間』と呼んで見下したり否定したりするのは間違っている。積極的に人間社会にとどまって、人間社会を変えることなしには個人の平安も、社会の安定も得られない―というのが孔子の根本姿勢だったのです」と述べます。
著者は、(1)緩い道徳観(2)緩い宗教観(3)俗世間の容認の3点が、孔子の現実主義の三本柱だとして、以下のように述べます。
「政治家であれ企業家であれ、社会的なリーダーを目指す者は、この孔子の現実主義を見習い、こうした緩い条件の中でも実行できる社会政策や個人計画を立てるべきです。さもなくば、いかなる政策や計画も絵に描いたモチで終わるか、理想に走り過ぎて他人や自分を苦しめる手枷や足枷になってしまうのがオチなのです」
著者は「個人主義者としての孔子」として、福沢諭吉を引き合いに出しながら、孔子について以下のように述べます。
「日本では、明治初期に福沢諭吉氏が『独立自尊』のスローガンを掲げて個人主義を広めましたが、福沢氏も地位も金もコネもなく我が身1つで世に打って出ようと志した人物です。頼れるのは自己一身の才覚であり、福沢氏の生き方自体が個人主義の見本となったのは当然だったのです。孔子の場合も状況はまったく同じでした」
続けて、著者は福沢諭吉と孔子を比較しながら、以下のように述べます。
「個人が社会や国の基本であり、個人が自分の才覚によって世の中を動かすことができると宣言する個人主義思想は、明治時代の若者に熱狂的に支持され、福沢氏が書いた啓蒙書『学問のスゝメ』は人口3000万の時代に300万部も売れたのです。同様に孔子の個人主義的な生き方も、当時の中・下層階級の若者たちの心を捉え、孔子の私塾は門弟3000人と称せられる若者を引きつけたのです。つまり、『論語』とは、2500年前の『学問のスゝメ』であり、孔子塾は2500年前の白熱教室だったのです」
「The 4th Step 五つの力」では、「公正力を磨く」として、著者は礼儀作法の問題を取り上げ、以下のように述べています。
「リーダーが地位にあぐらをかいて普段から威張り散らしていては、自ら失敗した時に潔く失敗を認めて謝ることなどできません。それを防ぐには日頃から部下に対して礼儀正しく振る舞うことが肝心です。 『礼』は『仁』と並ぶ孔子の思想のキーワードですが、『仁』とは思いやりの心であり、『礼』 とは思いやりの心が外に形となって表われ出たものを指します。ですから、見た目がどんなに優雅な挙措動作でも、そこに思いやりの心が込められていなければ、いわゆる慇懃無礼の類で、『礼儀正しい態度』とは呼べないのです」
また著者は「交渉力を磨く」として、社交力の問題を取り上げ、以下のように述べます。
「孔子は、自然な流れとして親→兄弟姉妹→友人→同僚→上司の順に人間関係を築いていけば無理なく社交力を活性化でき、最終的には、― 四海の内、皆な兄弟(顔淵第12―5)― 世界中が兄弟のような関係になれる。―と考えています。孔子は、― 相手を尊敬して誠実に接すれば誰もが心を開くようになる。(子路第13―19)―とも主張しています」
孔子は「君子に九思あり」(季子第16-10)と述べて、良きリーダーとしての条件を9点挙げていますが、著者が以下にまとめています。
(1)的確にものを観ることができるか?
(2)部下の言うことを誤りなく聞くことができるか?
(3)表情を穏やかに保っているか?
(4)立ち居振る舞いが礼儀にかなっているか?
(5)言葉を違えないか?
(6)仕事に誠実に取り組んでいるか?
(7)わからないことを目下の者にも訊けるか?
(8)見境いなく怒ったりしないか?
(9)社会正義に反した利益を追求していないか?
「The 5th Step 三つの養」では、「家を斉える」として、以下のように述べています。
「孔子は最晩年にこそ家でのびのびと生活をしていた(述而第7-4)ようですが、彼の生涯は家庭的には恵まれたものではありませんでした。父親は魯国の武将だったと伝えられていますが、孔子が生まれた時に60歳を越えており、孔子が数え齢3歳の年に亡くなったとされています。以降は母親の手で育てられたようです。ちなみに孔子を崇拝してやまなかった孟子も母子家庭だったようです。孔子は子供の頃に神霊を祭る遊びをしていたと伝えられているところから、母親はそうした世界に関係していたのではないかと推測されており、自川静氏は「巫児の庶生児ではないか」と推測しています。巫児というのは、結婚をしないで巫女となった女性です。そうだとすると、巫女は結婚を禁じられており、孔子を産んだ母親は破戒の巫女だったわけですから、さだめし陰口もたたかれたことでしょう。孔子はイジメに遭っていたかもしれません。ただ、巫女は文字に通じており、孔子は文字を母親から習うことができた利点はあったでしょう」
また、孔子と福沢諭吉の「子育て」論を比較しているのですが、「福沢氏の子育て」というのがなかなか興味深かったです。福沢は夫婦や家庭のあり方に関しても、子どもの養育に関しても極めて開明的だったそうです。彼は夫人との間に四男五女をもうけ、『福翁自伝』に「品行家庭」の一章を設けて自らが実践した子育ての秘訣を示しています。それは、以下の5点です。
●夫婦・親子が仲良く暮らす。
●夫婦・親子間に隠しごとをしない。
●子どもたちを平等に扱い、男児・女児の間に軽重愛憎の差別をつけない。
●躾は、温和を旨とし、大抵のところまでは子どもの自由にまかせる。
●五歳までは知識教育を控え、身体を動かすことを優先させる。
そして、福沢諭吉が唱えたという「夫婦創姓」について、著者は以下のように述べるのでした。
「福沢氏は、門閥を根底から崩そうと、明治18年(1885年)に『日本婦人論』を著し、男女が結婚したら両者の姓の一部ずつを取ってまったく新たな姓を名乗るべきだと主張しています。そうすれば夫婦で協力して1つの家庭を築くという意識を持てるようになり、代々にわたって家門を護るという従来の封建的な家庭意識を改められ、長男重視のいびつな養育方針や、門閥制度も打破できると考えたのです」
もう、みなさんもお気づきのように、この『21世紀の論語』という本には、孔子に負けず劣らず、福沢諭吉が何度も何度も登場します。著者は、 『論語』とは2500年前の『学問のスゝメ』であると明言しているのですから、福沢諭吉は「日本の孔子」だと思っているのでしょう。ということは、慶応義塾は「日本の孔子塾」ということになります。それはまあいいのですが、福沢諭吉にいちいち「氏」をつけているのが気になりました。明治時代の人物に「氏」をつけるのはどう考えても変でしょう。 どうしても呼び捨てにしたくなくて敬称をつけたいのであれば、慶応義塾出身の著者は「福沢諭吉先生」と書くべきであったと思います。 そのへんが気になって、どうも読書に集中できませんでした。(苦笑)
ちなみに、わたしも『世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)という著書で孔子のリーダーシップ論について詳しく紹介しました。 豊富なイラスト付きで、非常に読みやすい『論語』入門になっています。
また、リーダーシップの真髄は「人間通」になることですが、孔子は人類史上最大の「人間通」であったと思います。拙著『孔子とドラッカー新装版』(三五館)で、わたしは福沢諭吉ではなく、最高の「経営通」であるドラッカーと比較しながら、ビジネスに活かせる孔子の思想を紹介しました。
まだ読まれていない方は、ぜひ御一読下さい!