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2016.12.25
『昭和の遺書』梯久美子著(文春新書)を読みました。 「55人の魂の記録」というサブタイトルがついています。
本書の帯
帯には昭和という時代を代表する6人の顔写真が掲載され、「山本五十六、太宰治から美空ひばり、昭和天皇まで」「遺書でたどる昭和史、決定版」「未曾有の大戦をめぐる生と死のドラマ」と書かれています。
本書の帯の裏
カバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「昭和ほど多くの遺書が書かれた時代はない。二・二六事件の磯部浅一は天皇へ呪詛の言葉を投げかけ、死地に赴く山本五十六は愛人に相聞歌を贈った。焼け跡の日本人を勇気づけた美空ひばりが息子に遺した絶筆、そして偉大なる君主・昭和天皇の最後の御製は―。遺書でたどる昭和史、決定版。」
著者は、1961年熊本県生まれ。北海道大学文学部卒。2006年、『散るぞ悲しき硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。同作は、米・英・韓・伊など世界七か国で翻訳出版されています。わたしも読み、たいへん感動しました。
本書の「目次」は以下のようになっています。
「まえがき―遺書は時代の証言者」
第一章 テロと不安と憤怒と〈昭和初年~開戦まで〉
「天皇陸下、御あやまりなされませ」
作家・芥川龍之介 二・二六事件・磯部浅一、竹嶌継夫
思想家・北一輝、西田税 小林多喜二の母・セキ
第二章 前線に散った人々〈開戦~昭和20年8月〉
「ああ 戦死やあわれ」
特攻兵・林市造 特攻の父・大西瀧治郎
戦没学徒・林尹夫 詩人・竹内浩三 2人の農民兵士
従軍看護婦・山野清子 マレーの虎・山下奉文
聯合艦隊司令長官・山本五十六 ペリリュー島指揮官・中川州男
沖縄守備隊指揮官・大田実 沖縄知事・島田叡 聖将・今村均
医学博士・永井隆 被爆死の少年・三田村至誠 女優・園井恵子
第三章 敗れた国に殉じて〈敗戦前後〉
「一死以て大罪を謝し奉る」
陸軍大臣・阿南惟幾 陸軍元帥・杉山元
元首相・東條英機 元首相・近衛文麿
満映理事長・甘粕正彦 男裝の麗人・川島芳子
第四章 戦後の混乱のなかで〈昭和20年代〉
「すべて精算カリ自殺」
元首相・広田弘毅 元陸軍中将・岡田資
BC級戦犯・荻野宗光、趙文相
光クラブ・山崎晃嗣 作家・太宰治
天皇の弟宮・秩父宮雍仁
第五章 政治の季節と高度成長〈昭和30~40年代〉
「血と雨にワイシャツ濡れて」
東大生・樺美智子 歌人・岸上大作 浅沼稲次郎刺殺犯・山口二矢
マラソンランナー・円谷幸吉 作家・三島由紀夫
連合赤軍・森恒夫 CMデイレクター・杉山登志
元東宮参与・小泉信三 戦場カメラマン・沢田教一、一ノ瀬泰造
第六章 大いなる終焉へ〈昭和50~60年代〉
「音たえてさびし」
最後の海軍大将・井上成美 日商岩井常務・島田三敬
KDD参与・保田重貞 日航機墜落事故・河口博次、谷口正勝
いじめ自殺・鹿川裕史、岩脇寛子 俳優・石原裕次郎
歌手・美空ひばり 昭和天皇
「参考文献一覧」
「まえがき―遺書は時代の証言者」で、著者は以下のように述べています。
「日本の歴史を見渡しても、昭和ほど数多くの遺書が書かれた時代はない。未曾有の戦争に巻き込まれ、国家が破綻に近づいていく中、あらゆる階層、年代の人々が、死を身近に置いて日々を暮らしていた。とくに、若い年代がこのようにおびただしい遺書を書く時代は、もう2度と来ないだろう」
また、「まえがき」の最後を著者は以下のように書いています。
「遺書は、個人の人生が時代に記す小さな刻印のようなものである。ひとつひとつの遺書を読んでいくと、昭和という時代が、無数の深い刻印がきざまれた巨大な石板のように思えてくる。その刻印は、歳月の中で風化しつつあるが、まだしばらくは消えずにいるはずだ。平成生まれに日本が占領されるまでには、もう少しだけ間がある」
第一章「テロと不安と憤怒と〈昭和初年~開戦まで〉」では、昭和11年2月26日のいわゆる「二・二六事件」を起こした陸軍軍人で国家社会主義者であった磯部浅一の遺書を紹介し、著者は次のように述べています。
「事件が起こったとき、天皇は34歳だった。磯部は4歳下の30歳である。蹶起した将校たちのことは、『青年将校』と呼ぶのが通例のようになっており、事件の翌日付の新聞各紙で早くもそう称されているが、側近や陸軍軍人たちの意見をはねつけ、断固たる態度で臨んだ天皇も、実は青年といっていい年齢だった。つまり両者はほとんど同世代だったのである」
続けて、著者は以下のように述べています。
「このことを頭に入れると、磯部らが天皇に抱いた思いの熱さの性質が分かってくる。 磯部は自分たちのことを〈忠義の赤子〉と呼んではいるが、天皇を父なるものとは捉えていなかったはずだ。もちろん神とも思っていなかった。自分たち軍人と特別な絆で結ばれるべき神聖な存在だと捉えており、その神聖さは、天皇の清らかな若さに拠るところが大きかったのではないか。もしこのときまだ大正天皇が生きており、その時代が続いていたとしたら、かれらははたして、このようなかたちで蹶起しただろうか」
第四章「戦後の混乱のなかで〈昭和20年代〉」では、50歳で逝去された1人の皇族の遺書が紹介されます。昭和28年1月4日に亡くなられた昭和天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王の遺書です。
「僕は50年の生涯をかへり見て唯感謝あるのみ。特殊な地位に生れたと云ふだけで限りない恵まれた一生を終へたと云ふ外はない、平々凡々たる一人の人間だが。殊に最後の10年は我民族として国家として歴史上未曾有の離局と困苦の間にあつたが、此の間を静かに療養の生活を送れたことは、幾多の同病の人が筆舌に尽し得ない欠乏の中に此の世を去つて行つたのに比し、余りにも恵まれ過ぎてゐたと云ふの外ない」
秩父宮親王は、自身の葬儀についても希望を書き遺されています。
「葬儀は、若し許されるならば、如何なる宗教の形式にもならないものとしたい。僕は神―此の字で表現することの適否は別として宇宙に人間の説明し能はない力の存在を認めないわけにいかぬ―を否定しない。然し現代の宗教に就いて一としてこれと云ふものはない。現在の宗教は何れも平和をもたらすものとは云へない。相互に排他的であり、勢力拡張の為には手段を選ばない傾向さへある」
昭和天皇は、秩父宮の遺志を尊重するよう命じました。東京大学医学部で解剖が行われ、遺体は皇族で初めて火葬に附されました。葬儀も遺志に沿う形で行われ、ベートーベンの「告別」、チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」が演奏されたといいます。
第五章「政治の季節と高度成長〈昭和30~40年代〉」では、昭和35年11月2日に獄中で首を吊って17年の生涯を自ら閉じた浅沼稲次郎刺殺犯の山口二矢の遺書が紹介されます。
「私の人生観は大義に生きることです。人間必ずや死というものが訪れるものであります。その時、富や権力を信義に恥ずるような方法で得たよりも、たとえ富や権力を得なくても、自己の信念に基づいて生きてきた人生である方が、より有意義であると信じています。自分の信念に基づいて行なった行動が、たとえ現在の社会で受け入れられないものでも、またいかに罰せられようとも、私は悩むところも恥ずるところもないと存じます」
この遺書の文面は『テロルの決算』沢木耕太郎(文春文庫)から引用されています。右翼少年であった山口は、崇拝する人物は誰かときかれると、「大東亜戦争で国のため子孫のため、富や権力を求めず黙って死んで行った特攻隊の若い青年に対し、尊敬しております」と答えたといいます。
昭和39年に開催された東京オリンピックで日本陸上界にとって28年ぶりのメダルを獲得したマラソンランナーの円谷幸吉は、国民の期待に応えられなかったメキシコオリンピックの年が明けた昭和43年1月9日朝、カミソリで頸動脈を切り、27年の生涯を自ら閉じました。部屋には家族宛てと、世話になった自衛隊体育学校の関係者宛ての2通の遺書がありました。
家族向けの遺書はあまりにも有名です。 以下は、その遺書の全文ですが、読む者の心を強く打ちます。
「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。 干し柿 もちも美味しうございました。 敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。 勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。 巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。 喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。 又いつも洗濯ありがとうございました。 幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。 モンゴいか美味しうございました。 正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、 良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、 光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、 幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、 立派な人になってください。 父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。 何卒 お許し下さい。 気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。 幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」
この遺書は、戦後書かれた中でも最も有名な遺書の1つです。作家の川端康成は、円谷の死後まもなく、この遺書について、〈繰りかへされる「おいしゆうございました。」といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ〉と述べ、さらには〈千万言もつくせぬ哀切〉と評しています。
また、自衛隊体育学校の関係者に宛てた遺書について、著者は述べます。
「家族への遺書が繰り返し感謝の言葉を述べていたのに対し、こちらは謝罪に終始している。円谷は真実、申し訳ないという気持ちでいっぱいだったのだろう。当時のスポーツ界には、円谷の死を精神的な弱さからだとして批判する見方もあったが、作家の三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』と題した文章の中で『傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺』であると述べている」
その三島由紀夫は、円谷自殺の2年後の昭和45年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げました。 「小生たうたう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました」ではじまる遺書には、以下のような自著に対する心配事が述べられています。
「ただ1つの心残りは『豊饒の海』のことで、谷崎氏の死後急に谷崎氏に冷たくなつたクノップが、これを出し渋ることが考へられます。第1巻第2巻は飜訳がほとんど出来てゐますから、大丈夫かもしれませんが、問題は第3巻、第4巻です。御面倒ですが、同じお願ひをモリスさんにもしておきましたので、モリスさんとも御相談の上、何とかこの4巻全巻を出してくれるやう、御査察いただきたく存じます。さうすれば世界のどこかから、きつと小生といふものをわかつてくれる読者が現はれると信じます」
第六章「大いなる終焉へ〈昭和50〜60年代〉」では、著者は昭和天皇について以下のように述べています。
「戦争の時代、多くの日本人が天皇にむけて最期の言葉を書き残し、あるいは口にして死んでいった。直接に天皇に宛てたものでなくとも、その存在を意識して書かれた遺書は膨大な数に上るだろう。これほど多くの遺書を捧げられた人は、世界の歴史を見てもおそらく例がないのではないか。天皇はそのうち、どのくらいを目にされたのだろう。自身に宛てられたおびただしい昭和の遺書のことを、天皇はその最期にあたって、思うことがあったろうか」
続けて、著者は以下のように述べています。
「たとえば二・二六事件の磯部浅一が書いた、愛情と憎しみがない交ぜになった激烈な遺 書。その存在を、天皇は知っていたのだろうか。おそらく中身を目にすることはなかったろう。しかし、死の直前まで、事件のことを深く気にかけていたことは事実のようだ『吹上の季節』の中に興味深いエピソードがある。死の前年の2月26日、つまり天皇が生涯最後に迎えた2月26日のことである。この日の夜、NHKテレビでは二・二六事件の特集番組が放送されていた。21日夜に放送された『二・二六事件・消された真実』の再放送である。天皇はこれを見ていた。番組が終わった時間を見計らい、少し間をおいてから中村侍従が御座所に上がろうとすると、部屋の中から、天皇の激した声が聞こえてきたという。〈一度も耳にしたことがない大きなお声で激しく何か独り言を仰っておられる。思わず息をのむ。そのまま廊下を引き返す〉と、中村侍従は書いている」
そして本書の最後に、著者は以下のように書くのでした。 「戦後になってわかったことだが、第一次の処刑で刑死した青年将校たちの新盆にあたる昭和11年8月、天皇は15個の盆提灯を宮中に用意させていた。処刑された将校と同じ数である。しかし天皇は、誰のための提灯なのかは口にされなかったという」