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No.1391 プロレス・格闘技・武道 『昭和プロレス迷宮入り事件の真相』 井上譲二監修(宝島社)
2017.02.18
『昭和プロレス迷宮入り事件の真相』井上譲二監修(宝島社)を読了。
監修者は1952年、神戸市生まれ。大阪芸術大学卒業。在学中よりプロレス専門紙『週刊ファイト』通信員として英国マットを取材。77年、『週刊ファイト』米国特派員としてニューヨークに駐在し、数々のスクープを連発。帰国後、新日本プロレス担当として活躍したのち、94年6月『週刊ファイト』編集長に就任。2006年9月の休刊を機に発刊元の新大阪新聞社を退社、フリーの立場でプロレス記事を執筆し活躍。「週刊ファイト」については、わたしのブログ記事『『週刊ファイト』とUWF』で紹介した本に詳しく紹介されています。
本書の帯
「YouTube時代に出た最終結論」というサブタイトルがついています。 表紙には、第1回IWGP決勝戦でアントニオ猪木にアックスボンバーを見舞うハルク・ホーガンの写真が使われています。帯には「新日黄金期の重大疑惑に最終結論が出た!」と大書され、続いてこう書かれています。
「猪木舌出し失神事件の前夜、猪木がホーガンに極秘指令、長州力『かませ犬事件』を光らせた藤波のガチ対応、前田vsアンドレ戦放送禁止事件を引き起こした黒幕」「全25戦収録」
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
第1章 謎の遺恨試合
第2章 名勝負の真実
第3章 疑惑の数字
第4章 リング外の暗闘
第5章 伝説の綻び
ボーナストラック「筋書きの破壊」
この読書館でも紹介した柳澤健氏の著書『完本 1976年のアントニオ猪木』、『1984年のUWF』は、プロレスのタブーに容赦なく斬り込んだ好著でした。今ではプロレスがリアルファイトでないことは周知の事実ですが、わたしが夢中でプロレスを観ていた頃はまだ真剣勝負の幻想がありました。わたしは子どものころから格闘エンターテインメントとしてのプロレスをこよなく愛し、猪木信者、つまりアントニオ猪木の熱狂的なファンでした。何千という猪木の試合のなかで、いわゆるセメント(真剣勝負)はかのモハメッド・アリ戦とパキスタンの英雄、アクラム・ペールワン戦の2回だけと言われています。だから良いとか悪いとかではなく、それがプロレスだと思っていました。逆にその2回に限りないロマンを抱きました。
かつての村松友視氏のベストセラー『私、プロレスの味方です』(情報センター出版)を読んでからは、いっそうプロレスが好きになりました。なにしろ、新日本プロレスも全日本プロレスも全テレビ放送を10年以上完全録画していました。しかも、SONYのベータマックスで!(泣笑) 目をつぶれば、今も猪木、坂口、藤波、長州、タイガーマスク、マスカラス、ファンク兄弟、ハンセン、ブロディ、アンドレらの雄姿が瞼に浮んできます。
しかし、「すべてのプロレスはショーである」と暴露した『流血の魔術、最強の演技』ミスター高橋著(講談社)が2001年12月に出版されてから、事情が一変しました。それまでも「すべてのプロレスがリアルファイトではない」と知っていたいたものの、同書を一読して「ここまでひどいのか」と失望したプロレス・ファンが続出しました。かくいうわたしも、その1人です。UWFやリングスにはリアルファイトの幻想がありましたが、『1984年のUWF』がその幻想も完全に消し去りました。
そのような流れを受けて読んだ本書ですが、これまでプロレス・ファンの間で謎とされていた数々の問題を取り上げます。ファンから切望されつつも幻に終わった猪木vs前田戦、「裏ビデオ」で一世を風靡した前田vsアンドレ戦、「セメントマッチ」と呼ばれた橋本vs小川戦など・・・・・・昭和プロレスの「迷宮入り」とされている25の試合の真相を読み解きます。わたしのような、雑誌・ムック・単行本を問わずに膨大な「プロレス本」を読み漁ってきた者からすれば、すでに知っていたことが多いですが、それでも初めて知った事実もありました。YouTube時代のいまだからこそ、本書の最終結論について、試合映像をこころゆくまで味わうことができるのが嬉しいですね。
まず、わたしが興味深く読んだのは、「ジャッキー佐藤vs神取しのぶ」(1987年7月18日・神奈川県大和車体工業体育館)のレポートです。神取しのぶ(現・神取忍)が先輩だったジャッキー佐藤をボコボコにした伝説のケンカマッチですが、神取は「あの試合のとき、考えていたことは勝つことじゃないもん。相手の心を折ることだったもん。骨でも、肉でもない、心を折ることだけ考えていた」とコメントしています。しかし、著者は「神取のジャッキーへの個人的制裁には伏線があった?」として、当時はギャラの金額をめぐってジャッキーらベテラン・レスラーと神取らの若手レスラーの間に確執があったことを明かし、最後に以下のように書いています。
「ジャッキーは1999年8月9日、胃がんで死去(享年41)。その通夜には神取も出席した。報道陣の問いかけに、『一度でいいからじっくり話し合って、わかり合いたかった』と口を開いた神取は、途中から号泣。『悔いしか残っていない・・・・・・』と呻いた。会見の締めの言葉は、『心から「ごめんなさい」と言いたい』というものだった」
次に、「前田日明vsスーパータイガー」(1985年9月2日・大阪城臨界スポーツセンター)です。著者は「金的には入っていないのに、なぜ不穏試合になったのか?」として、以下のように書いています。 「同試合は、牛のように突進する前田の蹴りが金的に当たったとして、佐山のアピールで終了(前田の反則負け)。佐山によれば、試合中の前田は、『辞めます・・・・・・辞めます!』と言ってきたという。佐山は、前田の下腹部への蹴りを『金的だ』とし、試合を終わらせた。そう、別に急所には当たっていなかったのだ。ただ、佐山は『俺はここまで、コイツを追いこんでいたのか!?』と感じたという。佐山が浦田氏に、UWFを辞める意向を伝えたのは、それからしばらくのことだった」 浦田氏とは、当時のUWFの浦田昇社長です。彼は事件の4日後に2人に対して、「今、私の観ている前で、握手をしてくれ。君たちはスポーツマンだろう?」と言って、佐山と前田に握手をさせたそうです。この5日後、UWFは終了し、浦田氏は膨大な借金を背負ってプロレス界を離れました。その浦田氏に対して、佐山と前田は「僕らが必ず、浦田さんの借金を返しますから」と言ったとか。その浦田氏は2014年1月に死去しましたが、「UWFで一番好きだった試合は?」という問いに対して、「前田vsタイガーの実力No.1決定戦」(1984年9月11日)と即答したそうです。
日本のプロレス史、いや格闘技の歴史に残る、「アントニオ猪木vsモハメッド・アリ」(1976年6月26日・日本武道館)も取り上げられています。 プロレスとボクシングの王者同士が激突したこの試合への当時の注目は凄まじく、アメリカとの時差に合わせるため、当日(土曜日)の午後1時から放映された試合は、視聴率38.8%を記録。同夜にも組まれた試合の再放送でも、視聴率29.9%と高い数字を出しました。
これはトリビア的な知識ですが、著者は以下のように書いています。
「この高視聴率で今に続く恩恵を受けたのが『100円ライター』。当時、タバコへの着火はマッチが主流だった。この状況を打開しようと、ライター・メーカーの『東海』が、猪木vsアリにCMの出稿を決意。同商品『チルチルミチル』を大量に告知したことにより、なんと同年の売り上げは、前年比の200倍以上に! これにより、『100円ライター』は市民権を得たのであった。 ちなみに、こちらもYouTubeで動画を発見。しかも当方の見たバージョンは、前後に猪木vsアリが映る、いわば正真正銘バージョンだった(ラウンドの合間に入る30秒CMだったのだ)」
「猪木vsアリ」に続く伝説の一戦といえば、「ジャイアント馬場、アントニオ猪木組vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組」(1979年8月26日・日本武道館)。そうです、第1回夢のオールスター戦のメインイベントです! しかし、このオールスター戦の3年後の1982年に第2回大会が計画されていたにもかかわらず、中止になった事実があったそうです。 本書では「第2回夢のオールスター戦中止のもっともな理由とは?」として、実現寸前まで馬場と猪木の間で話が進んでいたこと、その頃、かの「アントン・ハイセル騒動」が馬場の耳に入り、「向こうの負債を埋めるのに、利用されたのではかなわん」と思って中止となったことが明かされています。 著者は、その後日談を次のように書いています。
「1984年の4月4日の午後5時過ぎ、全日本プロレスの岡山武道館大会に、突然、猪木が現れたことがあった。 リングで練習していた馬場に近づくと、馬場もびっくり仰天。 阿修羅原や大熊元司が『おっと、挑戦状ですか?』『殴り込みですか?(笑)』と和やかに声をかける中、2人はマスコミを遠ざけ、約20分間談笑。 実はたまたま同じ岡山にいた猪木を『東スポ』の記者が誘い、アポなしでの表敬訪問となったのだが、この時、2年前のオールスター戦の中止に関し、猪木から馬場に直接謝罪と、ハイセルの事情説明があったと言われる。というのも、ハイセルの研究所は当時、岡山にあり、猪木もそこに足しげく通っていたのだ。現在でもブラジルで存続し、今では優良企業として展開されるハイセル事業。だが、当時は、それこそ新日本の屋台骨を揺らした凶事だったのは間違いない。そして、それが貴重な2回目の夢の舞台を潰えさせた元凶でもあったのだ」
さらに、「ブルーザー・ブロディ刺殺事件」(1988年7月16日・プエルトリコ・バヤモン市ロブリエル・スタジアム)も取り上げられています。
「超獣」の異名を持ったブルーザー・ブロディは人気レスラーですが、非常に倹約家でした。遠征中の食事は、スーパーで買ったパンとツナと豆の缶詰で作ったツナサンドを安宿の自室で食べるのが習慣だったそうです。日本のマスコミに、「日本では、コーラを飲むだけで、10ドルも取られるんだ」と愚痴ったとか。服装も質素で、いつも黒いTシャツを着ていましたが、そこには〈sports cleb tokyo〉の文字が・・・・・・。 ブロディは家族を愛し、ファイトマネーはすべて夫人宛に送っていました。 ブロディが刺殺された事件のレポートの最後に、著者はこう書いています。
「遺体安置所に置かれたブロディの亡きがらは、日本のマスコミのみ、撮影が許可された。倫理観の面から遠慮をする記者もいたが、バーバラ夫人も、『主人が愛した日本のファンに、最後の姿を見せてやってほしい』と譲らなかった。棺の中、目を閉じ、花に埋もれていたブロディ。最後の姿は、見覚えのある黒いTシャツ姿だった。胸に、〈sports cleb tokyo〉の文字が見えた」
最後に、「力道山の死去」(1963年12月15日・赤坂 山王病院)が取り上げられています。「日本のプロレスの父」であり、「一代の英雄」と呼ばれた力道山の死には、さまざまな噂がついてまわりました。たとえば、手術は成功したのに、力道山がサイダーを飲んだり、寿司を食べたりしたために悪化して死亡に至ったなどというものです。しかし、著者は「サイダー暴飲じゃなかった力道山の本当の死因とは?」として、直接の死因は、麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことであった事実を明らかにしています。問題は、筋弛緩剤を使用したために、外科医が気管内挿管の失敗を繰り返していた間、呼吸ができなかったことによる無酸素状態が死亡の原因であったというのです。じつは、力道山の心臓はとても弱っていました。 ゴルフのラウンド中に発作を起こして急に倒れたこともあったそうです。また、以外にも頭蓋骨が非常に薄かったそうです。とても、プロレスをできるような身体ではありませんでした。
最後に、著者は以下のように書いています。
「生前、不眠症に悩み、睡眠薬を多量に服用していた力道山。 晩年の試合直前には、興奮剤を常用していたとも聞く。死の1年前には、『いつまでレスラーをやっていればいいんだ』と、懇意にしている記者に、ボヤくことも多かったという。だが、一方で同じ記者に、こんな言葉も。 『俺が生身の人間なら、ファンはつまらないじゃないか』 鍛えられた首による、麻酔の失敗か。それとも、偶像としての自分を保つために至った身心の衰弱か。頭蓋骨の薄さをものともせず、受け身を取り続け、戦い続けた姿勢か。いずれにせよ、そこに戦後最大の英雄、プロレスラー・力道山としての宿命を見るのである」
力道山やブロディは刺殺されるという不幸に遭いましたが、一般に短命のプロレスラーが多い印象があります。長年、体を酷使続けたダメージは大きいのでしょう。本書を読んで「プロレスは人生の縮図だ」と思いました。