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No.1421 ホラー・ファンタジー | 民俗学・人類学 『山怪 弐』 田中康弘著(山と渓谷社)
2017.04.28
『山怪 弐』田中康弘著(山と渓谷社)を読みました。この読書館でも紹介した『山怪』の続編で、同じく「山人が語る不思議な話」というサブタイトルがついています。著者は、1959年長崎県佐世保市生まれ。礼文島から西表島までの日本全国を放浪取材するフリーランスカメラマンです。
本書の帯
帯には「山ニハ何カガ居ル」と大書され、「ベストセラー『山怪』第二弾、顕現!!」「山岳、怪談、民俗学・・・and more。領域を超えて拡散する『語り』の魔術。現在系のフィールドワーク!」と書かれています。
本書の帯の裏
アマゾンの「内容紹介」には以下のように書かれています。
「ベストセラー『山怪 山人が語る不思議な話』(2015年6月・山と溪谷社)、待望の続編、ついに刊行! 今回は、東北から中国・四国地方まで新たに取材を敢行、山里に埋もれつつある興味深い体験談を拾い集めた『現在形のフィールドワーク』である。『新たなる遠野物語の誕生』としてさまざまなメディアで絶賛された前作からさらに拡張する、山で働き、暮らす人々の多様な語りは、自在にしてエキセントリック。『語り遺産』ともいうべき、失われつつある貴重な山人たちの体験に、読む者は震撼しつつ、深い郷愁の念のとらわれる。民衆の記憶を渉猟して築かれた新たな物語の誕生! あるいは、現代と近代の境界を漂う不定形のナラトロジー!」
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
第1章 胸騒ぎの山
八甲田山
真夜中の行軍
怖いモノは無視せよ!
落ちた火の玉
仏おろし/同じ夢を見る
夢で呼ぶのは
神様の孫
マタギの里で
狸もたまには騙す
蛇に魅入られた男
秋山郷の謎の火
森の大笑い
青い服の女
山の中で聞こえる音は
御嶽神社
大菩薩女
通じなかった祈り
蛇の鳴き声
駆け巡る笑い声
まとわりつく鈴の音
鷹が見たもの
闇に笑う男
犬を入れた訳
降りてくる山の神
山盛りの内臓
霊感は伝染する?
昨日の友達
第2章 彷徨える魂
切りたくない木
峠に集う者
続・楽しい夜店
山の日の出来事
二度と行かない小屋
白日の火の玉
狐の嫁入り
座敷わらし
幻の巨大石塔
止まるチェーンソー
最新科学と交差する謎
天に昇る煙
小さな帽子
線香のにおい
悪いモノ
見知らぬタツマ
虫捕り
立ち上がる光柱
ミミズ素麺
山寺の騒ぎ
オオカミと蛇
十津川村/行者の世界
チャクラ全開の人
回峰行
遭難者が見たモノ
第3章 森の咆哮
軽トラの待ち伏せ
行ってはいけない
消えた友人
黒い山
一人だけに聞こえる
不気味な声
手相見の警告
おろちループ
呪い神
拝み屋と憑きもの封じ
ヒバゴンの里
爺婆の茶飲み話
神船/良くないモノ
エクソシストと丑の刻参り
森とみそぎ
遍路ころがし
大蛇は寝ている
招くモノ
悪狸
犬神家
ヤマミサキ
婆と侍/雅な調べ
「後書き― 怪異との付き合い方」
本書の扉には、以下のように書かれています。
「山に潜みしモノ
或る時は光りながら宙を彷徨い
また或る時はがさがさと藪の中を歩き回る。
山に潜みしモノ
或る時は小屋の壁を突き抜け
また或る時はじっと分かれ道に佇む。
山に潜みしモノ
或る時は冷たく周りを包み
また或る時はいつまでもついてくる。
山に潜みしモノ
その正体は誰にも分からない。」
「はじめに」で、著者は以下のように述べています。
「人が山へ入る目的はさまざまだ。頂きを目指してひたすら登る人、旬の山菜やキノコを求めて藪を掻き分ける人、幻の巨大イワナに会うために沢を遡上する人、獣を打ち倒すために崖をよじ登る人、山仕事のために森を跋扈する人、そして自分を鍛えるためにひたすら山を駆け巡る人」
続けて、著者は以下のように述べています。
「目的は各々違うが、山の中に自分の体を投げ出すのはすべての行為に共通する。それは暑かろうが寒かろうが、雨が降ろうが日が照りつけようが、1人であろうが複数であろうが、変わらない。普段はマンションで快適に暮らし、明るいオフィスで仕事をする現代人たちも、山へ入ればたちまち古代人と同じ土俵に立たされる(もちろん装備は違うが)。そこは普段自分たちが生活している日常とはかなり異なっている」
さらに続けて、著者は以下のように述べます。
「静かすぎて耳が勝手に妙な音を拾ってくる世界、暗すぎてその闇の奥をじっと覗き込んでしまう世界。そんな独特の世界では空気の微妙な変化や鼻腔に入るかすかなにおいにも体は敏感に反応する。闇の中に佇むモノに気がつき体が緊張したり、藪の中を進む姿無きモノに遭遇し思わず目を向ける。かと思えば今まで歩いていたはずの道が突如消え失せて森に孤立したり、信じられないくらい立派な建築物に迷い込んだりする。誰もが平等に無防備な山の中では、少なからぬ人がこのような山怪に遭遇するのだ」
第1章「胸騒ぎの山」の「マタギの山で」では、秋田県の阿仁地区のマタギの最長老である松橋吉太郎さんが、山中で出遭った不思議な婆さんから「25歳までに何も見なければもう見ることはない。25歳までに見ていればその人は何度でも見る」と言われた話が紹介されています。何を見るのかといえば、もちろん幽霊のことです。
「降りてくる山の神」の冒頭では、著者は次のように述べています。
「山の神は女性だと言われている。嫉妬深く、若い男のイチモツを好む少しスケベな面も持ち合わせているらしい。古のマタギは初猟の時に最年少の男を裸にして山の神のご機嫌を伺った。そうすると獲物が捕れるというのである。現在でもこれは有効なのかも知れない」
続けて、著者は以下のように述べています。
「丹沢で猟をする服部啓介さんは山で下半身を丸出しにして振り回したことがあるそうだ。その時は効果てきめん、ブラブラさせているとすぐ横の斜面に複数の鹿が現れる。これは凄いと、また次の猟でも下半身丸出しでブラブラさせた。はっと気がつくと、すぐそばに鹿の姿があるではないか。ブラブラはひょっとして凄い効果があるのではないかと思った。しかし最大の問題点は、とても銃を撃てる状況に無いということである。ブラブラ状態で発砲することは難しい。それを察知して獣は顔を出すのかも知れない、あまりの殺気のなさに」
第2章「彷徨える魂」の「二度と行かない小屋」では、著者は述べます。
「昔は事故で亡くなった人の遺体をしばらく山小屋に安置することが珍しくなかったそうだ。運悪くそんな時に山小屋に泊まると、一晩見ず知らずの人の通夜に付き合う羽目になる。こうしていわくつきの小屋が生まれ、勘の鋭い人が泊まると大抵妙なことが起きるのだ。また今と違いヘリコプターで遺体を下ろすことはほとんど無く、難所での遭難者はその場で荼毘に付す。それもまた山岳ガイドの仕事だったのである」
「狐の嫁入り」では、富山県の五箇山地区に出現する火の玉が取り上げられ、最後に以下のように書かれています。
「この近辺では、単独で飛び回る火の玉よりも連なって移動する狐の嫁入りの方式が一般的である。複数回見た人が多いのも特長だ。さほど遠くない岐阜県の飛騨市には文字通りの”きつね火祭”がある。これは参加者が狐メークで嫁入り行列を再現する祭りだ。それほど昔から馴染みのある現象だったのだろう」
「天に昇る煙」の冒頭では、著者は以下のように述べます。
「日本各地で見られる謎の火の玉は、狐火や人魂などと呼ばれている。原因としてよく挙げられるのが、リンが燃えたからだというものである。昔は土葬だったから、埋葬された死体からリンが発生して、それが燃えるらしい。しかし中には、『動物性のリンは燃えない、燃えるのは鉱物性だ』と自説を唱える人もいる。結局のところ火の玉の正体は分からないというのが正しいだろう」
第3章「森とみそぎ」では、昔、集落で悪さをした男が山に逃げ込んだことに触れ、「みんなで山狩りをしたけど見つからん。これが山じゃのうて、別の町に逃げたいうんなら警察沙汰ですけえね。そいでも山へ逃げたから、村人もまあええじゃろ思うたんです。そこで野垂れ死んでもまあしょうがないんじゃないか、森で死ぬんならええんじゃないかと」の言葉が紹介されます。
続けて、著者は以下のように述べています。
「余所へ逃亡したのなら警察に任せ、山に逃げ込んだのなら流れに任せると言うのだ。そして件の男は1ヵ月後に山の中から出てくるが、住民たちは男を許したそうだ。山へ身を隠すことは山の神に命を預けるということらしい。その結果生きて戻ってくれば、それは山の神が生かして帰した訳だから、みそぎは済んだと判断する。こうして男は、それからも集落で暮らすことが出来た。実に不思議な山村の論理である」
「犬神家」の冒頭では、著者は以下のように述べています。
「四国で憑きモノといえば犬神が最も一般的だ。いわゆる狐憑きと同じような現象かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。どこから来るのか分からない狐とは違い、その存在する場所(家)を誰もが知っているのだ。この点は秩父地方などのオサキ(オザキ、オサキ狐)と似ている」
また、犬神について、著者は以下のように述べます。
「ひょっとしたら、犬神とはもともと浮浪神だったのかも知れない。それを特定の家が引き受けて祀ることで、集落全体の安全に繫げたのではないだろうか。本来は山の中を勝手気ままに彷徨う犬神を限られた空間に封じれば、安心して山へ入れるという苦肉の策だったのかも知れない」
「あとがき」では、著者は以下のように述べています。
「世の中に怪異を心底完全否定する人がいるのは事実だ。世間に不思議なことや怖いことなど存在しない。そんなことがあるならば是非遭ってみたいもんだと豪語する。そして彼らは周りの人にも大きな声で言う。怖いモノを見たり感じる奴らは臆病者だからしょうがないと・・・・・・」
続けて、著者は以下のように述べるのでした。
「果たしてそうなのだろうか? 私はこの乱暴な意見にはもちろん賛成しかねる。人知を超えた存在は少なからずあり、それを恐れ敬う行為は人として必要だと考えているからだ。世の中が進み、昔は普通だったことが迷信だと言われる。中には当然排除すべき迷信もあるが、そうでないものもあるのだ。そこを見極めるのは人それぞれの尺度である。当然個人差が大きい。結局怪異とは個人の中に存在するものなのかも知れない」