No.1456 人生・仕事 | 宗教・精神世界 | 幸福・ハートフル 『どんな時でも人は笑顔になれる』 渡辺和子著(PHP研究所)

2017.07.08

七夕の夜、九州北部では、天の川は見れませんでした。
歴史的な豪雨の被害は甚大で、犠牲者の数も増え続けています。
気が滅入る一方ですが、こんな時にこそ、紹介したい本があります。
『どんな時でも人は笑顔になれる』渡辺和子著(PHP研究所)です。
200万部を超えるベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』の著者で、昨年末に89歳で帰天したノートルダム清心学園理事長であった著者の遺作となった書です。じつに帰天の10日前に本書の校閲を終えたとか。

 本書の帯

本書の帯には「時間の使い方は、いのちの使い方。たった一度の人生をどう生きるか?」「生涯を教育に捧げ、89歳で帰天した著者が、最後に遺した書。」「生きる指針 人生のヒント」と書かれています。

本書の帯の裏

また帯の裏には、「人の使命とは、自らが笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすること。」「『神が置いてくださったところで咲きなさい』で始まる詩を収録。(p.137~139)」と書かれています。

さらにカバー前そでには「人は欲しいものを祈り願い、神様は必要なものをくださる」「学歴や職歴よりもたいせつなのは、『苦歴』」と書かれています。最近、わたしの父も大のお気に入りである「苦歴」という言葉をよく耳にすると思っていましたが、著者の言葉だったのですね。
そしてカバー後そでには、「マザー・テレサ、恩師、母・・・・・・美しい心の持ち主が教えてくれたたいせつなこと」と書かれています。

本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「はじめに」
第1章 たった一度の人生をいかに生きるか
第2章 人を育てるということ
第3章 祈ること、願いが叶うということ
第4章 マザー・テレサが教えてくれたこと
第5章 美しく生きる秘訣

「はじめに」には、「求めること、戸を叩くこと」も大切ですが、それに応えて与えられるものを謙虚に”いただく心”のほうがより大切であるとして、著者は「激しく求めただけに、その求めたものが与えられなかった時の落胆、捜しものを見つけられなかった時の失望には、計り知れないものがあります。でも、そういう切なさ、つらさこそが、実は人間が成長してゆく上で『本当に大切なもの』『必要なもの』だったのだと、いつか必ず気づく日があるものです」と述べています。

第1章「たった一度の人生をいかに生きるか」では、「冬に思うこと」として、著者は以下のように書いています。

「履歴書を書かされる時、必ずといってよいほど学歴と職歴が要求されます。しかしながら、もっとたいせつなのは、書くにかけない『苦歴』とでもいったものではないでしょうか。学歴とか職歴は他の人と同じものを書くことができても、苦歴は、その人だけのものであり、したがって、その人を語るもっとも雄弁なものではないかと思うのです。文字に表わすことのできない苦しみの1つ1つは、乗り越えられることによって、その人のかけがえのない業績となるのです」

それでは、著者にはどのような苦歴があるのでしょうか。
これまでの著書には、2・26事件での父の死、母の反対を押し切って入った修道生活や若くして就いた学長職の苦労などが綴られています。
さらに本書の第2章「人を育てるということ」では、「苦しみを乗り越える力」として、病気の苦しみについて、以下のように書かれています。

「私は50代の約2年間、うつ病で苦しんだ経験があります。その間も、学校の授業や仕事はなんとかこなしていましたが、常に『私にはその資格がない』という自信のなさがつきまとっていました」

当時の著者は、講義をしていても、言葉がスムーズに出てこなかったり、他人と話をしているのに、いつの間にか眠ってしまったりしたそうです。死んだほうがましだと思った時もあったそうですが、著者は述べています。

「けれども今は、そういう苦しみがあったから、元気な時の自分がありがたいと思うようになれたのだと思います」

また、「思い通りにならない時にたいせつなこと」として、著者は述べます。

「エドワード・リーンという人の本の中に、『他人の行動とか、事物を通して起こる”ままならないこと”に腹を立てた瞬間、私たちは謙虚さを失っている』と書かれてあったように思います。他人から受ける不当な扱い、誤解、不親切、意地悪等から全く自由になりたい、なれるはずだと思うことは、すでに人間としての『分際』を忘れた所業であると書かれていたように思います」

この言葉に、わたしは非常に感銘を受けました。 まさに、わたしは謙虚さを失う瞬間が多いことに心から反省しました。
秘書を「このハゲ!」と罵った国会議員にも読んでほしいものです。

第3章「祈ること、願いがかなうこと」では、「なぜ祈るのか、祈りはかなうのか」として、「祈り続けたら、その祈りは必ず神様に届くのでしょうか。私は今、とても切なくつらいのです」という元教え子からの手紙に対して、著者が「祈り続けたならば、必ずその祈りは神様に届くと思います。でも、”届く”ということは、必ずしも、願ったことが”叶えられる”ということではありません」と返事を書いたことが紹介されています。

イエス・キリストは、「求めなさい。そうすれば与えられるであろう。捜しなさい。そうすれば見出すであろう。叩きなさい。そうすれば開かれるであろう。誰でも求める者は受け、捜すものは見出し、叩く者は開けてもらえるのである」と述べています。(ルカ11・9-10)

このイエスの言葉について、著者は以下のように述べています。

「この言葉には、求めたそのものが与えられると約束されていませんし、捜したそのものが見つかるとも約束されていません。むしろ、その後に、『子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与える父親が、いったいいるだろうか。また、卵を求めているのに、さそりを与える者がいるだろうか。このように、あなたたちは悪い者であっても、自分の子どもたちには、良いものを与えることを知っている。まして、天の父が、求める者に聖霊をくださらないことがあろうか』(ルカ11・11-13)と続く言葉があって、求めたものの『代わりに』何かをくださる可能性があることが示唆されています」

「人は欲しいものを祈り願い、神様は必要なものをくださる」という著者の言葉には、目から鱗が落ちた気がしました。というのも、わたしはずっとキリスト教の「求めよ、さらば与えられん」という考え方に強い違和感を抱いていたからです。わたしが『法則の法則』(三五館)を上梓したのは2008年ですが、当時の日本では「法則」についての本が大ブームになっていました。

世界的ベストセラーとなった『ザ・シークレット』などには、「引き寄せの法則」というものが紹介されています。これは他の言葉でいうと、「求めよ、さらば与えられん」をアップデートした「思考は現実化する」ということです。このような「法則」本ブームには気になることがありました。それは、どうも「成功したい」とか「お金持ちになりたい」とか「異性にモテたい」といったような露骨な欲望をかなえる法則が流行していたことでした。いくら欲望を追求しても、人間は絶対に幸福にはなれません。なぜなら、欲望とは今の状態に満足していない「現状否定」であり、この宇宙を呪うことだからです。

心学研究家の故小林正観氏は、著書『釈迦の教えは「感謝」だった』の中で、「思いどおりにしよう、思いどおりにしたいと思えば思うだけ、逆に、『感謝』というところからは遠いところにいる。これが宇宙の法則であり、宇宙の真実です」、「宇宙を味方にする最良の方法とは、ありとあらゆることに不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わないこと。否定的、批判的な考え方でものをとらえないこと。これに尽きるのです」などと述べています。

たしかに考えてみれば、「思いは実現する」「強い願いは、対象を引き寄せる」のであれば、世の中にガンで死ぬ人も、無実の罪で死刑になる人も、会社が倒産して自殺する経営者もいないはずです。それらのガン患者、死刑囚、経営者の「生きたい」「無実を明らかにしたい」「会社を潰したくない」という願いはものすごく強烈であるからです。その人たちは、常人の何十倍、何百倍の強い思いを抱きながら、無念のまま死んでゆくのです。だから、「強い思いを持てば、必ず思いどおりになる」というのは「法則」どころか、きわめて当たりくじの少ない宝くじのようなものです。むしろ、思いが強ければ強いほど宇宙を敵にまわして、ものごとは反対の方向に動いていくのかもしれません。

ラテン語で、「現在」のことを「プレゼント」といいます。
小林氏によれば、今あるものは全部が神のプレゼントなのです。要求をぶつけて、「何か欲しい」「早く寄こせ」という人がいれば、神はそういう人間にさらなるプレゼントはしません。このような小林氏の考え方に共鳴したわたしは、『法則の法則』の中で、「『求めよ、さらば与えられん』から『足るを知る』」へ」と書いたのでした。

そんなキリスト教の「求めよ、さらば与えられん」に対する大きな疑問も本書『どんな笑顔でも人は笑顔になれる』を読んで氷解した気がします。小林正観氏も、渡辺和子氏も、すでにこの世にはおられません。仏教やキリスト教といった信仰の違いを超えて、人間の「幸福」というものを追求し続けた方の人生の修め方は見事であったと思います。心より敬意を表します。

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