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2017.10.04
『年中行事覚書』柳田國男著(講談社学術文庫)を読みました。
わたしは今、「年中行事」に関する新書本をPHP研究所から刊行する準備をしています。多くの参考文献のお世話になりましたが、その中でも最も繰り返し参照したのが本書でした。日本民俗学の創始者によって書かれた、年中行事を考える上での基本テキストであると思います。
別の本に著者が書いている正月(松の内)と盆を除いた、主として農村部での季節の行事が取り上げられています。そして、それぞれの年中行事の由来や変遷などについて著者が推論しています。
本書のカバー裏表紙には、以下のように書かれています。
「日本人の労働を節づけ生活にリズムを与え、共同体内に連帯感を作り出す季節の行事。本書は、各地に散在するそれらなつかしき年中行事の数々を拾い蒐め、柳田民俗学の叡知で照らした論集である。著者の比類なき学識と直観は、固くむすぼおれた古俗・伝承の糸口を鮮やかに解きほぐし、その成り立ちや隠された意味、また相互の連関を明らかにしていく。芳醇な筆致にのせて読者を日本農民の労働と信仰生活の核心に導きゆく名著である」
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「著者の言葉」
年中行事
民間の年中行事
節と節会
節句は節供が正しい
餅と節供
霜月粥
神の去来と風雨
神送りの起源
百姓恵比須講
朔日と十五日
餅と祝い
祭と季節
歳時小記
はしがき
にお積み(正月十六日)
鉦起し(正月十六日)
だまり正月(正月二十日)
蜂の養生(正月二十日)
二十五日様(正月二十四日)
初三十日(正月晦日)
犬の子正月(二月朔日)
犬まなこ(二月八日)
衿懸け餅(二月八日)
おかた遂出し(二月九日)
伏せ馬(二月初午)
やせ馬(二月十五日)
日のお伴(春の彼岸)
山磯遊び(三月三日)
梅若忌(三月十五日)
卯月八日(四月八日)
豆炒り朔日(五月朔日)
耳くじり(五月五日)
春おこない
三月節供
卯月八日
サンバイ降しの日
六月朔日の雪
眠流し考
犬飼七夕譚
精霊二種のこと其他
おくんちのこと
十月十日の夜
亥の子のこと
案山子祭
ミカワリ考の試み
臼の目切り
二十三夜塔
古道と新道
辻の立石
子供の祭る神
道の神と馬の晩
話は庚申の晩
庚申といろいろの動物
仏教の影響
日待月待
二十三夜に祭る神
神の微行
人魚を食べた人
霜月三夜
跡隠しの雪
杖立清水・大根川
弘法機・宝手拭
猿と染屋
天つ神のお宿
新嘗の物忌
伊豆七島の日忌様
七人の正月様
こよみと月読
祭の仮屋
歳時記習俗語彙序
年中行事採集百項
「解説」田中宣一
「著者の言葉」を、著者は以下のように書きだしています。
「日本の年中行事が、近頃再び内外人の注意をひくようになったことは事実だが、その興味の中心というべきものが、これからどの方角へ向おうとしているのか、久しくこういう問題に携わっている者には、かえって見当をつけることがむつかしい」
著者は、年中行事の記憶が失われることを恐れ、次のように述べます。
「今まで私たちのまだ知らずにいたことが多いということと、誰もが気をつけて見ておこうとせぬうちに、消えてなくなろうとしている年中行事が、幾らもあるということを説くのに力を入れた。今ならばまだいろいろの事実は残っていて、なるほどそうだったということも出来るし、またどういうわけでこうなのだろうと、疑って見ることも出来る。共同の疑いがあれば、それに答えようとする研究者も必ず生まれるだろう。自分がまだはっきりと答えられないからといって、問題までをしまっておくのはよくないことだと思う」
「年中行事」では、「民間の年中行事」の冒頭で、著者は述べます。
「年中行事という言葉は、1000年も前から日本には行われているが、永い間には少しずつ、その心持がかわり、また私たちの知りたいと思うこともちがって来た。この点に最初から注意をしてかかると、話の面白みはいちだんと加わるのみならず、人とその生活を理解する力が、これによって次第に養われるであろう。史学が世間で騒ぐような、そんなめんどうな学問でないということを実験するためにも、これはちょうどころあいな、また楽しい問題ではないかと思う」
「節と節会」では、以下のように書かれています。
「1年は365日、その300日余はただの日、またはフダンの日といって、きまった仕事をくり返し、忘れて過ぎて行くのをあたりまえのように思っている中に、特に定まったある日のみは、子供が指を折って早くから待ち暮し、親はそのために身の疲れもいとわず、何くれと前からの用意をして、四隣郷党一様に、和やかにその1日を送ろうとする。これが今日いうところの民間の年中行事であった。正月や盆のように幾日かを続けたのもあるが、大体にこの行事の日は、1年の間によいあんばいに割りふられている。これは古くから自然にそうなったか、ただしはまた近頃の祝祭日のように、昔も評議をして人がきめたものであろうか。もしきめたとすれば発頭人は誰かということになるが、正月以外にはその心あたりはないから、それは要するに社会の力、すなわちまた1つの自然ということになりそうである」
また、著者は、日本の年中行事は中央と地方と、もとは似通うたものであったのを、いわゆる唐制模倣によって一方の儀式を、特に荘重な形に改めて、むしろ差別のためにこういう呼び名を採用せられたのであったと想像し、以下のように述べています。
「それが公けの言葉になると、いつとなく田舎の端々にまで広がって、結局は以前何と言っていたかを、簡単には思い出せないようになってしまった。なくてこの時まですましていたのではあるまいと思う。
九州の南部から沖繩の島々にかけて、折目といっているのがあるいはもとの言葉だったかもしれない。節も折目も心持は近い上に、古くは『日折の日』という名も1つだけ伊勢物語に出ている。近畿地方の多くの村々では、盆や正月祭礼までを引きくるめて、小さな休みの日までをトッキヨリという人が多い」
トッキヨリとは「時折」ということです。トキは今日の「時」と同じ言葉ですがが、本来は時間よりも時点、すなわち節というのに近かったようです。それで、節をトキと訓ませた人の名乗があり、また時節とつづけた漢語が、日本では盛んに行われているとして、著者は以下のように述べます。
「現在は何だか仏法に縁が深く、仏事法事の飯だけをオトキと呼ぶ土地が多くなっているけれども、これも以前は1年のきまった日、常と異なる日の1つ1つを意味し、すなわち『節』という語が入って来るまでの古語であったかもしれない。東日本ではかわり物、何かふだんとちがう食物をこしらえて食べる日を、トキドキと今でもいっている土地がある。以前は人の心がおおようで、相手に通じさえすれば、こんな広い意味の言葉を使ってもすまされたのである」
「この以外にも、マツリとかイワイとかヤスミとか、意味のはっきりとしない名がいろいろと出来ていて、その場の都合でそれを使っていたようだが、近ごろは範囲や定義がやかましくなって、説明をつけないともう通用しないものばかり多くなった」
「節句は節供が正しい」では、節句という当て字が、普通になって来たのはそう古いことではないとして、著者は以下のように述べています。
「江戸幕府の初期に、五節供というものをきめて、この日は必ず上長の家に、祝賀に行くべきものと定めたという話だが、その頃を境として、以前はたいてい皆節供と書いており、節句と書く者はそれからだんだん多くなって来た。節供の供という字は供するもの、すなわち食物ということでもあった。今では神供とか仏供とか、上に奉るもののみに限るようになったが、もとの心持はこの漢字の構造が示すように、人が共々に同じ飲食を、同じ場においてたまわることまでを含んでいた。目的は必ずしも腹一杯、食べて楽しむようにということではなかったが、同じ単位の飲食物、たとえば1つの甕に醸した酒、1つの甑で蒸した強飯、1つの臼の餅や一畠の瓜大根を、分けて双方の腹中に入れることは、そこに眼に見えぬ力の連鎖を作るという、古い信仰が根本にあったのである」
いわゆる「五節供」についても、著者は次のように述べます。
「五節供という配置法は、少しばかり人為的に、程よく間隔を取ろうとした計画が現われている。地方で一般によく知られているのは、春は旧3月3日の雛の節供と、夏の5月の端午の日であって、この2つだけにただセックといっても通用する程に、民間の言葉とよく一致している。9月の9日を節供という土地は、関西の方でも半分以内のもので、その他は9日といったりまた別の名で呼ぶ処が多い。しかしこの3つならまず見当がつく。さて残りの2つはということになると、今でも確実に覚えている人ばかりはない」
続けて、著者は以下のように述べています。
「7月7日はなるほどという者もあろうが、それが何故に祝賀の日になるかは、多少の説明を必要とした。盆は不幸のなかった家々では、以前もやはりおめでとうという日であり、普通にはこの日から15日までの間に、親や目上の人の健在を祝する酒宴があった。それを数字が揃そろうので7月7日ということにきめたものと思われる。正月の7日に至っては、日の数を月と揃える法則にも合わず、年越の1つに算えられてはいるけれども、七草の粥と九州の鬼火以外には、そう大きな行事はない。察するにこれは元日と15日とには、一般に家々各自らの式が多いので、それに自由を与えようとした1種の譲歩であって、まあこの程度には討究した政策の現われなのである」
「朔日と十五日」では、著者は暦について言及しています。
「暦が小さな本または一枚刷りになって、端々の村にまで配給せられ、そこに幾人かのそれを読んでわかる者が出来てから、年中行事の統一は急に進んだのだが、そうなったのもあまり古いことではない。私などの小学校にいる頃までは、年始状には必ず千里同風という言葉を使わせられた。国の四方の端々まで、ちょうどこの同じ時刻に、人が互いにおめでとうと言っているだろうと思うことが、一段と正月の元日をめでたくした。そうしてまた今まではまだ心づかずに、そこでもここでも同じ日に、同じような事をしていたのだったと知ることが、さらに一段と私たちを楽しくしたのであった。それを近頃になってはまた再び忘れようとしている」
「正月」という言葉は中世には存在しませんでした。
正月について、著者は以下のように述べています。
「正月は年の始めの1月の名ではなくて、近頃はすべてこの月中の特にめでたい1日を、片端から正月と呼んでよいことになっている。例は挙げきれないが、少しかわったものだけでも、立春の日を神の正月、正月16日の御斎日を仏の正月、女の正月というのは正月15日、または同20日をそういう地方も多い」
また、小正月についても以下のように述べます。
「小正月というのは家々の正月、すなわち以前の正月という意味らしく、奥羽から越後などは一般に15日をそういっている。この日を花正月というのは関東の各地、対馬でこれをまたモドリ正月カエリ正月ともいうのは、立返ってもう1度の正月ということであろう。実際またこの日を元日よりも大事にして、いろいろの忘れ難い行事を、今でも満月の頃に集注している村は決して稀でない」
さらに、さまざまな正月が以下のように紹介されています。
「春は桜の咲きそろった頃に、家中村中が誘いあって、見晴しのよい岡の上などで、べんとう持ちで1日遊んで来ることを花見正月といい、または田植に待ち焦れた雨の降った次の日を、シメリ正月などといっていたのは、まだ正月よりも楽しいからと、いうような意味もあったろうが、千葉県南部などのミアリ正月は旧10月、亥の子の日のことであった。12月は前にいう水こぼし正月の他に、さらに第1の巳の日を巳正月、または巳午正月という例もある。主として四国の4つの県に行われているが、これはその1年のうちに亡くなった人々のために、墓場の前に集まってする祭であった。この日も定まった食物を調じ、人が共々に食事をすることは同じだが、一名を死人の正月、新仏の正月ともいう位で、ちっともめでたくはない正月であった。多分は世間と共々に、普通の正月をすることが出来ないので、日をくり上げて自分たちだけの年越をしようというわけだろうが、そうしてまでもなお1年のある日を、空しく過すことはしなかったという点に、遠い昔からの節日節供の、根本の気持は窺われるのであった」
「餅と祝い」では、正月に欠かせない餅について、以下のように述べています。
「神におそなえの大きいのを上げる外に、もとは正月には身祝と称して、1人1人にもやや小ぶりな鏡餅をすえ、それでまたオスワリという名もあった。近頃はそれを省略して、一家共同の大鏡を一重ね、床の間に飾って見ているようにもなったが、それでも関西では雑煮の餅は円く、餅は円いものという概念はまだ消えてはいない。ただその小餅がいよいよ小さく、数でこなすという点が団子と近くなって、後には切餅に作る風が一般化して来たのだが、今でも東北地方に行くと馬の餅・臼の餅・鉈の餅などと、家畜にも家具にも人並みに、それぞれの円い餅を供している。つまりはこういう気持のいい配給の出来ることが、モチというものの早くから、めでたいものと見られた理由だったのである」
著者は、この鏡餅の分配が省略せられ、もしくは大小が目に立ち中心が出来るようになって、「イワウ」という日本語の意味が、だんだんと今風に変って来たのではないかと推測しています。
また、「イワイ」という言葉について、著者は述べています。
「餅を今でもイワイという処が多いのは、イワイの食物という略でもあろうが、事によると特にある人の前にすえられたのが大きかったので、イワイはその人のために言い現わすべき感情だと、解するようになったのかもしれない。誕生とか初節供とか、または老人の年祝とか、餅がある1人のために特に大きかった場合は多い。もとはそういう日も一同のイワイだったのが、後にはその空気の外から遣って来て、やたらにオメデトウという者が多く、結局は祝祭日などと言っても、何が祝いなのやら、判らなくなってしまったのである」
「祭と季節」では、祭の中でも最もポピュラーな盆の魂祭を取り上げ、著者は以下のように述べています。
「これは早くから仏寺の管掌に属し、従って仏教によって解釈せられ、国の祭日からは除外せられていたが、それはただ一部の変化に止まり、事実はこれもまためでたい節供であり、人が集ってイワウ日であったことは、かなりはっきりと私は証明することが出来る。日本の東半分では、今でも盆の魂祭に対して、暮にもう1度ミタマ祭というのがあり、この方は全く仏教との交渉がなく、清らかな米の飯を調じて、祖霊に供しまた自分たちもこれに参与する。ただ荒御霊と称して新たに世を去った霊魂のために、特別の作法がある点だけが、盆祭とよく似ている。つまりは盆の行事は、この方に力を傾け過ぎていたのである」
続けて、盆と正月との以外にも、大よそ祭のない節供というものは考えられなかったとして、著者は以下のように述べます。
「家々の表の間には神棚といって、常設の祭壇が備わり、節日にはその前に集まって祝うことになっているが、以前は多分その日毎に、臨時に清い座を設ける習わしであったかと思う。神棚はまた信心棚とも呼ばれ、そこに新たに勧請した神々も多くなり、それにつれて今まで祭り来った節日の神様にも名が出来た。正月に祭るのを年神または正月様さま、盆には盆さまといい、また盆神とさえいう者がある。その他春の農事の取掛には、オコトと称してコトの神を祭り、秋の刈入れがかたづくと、10月亥の日には亥の神を祭るなどと、日により場所についてそれぞれちがえて神の御名を呼んでいる」
「オコモリ」についても、著者は以下のように言及しています。
「正月は寒くて外に出にくい季節なるにかかわらず、雪国の方ではかえって雪の小屋などを造り、その中に集まって食事をする風習が多い。盆にももちろん盆小屋を作る土地があるが、正月小屋の方がそれよりももっと盛んで、この多摩川両岸の村々でいうサイト小屋なども、前年私の見たものは3坪もあり、子供はその中で神を祭り、食事をし、また1晩はここにあかした。すなわち成人のオコモリと同じである」
そして、「祭と季節」の最後に、以下のように述べるのでした。
「正月元日というたった1つの例を除けば、都会で設け出した年中行事などは日本にはない。そうした都会で始まった生活を真似するのが、すなわち文化だと思うような考え方は、もうたいていこれからはなくなって行くだろう。人を指導しようという賢い人は、やっぱり本当に賢くなくてはだめだと思う」
「二十三夜塔」の「話は庚申の晩」では、庚申の夜の集まりは大きな行事であったとして、著者は以下のように述べています。
「村でもおもだった家々は皆参加して、2ヵ月に1度の会であった上に、夜どおし睡らずに話をしたり、物を食べたりして明かすのだから、女や子供にも忘れられぬ印象があった。しかしもう今日となっては、説明しなければ解らぬ人が多くなっているであろう。日本は国の初めから今日まで、十干十二支の組合わせを以て日を算える仕来りをもっているが、庚申はその中のカノエサルという日、すなわち61日目に1度ずつ、順まわりに親しい友の家に寄合って、徹夜で祭をする永い間の慣習であった。その団体の名を庚申講、仲間の1人1人を講中ともいって、お互いに家代々の友であり、ちっとやそっとの事では退会もせず、また新たに講員を加えることも稀であった」
庚申の夜の集まりとは何か。著者は以下のように述べます。
「夜あかしの祭とは言っても、そうこみ入った儀式があるわけではなかった。風呂から上って来て全員が揃うと、やがて定めの作法によって唱えごとがあり、または経文が読まれるが、初夜すなわち10時頃にはもう終って、神酒を下げて少しずつ戴き、ゆるりと一同が食事をしてもまだ夜中にはならない。それから夜明けまではただ雑談に時を過して、睡ってしまいさえしなければよかったのである。かねがね相談したいと思う村の問題を、この晩まで溜ためておくこともあったろうが、それも片づいてまだ残る時間には、興味あるいろいろの世間話、または何度も聴くような昔話もこの時に出て、忘れていた者は思い出し、若い連中は新たに覚えるのであった」
「二十三夜に祭る神」では、拝む人々が神の御名を口にしなかったために、次第に祭神が不明になって来たことが、庚申と二十三夜ではよく似ていると指摘し、著者は以下のように述べます。
「そういう中でも二十三夜の方は、仏教の人たちもあまり口を出さず、青面金剛のようなかわった掛軸も、作って売る者がなかったから、この点が今でもはっきりとせず、石塔の表にも文字ばかりを彫ったものが多く、人はただ二十三夜様という神様があって、この晩は村々をご巡回なされ、信心の深い人々には徳を施し、恵みを垂れたまうものと思っているだけであった。それが月天子である。または月読尊という神様であるということは、誰しも考えやすくまた物知りの言いそうなことであったが、夜毎に出ては照らす空の月が、この二十三日の祭の夜ばかり、そういう神になりたまうということは、かえって単純な少年少女などには、受け難い話であった。なぜ他の日には何もなされぬのかということが、まず彼等の疑問になるからである」
「こよみと月読」では、著者は「正月の神様が25日頃まで、まだ村の中におられるということは、今考えると何だか長過ぎるようだが、古い日本の正月が満月の夜、すなわち旧暦の15日を中心にして行われたとすると、これはまだ注連の内という祝いの日のうちなのだからおかしくはない」と述べています。
また、祭について、著者は以下のように述べます。
「祭には物忌といってさまざまの心の準備があり、また祭のあとの慎しみというものもあった。神に仕えるのを大きな仕事としていた時代には、祝いは1日や2日で切上げることが出来ず、それで今でも正月と盆とは何日もつづき彼岸も7日間ということになっているのである。祭の仕度が前7日からとなっていたのは、ちょうど月の形が半分ほどになった頃から気をつけ始めることで、それに対して下弦の月、すなわちだんだんと遅く小さく、再び半分の大きさになる時までが、我々の祖先の神を思う日数であったからで、この間にはまた幾つもの儀式があったのである」
「歳時記習俗語彙序」では、最後に著者は以下のように述べています。
「古人が年を生活の1つの単位と認めて、四季の行事を互いに関連させて考えていたらしいことと、従って今見る盆正月の特異なる行事にも、すでに埋没に瀕した他の日の言い伝えを参酌して、解釈の手がかりを導くべきものが多いことを考えると、この集はむしろ一回の中間報告の、それもやや早期に失したものという批評を甘受しなければならぬであろう。今後の採集がいよいよ必要であり、かつ必ずしも興味の乏しい仕事でないことを例示し得たことを以て満足すべきもので、もちろん完成というものからは大変な距離がある。日本の未知の知識はそれ程にも豊富かつ重要なのである」
「解説」で、成城大学文芸学部講師の田中宣一氏は、年中行事について以下のように述べています。
「年中行事とは、同じ暦日に毎年慣行として繰り返されつづける行事のことで、現在では多分にレクリエーション化したものや、地域の観光行事の1つに組み込まれてしまったもの、さもなくば、形骸化して各家々において年寄りのみにしか支持されなくなってしまったものが少なくないが、本来は1つの宗教的行事であって、近隣や親類同士、祖先と現在の人々とを結びつける契機をなすものであり、また日常生活の重要な基準となるものであった」
続いて、田中氏は本書の内容について以下のように述べます。
「著者は、家々またはある集団の伝承している年中行事を全国的に比較するにとによって、行事の本来持っていた意味や担っていた役割を明らかにし、ひいては日本人の神観念の問題に迫ろうとしたのである。なお、年中行事という言葉そのものは、清涼殿の広廂におかれていた公家の年中の慣行を註記した衝立である『年中行事の障子』に由来すると言われるが、著者の研究対象としたものは、主として民間に伝承されている年中行事であった」
本書は、日本人の「こころ」の備忘録であると思いました。
著者には「これまでの年中行事早く収集し、整理する必要がある。そうしないと、誰も知らなくなってしまう」という危機感がありました。本書が書かれた時でさえすでに意味不明となってしまっている慣習も多かったようです。
元号が変わるたびに、多くの文化習慣が失われるそうですが、平成が終わると、また消えてゆく年中行事も出てくるのでしょう。年中行事の代表格である正月でさえ、将来的には「単なる1月」になるかもしれません。しかし、年中行事は時間を愛し、季節を大切にする「こころ」が支えています。わたしは、自分なりの日本人の「こころ」の備忘録を書きたいと思っています。