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2017.10.12
『酒の日本文化』神崎宣武著(角川ソフィア文庫)を読みました。
著者は1944年生まれの民俗学者です。また、旅の文化研究所所長であり、岡山県宇佐八幡神社宮司でもあります。
本書のカバー裏表紙には、以下のような内容紹介があります。
「今日では芳醇な吟醸酒を少量たしなむのが好まれるが、薄目酒であった江戸の大酒飲みは、酒比べでなんと3升も4升も飲んだという。お酒にまつわる習慣や文化は、時代によって大きく様変わりしてきた。その日本酒の原点を、神と『まつり』と酒宴にもとめ、民俗学的な視点から、酒と肴の関係や酒宴の移り変わり、飲酒習慣の変化、醸造の話や食文化とのかかわりなどを含蓄豊かに語り、お酒とその周辺の文化をやさしく説く」
本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
一 酒と神―祭りと酒の原風景
二 神と酒と人―酒宴と酒肴の構図
三 人と酒―醸造と保存の技術
「主要参考文献」
「あとがき」
「文庫版あとがき」
一「酒と神―祭りと酒の原風景」の「御神酒あがらぬ神はなし」では、最初に「乾杯」の考察が行われます。「乾杯」の語源は中国語ですが、日本には古くから導入されていたようで、もっとも古く「乾杯」という文字が登場するのは、平安時代の『新儀礼 四』です。明治維新でヨーロッパ文明を導入したときに、つまり洋酒が飲まれるようになったときに、グラスを触れあわせて「乾杯!」と言う習慣が広まりました。
神社の宮司でもある著者は、「乾杯の相手は神仏」として述べています。
「神前では(あるいは、仏前でも)、酒が不可欠な神饌(あるいは、供物)である。祭りや行事は、酒なくしてはなりたつまい。身近なところでいうと、ことあるたびに神棚や仏壇に酒を供えるではないか。また、家を新築するときには地鎮祭か上棟式で酒を撤き、船の進水式にも海に酒を撤いたりするではないか。ゆえに、『乾杯!』の対象は、神仏ということになるのである。卑近な言葉でいうと、『神さん、仏さん』ついで『ご先祖さん』が、私たちの第一の乾杯相手ということになるだろう。その前で、参列者の健康と多幸を祈念するのである」
また、オミキ(御神酒)を下げて祝杯の慣習は、相応に古いとして、著者は以下のように述べます。
「神仏に酒を供え、それに人々が相伴する。そこで『乾杯』とはいわなかったが、それと同じ意味と意儀をもって神仏と人々が盃を交わしたのだ。今日に伝わる言葉では、直会(一定数の祭員による宴)。そこでの『神人共食』の代表的な馳走が酒なのである」
御神酒は、その言葉からして清浄な酒という意味があります。
しかし、そもそも、サケ(酒)という言葉そのものが清浄な響きをもっています。著者は、「サケの語源考」として、以下のように述べています。
「サは接頭語。ケは、『広辞苑』をはじめ辞書では、『香』と同源、と説明する例が多い。しかし、『食』、あるいは『饌』としてもよいのではないか。『御食』の食である。接頭語も、ただ語調をととのえるだけではあるまい。『斎庭』の斎と同様に『斎食』と書いてみるとどうだろうか。清らかな食べもの、と相なる」
サケやサニワだけではありません。サナエ(早苗)、サオトメ(早乙女)、サヤマ(斎山)など、サを接頭語とする類似例がいくつかあります。そして、その場合のサは、清浄なこと、無垢なことの意で共通します。言語学上でも認められていますが、サケは、古くは野郎(男)言葉でした。そして、女房(女)言葉がササでした。
「御神酒のもとは一夜酒」では、「神饌の最上位は酒」として、神饌に野菜や魚など生ものの供え物が多いことについて、著者は述べます。
「日本の神様はけっして生もの好きなのではない。少なくとも、神様に食してもらうための神饌であれば、もちろん熟饌でなくてはならないのだ。それが証拠に、時どきに家庭で神棚や仏壇に供えるのは、ご飯であったり、お茶であったり、菓子であったりするではないか。
しかし、ここで問題なのは、明治になって生饌が主流化するなかで、酒だけはその地位を失わないで残った、という事実である。酒は、どこまでも神饌の中心的な存在なのだ。それをたしかめるには、神前に神饌が献じられる状態をみるのがよい。酒は上段の正中(中央)に置かれているはずである」
二「神と酒と人―酒宴と酒肴の構図」の「直会と饗宴が連なることでの混乱」では、「本来別な直会と饗宴」として、以下のように述べられています。
「直会(礼講)と饗宴(無礼講)とは、本来別な次元で行なわれるものであった。当然、そこでは酒の飲み方にもちがいがあった。直会では席次や作法の制約があり、饗宴ではそれほどの制約がない。粛々と飲む酒と賑々しく飲む酒のちがいである。何よりも、直会の酒は冷であり(献饌をおろしたもの)、饗宴の酒は冷である場合もあるが、燗をして量を飲むことが一般的である。今日的な表現をすると、直会と饗宴には一次会と二次会ほどの隔たりがあるのだ」
続けて、著者は、現在の宴会習俗のあいだにも、旧慣との連続性がないわけでもないとして、以下のように述べます。
「とくに、正統な宴席での日本料理にも、よくみれば一連の配膳でありながら、直会系と饗宴系とに前後分かれているはずである。そこでは、当然のことながら、盃の運び方、箸のつけ方に一定の作法があった。とはいっても、京料理と江戸前では献立の呼称や順序にちがいがあるし、同じ京料理でも店や板前によって細部がちがってくる。とくに、最近は、それぞれに特色をだそうとするせいか、全体的に変則、混乱の傾向にある」
また、著者は「食事作法の必然」として、宴席の料理について以下のように述べています。
「宴席の馳走は多い。多すぎる、といってもよい。しかし、いくらそれが酒宴だからといっても、会席料理がすべて肴ではないのである。もとより、だされたものすべてに箸をつけるのでない。ある順番にしたがって食べ、残ったものを家に持ち帰るのが作法なのである。だいいち、鯛や車海老の浜焼き(姿焼き)や、最近よくみかけるようになった鶏の手羽焼などは、その場で食べるのには不恰好である。これは、膳飾りというべき料理で、折詰めにして特ち帰って、あらためて火を加えてからむいて食べるべきであろう。また、すし(巻きずしや姿ずしの類)もご飯が別にでるのだから箸をつけなくてもよいはずだ」
続けて、こうした作法は、それなりの必然があって生じたものであると指摘し、著者は以下のように述べます。
「祭りや仏事、諸行事における宴席を考えた場合、そこには、一家を代表するかたちでほとんどの場合は家長が出席する。あるいは、地域社会や職場を代表して誰かが出席する。そして、そこでふるまわれた馳走の一部を、家族など非出席者のために持ち帰ることが習慣づいているのである」
さらに、祝宴における食の本質について、著者は「正式な直会にかぎったことでなく、そもそも祝宴における馳走は、もとをただせば神仏とともに祝って食するという意味あいをもってふるまわれたもの、とすることができる。神人の共食を原型とするのだ。そうすることで、神仏の福徳を分かちあうことに意味がった。だから、たとえば、家長ひとりで食べてしまったのでは、他の家族へのおかげがないことになる。そこで、その一部を家族に持ち帰るという習慣が生まれた、とすることができるのである」と述べるのでした。
『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)
「神さま仏さまご先祖さまと宴会の席次」では、「神道と仏教」として、著者は日本人の信仰の構図について述べています。
「日本人の精神の根底には、いまもなお神仏と祖霊が渾然と一体化してあるように思われる。『神さま仏さま』、そして『ご先祖さま』が無意識のうちにも何らかのかたちで生活のなかに投影されている、といっても過言ではあるまい。神さま仏さま、そしてご先祖さま―その三位一体の観念こそがわれわれ日本人の宗教観というべきであろう。それをもって他民族に理解を求めようとすれば、『日本教』としかいいようがないのである」
これは、拙著『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)に書いた内容とまったく同じです。我が意を得たり、です。
同書で、わたしたちが最もご先祖さまと交流する行事として、わたしは盆と正月を大きく取り上げました。本書の著者である神崎氏も、「日本人の祖霊信仰」として以下のように書いています。
「日本において祖霊信仰は、まことに根強いものがある。時折に、先祖霊と現世人との折々の交流を大事にする。それがもっとも象徴的に表れているのは、盆であり正月であろう。ちなみに、祖霊という場合、通常、没後日が浅く個人としての供養を受けている死霊はこのなかに含まない。もとより、死霊は、個人の遺徳とはほとんど無関係に、ある意味ですべて平等に崇拝されるものである。子孫は、死後7日ごと(ふつう四九日まで)の中陰法要、百か日忌、一周忌、三回忌と、たびたび法要を重ねてゆく。そして、一般的には三三年忌、ところによっては四九年忌、五〇年忌で弔いあげとなる。そこで、その死霊は個性を失い、祖霊となるのである。つまり、日本の場合、そこにおいて死霊は神になったり仏になったりする」
続けて、著者は日本人の祖霊信仰について述べています。
「そのような祖霊は、いつも天上界にあって子孫の幕らしぶりを見守っているとされる。そして、盂蘭盆や正月に代表されるように、祭りや仏事のたびに村里に下り、家を訪れてもてなしを受けるとされる。そこで祖霊と子孫が交流する。神仏と人びととが交流する。端的にいえば、それが祭りや仏事の原型である、とするのがよかろう。そして、その場合、そこでは、霊界と俗界をつなぐ存在として長老が敬われることにもなる。たとえば、盆行事では、迎え祀るだけではなく、生見玉(生御魂)といって生きている老人をねんごろにもてなす習俗が、もとはかなり広範にわたってみられた」
さらに、祖霊信仰に加えて、日本人の長寿信仰まで視野に入れ、著者は以下のように述べるのでした。
「こうしたわれわれ日本人の祖霊信仰とそれに準ずる長老信仰の根強さをふまえれば、直会での席次がきちんと定められていることも、おのずと納得がゆくはずである。当然、そこでは神仏や祖霊が最上座にあるわけで、ついで上座にはそれに近い長老たちが座し、以下に年長者から順に並ぶのは、道理というものであろう。そして、それがのちの寄り合いや宴会にほとんどそのまま引き継がれて、年功序列の習慣をますます発展させたのである」
「風流も酒肴のひとつ」では、著者は「庶民社会の『うたげ』」として、「農民にとって、田植は収穫と同等に、いやそれ以上に大事な作業であった、豊作への祈願が、より切実にこめられている。サナエ(早苗)、サオトメ(早乙女)、サナブリ(早苗饗=田植後の祝い)」など、田植作業には、『サ』を冠するものが多い。それだけ、田植もまた神聖な作業だったのである。古く、花見は、その田植の時期をはかり、豊作を予祝する祭りであったのだ」と述べています。
「出陣の酒、出立ちの酒」では、鎌倉時代以降、武家社会でも酒宴の発達をみたことが紹介されます。まず、出陣に際しての祝宴が催されています。しかし、もとより鎌倉、あるいは戦国期の武士は質素を旨とするものであり、その宴は、貴族社会のそれとは比較すべくもなく簡素なものであったとして、著者は以下のように述べます。
「出陣の宴は、酒や肴を楽しんで味わうためのものではなく、戦の勝利を祈願しての儀式であり、それなりに厳粛だったことがうかがえる」
ただ、ここで興味深いのは、質素ながらも打鮑や昆布といった酒ととくに相性のよい塩ものが用意されていた点であると指摘し、著者は述べます。
「むろん、そこには勝利にちなんだ語呂あわせ、験かつぎの意味が強く内在しているが、それにしても、やはりそれなりの酒肴がこらされていた、とみてよかろう。さらに注目に値するのは、ここに続いて三々九度の盃事がでてくることである」
また、「武家社会での三々九度」として、著者は以下のように現在にまで続く儀式のルーツについて述べています。
「三々九度の盃事は、現在では結婚式の神事として伝えられている。そのことは周知のとおりだが、その起源はかならずしも明らかでない。『古事記』に登場する伊邪那岐命・伊邪那美命の天の御柱の故事にちなんだもの、という説が冠婚葬祭の教示本には多く用いられているが、それはどうであろうか。私が古文献にあたってみたかぎりでは、三々九度の盃事は、右の出陣の記が初出である。そして、少なくとも以後は、武家社会を中心に伝えられてきた。その場合、三々九度のかたちも、武運長久を祈念しての験かつぎの意が濃い、とみるべきではないか。つまり、陰陽の陽の数字を重んじたわけである」
さらに「壮行の宴」として、著者は出陣の宴に言及し、デダチのひとつは、娘を嫁に出す前に近隣の縁者を招いて催す祝宴であることを指摘します。これは、とくに西日本の各地で近年まで行なわれてきました。もうひとつは、旅に出る者を近親者がむら境のあたりまで見送って催す祝宴である。現代風にいうと、送別会ということになるとして、著者は以下のように述べます。
「庶民の旅が急速に発達したのは江戸中期のことである。それは、ひとつに参勤交代の制度により街道や宿駅の整備が積極的にすすめられ、旅がしやすくなったからである。とはいえ、幕藩体制下での法は厳しく、庶民がいわゆるむらから離脱することにはさまざまに規制されていた」
彼らがむらを離れて旅にでる方便としてもっとも有効であったのは、まず第一に天下泰平や五穀豊穣の祈願をするための寺社詣でした。もちろん、農閑期の旅立ちです。それも、大勢でぞろぞろ出るのではありません。村落社会や若者組を代表して寺社詣に出るのです。あるいは、講に参加して団体行動をするのです。著者は「それが個人的な遊興でなく社会的な儀礼であるという大義名分をもつことで、お上(法)の目こぼしを得たのである」と述べています。
そして、著者は出陣の宴について、以下のように述べるのでした。
「そうした旅であるがゆえに、近親者がむら境まで送っていき、そこで酒をくみかわして旅の成就を祈念する習慣も広まったのである。もうひとつには、それは、壮行の宴であるとともに、訣別の宴でもあった。いまとちがって交通が未発達な時代には、旅は多くの苦難を伴うものであり、そのときが永遠の別離にならないともかぎらなかったからである。水盃の意がそこに含まれている。そのところでその状況は、武士の出陣にも酷似していた」
本書には、民俗学的な視点から日本酒と食文化の関わりが生き生きと描かれています。特に、著者が神社の宮司だけあって、日本酒と神事の関わりについて詳しく書かれており、勉強になりました。
世界に類を見ない特殊な醗酵過程を経る日本酒の醸造技術の歴史も知ることができ、満足できる一冊です。