No.1551 グリーフケア | 冠婚葬祭 | 宗教・精神世界 | 死生観 | 民俗学・人類学 『霊魂を探して』 鵜飼秀徳著(角川書店)

2018.05.02

『霊魂を探して』鵜飼秀徳著(角川書店)を読みました。
この読書館でも紹介した『寺院消滅』『無葬社会』の著者の最新作で、献本していただきました。著者は1974年、京都市右京区生まれ。成城大学文芸学部卒業。報知新聞社、日経BP社を経て、2018年1月に独立。僧侶の顔も持ち、1994年より浄土宗少僧都養成講座(全3期)に入行。96年に浄土宗伝宗伝戒道場(加行)を成満。主に「宗教と社会」をテーマに取材、執筆を続けています。浄土宗正覚寺(京都市右京区嵯峨)副住職。

本書の帯

本書の帯には、「『寺院消滅』著者の最新作!」「死者は私たちに何を語りかけるのか」「現代日本人の『霊魂観』を追う」〈僧侶1335人、20宗教団体への取材も敢行〉と書かれています。

本書の帯の裏

また、帯の裏には以下のように書かれています。

落し物として届いた遺骨の数≪2014年~16年)・・・203件
「霊魂」の存在を信じている僧侶・・・・・・・・・・・64.8%
「あの世」の存在を信じている日本人・・・・・・・・・40%
「霊魂」と共に生きてきた日本人。
科学万能の社会の中で
死者への畏敬は失われたのか―。

さらに、カバー前そでには以下のように書かれています。

「電車の網棚への遺骨の置き去りが増えるなど、人々の霊魂観の薄れを感じさせるニュースが相次いでいる。宗教界に目を転じれば、明確な霊魂観を持つところもある一方で、霊魂が存在するのかしないのか答えられない教団もある。現代における日本人の霊魂観を探るため、著者は鎮魂の現場、土葬の風習が残る山村、各地に息衝くシャーマンなど、数々の『霊魂の現場』を訪ね歩いた。さらに、1335人の僧侶、20宗教団体への調査を敢行。ここに日本人の霊魂観が明らかになる」

本書の「目次」は以下の構成になっています。

「はじめに」
第一章 現代をさまよう霊魂
1 大都会に潜む怨霊伝説
2 孤独死の現場で起きていること
3 怪談和尚
第二章 僧侶は霊魂を信じているのか
1 近代教育を受けた僧侶たち
2 宗教法人の霊魂観
第三章 日本人の霊魂観
1 日本古来の「霊魂」の捉え方
2 「浮かばれない魂」の行方
第四章 霊魂観が色濃く残る村
1 土に葬る村落
2 供養の現場での遭遇
第五章 現代のシャーマンたち
1 シャーマンは今もいるのか
2 シャーマン化する僧侶
3 残されたわずかな正統派のイタコ
4 興隆を誇る沖縄のシャーマン
5 アイヌのシャーマン、トゥスクル
「おわりに」
「参考・引用文献、論文」
「巻末付録」

「はじめに」で、著者は東日本大震災に「幽霊を見た」などの霊魂現象が多いのに対して、阪神・淡路大震災ではほとんどないことを指摘し、それは「行方不明者の差」ではないかと推測して、以下のように述べています。

「東日本大震災では行方不明者2546人で、阪神・淡路大震災は3人だ。確かに東日本大震災のほうが桁違いに多い。阪神・淡路大震災では、比較的早期に遺体の確認ができた。東北の被災地では遺体をきちんと見つけて供養しなければ、『浮かばれない』『終われない』という声が、しばしば聞かれた」

続けて、著者は「浮かばれない、という死者に対する思いは日本人特有のものだ。日本人は「魂をきちんと鎮める(慰める)」という手段をもって、死者に対する畏敬を表現してきた」として、以下のように述べます。

「東日本大震災では、本来持っている日本人の霊魂観が呼び覚まされたのではないだろうか。だとするならば、霊魂の存在をきちんと捉え直し、供養の意義を改めて見出すべき時かもしれない。
特に現代の僧侶に問いたい。『宗教離れ』『無葬社会』と言われ、宗教家の存在感が薄れている中、『霊魂』に真正面から向き合うことこそが、宗教家に課されていることではないか─」

著者はまた、「科学万能主義、即物主義が拡大し、『心なき時代』とも言われる昨今ではあるが、『見えざる世界』を信じる日本人は増え続けているのである」とも述べています。

第一章「現代をさまよう霊魂」では、以下の事例が紹介されています。

「神戸市西区の高速道路料金所で2013(平成25)年4月、ゴミ箱に入れられた火葬後の遺骨が見つかった。神戸西署は後に親族の男性を死体遺棄容疑で書類送検した。
2015(平成27)年4月には、東京都練馬区のスーパーの屋外トイレで、人の頭蓋骨が見つかったとのニュースが流れた。同じく、骨は火葬後のものだった。当時、スーパーは営業中で、不特定多数の客がトイレを頻繁に利用していた。犯人は、処置に困った遺骨を遺棄して逃走したとみられる。いずれも、悪質極まりない事件だ」

遺骨の遺棄は、人目に晒される電車内でもしばしば行われているとして、著者は以下のように書いています。

「網棚に骨壺を乗せ、そのまま置き忘れたフリをして去ってゆくのだ。火葬後の骨壺には、火葬許可証が入れられているものだが、置き忘れられた遺骨は身元が分からぬように抜き取られている。だから、故意に遺骨を捨てていることが分かる。『鉄道会社が、どこかの寺院に持っていってくれて無縁仏として供養してくれれば・・・・・・』おそらく、遺棄者にはそんな故人に対する微かな供養心すらないのではないか。
毎日新聞2017(平成29)年9月9日付大阪版朝刊は、人の遺骨が2016(平成28)年までの3年間で落とし物として全国の警察に計203件届けられ、うち8割以上の166件は落とし主が見つかっていないと報じた。最多は大阪府で36件。寺院や墓地で拾われたケースが多いが駅のコインロッカーや図書館に放置されたものもあったという。こうした引き取り手のない遺骨は警察から依頼された寺などで無縁仏として供養される」

このような「世も末」と思えるような状況について、著者は以下のような思いを述べるのでした。

「骨壺を電車の網棚に置いてそのまま逃げ去る、スーパーのトイレで、汚物同様に遺骨を流してしまう。他人の墓を暴き、勝手に納骨するー。
そんな、カミやホトケも畏れぬニュースを聞くにつれ、即物主義の広まりとともに、死や霊魂の存在を信じられない社会が急激に広がってきているのではと、危惧を覚えてしまう。
だが一方で、将門の首塚をはじめとする怨霊信仰が未だに都市に根付いていること、各地に残される神社仏閣に手を合わせに訪れる者が絶えないことも、知っている。日本人のDNAの中には、見えざるものを感じる豊かな精神文化が息づいていると信じたい。だが、普段の生活に忙殺されていたり、幸福感に浸っていたりする人は、死や霊魂に思いを馳せることは、あまりないかもしれない」

第二章「僧侶は霊魂を信じるのか」の1「近代教育を受けた僧侶たち」では、アンケートの結果、「霊魂」の存在を信じている僧侶は全体の64.8%であったことが明かされます。それから、「死の予知」といった事例を紹介した後、似たような現象として、「お迎え」が取り上げられます。お迎えとは、亡くなろうとしている人が、先に逝った人(多くは両親などの肉親や親しかった友人)を目撃することです。亡くなる数日前に、本人から「お迎えが来た」などと教えられるケースもあれば、看取りを行った親族や医療関係者らがその様子から「明らかにお迎えが来ているようだ」などと客観的に判断する場合もあります。

著者は、東北大学医学部教授で在宅緩和ケア医療のパイオニア・岡部健氏らが2002(平成14)年以降、「お迎え」についてのアンケートを実施したことを紹介します。調査では回答者541人のうち226人(42%)もの人が何らかのお迎えを経験していた、との報告がなされました。岡部氏自身、2012(平成24)年9月にがんで死去しました。その2カ月ほど前に読売新聞のインタビュー(6月28日付読売新聞夕刊、同7月1日付けYOMIURIONLINEで詳報)でこう答えています。

「死ぬということは闇に降りていくことであり、道しるべもなく、真っ暗なところに落ちていくことのように思われますが、どうもそうじゃないようなのです。3000人が亡くなるのを見たから確信を持って言えます」

続けて、故・岡部健氏は以下のように述べるのでした。

「精神医学的には『せん妄』(意識レベルの低下による認識障害)ということになりますが、本人には実体として見えている感覚です。『戦艦陸奥で爆死した兄がそこに来ているのに、なぜ先生に見えないの』などと言われます。そういう体験を受け入れて会話ができる家族は、良い看取りができます。まれには、お迎えに来た人に引っ張られて怖いという場合もありますが、大多数の患者は『お迎え』体験によって、死に対する不安が薄れて安心感を抱きます。(中略)『お迎え』体験は、しばしばオカルト(超自然現象)と思われて、まじめに取り合ってもらえないのですが、私の法人の看護師はみんな見聞きしています」

この「お迎え」については、矢作直樹氏とわたしの対談本である『命には続きがある』(PHP研究所)でも詳しく説明されています。

2「宗教法人の霊魂観」では、なんといっても「宗教法人へのアンケート」が興味深いです。真言宗(高野山真言宗)、天台宗、修験道(本山修験宗)、日蓮宗、浄土宗、浄土(真宗大谷派)、臨済宗(妙心寺派)、曹洞宗、神社本庁、創価学会、立正佼成会、カトリック中央教会、幸福の科学・・・・・・20もの宗教法人や宗教団体に対して、1「教義上の『霊魂』の存在を認めていますか」、2「人間の死後、霊魂は時間の経過とともにどうなっていくと捉えていますか」、3「所属する宗教者には、『霊魂』を鎮めたりする力があると考えますか」、4「属する信者(会員、檀家、信徒、門徒など)から、『人が死んだらどうなりますか』と問われた場合、貴団体の宗教者はどのように回答するのが適切ですか」といったガチンコの質問をするのです。

さまざまな回答の中で、3の質問に対して、真言宗(高野山真言宗)が「人は、死の瞬間に自分が死んだという事実を受け入れる事が出来ません。葬儀は、その様な死者に自覚をさせる行為です。同時に、死後の長い時間を、何を目標に生きてゆくかを、教え示さねばなりません。仏陀の得られた『全ての執着から離れる』という悟りの境地を目指し修行する事を教えるのです」と回答していました。これは素晴らしい回答であると思いました。さすがは弘法大師・空海の教えを受け継いでいるだけのことはあります。ちなみに、わたしは、空海の「死」と「死後」の考え方をベースに『般若心経 自由訳』(現代書林)を書きました。

第三章「日本人の霊魂観」の1「日本古来の『霊魂』の捉え方」では、「柳田國男が見出した死後の魂の居場所」として、こう述べられています。

「日本人の死後の観念、つまり『霊魂』は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方には行ってしまわないという考えがある。霊魂は死後しばらくはムラやイエのまわりをうろうろしているが、四十九日をもってホトケとなる。さらに盆や彼岸、正月、年忌など繰り返しの供養を経て、次第に霊魂の『個性』は失われていく。つまり、ケガレの「浄化」である。弔い上げが済めば、霊魂はいよいよ祖霊となる。そして、山のカミとなり、春には山から降りて田に恵みを与え、秋の収穫を迎える頃、山に戻っていくー。こうした、最終的には死者の霊魂は山へ向かう、という考え方を民俗学では『山中他界観』という。よって、山は神域として位置付けられる。その証として、山の水分り(分水嶺)には、神社をもうけて祀るならわしがある」

また、本土で見られる山中他界観は、琉球地方に行けば、「海上他界観」になるとして、「死者は海の向こうの理想郷、ニライカナイに向かい、我々が生きる社会に豊穣をもたらしてくれるとされる。琉球では死後7代を経て、こちらもやはり祖霊になる。鎌倉期以降、仏教が本格的に葬儀を担うようになる。すると、死後の時間軸(供養の流れ)において浄と不浄とを区別する流れが加速する」と述べられています。

死から最も近い供養は死の直後に行う枕経で、最終的には五十回忌、あるいは百回忌の弔い上げまで続けられます。著者は柳田國男の考えに触れ、「仏教の年中行事は非常にシステマチックであり、盆、正月、春秋の彼岸の死者の魂が帰ってくる時期に合わせ、我々は墓参りをする。供養を繰り返し、繰り返し行い、弔い上げを済ませれば、死者は『カミ(神)』になる。カミとなった祖霊は神社や神棚で祀られる」と述べるのでした。
この山中他界観や海上他界観については、拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の「他界論」で詳しく紹介しました。

第五章「現代のシャーマンたち」の4「隆盛を誇る沖縄のシャーマン」では、「地域の相談役、ユタ」として、著者は東北のシャーマンであるイタコと比較して、沖縄のユタについて以下のように述べます。

「イタコはその集団そのものが、社会的弱者、とりわけ女性の職業的受け皿になっているのが特徴である。弟子入り(入巫)した若きイタコは師匠から、呪文や祭文の読み方、儀式の方法を学び、免許皆伝の証として守り筒『オダイジ』を伝承され、晴れてシャーマンとして独り立ちしていく。
一方で、ユタの場合はどうか。ユタの多くが女性であることは確かだが、中には男性ユタも存在する。そして、イタコのように師匠を見つけ、時間をかけて技能を伝承していく手順を取らない」

ユタの場合はある日、突然に「神霊の啓示」がやってきます。沖縄における神霊の存在を説明するのは難しいですが、沖縄ではニライカナイ(海の彼方にある桃源郷)の神や、御嶽などに降臨しムラを見守る祖霊神が認められます。祖霊神は墓場にも存在するとされます。著者は述べます。

「ここで学問的に整理すれば、イタコは修行・憑依型、ユタは召命・憑依型と分類できそうだ。『召命』とは神の啓示のことだが、召命があるのがユタの特徴だ。この神霊の啓示を、『カミダーリ(神垂れ、神懸かり)になった』などと言う。カミダーリになった者は唐突に奇声を発し、あるいは踊り狂うなどの身体異変(トランス状態)を示す。親や親しい人間が心配になって病院に連れて行くが、一向に解決しない。そこで、ユタのところで見てもらうと、『この子はユタになる運命だ』と告げられる─」

「一条真也の映画館」で紹介した映画「カーラヌカン」は、この「カミダーリ」になったユタの少女の物語でした。

「おわりに」で、著者は以下のように述べます。

「新元号制定、そして、生前退位と、2018年から2019年にかけては時代の節目に当たるが、その中心にいる天皇もまた、常に見えざる存在と向き合ってきた存在なのである。天皇の『国事行為』は教科書にも載っているが、もうひとつの天皇の重要な務めに、『宮中祭祀』がある」

宮中祭祀の中でも最も重要な儀式が新嘗祭です。
拙著『儀式論』(弘文堂)でも詳しく紹介した新嘗祭は、穀物の収穫を終えた11月23日の夜に行われます。新嘗祭では皇居の神嘉殿の暗がりの中で、天皇と神々が一緒に食事をする「直会」と呼ばれる、幽玄の儀式が執り行われます。

その新嘗祭ですが、新天皇誕生後の最初の祭りは「大嘗祭」という名称に変わります。つまりは、新天皇が神々と食を共にすることによって、初めて皇位が認められるのです。著者は以下のように述べます。

「このように見ていくと、見えざる存在を肌身で感じ、畏れ、敬ってきたDNAが、我々日本人の中に組み込まれているように感じる。だが、ニーチェの『死の宣告』まではいかないまでも、こうした日本人の霊性が今、著しく脅かされてきているのも確かだ。それは、即物主義、科学万能主義の拡大による影響が大きいと思う。現代社会では、『数字』『根拠』『検証可能性』『合理性』などのキーワードがとりわけ、重視される」

この著者の意見に、わたしは100%賛成です!

この読書館でも紹介した『津波の霊たち』などに書かれているように、東日本大震災後、被災地のあちこちで「幽霊が出る」との報道が相次ぎました。
これについて、著者は以下のように述べます。

「本当に幽霊が出たのか、それとも被災者の幻視なのかは分からない。しかし、大量死現場での幽霊現象は仏教界にとっての画期といえた。日本仏教界は戦後、ずっと避けてきた『霊魂観』に対して、正対せざるを得ない状況に置かれたからだ。釈迦による仏教本来の教えと、その後変容した日本仏教とでは、霊魂の捉え方がまるで違う。しかし、そのような解釈論に終始しては、議論が進まない。また、議論そのものから逃げていては、日本仏教はそっぽを向かれてしまうだろう」

続けて、日本人の「霊魂」観について、著者は正面から述べます。

「いつの時代も霊魂は普遍的な問題としてあり続けてきた。
見えざる世界について今一度、考え直し、捉えなおし、日本人一人ひとりがリテラシーを高めてみる必要がありそうだ。見えるものしか信じられない時代の中で、見えざる世界、死後世界に想像を巡らすことがどれだけ大切なことか。日本は経済がいつ何時、破綻するかしれない。北朝鮮問題など、安全保障も脅かされている。自然災害も多い国である。
社会が行き詰まったとき、経済本位ではない自分の生き方が求められる。将来、宗教が私たちを救ってくれる局面がきっとあると思う。だからこそ、精神世界のことも、きちんと考えておきたいと思う今日この頃である」

本書を読んで、わたしは「霊魂」というきわめてスピリチュアルなテーマを正面から堂々と取り上げて、ガチンコで仏教の各宗派や各宗教段に質問したという事実にスカッとした爽快さを感じました。
わたしは上智大学グリーフケア研究所の客員教授になりましたが、日本仏教の本質は「グリーフケア宗教」であると考えています。一般庶民の宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きるでしょう。「葬式仏教」は、一種のグリーフケア文化装置でした。2011年の夏、東北の被災地は震災の犠牲者の「初盆」を迎えました。この「初盆」は、生き残った被災者の心のケアという側面からも重要です。
 著者の鵜飼秀徳氏と

通夜、告別式、初七日、四十九日と続く、日本仏教における一連の死者儀礼の流れにおいて、初盆は1つのクライマックスでもあります。日本における最大のグリーフケア・システムと言ってもよいでしょう。
また、本書で取りあげられているイタコやユタなどの「シャーマン」、被災地での「幽霊」の目撃談なども、すべてグリーフケアと深い関わりがあります。そのように、グリーフケアの可能性を考える上でも、本書にはさまざまなヒントを発見できました。晴れてフリーになられた著者の今後の御活躍をお祈りいたします。

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