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2018.05.27
『「新しき村」の百年』前田速夫著(新潮新書)を再読しました。
わたしのブログ記事「日向新しき村」で紹介したように、5月24日に宮崎県の木城町にある「日向新しき村」を17年ぶりに訪れたのがきっかけです。本書には「〈愚者の薗〉の真実」というサブタイトルがついています。著者は1944年(昭和19年)福井県生まれ。民俗研究者。東京大学文学部英米文学科卒。文芸編集者として武者小路実篤をはじめ多くの作家を担当。「新潮」の編集長を務め、主な著書に『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ』『異界歴程』などがあります。
本書の帯
本書の帯には、帽子に和装姿の武者小路実篤を中心に新しき村「この道」の碑の前で1954年に撮影された写真が使われ、「壮挙か? 愚挙か?」「武者小路実篤が夢見た『ユートピア』の全貌 1918~2017」と書かれています。また、カバー前そでには以下のような内容紹介があります。
「1世紀前、武者小路実篤を中心として『新しき村』が創設された。戦争や暴動など国内外が騒然とする時代にあって、『人類共生』の夢を掲げた農村共同体は、土地の移転、人間関係による内紛、実篤の離村と死没など幾度も危機にさらされながらも、着実な発展を遂げていく。平成以降、高齢化と収入減のため存続が危ぶまれるなか、世界的にも類例のないユートピア実践の軌跡をたどるとともに、その現代的意義を問い直す」
本書の帯の裏
本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
序 日向の村へ
一 「坊ちゃん」登場―白樺派の闘将・武者小路実篤
二 つのる社会不安/新しき村誕生
三 知識人の冷笑/実篤離村/ダム湖に沈む
四 東の村への移住/東京支部の活動
五 戦中戦後の実篤
六 自活達成と実篤没後の村
七 押し寄せる超高齢化の波
八 ユートピア共同体の運命/液状化する世界
九 ポスト・モダンの帰農
十 創立百年を超えて―人類共生の夢
(付一)武者小路実篤ブックガイド
(付二)新しき村銘々伝
(付三)新しき村百年略年譜
「本書が参照したおもな参考文献」
「新しき村案内」
「調布市武者小路実篤記念館・実篤公園案内」
峠の展望台から「日向新しき村」を望む
序「日向の村へ」では、かつて国策でダムの底に沈んだ「日向新しき村」を初めて目にした武者小路実篤が「土地」という文章に「この土地を見ればいかにも天孫の降臨しそうな処に思えた。そういう伝説でも生み出したい処に思えた。之でこそ日向だ。」と書いたことが紹介されています。かたわらの展望台の記念碑には、後年実篤が作った以下のような詩の一節が刻まれています。
山と山とが讃嘆しあうように
星と星とが讃嘆しあうように
人間と人間とが
讃嘆しあいたいものだ
武者小路実篤の文学碑
一「『坊ちゃん』登場―白樺派の闘将・武者小路実篤」では、1910年4月、武者小路実篤が24歳のときに、有島武郎(32)、正親町公和(28)、有島生馬(27)、志賀直哉(27)、園池公致(24)、木下利玄(24)、児島喜久雄(22)、里見弴(21)、柳宗悦(21)、郡虎彦(19)らと、同人雑誌《白樺》を発刊したことが紹介されています。実篤はその中心人物として、以後、1923年、関東大震災のあおりを受けて終刊になるまで、ほぼ休まずに寄稿しました。ちなみに、創刊号で実篤は、巻頭に夏目漱石の『それから』の書評を載せています。
白樺派はなにも文学や思想に限ったわけではありません。
前記の同人以外に、やがて、長与善郎、小泉鉄、岸田劉生、千家元麿、犬養健、尾崎喜八、倉田百三が加わり、その後、多くの若い洋画家、彫刻家、工芸家なども集まってきました。高村光太郎、山脇信徳、南薫造、斎藤與里、梅原龍三郎、富本憲吉、津田青楓、木村荘八、河野通勢、中川一政、椿貞雄、バーナード・リーチ・・・・・・。《白樺》は、文芸誌であると同時に、有力な美術誌でもあったのです。
「すでに言い尽くされたことだが」と断った後、著者は述べます。
「《白樺》、ことに武者小路実篤が、わが国に西欧の著名な画家を本格的に紹介した功績は、誰しも認めるところだ。実篤が激賞したのは、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、デューラー、ルーベンス、レンブラント、ゴヤ、ブレイク、ミレー、セザンヌ、ロダン、ゴッホ、ルオー、ピカソなどなど(次第に、牧谿、梁楷、石濤、八大山人などの中国画や、雪舟・大雅・鉄斎などの日本の水墨画にも惹かれる)。いずれも複製画を通しての鑑賞だが、構図や技法など専門的な事柄よりも、画家としての本気度、天才性、作品の普遍性を、ずばり指摘して、洋画家・日本画家を問わず、わが国の画壇に新鮮な息吹を吹き込んだ」
二「つのる社会不安/新しき村誕生」では、実篤がユートピア共同体としての「新しき村」の創設を目指す姿が描かれます。また、三「知識人の冷笑/実篤離村/ダム湖に沈む」では、その挑戦が具体的に紹介されています。著者は以下のように述べています。
「当年33歳の武者小路実篤が新しき村のために購入した土地は、宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城(現・児湯郡木城町)の私有地の一部であった。県のほぼ中央に位置する山村の北端で、現在は日豊本線高鍋駅からのバスの便があるが、当時は同線が全通していなかったから、鉄道で行くには熊本、鹿児島経由で九州本線を吉松で乗り換え、そこから宮崎支線で宮崎を経由して終点の妻に出る以外になかった」
秘境ともいうべきこの土地について、さらに著者は述べます。
「妻からは村役場のある高城まで3里(約12キロ)、高城から石河内までさらに3つの峠を越えて、蛇行する3里のけわしい山道が続いていた。妻と高城のあいだには朝夕1回ずつ駅馬車の便があったが、そこから先は徒歩で、食糧や建築材料は自分たちの肩で運んだ。石河内には郵便局も商店も医院もなく、電灯すらともっていなかった。柳田國男『後狩詞記』(1909)の調査地椎葉は、さらにこの奥である」
1918年11月14日、折しもロダンの誕生日に実篤は土地の売買契約書に調印。この日が新しき村創立の記念日となりました。最初の入植者は、実篤夫妻はじめ大人18名(夫妻を除くと大半が20代)、子供2名、家族数3。すぐに建設が始まり、農業経験者は1人というなかで汗を流しましたが、致命的なことに、土地はやせ、虫害が多く、開田に不可欠な水の便が悪かったといいます。著者はこう書いています。
「『お目出たき人』『世間知らず』『その妹』など、初期の創作で大いに注目され、白樺派の領袖とみなされていた実篤が、順風満帆だった文筆をよそに、鳴り物入りで始めた新しき村が、早くもつまずくのを知って、識者も世間も、それ見たことかと嘲笑った。おおかたの人間は、その無謀な試みを内心冷笑していたからである」
新しき村での実篤は、ほどなく村内会員の飯河安子と結ばれます。と作家の真杉静枝とのあいだも、大っぴらだった」といいます。このあたりの事情は『愛情生活 白樺記』荒俣宏著(新潮社)に詳しいですが、これは、新しき村における三角関係、四角関係(今でいうダブル不倫)として世に喧伝されました。しかし、妻の房子は房子で村内の若手男性複数と関係に及ぶのでした。このあたりの事情は実篤も房子もじつに平然としていたそうです。
著者は、「忘れてならないのは、この新しき村には、盲人のほか、ハンセン病患者、被差別部落出身者、朝鮮人も住んでいて、なんら差別がなかったことだ」とも書いています。
中国から周作人(魯迅の弟)が訪ねて来たのも、新しき村ならではのことでした。村が出来て1年後のことで、7月8日から4日間滞在しました。東京に留学中、知り合った日本人を妻とした中国の知日派文学者の周作人は、《白樺》ロダン号の残部を取り寄せて以来、実篤に心服します。1919年3月、周作人は自国の《新青年》に紹介文「日本の新しき村」を発表、北京に支部を創設します。弟から教えてもらったのでしょう、兄の魯迅は実篤の長編レーゼドラマ(上演を意図しない戯曲)「ある青年の夢」(1916・3)を翌月から翻訳し、若き日の陳独秀、毛沢東、周恩来らが、先を争ってそれを読んだといいます。
実篤は軍備を増強する日本政府、米中ロが強める覇権主義などに対して批判的で、「人間がまだ人類的にまで生長しきらない内は戦争がやまないものだと思っています。今のまま国家が存在してゆけばますます戦争がさかんになると思います」と述べ、民衆の覚醒による国家の解体をも示唆しました。こうした実篤の反戦・反差別の思想は、おそらくトルストイによって培われたものであると見られていますが、著者は以下のように述べています。
「実篤は自我を第一に尊重する一方で、『人類』という言葉を口にした。そのことの意味合いは、後段でよく考えてみたいと思うが、彼にインターナショナルな、あえて言えば、コスモポリタンへの志向があったのは事実で、村では木村荘太(老舗牛肉料理店「いろは」の息子。永井荷風「濹東綺譚」の挿画で知られる画家の荘八は弟)を講師とするエスペラント語の学習会も盛んだった」
このあたりは、実篤の同時代である宮沢賢治の人生を連想させます。
1936年は、実篤外遊の年でした。兄の公共がドイツ大使として赴任しているのをさいわいに、4月に欧米旅行に出発、途中、上海で魯迅に会います。その後、パリではマチス、ルオー、ドラン、ピカソを訪問。ベルリンではオリンピックを見物し、ナチスの党大会でヒットラーと握手を交わしています。さらに、フィレンツェ、ローマからニューヨークを廻って、12月に帰国しました。この実篤の行動力、人脈の多彩さには驚くばかりです。
ちなみに終戦直後のことですが、日本で大統領を出すなら、第一に尾崎行雄、第二に賀川豊彦という声が上がりましたが、アメリカの一部には「武者小路実篤に」との声もあったとか。
六「自活達成と実篤没後の村」では、1958年11月、村の自活を祝って、東京九段会館で創立40周年祭が挙行されたことが紹介されています。
著者は、以下のように述べています。
「この記念祭には、大型バス1台を仕立てて毛呂山町の人々を招待して喜ばれたという。講演、天野貞祐、辰野隆、中川一政、亀井勝一郎、徳川夢声、武者小路実篤。ピアノ、井口基成。日本舞踊、長谷川一夫一門。バレエ、牧阿佐美バレエ団。『花は満開』朗読、里見弴・田村秋子。余興出演、三船敏郎、志村喬、轟夕起子、入江たか子、藤原釜足、緒形拳ほか。出演者はみな、実篤と親しい著名人であった」
ここには往年の名俳優・志村喬の名前も見えますが、彼は黒澤明監督の映画「生きる」(1952年)で、主人公の30年間無欠勤の役人・渡辺勘治を演じました。この人物のモデルこそ、戦後間もなく「新しき村」に入村した渡辺貫二でした。彼は元都庁勤務で、「新しき村」の自活達成に最大の貢献をしたとされています。ちょうど今から半世紀前には「新しき村」は日本中から注目を浴びていました。川端康成が日本初のノーベル文学賞を受賞する以前のこの頃、日本からノーベル文学賞受賞者を出すなら、武者小路実篤を推すと、河盛好蔵・亀井勝一郎が推薦の言葉を述べています。(「週刊新潮」1962年4月9日号)
武者小路実篤が没したのは、1976年4月9日でした。享年90で、安子夫人が亡くなる10日前、重篤の夫人を見舞って「魂がさけ」(武者小路辰子『ほくろの呼鈴 父実篤回想』)、翌日から言葉を失い、食欲を失って、2カ月後のことでした。著者は述べます。
「画家の中川一政は、9年後、仙川の実篤郎と隣り合って記念館がオープンする際、『この人は小説を書いたが小説家と言ふ言葉で縛られない哲学者思想家乃至宗教家と云ってもそぐはないそんな言葉に縛られないところを此人は歩いた』との揮毫を寄せた。50年来の知己ならではの言だ」
八「ユートピア共同体の運命/液状化する世界」では、「ユートピアは賞味切れか」として、著者は以下のように述べています。
「新しき村創立以来1世紀に及ぶ歳月は、延べ400余人の村内会員と、1000余人の村外会員の夢と労苦がつむぎ続けた日々であった。超高齢化による人手不足、後継者難、財政難。この三重苦を抱えて、いまや限界集落化した村は、100周年はどうにか持ちこたえたとして、このまま衰亡の時を待つしかないのだろうか」
著者は古今東西のユートピア思想を振り返り、こう述べます。
「近代に入って、都市化が進行し、工業社会のもたらす弊害が顕著になると、やむにやまれぬ気持ちから、地上に楽園を建設しようとする試みが始まる。これは、従前の共同体が地縁・血縁で結ばれた自然のそれであったのとは異なり、現実の社会に満足できない者たちが、共通の目的で寄り集まった疑似共同体、言い換えると、そういう意味ではフィクションの共同体である」
「近年はユートピアというと、右からも左からも槍玉にあがり、とうに賞味期限は切れたとみる見解が多数を占めた。その意味で、これまで見てきたように、わが新しき村が、ともかくも1世紀に亘って存続し、生き延びてこれたのは、奇跡といって過言ではないのである」
著者は、日本のユートピア共同体として、一燈園(1913年)、心境部落(1940年)、新平須協同農場(1948年)、ヤマギシ会(1953年)、わらび座(1953年)、あらくさ(1970年)、弥栄之郷共同体(1972年)、ほびっと村(1976年)などの名を挙げます。しかし、「新しき村の強みは、創始者が著名な作家であること、理念がしっかりしていること、共同体でありながら、全体より個を重視していること、その思想は国内のみならず世界的な普遍性のあることである」と述べるのでした。反面、新しき村の弱みは、規律・統制がゆるく、業務の拡張やPR、資産・構成員の増大、後継者育成には不熱心なことだと指摘しています。
「『希望だけがない』国で」として、著者は述べています。
「まわりを見ても、いまやどこへ行っても、地方都市の駅前や中心地は、シャッター商店街を尻目に、コンビニ、チェーン店、予備校、量販店、高利貸が、わが物顔で占め、無表情でスマホに見入っている同じ顔の人、人、人・・・・・・。
住民の努力で多少の改善は見られるものの、私は幼い頃と比べれば、海や川は汚れ、野も里も山も、荒れ放題。子どもは早くから塾通い。でなければ、イジメと引きこもり、不登校。若者はニートかフリーターかパラサイト。主婦はパートと介護に明け暮れ、中高年はキレやすく、下流老人は暴走する。過労、アルツハイマー、孤独死・・・・・・」
さらに、著者は現代日本社会を憂います。
「開店前にパチンコ店に行列する若者、ブラック企業に雇われて燃料のようにこき使われたあげくネットカフェをねぐらにする若者、日本には自分の居場所はないとしてイスラム国(IS)の兵士を志願する若者・・・・・・、彼らは、新しき村の存在を知っているだろうか。
群れはつくるが、優劣のヒエラルキーが行動原理で、誰かに恩を感じることも、感謝することもないサル社会(オランウータン、チンパンジーを含む)。目と目でコミュニケーションを交わし、家族をつくって、互いに見返りを求めずに助け合うゴリラ社会。言葉で複雑なコミュニケーションを取り、複数の家族が集まって、互酬性を原理とする共同体を構成する人間社会。だが、人間同士の生身の接触を忌避し、家族や友人まで避けて、24時間スマホ漬けの若者や成人は、もはやゴリラを通り越して、サルにまで退化してしまったのであろうか」
著者は、場所にこだわります。なぜか。
その理由を、著者は以下のように述べます。
「私がなぜ場所にこだわるかと言えば、そこが私自身を含めた大多数の人間が拠って立つ基盤、アイデンティティだからである。自分なりに帰属感を持てる場所があるからこそ、人は自由に動きまわることができて、探検家にもコスモポリタンにもなれる。でなければ、ただの根無し草、漂流者に過ぎない。無為の共同体(ジャン=リュック・ナンシー)、明かしえぬ共同体(モーリス・ブランショ)、グローバル・ディアスポラ(民族・国家を異にする離散先での定住)といった考え方もあるにはあるが、そこはなんらかの意味で人間の共感する場所であることで共通している」
そして、著者は以下のように述べるのでした。
「いかにばらばらになった個人でも、いやそうであればあるほど、独りでは生きていけないのが、人間であり、この世である。世界が液状化し、国家や民族とリンクした公認の社会とは、もはや一体性を持ちえなくなったなかで、自分の立ち位置や居場所を定め、他者に働きかけ、人々と共に仕合せに生きていくには、どうしたって、それにふさわしい場所を見つけなくてはならないし、さもなければ、新たに創出するしかないのである」
「現代の白樺派」(?)が書いた本
十「創立百年を超えて―人類共生の夢」の冒頭で、著者は「個の独立、他者との共生」として、「現在の新しき村が抱える最大の困難は、21世紀に入っていよいよ顕著になった、いま日本が、世界が抱えている困難、つまり社会の少子高齢化、地域や共同体の過疎化・空洞化・液状化という難問中の難問とイコールで、どれも容易には解決がつかないことだ」と述べます。
これらの難問は、『ハートフル・ソサエティ』『隣人の時代』(ともに、三五館)などの一連の著書で、わたしが具体的解決案を提唱した問題でもあります。わたしのことを「現代の白樺派」と呼んだのは宗教哲学者の鎌田東二氏ですが、たしかにわたしの考え方のベースには武者小路実篤のような理想主義があるのかもしれません。
「日向新しき村」の入口にて
新しい共同体の「かたち」として、著者は以下のように述べます。
「いま、先進国のあいだで(日本でも)、新しいタイプの協同組合、共済組合、NPO、NGO、各種ボランティア、ワーカーズ・コレクティブ等々が続々生まれているのがそれで、地域通貨や自由通貨も試みられている。具体的には、地球環境の面を重視するコミュニティ、新旧の共同体の緩やかな連帯を目指すネットワーク、農業による自給自足に加え、生活体験ツアーやコンサート、トーク・プレゼンテーションなど若者の考えを取り入れたグループなどが、各地に誕生している。
すなわち、これからは衣食住、育児、教育、保健、医療、社会福祉、その他もろもろ、私たちの身のまわりのことを、国や自治体にだけまかせていてはいけないのだ。これら公共的なことを、社会経済的なアソシエーションのレベルにまで引き寄せて、育てる必要がある」
「日向新しき村」にて
わたしは、冠婚葬祭互助会という会員制組織も新しいコミュニティとしての可能性を持っていると思います。今後、サンレーグループの「紫雲閣」もセレモニーホールからコミュニティセンターへの転換を図っています。もしもわたしが「現代の白樺派」であるならば、わたしが目指しているものとは、”新しき「新しき村」”の創造なのかもしれません。