- 書庫A
- 書庫B
- 書庫C
- 書庫D
2019.02.22
2月8日午後8時19分、作家・経済評論家、元経済企画庁長官の堺屋太一氏が多臓器不全のため東京都内の病院で死去されました。心より御冥福をお祈りいたします。
その堺屋氏の最新刊『地上最大の行事 万国博覧会』堺屋太一著(光文社新書)を読みました。6422万人の入場者を集め、目に見える形で日本を変えた70年大阪万博の成功までの舞台裏を、その総合プロデューサーであった著者が初めて1冊の本として明かした本です。
著者は1935年大阪府生まれ。東京大学経済学部卒業後、通商産業(現経済産業)省入省。通商白書で「水平分業論」を展開。日本万国博覧会(大阪万博)開催を推進し成功を収めました。沖縄海洋博や「サンシャイン計画」に携わった後、78年に退官。予測小説『油断!』で作家デビュー。続いて『団塊の世代』を発表、ミリオンセラーになりました。98年7月から2000年12月まで、小渕恵三内閣、森喜朗内閣で経済企画庁長官を務めました。92年セビリア万国博覧会日本館総合プロデューサー、2010年上海万国博覧会日本産業館代表兼総合プロデューサーを務め、共に好評を博しました。
本書の帯
本書の帯には、「日本を変えた超巨大プロジェクト、成功の舞台裏」「万国博とは何か? 大阪万博(70年)、セビリア万博(92年)、上海万博(2010年)を通して見えたものとは? 2025年、日本で再び万国博を行う意義は?」と書かれています。
本書の帯の裏
また帯の裏には、以下のように書かれています。
「六四二二万人を集めた日本万国博は様々な「伝説」を生んだが、多くの伝説がそうであるように、事実と反するものも少なくない。その筆頭がテーマ・ソングである。
『こんにちは、こんにちは』で始まる『世界の国からこんにちは』(作詞・島田陽子、作曲・中村八大)といえば三波春夫の名前がまず挙げられるが、この曲は、坂本九、吉永小百合、ボニージャックスなど、複数の歌手が歌っている(八社競合。他に叶修二、西郷輝彦、倍賞美津子、山本リンダ)。その中で、当時いちばん売れたのは弘田三枝子が歌ったレコードだった。その次が吉永小百合で、三波春夫は実は四番目の売り上げだったのだ。また、『世界の国からこんにちは』が初めて披露された時に、生で歌ったのは吉永小百合だ。(本文より)」
さらにカバー前そでには、以下のように書かれています。
「日本万国博覧会の開催までには、まだ越えなければならない山がいくつもあった。私はこうした経緯の詳細を、 万国博が終わった後も長く語ることはなかった。『決して語るな』という勧告を、協力者や関係者、通産省の同期生からも受けていた。
日本は、私のような一介の官僚たる『偉くない人』が巨きな企てを実現できる国である。と同時に、嫉妬深い国でもある。それを熟知していたからこそ、口を閉ざしたのである。『偉くない人』が巨きな企てのできる国――これを教えてくれるのもやはり歴史である。(本文より)」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 一九七〇年万国博覧会――日本最大の行事
(一)万国博開催運動への門出
(二)博覧会好きの少年――私の少年時代
(三)「博覧会博士」を目指す
(四)万国博の濫觴
(五)人脈が広がる――「万国博」に一歩すり寄る
(六)万国博準備団体と万国博調査室
第二章 戦前戦中の大阪――迷える大都市
(一)戦争前は超過密都市
(二)明治の政治――博覧会は重要政策
(三)世界大戦のブームで産業が大発展
(四)大阪の重工業――砲兵工廠
第三章 大事なのはコンセプト
(一)佐藤栄作氏が総理に
(二)万国博開催権獲得の戦い
(三)「100万坪を、100日で買え!」
(四)テーマではなく、コンセプトを
(五)「人間の博覧会」へ
(六)マクルーハンとの世界論争
(七)日本は嫉妬深い国
第四章 人間の博覧会
(一)石坂氏と鈴木氏の強力コンビ
(二)若い才能を抜擢する――無名だった岡本太郎
(三)成功した企業と発展途上国への出典要請
(四)お祭り広場と太陽の塔
第五章 万国博の成果と後始末
(一)学生運動よりも万国博のほうが面白い
(二)6422万人の入場者
(三)日本を変えた万国博
(四)予想外の黒字、にもかかわらず
(五)沖縄国際海洋博覧会の賛否
(六)博覧会の多発と衰退
第六章 一九九二年セビリア万国博覧会
(一)セビリアに住んで見えてきた日本の特殊性
(二)日本人の宗教観を伝えるために
(三)二〇一〇年上海万国博覧会
(四)天安門事件と上海万国博覧会
(五)「オール中国」で挑む万国博
(六)「日本産業館」の成功
(七)「企業連合形式」と「黄金のトイレ」を残す
「主な万国博覧会・国際博覧会一覧」(1851~2010年)
「はじめに」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「今日、世界中には大規模な行事がいくつもあるが、その中でも万国博覧会は、入場者数でも、投資金額でも、行事内容の多様さでも、世界と開催国の社会や経済に与える波及効果の大きさでも、最大の行事である。万国博覧会がどれほど巨大な行事か。日本ではオリンピックと並び称されることがあるが、その規模の巨大さでも、歴史の長さでも、まったく比較にならない」
続けて、著者はオリンピックと万国博覧会を比較して、以下のように述べています。
「オリンピックが総合的なスポーツだけの3週間ほどの行事なのに比べて、万国博覧会は会期6ヵ月の長期行事であり、恒久施設の設備と数多くの歴史的記念物と巨大な街造りを実現した実績があり、次代を担う新技術や新思想、新しい制度、システムを生み出し、世に残して来た。万国博覧会は、近現代を創った真に偉大な行催事である」
また、著者は以下のようにも述べています。
「万国博覧会は不定期開催、1970年の日本万国博覧会のあとは1992年のセビリア万国博覧会まで22年間も大規模行事はなかった。そしてそのあとは2010年の上海万国博覧会である。この間には、1990年大阪の国際花と緑の博覧会や2005年愛知の愛・地球博などもあったが、いずれも、『出展する外国政府が自らの費用と名称と責任で展示館を建設する』全き意味での万国博覧会ではなかった」
第一章「一九七〇年万国博覧会――日本最大の行事」の(三)「『博覧会博士』を目指す」では、博覧会の定義について以下のように書かれています。
「万国博の歴史を概説した英文の書物には『博覧会とは販売を目的としない物品の陳列』全般を言い、そのような行事は『歴史と共に古い』として、旧約聖書に登場する古代ペルシアの王宮で行われた宝物展示会の例を示していた。この行事が6ヵ月続いたことから、現在も万国博覧会の最長会期は『6ヵ月』と限定されている」
近代の博覧会は19世紀の前半にフランスではじまったとされます。著者は以下のように述べています。
「18世紀末のフランス革命や19世紀はじめのナポレオン帝政の崩壊で、王宮に育ったガラス工芸や絵画の技工たちは王宮での仕事を失った。彼らの中には、自らの作品を巷に持ち出して展示し、その技を誇示することが流行した。あわよくば新興ブルジョワのお抱え技師になろうという下心もあってのことだろう。この種の試みは、やがてイギリスやオランダにも広まった。それが『万国博覧会」の元祖といわれる「ロンドン大博覧会(The Great Exhibition of Industry of All Nation)』を生んだのである」
(四)「万国博の濫觴」では、万国博の歴史が以下のように述べられています。
「万国博覧会の歴史を遡るなら、1851年のロンドン大博覧会に突き当たる。この行事こそは、万国博覧会のはじまりであるばかりでなく、あらゆる国際運動のはじまりでもある。ロンドン大博覧会では、400万人もの人が『クリスタル・パレス(水晶宮)』といわれたガラスのドームの下に集い、互いを「信頼すべき隣人」と確認し合った。そんな博覧会の心理的影響のもとに、その直後に国際赤十字運動が生じ、45年後には近代オリンピックがはじまり、やがて国際連盟の設立へと引き継がれている。中でもオリンピックは万国博の直属下にあり、第2回、第3回のオリンピックは『万国博の余興』として開催された」
続けて、「金・銀・銅のメダルは万国博から」として、こう述べられています。
「当時、万国博は、優秀な出展に金、銀、銅のメダルを授与していたので、余興のオリンピックの優秀者にも『優秀出展』として『金銀銅のメダルを与えてもよいのではないか』という議論が出た。それが今に残るオリンピックの金・銀・銅のメダルである。
ところが、本家本元の万国博のほうは、『文化相対論』の台頭で、受賞者の選定が困難になった。このため、第二次大戦後は表彰制度がなくなってしまう。この結果、今では金・銀・銅のメダルはオリンピックにのみ残っているのである」
また、「604万人の観客、黒字20万ポンド」として、著者はロンドン大博覧会について以下のように述べています。
「ロンドン大博覧会は、大成功だった。入場者数は604万人。投下した費用は約30万ポンドだが、総収入は50万ポンドに達し、約20万ポンドの黒字だった。この最初の博覧会が財政的に失敗していれば、次の博覧会は容易に開かれなかっただろう。当時のイギリスは、製造業では世界を圧倒しており、鉄道や郵便でも他国をリードしていた。科学技術の面でも他国に勝っていた」
続けて、著者は以下のように述べています。
「ところが、工業製品のデザインの点では遅れていた。イギリスは、1837年に商務省がデザイン・スクールを設置していたが、そこから生まれるデザインで優秀なものは少なかった。イギリス政府も、『壁紙から家具までイギリス製品のデザインは酷いものだ』と気付き、デザイン教育にも力を注ぐようになった。それがこの『大博覧会』で一気に活気付いた」
第三章「大事なのはコンセプト」の(二)「万国博開催権獲得の戦い」では、「日本万国博は『最大規模の国際博』」として、「一般博覧会」と「特別博覧会」の違いが以下のように書かれています。
「『一般博覧会』では、参加各国が建設する展示館が多数建ち、レストラン、即売場やサービス施設などを含め、100以上の建物が並ぶきわめて大規模なものになる。それに対して『特別博覧会』は、主催者側で展示館となる建物を用意し、出展各国は内部の展示のみを行うことになっている。当然、出展者の自由な創意はそれほど期待できないが、その分、主催者側の意思に基づいて統制しやすい利点もある」
続けて、日本は、もちろん、最大級の一般博覧会を目指したとして、著者は以下のように述べています。
「真に万国博覧会の名にふさわしいのはこの一般博覧会であると考えたからだ。また、一般博覧会で建つパビリオン内は治外法権が認められている。これは大使館内と同様である。さらに、万国博覧会に出展したデザインは、特許申請をしなくとも、デザイン保護が得られる。このように、開催のハードルにおいても規模においても、一般博覧会と特別博覧会には雲泥の差がある」
(四)「テーマではなく、コンセプトを」では、「寄付アレルギーの蔓延」として、以下のように書かれています。
「国際博覧会準備委員会の新井真一事務総長の方策は文化人らしく、「テーマ」の設定だった。1965年9月に発足したテーマ委員会の委員長には前東大総長の茅誠司氏、副委員長には京都大学教授の桑原武夫氏が就いた。委員には、わが国を代表する知識人を網羅するだけでなく、万国博が国民全体の意思を反映するために、各界の代表者を招聘することになった」
各界の代表者の顔ぶれは、次の通りです。実業界からはソニー会長の井深大氏、倉敷レイヨン(のちのクラレ)社長の大原總一郎氏。学界からはノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹氏、京都大学名誉教授の貝塚茂樹氏。文壇からは作家の大佛次郎氏、曽野綾子氏、武者小路実篤氏。総勢、18人が選ばれ、日本の文化や世界文明論が議論されたわけですが、錚々たるメンバーですね。
当時、『メディア論』の著者として知られる社会情報学者のマーシャル・マクルーハンが「万国博覧会は過去のものになった」という発言が注目を集めていました。マクルーハンは「電波メディアの急速な進歩によって、地球は小さな村になる」と主張しました。彼によれば、広い意味での情報を伝える手段として、人々のいる場所に情報を届けるタイプの「送達型」メディアと、人々を情報源の近くに集める「集人型」メディアがあります。電話やテレビなどの「送達型」メディアの登場によって、「集人型」メディアは過去のものになるというのがマクルーハンの主張でした。
しかし、こうしたマクルーハン理論に対して、著者は真っ向から反論しました。どこが間違っているのか。それは「集人型」メディアと「送達型」メディアの「相互依存性」が見逃されている点だといいます。歴史的に見て、「集人型」から「送達型」への移行は不可逆ではなく、新しい技術の登場によって、何度も揺り戻しが起きているというのです。著者は、以下のように述べます。
「例えば古代ギリシャ・ローマ時代は圧倒的に『集人型』メディアの時代だった。人々の集まる広場(アゴラ)で政治が行われ、政治家は演説によって自らの意思を市民に伝えた。ローマ時代には多数の観客の集まる巨大なコロシアムも造られた。中世になると、詩や物語と共に各国の状況を伝え語る吟遊詩人が現れた。村々を歩きまわる彼らは『送達型』メディアといっていいだろう」
一方、各地に教会が建てられるようになると「集人型」メディアは復活すると指摘して、著者は以下のように述べます。
「教会に人々を集めて行われた説教の情報伝達能力は巨大なものであった。それを一元的に支配したカソリック教会は、皇帝をも上回る力を持った。
しかし、グーテンベルクの印刷技術の発明によって、教会の情報独占に終止符が打たれる。印刷技術が普及、そして紙の大量生産が『送達型』メディアの優位を生んだ。これを巧みに利用したのが、マルティン・ルターだ」
とはいえ「集人型」メディアは違った形で発達を遂げると指摘し、著者は以下のように述べます。
「18世紀はベルサイユ宮殿やシェーンブルン宮殿で華やかな舞踏会が夜ごと開かれ、貴族たちの社交場となった。続いてパリやウィーンに大劇場が生まれる。この時代の劇場は単なる音楽や芝居の上演場ではなく、建築、絵画、工芸等の粋を集めた総合芸術の場であったし、集まる人々はここで政治から文学、ファッション、そしてゴシップまでの情報を交換した」
続けて、著者は以下のように述べています。
「第一次世界大戦後、写真印刷、電話、ラジオ、レコードなどの発達で『送達型』メディアが優勢となる。しかし映画の普及によって、『集人型』メディアが廃れることもなかった。世界の都市に生まれた映画館は数千万人もの人々を集め、映画スターは世界の人気者になった」
第四章「人間の博覧会」の(三)「成功した企業と発展途上国への出展要請」では、「金融系列の出展を促す」として、著者は以下のように述べています。
「大型館の出展には20億~30億円ほどの費用がかかる。一企業で出展できるのは、松下電器産業(現パンソニック)など、当時勢いに乗っていた家電大手くらいだろう。他はどうすべきか。私は思案し、金融系列でのグループ出展を提案することにした。万国博は金融系列を強化・拡大するのに適している、と考えたのである」
また、著者は「万国博への出展は、一社の広告のみならず、企業グループ全体のイメージアップにもつながる、と私は口説いて回った。大手銀行もそれに気付き、それぞれに投融資先の企業を誘った」とも述べています。
(四)「お祭り広場と太陽の塔」では、「博覧会の聖なる一回性」として、以下のように述べられています。
「1967年、会場計画プロデューサーの丹下健三氏は、『日本万国博のシンボルとなる大建造物を設計したい』との意向を示した。その発想が結実したのが、のちに『お祭り広場』と呼ばれる長さ400メートル、幅120メートル、高さ30メートルの建造物である。人が集まり、人を見、人に見られる万国博=『人間の博覧会』の核となるものだった」
その「お祭り広場」に造られた大阪万博のシンボルが岡本太郎による「太陽の塔」でした。「丹下氏vs.岡本氏の取っ組み合いの喧嘩」として、著者は以下の非常に興味深いエピソードを紹介しています。
「岡本太郎氏は太陽の塔のデザインを、『造形の俳句』と表現した。俳句というのは、17字まで言葉を絞って生まれる芸術である。それと同様に、余計なものをすべて削って辿り着いたのがこのシンプルな造形だと熱弁した。岡本太郎が『太陽の塔』に込めたのは『生命の樹』という構想だった」
この岡本太郎の熱弁を聞いた丹下健三は「お前にそんなものを造る権利はない」「造るとしても、目立つところにあるのは許さない」「どうしても造るなら、お祭り広場の屋根の設計を変更して、太陽の塔を屋根で囲って見えないようにする」と言い放ちました。すると岡本太郎は烈火のごとく怒り、関係者のいる前で、二人は取っ組み合いの喧嘩を始めたそうです。互いの弟子たちは、喧嘩を止めるどころか師匠の助太刀をする始末で、どうにも手の付けられない状態にななったとか。
第五章「万国博の成果と後始末」の(一)「学生運動よりも万国博のほうが面白い」では、「『反博運動』が吹き荒れる」として、以下のように書かれています。
「万国博の準備期間中は、日本が学生運動に揺れ動いた時代でもあった。1968年頃からは全共闘運動が全国の大学に広がり、日本万国博覧会開催の1年2ヵ月前(69年1月18、19日)には「東大安田講堂事件」が起こった。安田講堂に立てこもった学生たちに対して、大学から依頼を受けた警視庁の警官隊が封鎖解除を行い、多数の学生が逮捕された事件である。
大阪でも学生運動が巻き起こっていた。その流れで『反博運動』も起きた。『オリンピックの次に日本万国博が開かれる、これは1970年の日米安全保障条約改定から国民の目を逸らすためのイベントだ』と批判する者もいた。国中が平穏な歓迎ムード一色に包まれていたわけではなかったのである」
また、著者は「巨大な人間のカタマリを知る――『団塊』との意外な接点」として、修学旅行で万博を見学した当時の高校三年生こそ、著者がのちに名づけることになる「団塊の世代」であるとして、以下のように述べられています。
「第二次世界大戦直後の昭和22(1947)年から昭和24(1949)年に生まれた世代は、前後の世代に比べて人数が多く、小学校、中学校、高校と、通過する先々で校舎不足、教員不足の問題を起こしていた。そのため文部省など教育関係者は、この巨大なカタマリ世代を熟知していた。しかし、それ以外の官庁の人々は、まだこのことに気付いていなかった」
さらに、「『動く歩道』は世界標準の右立ちで」として、著者は述べます。
「日本万国博には、入場者に安全かつ楽しく会場全体を移動してもらうための新しい移動手段が登場した。広い会場の外周にはモノレールが設置されたし、西口駅(万博会場西口)から中央駅(万国博ホール)にかけては、レインボーロープウェイという遊覧専用ロープウェイが開通した。最も人気を博したのは、要所に置かれた『動く歩道』だった。特に会場中央部分を東西に貫く動く歩道は、高さが地上5メートル近くあり、これに乗るとゆったりと会場の全体を眺めることができる。ちなみに動く歩道が世界で初めて造られたのは、1893年のシカゴ万国博においてだった」
(四)「予想外の黒字、にもかかわらず」では、「万国博の成果――四つの基準から」として、1.安全基準、2.人気基準、3.経営基準、4.育成基準の4つが紹介され、特に育成基準について、日本万国博はその後の日本をリードし、国際的に活躍する人材を生んだと指摘されています。建築家の磯崎新氏、黒川紀章氏、グラフィックの田中一光氏、横尾忠則氏、服飾デザイナーの森英恵氏、コシノ・ジュンコ氏、照明デザイナーの石井幹子氏らが育ったとして、著者は「年功序列、実績主義の日本において、なぜ万国博では20代、30代の若手が活躍できたのか。それは先述の通り、前例のないイベントだったから。日本は利権社会である。利権闘争のないイベントだったからこそ、未来を見据えた挑戦的な人材登用が可能となった」と述べています。
さて、一条真也の新ハートフル・ブログ「2025年の大阪万博」で紹介したように、2025年の万博開催地が大阪に決定しました。テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。長寿国の強みを生かし、「健康・長寿」の実現に資する万博を目指します。国連のSDGs(持続可能な開発目標)の達成を後押しする目標も掲げるとか。
大阪万博決定を報道する各紙の朝刊
各紙が一斉にこのニュースを報じました。
「毎日新聞」2018年11月24日朝刊TOPでは「2025年 大阪万博」「BIE総会 55年ぶり開催」の大見出しで、以下のように書いています。
「【パリ津久井達】政府が大阪誘致を目指す2025年国際博覧会(万博)の開催国を決める博覧会国際事務局(BIE)の総会が23日にパリであり、加盟国による投票の結果、日本がロシア(開催地エカテリンブルク)とアゼルバイジャン(同バクー)を破り、開催国に選ばれた。国内開催の大規模万博は1970年大阪万博、05年愛知万博(愛・地球博)に続き3回目。大阪では55年ぶりの開催となる」
大阪決定に喜ぶ世耕経産相の躍動的な動きが印象的ですが、大阪万博は2025年の5月3日~11月3日の185日間、大阪湾の人工島・夢洲(ゆめしま)で開催する計画です。150か国・地域を含む166機関の参加を想定。来場者約2800万人、経済波及効果は約2兆円を見込みます。
会場は約155ヘクタール。各国のパビリオンが並び、「空(くう)」と名付けた5か所の大広場を設ける「パビリオンワールド」、水上に網目状の通路とVIP用の迎賓施設がある「ウォーターワールド」、緑地や既存の太陽光発電施設を生かした「グリーンワールド」の3エリアに分け、AR(拡張現実)やMR(複合現実)など最新技術を活用した展示を行います。1970年万博の「太陽の塔」のようなシンボルや中心施設は設けません。隣接地にはカジノを含む統合型リゾート(IR)の誘致計画があるとか。
わたしは、かつて広告代理店で「花と緑の博覧会」「横浜博覧会」「アジア太平洋博覧会」といった博覧会ビジネスを目の当たりにしてきました。拙著『遊びの神話』(PHP文庫)に「博覧会」(東急エージェンシー、PHP文庫)では、「博覧会」の一章を設け、万博の歴史や理念、未来の万博などについて詳しく書きました。シンボルや中心施設は設けないとのことですが、絶対に必要です!
「ヤフー・ニュース」2017年3月14日より
わたしは、2017年3月14日のヤフー・ニュースのTOPに「大阪万博 新たなテーマ公表」という記事を見つけました。松井一郎・大阪府知事は「東京が二度目なら大阪も二度目を」とばかりに、「大阪万博」誘致に前のめりだそうですが、わたしは基本的に「万博の時代は終わった」と考えています。それであまり興味はなかったのですが、何気なく記事を読んでみると、以下のように書かれていました。
「大阪での誘致を目指す2025年の万博については、当初『健康と長寿』がテーマでしたが、若者に関心を持たれにくいということで13日、新たなテーマが公表されました。2025年、大阪万博の新テーマに掲げることになったのは『いのち輝く未来社会のデザイン』。では、このテーマに沿って具体的に万博で何を見せるのか?
資料をじっくり読むと……。『万博婚。遺伝子データを活用したマッチングなど、新しい出会いを応援する』(パビリオン案「万博婚」)
展開事例として、実に挑戦的な案が並んでいました。ほかにも”Memento Mori(死を思え・ラテン語)”。人間が生を感じるのは死を身近に感じる瞬間が多いということで、”太陽の塔”ならぬ”天国の塔”からバンジージャンプするパビリオンです。
一方、パワードスーツに身を包んだ高齢者とたくましい肉体の若者が、ヒップホップなどのダンスで対決するというもの。その姿を通して、全世代を元気付ける企画だそうです。実はこれらは8年後の万博の主役、いまの若者から募集していたアイデアでした」
おおっ! 万博婚! 天国の塔!
なんと素晴らしい企画でしょうか!
パワードスーツやヒップホップなんか、どうでもいい!
万博婚や天国の塔は「結婚」と「死」をメインテーマにしているわけですから、これは「冠婚葬祭万博」と呼べるかもしれません。経済産業省は互助会をはじめとした冠婚葬祭業界を管轄する省庁ですから、広く業界に協力を呼びかけることでしょう。この万博で、未来の結婚式や葬儀が提案されれば素敵ですね。
わたしは、7歳のときに両親に大阪万博に連れて行ってもらいました。一条真也のハートフル・ブログ「太陽の塔」で紹介した岡本太郎がデザインした「太陽の塔」、一条真也のハートフル・ブログ『昭和ちびっこ未来画報』で紹介した「三菱未来館」といった超人気施設は、あまりに待ち時間が長いので断念しました。でも、万博の公式ガイドブックに掲載されている「三菱未来館」や「太陽の塔」の内部を紹介した図解を穴があくほど見つめた記憶があります。
あの頃、子どもたちにとって「未来」はキラキラ輝いていました。今の子どもたちにとって、「未来」はどのような存在なのでしょうか。それにしても、「メメント・モリ」とか「天国の塔」とか、ムチャクチャ魅力的ではないですか! もしかして、わたしのために企画してくれたのではないでしょうか?(笑)
2025年の大阪万博が楽しみになってきました!
最後にもう一度、「太陽の塔」のようなシンボルや中心施設は設けないといいますが、絶対に設けたほうがいいです。「天国の塔」を作りましょう!