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2019.10.17
『江戸の読書会』前田勉著(平凡社ライブラリー)を読みました。「会読の思想史」というサブタイトルがついています。著者は1956年、埼玉県生まれ。東北大学大学院博士後期課程単位取得退学。現在、愛知教育大学教授。博士(文学)。専攻、日本思想史。
本書の帯
カバー表紙には、「聖堂講釈図・寺子屋図」(東京大学史料編纂所所蔵模写)のうち、会読の様子の部分が使われています。帯には「読書会が日本近代化のタネ!」と大書され、続いて「読書会=会読は、身分制社会のなかではきわめて特別な、対等で自由なディべートの場だった。そこに、近代国家を成り立たせる政治的公共性の揺籃をみる思想史の傑作!」と書かれています。
カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「儒学の学習のために始まった読書会=会読は、すぐに全国にひろがり、蘭学、国学塾でも採用された。それは身分制社会のなかではきわめて特異な、自由で平等なディベートの場、対等な他者を受け入れ競い合う喜びに満ちた『遊び』の時空でもあった。そこで培われた経験と精神は、幕末の処士横議を、民権運動の学習結社を、近代国家を成り立たせる政治的な公共性を、準備するものでもあった―。具体的な事例をたどり、会読の思想史を紡ぐ傑作!」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 会読の形態と原理
第二章 会読の創始
第三章 蘭学と国学
第四章 藩校と私塾
第五章 会読の変貌
第六章 会読の終焉
「おわりに」
付論 江戸期の漢文教育法の思想的可能性
――会読と訓読をめぐって
「平凡社ライブラリー版 あとがき」
「はじめに」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「明治の自由民権運動の時代は『学習熱の時代』であった、と評したのは、民衆思想史のパイオニア色川大吉である。1880年代、現在、名前が判明しているだけでも、2000社を超えるという全国各地の民権結社では、演説会や討論会が催され、国会開設の政治的な活動をするばかりか、定期的な読書会も開かれ、政治・法律・経済などの西欧近代思想の翻訳書を読み合い、議論を闘わせた。この時代の民権結社のほとんどは「学習結社的な性格」を備えていたのである(色川大吉『自由民権』、岩波新書、1981年)。断髪して間もない武士や町人・農民たちは、演説会や読書会のなかで西欧近代の自由や平等の思想を学び、自らの頭で新しい国家のあるべき姿を考え、その組みとなる憲法の草案をも作っていった」
また、著者は以下のように述べています。
「西欧の法律学や経済学の書物を読んだり、政治的な演説や討論をしたりすることは、江戸時代以来の共同読書=会読の場での経験を抜きにしては考えられないだろう。むしろ、そうした経験・伝統があったからこそ、西欧の新しい学問や演説などのパフォーマンスを受けいれることができたのではないか。本書では、この会読する共同読書会が江戸時代のいつごろ生まれたのか、そして、その後、私塾や藩校のなかでどのように展開し、水戸藩の藤田東湖や長州藩の吉田松陰らの志士たちが、尊王攘夷や公議輿論を唱え、藩や身分の枠を飛び越えて横議・横行する幕末にいたったのか、さらに、明治の新しい「学制」のもとで全国各地に建てられた小学校や、自由民権期の学習結社にどのように受け継がれていったのか、を明らかにする」
続けて、著者は以下のように述べます。
「換言すれば、儒学の書物の読書会のなかから政治的な討論の場が現れてくる過程を明らかにすることをめざしている。その意味で、本書は会読という観点からする、江戸から明治への政治・教育思想史の試みである。このような共同読書会から政治的な討論の場への変化は、よく知られたドイツの政治哲学者ユルゲン・ハーバーマスの公共性の問題ともつながっている。ハーバーマスは、18世紀ヨーロッパ世界に、サロンやコーヒーハウスのなかで文芸作品について議論し合う文芸的公共性がうちたてられ、そのなかから、政治的論議を通して、国家と対抗する政治的公共性が現れてくると論じていたからである」
さらに、著者は以下のように述べています。
「このハーバーマスのテーゼをうけて、読書会の役割を強調しているのは、シュテファン=ルートヴィヒ・ホフマンである(『市民社会と民主主義』、山本秀行訳、岩波書店、2009年)。ホフマンによれば、18世紀から19世紀にかけて、西欧世界には読書サークルが生まれてくるという。絶対王政の時代、自由と平等を求めた人々が、読書サークルという自発的な結社を作るのである。ホフマンによれば、『ロジェ・シャルチエが強調するように、ヨーロッパのどこでも、そうした読書サークルや協会の会員たちは、たとえ身分が違っていたとしても、おたがいに平等であった。彼らは、より文明化されたふるまいの高いレヴェルに到達しようと、お互いに協力しあうことを望み、国家の枠をこえる新しい社会空間を創りだした。そうした新しい社会空間では、ヨーロッパの啓蒙思想のテクストや理念が流通し、批判的に論議された』という。こうした空間は、読書協会やフリーメイソンの会所のようなネットワークばかりか、コーヒーハウスやサロンのような非公式の形態の社交として、ヨーロッパ世界全体に広がっていた」
第一章「会読の形態と原理」では、1「江戸時代になぜ儒学は学ばれたのか」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「江戸時代には、『論語』や『孟子』などの儒学の経書を読むこと、すなわち読書することがイコール学問だった。この時代、儒学関係の書物のほかにも、仏教書・神道書・兵学書などの硬派の書物から、商売・農業などのハウツーものの実用書、さらに浮世草子・黄表紙・読本などの軟派の書物まで、多種多様の書物が木版出版された。もちろん、軟派のほうは、もっぱら娯楽のために読むのであって、学問するとはいわない。やはり、学問は高尚なものである。その点、天下国家を治める政治と自己一身を修める道徳を教える儒学書の読解は、文句なく学問そのものだった。江戸時代、そんな堅苦しい儒学書を、武士ばかりか、町人や百姓までもが熱心に読み、学問に励んだという現象は注目されてよい」
また、「立身出世のための学問――中国・朝鮮」として、中国や朝鮮では儒学を学ぶことによって立身出世ができたことを指摘し、著者は以下のように述べています。
「もともと儒学では、「身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは、孝の終りなり」(『孝経』)とあるように、立身出世は自分の名誉ばかりか、立派な息子を生み育てた両親の名誉として世間に広く光りかがやき、親孝行を成し遂げるものだ、と称揚されていた。中国や朝鮮では、高級官僚になることがその立身出世の最終の目標だった。基本的には万人に開かれた官吏登用試験である科挙が、これを制度的に保障していたのである。つまり、儒学を学び、全国統一試験である科挙に合格することによって、めでたく高級官僚となり、社会的名誉と富を得ることができたのである。これが中国や朝鮮における儒学普及の最大の理由である」
「科挙のない国の学問」として、著者は述べます。
「江戸時代の儒学を考えるにあたって、まず押さえておかねばならないことは、江戸幕府が、学問することを名誉や利益から動機づける科挙を実施しなかったという点である。後に述べるように、18世紀終わりごろ、寛政年間に、幕府でも素読吟味や学問吟味を行い、科挙に似た制度を作るが、それは官吏登用のためというよりは、学問奨励のための便法にすぎなかった。これに合格したからといって、ある程度の名誉は得られたかもしれないが、栄達の道が一挙に開かれたわけではない。家老の息子は家老、下級武士の子は下級武士であって、いくら勉強して学問に励んでも、中国や朝鮮のように、高級官吏になるチャンスが訪れるわけではなかった。そのため、江戸後期になっても、たとえば、京都の町儒者猪飼敬所(1761-1845、宝暦 11-弘化2)は、次のような切実な質問を弟子から受けざるを得なかった」
江戸時代、儒学を学んでも何の物質的利益もあるわけではありませんでした。しかし、だからこそ、純粋に朱子学や陽明学を学び、聖人を目指したともいえるとして、著者は以下のように述べます。
「儒学を学んだからといって、経済的・社会的なメリットはなかったにもかかわらず、儒学を学ぼうとしたのは、それだけ、聖人への希求が強かったといえるだろう。それは、厳格なタテの身分秩序のなかでの平等への願望だと言い換えてもよい。しかし、それゆえに『矛盾・軋轢・衝突』を引き起こさざるをえなかったのである。儒学を学んだ、もう1つの理由は、いつの日か、政治を担うチャンスが訪れることを夢見て、経世済民の事業を練り上げることを自己の使命と考えていたからだろう。もともと儒学には、修己(道徳)と治人(政治)の2つの焦点があるが、聖人になることを目指した藤樹や梅岩が、前者に傾いていたとすれば、聖人になることを否定し、朱子学の『自信過剰の説』を木端微塵に粉砕した荻生徂徠(1666―1728、寛文6―享保13)は、後者の側面を強調したといえる」
よく知られているように、江戸時代には藩校をはじめ、私塾や寺子屋といった教育機関がありました。それらの違いについて、著者は「私塾・藩校と寺子屋」として、「もともと江戸時代、武士教育の藩校と百姓・町人たち庶民教育の寺子屋とは、別系統の機関だった」と述べています。寺子屋では会読が行われていませんでした。寺子屋においても、読みの場合、儒学のテキストの素読が行われるような場合はありましたが、主なテキストは、商売往来、百姓往来などの往来物でした。そのうえ、上級者向けの学習方法である会読まで行うことは、6~8歳に入学して、2、3年間の短い就学期間では、ほとんど不可能だったと、著者は指摘しています。
では、藩校の場合はどうだったか。藩校教育は、明治になって西欧の学校体系を受け容れる際の基盤として、著者は日本教育史研究者が「啓蒙学者たちによって西洋各国の「学校」という教育機関が明治の日本人に新しく紹介されたとき、それを理解し、まがりなりにもこれをこなすことができたのは、この藩立の武士の学校の伝統があったからといっても過言」ではなく、後に述べるように、一斉授業、試験や日常成績によって進級を決定する等級制、学校体系を初等から高等へと序列をつけて編成する考え方、固定した小教場で授業をするという形態などは、すでに藩校のなかで行われていて、「幕末の藩校は、多くの点で欧米近代国家の学校のそれと大差のないところまできていた」のである(勝田守一・中内敏夫『日本の学校』、岩波新書、1964年)と指摘していることを紹介します。
近代日本の学校の起点となった明治5年(1872)の「学制」もまた、その教育方法という点からいえば、会読=輪講を採用しています。同じく『日本の学校』では、「同時代の日本人が輸入された西洋の近代学校のなかに藩校を読みとり、後者の精神で前者を同化するようになっていったのは、しごく当然のなりゆきであった」と述べられています。
第二章「会読の創始」では、1「他者と議論する自己修養の場――伊藤仁斎の会読」として、著者は以下のように述べています。
「日本に限っても、いつごろから会読が行われるようになったのであろうか。すでに戸時代以前に、孔子を祀る釈奠の後に、儀礼的に行われた『講論』あるいは『論議』が、会読(ことに輪講)の淵源であるといえるかもしれない。もしそうだとすれば、平安時代にその起源を求めねばならないだろう。ほかにも、仏教寺院のなかでも、教義に関する『講論』が行われていた。しかし、これらは、会読のいわば前史ともいうべきものである」
また、「五経の会読――同志会」として、著者は伊藤仁斎の会読について述べています。
「欲望を否定して『世俗』から離脱するのは、山林にこもる禅宗のような異端に陥ってしまうことではないか。そう考えて、仁斎は「世俗」に舞い戻り、『論語』『孟子』を徹底的に読みぬくことで、自己の学問を模索しはじめるのである。その成果が、死ぬまで改定し続けた『論語古義』『孟子古義』である。この模索の初めごろ、仁斎は同志たちと『会読』をしていた。仁斎の『古学先生文集』のなかには、五経の『会読』をしたと自ら述べている箇所がある。『嘗て同志と五経を会読す』(『古学先生文集』巻三、詩説、寛文三年五月)。それによれば、仁斎は『同志』とともに、『詩経』から始めて、『書経』『易経』『春秋』『周礼』『儀礼』『大戴礼』の順で、読んでいった。仁斎は、徂徠よりも前に、寛文年間(1660年代)すでに『会読』を行っていたのである」
『古学先生文集』巻一に収録されている別の書簡「片岡宗純に与ふる書」によれば、当時、「五経の会読」は、すでに『詩経』『書経』を終えて、『易経』まで進んでいたこと、少なくとも仁斎のほかに2人、しばしば会をもって「討論」していたこと、さらに、仁斎がみなから推されて「進講」していたことが知られることを紹介し、著者は以下のように述べます。
「『世俗』に戻った仁斎が、『同志』とともに『五経の会読』を行ったのは、儒学の根本テキストを読み直して、儒学の根源的な理解を目指そうということだろう。ただ、この時点では、自己のよるべき経書として『論語』『孟子』に行き着く確信がなかったので五経を読んだという面もあったろう。しかし、それ以上に注目すべきは、『世俗』に立ち帰ってきた仁斎が、独り部屋に閉じこもってする孤独な読書ではなく、『同志』とともに共同の読書=『会読』を行うようになった点である」
もともと、孔子の弟子會子は、「君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔く」(『論語』顏淵篇)と、文事によって朋友を集め、朋友によって仁の徳を助け合いました。著者は、「朋友は五倫の1つであるが、他の四つ、君臣、父子、夫婦、兄弟がタテの関係であるのにたいして、唯一、ヨコの関係である。同志会の目的は、朋友お互い同士が道徳的修養を目的として集まり、書物を読み合う会であった。議論し合って善に導く会であり、そのために、経書を学び合うものであったといえる」と述べています。
フランス文学者の清水徹氏によれば、「最上至極宇宙第一の書」(『童子問』巻上)と位置づけた『論語』の注釈書『論語古義』、仁斎が何度も書き換えたこの書について、その稿本作業については単独で行っていたと思われるが、その中身、発想は書生との輪講のなかで培われたものなのではないか、と指摘しています。かつて仁斎研究者の石田一良氏も、仁斎はそうした同志会による研究と著作の態度を一生持ち続けていたと指摘しました。
仁斎は、自己と異なる他者と「議論」する「会読」=輪講という共同読書のなかに、自己修養をするという積極的な意義を見出していたとして、著者は以下のように述べています。
「これを可能にするのは、もともと同志的なつながりが、『一切の世俗の利害』とは異なる関係であったからである。お互い同士が『善有れば之れを勧め、過ちあれば之れを規し、患難相恤れみ、憂苦相愍れむ、務めて衆人の心を以て心と為し、各々一家同仁の徳を尽くさんと欲す』る(「同志会籍申約」)、このような聖賢を志す『同志』の結びつきは、『一切の世俗の利害』とは別の、思いやりに満ちた『仁』の世界だった。その意味で、同志会のつながりは、『人と我と、体を異にし気を殊にす』る人々が、お互い思いやりながら、『己が意見と異なる者に従ひ、己を全てて心を平かにし、切劘講磨』し合う、仁斎にとって『畢竟愛に止まる』『仁』(『童子問』巻上、四五章)の理想態だったのである」
伊藤仁斎に続いて荻生徂徠を取り上げた著者は、2「諸君子の共同翻訳――荻生徂徠の会読」として、以下のように述べます。
「会読問題においても、徂徠が大きな転換点であったことは間違いない。後の時代、『本邦にても会読之初めは、徂徠より始候と承り及申候』と見なされるほど、徂徠以後、会読は流行現象となったからである。徂徠以後の江戸後期には、さまざまな場所でさまざまな人々によって、会読の形をとった読書会が叢生する。この点については後に見ることにして、ここでは、徂徠がなぜ会読という形式の読書会を推奨したのかについて考えてみよう。それはまた、前節の仁斎学同様に、会読を焦点として徂徠学を読み直す試みでもある」
徂徠は「東を言われて、西について納得する」という言葉を残しました。一見、わかりにくい言葉です。東を言われて、東を納得するというのであれば、当たり前ですが、徂徠によれば、東を言われて反対側の西がわかるというのです。ここには、徂徠の2つの考えが内包されているとして、著者は述べます。
「1つは、他者の異論によってはじめて自己を認識できるという考えである。逆にいえば、自己自身を認識するためには、西を『合点』するためには、異質な他者、東に接しなくてはならないというのである。朋友との会読による討論は、そうした機会を与えてくれる絶好の場となるだろう」
続けて、著者は以下のように述べます。
「徂徠によれば、人それぞれは生来の性質にしたがって、顔が異なるように、所見を異にしている。自己の見解は多様な意見の1つにすぎない。『聖人之道は甚深広大にして、中々学者之見識にてかく有べき筈の道理と見ゆる事にてはなき事』『徂徠先生答問書』巻下)だからである。だが、自己の意見をかたくなに信じるだけで、他者の意見と接しなければ、自分がわからないということさえわからない。それゆえに、他者に問うことが大事であり、朋友との切磋琢磨が求められるのである」
もう1つの「西の合点」に含意する内容は、自分自身で納得することの重要性です。著者は、「われと合点すること」として、「徂徠は、疑いを持ち、自らで考え、『自身ニわれと合点』することを強調した。異論と接する会読は、『合点』する前提となる疑いを抱く機会を与えてくれるのである。徂徠が講釈を批判したのも、この点にかかわっている」と述べています。経書を読む場合も同じです。わかりやすくしようとして、返り点や送り仮名をつけた訓読法で読むべきではなく、漢字がずらずら並んだ無点本で読むべきだというのです。
書物について、著者は以下のように述べます。
「無数の書物は何も説明しない。われわれの前に投げ出されている。疑問を持ち、こちらから問いかけなければ、何も語らない。もともと、聖人の道とは『物』(『弁名』巻下)であった。徂徠にとって、『物』とは六経であった。易・書・詩・春秋・礼・楽の六経を読むということは、『物』と格闘することを意味していたのである。『物』は、こちらから問いかけ、考えることによって、はじめてその意味を見出すことができる。『論語』の『憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず』(述而篇)の重要性もここにあるという」
著者は、別な観点からも徂徠の会読について考えます。
「翻訳のための読書会」として、以下のように述べています。
「何のための読書=学問かという問題である。『聖人学んで至るべし』をスローガンにする朱子学にとって、読書は聖人になるための『格物窮理』のもっとも重要な方法だった。ところが、徂徠は『聖人は学んで至るべからず』(『弁道』)と断じる。徂徠にとって聖人は、治国平天下のために道を作為した、堯・舜・禹などの古代中国の先王たちであって、人々が学んで到達できるような道徳的な完璧者ではなかった。徂徠は、『普通の俗人でも聖人になれるとする自信過剰の説』(ドーア)の思い上がりを粉微塵にしてしまうのである」
さらに、著者は以下のように述べています。
「徂徠によれば、『世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る』(『学則』)のであって、言語は時代とともに変遷し、しかも、経書は異国の言語、中国語で書かれている。この時間的・空間的な差異を無視して、日本では、奈良時代の吉備真備以来、レ点や一二点などの返り点や送り仮名をつけて『和訓廻環』(『訳文筌蹄初編』巻首)する訓読法によって古代中国のテキストを読んできた。そのため、テキストの異質性を意識しないまま、自分勝手に解釈してきた。そう考える徂徠は、中国語のテキストを中国語の原音(口語)によって読んで、それを異質な言語である日本語に翻訳することを目指した。その意味で、徂徠において読書とは『訳』であった」
徂徠は「訳社」という名前のグループを結成しましたが、これは翻訳することを目的とする結社でした。著者は述べています。
「この訳社の参加者には、太宰春台、安藤東野、荻生北渓らのほかにも、肥前滝津寺の大潮、宮城大年寺の香国らの僧侶も混じっていた。この点、仏教を『異端』として排斥し、佐藤直方のように、僧侶と書簡を交わす事さえ嫌った闇斎学派とは対照的である。訳社の参加者は、儒学とか仏教とかの学問・宗教(信条)の違いを超えて、翻訳するという一点で結ばれていたのである。その意味で、訳社は、道徳的な修養とは無関係の、あくまでも翻訳のための結社であった。それは、『聖人の道』を志し、立派な聖人になるために皆が励むような道徳的な修養団体ではなく、中国語を翻訳し、文章を学び合うために会読する自発的な結社だったのである」
3「遊びとしての会読」として、著者は会読という活動の中に「遊び」の要素を見出し、「ルールと異次元空間」として、以下のように述べています。
「仁斎の同志会では、はじめ『先聖・先師の位前』に跪き、拝礼して、『会約』を読んだという。われわれから見れば、こうした仰々しい行為は、『日常生活の流れの外にあるものを作り出そうとする』(ホイジンガ)試みであったといえるだろう。そのため、『講論の間』、以下のような事柄が禁じられていた。嬉笑遊談、人の聴聞を駭かすこと、大いに扇を揮い、座中を騒がすこと、それに加えて、『一切の世俗の利害、人家の短長、及び富貴利達、飲味服章の語」は、もっとも厳しく戒めるべきこととされていた』」
著者は、「この「先生・先師の位前」への拝礼は、「世俗」の利害関心から切り離された異次元の空間を作り出さすための儀式だったと指摘し、「仁斎をはじめとする同志たちは、これを真面目に仰々しく行ったのであろうが、これを第三者の立場から見れば、なんとも不思議な光景だったろう。孔子などという異国の人を尊崇し、『論語』は『最上至極宇宙第一の書物』だと評価する仁斎とその仲間たちの行為は、まわりの人々から見れば、尋常ではなかったろう」と述べています。
会読とはつまるところ人が集まる行為であり、寄合に似ています。しかし、「寄合と会読」として、著者は以下のように述べます。
「寄合は村落共同体の話し合いであるのにたいして、会読は自発的な任意の結社のなかでの討論であったことは重要である。寄合参加者は、村から抜け出ることはできないが、会議であれば、やめることができる。仁斎の堀川塾(古義堂)でも、徂徠の蘐園塾にしても、嫌になれば、行かない自由もあった。ところが、地縁・血縁が複雑に絡み合っていた村ではそうはいかない。この点でも、会読と寄合との違いは明らかである。ちなみに、福沢諭吉が『本にては昔の時代より、物事の相談に付き人の集りで話をするとき、其談話に体裁なくして兎角何事もまとまりかね』ると批判して『会議弁』を著した時、そこで変革すべきものとして想定しているのは、村の寄合であった」
第三章「蘭学と国学」の1「会読の流行」では、「江戸・上方での流行と地方への普及」として、大坂の学問所懐徳堂の周辺でも、後に寛政異学の禁に際して主導的な役割をはたすことになる、尾藤二洲、頼春水、古賀精里らの若き朱子学者たちが、「風俗の漸く靡薄なる」のことを慨嘆し、「俱に時学の為むるに足らざるを悟り、奮然として志を立て、力めて正学を講ずる」ために、朱子学関係のテキストを会読していたことが紹介されます。江戸・大坂の大都市だけでなく、地方にも会読は普及していました。豊後国東の地で独創的な条理哲学を樹立した三浦梅園が、明和3年(1766)正月に作った「塾制」にも、毎月1・5日には会読をすることが記されています。この梅園の教えを受けた杵築城下の富商たちは、『孔子家語』の会読をしていました。
徂徠学派の会読は読む会読でした。読む会読は難解な書物を共同で読むことをめざしています。衆知を集めて、難解な書物を共同研究(共同翻訳)するわけですが、『文会雑記』には、徂徠学派のなかの代表的詩人である服部南郭が記されており、そこには「屠竜の技」という言葉を使われています。「屠竜の技」とは『荘子』の語(列禦寇)、世に用のない名技を意味する。著者は述べます。
「もともと『儀礼』は、冠婚喪祭の儀礼の細かい所作を記述するだけに、儒学の経書のなかでも、とりわけ難解な書物である。かりにそれを読解したとしても、世の中に何の役にも立たない。しかし、『誠ニ竜ヲ屠ル伎ナレドモ、好古ノクセニテ』、『儀礼』注釈を試みるのだという。すでに、古注(鄭玄注・賈公彦疏)や朱子『儀礼経伝通解』はあるが、明代の科挙でもなお、『礼記』は古注を使っているなかで、あえて注釈を行うのだという」
続けて、著者は以下のように述べています。
「ここには、『儀礼』という難解なテキストだからこそ、そして、本家本元の中国でも蔑ろにされている、『外ノ方ニナキコト』だからこそ挑戦しようとする、並々ならぬ意欲が認められるだろう。『文会雑記』にはまた、『儀礼』の会読のなかで、人形を使ったと記している(巻一上)。もともと書物の記述のみでは、儀礼の所作について具体的なイメージをつかむことは難しい。そのために、儀礼の場面を人形によって再現して、その立ち位置や歩く順序などを検証したのであろう。大の大人が、人形を囲んで、『儀礼』テキストにはこうあるからこう動いたのだ、いや違う、ここはこうだ、と侃々諤々と討論している様子は、なんとも異様な、ほほえましい光景だったろう」
ここに書かれていることはあまりにも興味深いので、わたしも今後、「屠竜の技」としての『儀礼』について、いろいろ調べてみたいと思います。
具体的に、読む会読は、徂徠学派以後、どのように展開したのでしょうか。大きく言えば、2つの方向があったとして、著者は以下のように述べています。
「1つは蘭学、もう1つは国学の方向である。この2つは、文献実証主義という点で重なり合うところがあるが、前者はオランダ語原書を会読したのにたいして、後者は『古事記』『日本書紀』『万葉集』といった古代日本のテキストを会読した点で異なっているし、テキストにたいする態度・スタンスにおいても差異があった。蘭学の場合、徂徠が『鳥鳴獣叫の如く、人情に近からざる者』であって『解し難き語』(『訳文筌蹄初編』巻首)であるとしたオランダ語に挑戦し、翻訳することを目指している。蘭学者たちは、徂徠が先鞭をつけた外国書翻訳のための読書会のなかで、より難しい書物に挑戦してゆくことになるのである。これにたいして、国学の場合、古代日本のテキストの読解、たとえば、全編漢字で書かれた『古事記』を大和言葉に翻訳する本居宣長の『古事記伝』の試みが難事業であったことは疑いないが、たんにそれのみにとどまらず、国学者たちはそこで明らかにされた古代日本の人々の生き方を学び、真似て、そこに自己の生きる拠り所を求めた」
3「自由討究の精神――国学の会読」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「蘭学と並ぶ、18世紀の新思潮、国学もまた会読の場のなかで生まれてくる。国学の大成者である本居宣長(1730―1801、享保15―享和1)もまた、会読を経験していた。伊勢国松坂の商人小津家の子であった本居宣長は、生まれつき商売の才能がなく、優雅な王朝世界を憧憬する文学青年であった。母かつはそうした宣長の性向を見極めて、漢方医の修業のため京都に遊学させたのだが、その遊学中、徂徠とも親しかった堀景山の塾で、宣長は会読を行っていたのである」
また、「宣長の会読論」として、著者は述べます。
「当時の『在京日記』を見ると、宣長は、『易経』から始めて五経の素読をするとともに、宝暦2年(1752)5月に、『史記』と『晋書』の会読にも出席している。これ以後も、宣長は堀塾では、『春秋左氏伝』や『漢書』の会読に参加するとともに、医学の師武川幸順のもとで、『本草綱目』や『千金方』の会読をし、さらに宝暦5年(1755)9月からは5と10の日に、岩崎栄良、田中允斎、塩野元立、清水吉太郎らの友人と、自主的に『荘子』の会読をしている。京都時代の宣長は、ほぼ会読によって勉学しているのである。
景山のような儒者ばかりか、江戸の国学者、賀茂真淵(1697―1769、元禄10―明和6)の県居門でも、会読を行っていた。たとえば、江戸十八大通の一人で歌人でもあった村田春海(1746―1811、延享3―文化8)は、師の真淵の会読に参加していた」
そして、「共同で検証される『発明』=真理の歓び」として、著者は以下のように述べるのでした。
「読む会読の場は自己の『発明』を出し合い、生きた痕跡を残すことのできる創造的な場であったといえるだろう。蘭学者にしても、国学者にしても、民間で自主的な会読をしたのは、こうした場が身分制度の社会とは異なる、知的刺激に充ちた空間だったからである。そもそも、生きた痕跡を残したいという思いは、身分制度のもとで自己の才能を伸張させることのできない者たちのものであった。生まれたときから生き方が決まっていた彼らは、『草木とともに朽ちる』ことを拒否して、日常性のマンネリズムから飛び出し、知的創造を遂げることのできる会読の場に集まってきたのである」
第五章「会読の変貌」の4「吉田松陰と横議・横行」では、「松陰の会読修業」として、著者は「松陰の松下村塾の教育が生徒1人1人の個性を伸ばすものであったことは、よく知られている。会読はそのなかで中心的な位置をしめていた。しかもそれは、堅苦しい藩校の会読=輪講とはずいぶん様相を異にする自由闊達な会読だった」と述べています。また、久坂玄瑞が師の松陰に宛てた書簡を引用し、「車座どころか、米を搗きながらの会読とは、なんとも破天荒である。松陰はこうした会読を、松下村塾のなかで、はじめて行ったわけではない。萩郊外に松下村塾を開くずっと以前から、同志を集めて自発的・自主的な読書会を開き、切磋琢磨し合っていたのである」と述べます。
松陰の会読について、著者は以下のように述べています。
「松陰は会読における勝負を求めるからこそ、読まねばならない書物の多さに圧倒されたのである。さすがの松陰もこのような状況で、読書意欲の減退を嘆かざるをえなかった。嘉永4年(1851)12月に藩の許可なく決行した東北旅行は、国防の見地から日本全国を実地調査するという目的があったにせよ、こうした『僅かに字を識り候迄』の読書の壁を一挙に越えようとする行動であったといえるだろう。各地の名士に会い、議論することで、文字の経索に汲々とする読書以上の何かを期待したのではなかったかと思われる。実際、松陰は東北旅行のなかで水戸藩の会沢正志斎や豊田天功らと交流し、文字の読書では得られないものを学んでいった。徳富蘇峰によれば、『旅行は、実に彼[松陰]の活ける学問』だった(『吉田松陰』初版、1893年)」
また、「獄中の輪講――『講孟余話』」として、著者は述べます。
「嘉永7年(1854)2月、松陰は、下田沖に停泊していたペリーの乗船するポーハタン号(外輪フリゲート艦)に密行しようとして失敗し、獄中の人となった。ところが、この困難な状況のなかでも、松陰は数多くの書物の抜録をしながら(『野山獄読書記』によれば、総計618冊余)、独りで読む看書ばかりか、共同読書である会読を積極的に行っていった。安政2年(1855)、萩城下の野山獄の獄中で、『孟子』の講義とともに、交代に講義し合う会読である輪講の形式で『孟子』を読みはじめたのである。野山獄は1室3畳ほどの小部屋が左右に6室ずつ、合計12室並んでいたが、1室に集まって、自由に議論を闘わせたらしい(海原徹『近世私塾の研究』)。松陰の代表的著作『講孟余話』はこの輪講の成果であった」
この野山獄での会読については拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)の中でも詳しく紹介しましたが、著者は以下のように述べています。
「野山獄での会読は、江戸遊学中で経験した、文字の穿鑿に汲々とする会読とは全く異なっていた。そのことは、次にあげる当代の読書人にたいする批判からもうかがわれる。今の読書人は、朱子の集注から逸脱すれば『異端雑学』だ、天下国家を憂慮し、攘夷を論ずれば『麤豪』だ、と非難する。しかし、結局は小心翼々たる人物に過ぎない(『講孟余話』巻四中)。松陰の求める人物は、たんなる本の虫ではなく、ましてや粗暴な野人でもない。『孟子』テキストを眼前の政治と人心に引きつけ、主体的に学んでゆく読書であり、そのための会読だった」
第六章「会読の終焉」の1「明治初期の会読」では、「対等性原理の実現」として、著者は以下のように述べています。
「『学制』実施時に、それまで藩校内で行われていた会読=輪講の学習方法が、新設された小学校に採用されたことは、思想史的にみて画期的な意義をもっている。というのは、会読の対等性の原理が、ここにいたって、ようやく実現できたからである。もともと、会読は対等性を原理にしていたとはいえ、江戸後期に会読=輪講が採用された藩校では、会読の範囲は武士に限定されていた。藩校入学は、百姓・町人には許されていなかった(道徳的な教化のために講釈を聴聞することはできたが、武士と対等に討論することなどできなかった)。ところが、明治の四民平等の理念のもとに、『邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期』され義務教育化した小学校では、『華士族農工商及婦女子』の『一般人民』の子弟は平等に輪講の授業を受け、学力を競争し合うようになった。それが国家の教育政策として実行されたのである」
もちろん、輪講の制度化は、また一方で、生徒間の競争を導入することであった点は留意すべきであるとして、著者は以下のように述べます。
「『学制』の規定『生徒及試業』によれば、生徒は必ず等級を踏んで進級することが必要であり、一級(6ヶ月)ごとに試験をうけ、合格書が渡され、これがなければ進級できないとしている。逆にいえば、試験に合格しなければ、いつまでも原級に留まらなくてはならなかった。『学制』のもとでは、ただぼんやり在学しただけで自動的に進級できるわけではなかったのである。しかし、そうだとしても、『自分の能力をためす、開かれた実力競争の場』でめった試験によって、『昨日まで机をならべて勉強することのできなかった農民や町人の子どもが、武士の子弟と対等に学力を競いあい、かれらを打ち負かすこともできる』学校はまさに、『四民平等』の理念が、最初に実現されたところであった」(天野郁夫『増補試験の社会史』)ことは間違いない」
続けて、著者は以下のように述べています。
「競争と試験を導入した『学制』は、先に見た金沢藩明倫堂のような身分制度のもとでの藩校では、抑えられ、ゆがめられ、妥協せざるをえなかった会読=輪講の場での『実力』原理を徹底し、会読の対等性の原理を実現したという意味で、大きな飛躍だったのである。ちなみに、明治初期の大ベストセラー、福沢諭吉の『学問のすゝめ』(初編、1872年刊)と、サミュエル・スマイルズの『セルフ・ヘルプ』を翻訳した中村敬宇の『西国立志編』(第一冊、1870年刊)の2冊は、こうした『実力競争』に飛び込み、立身出世をめざす人々を動機づけるものであった。この2人が、これまで見てきたように、幕末期の会読のなかで鍛えられたことは偶然ではない」
付論「江戸期の漢文教育法の思想的可能性――会読と訓読をめぐって」では、「漢文教育の方法」として、著者は以下のように述べています。
「江戸時代、漢文教育の方法には3つありました。素読、講釈、会読です。このうち、素読と講釈については、ご存じかと思いますので省きます。江戸時代には、素読と講釈のほかに、会読という日本独特の読書方法がありました。会読は、15歳ごろから講釈と併行して、あるいは、その後に行われた上級者の教育方法です。素読を終了し、ある同程度の学力のついた上級者が、『一室に集って、所定の経典の、所定の章句を中心として、互いに問題を持ち出したり、意見を闘わせたりして、集団研究をする共同学習の方式』(石川謙『学校の発達』)です」
また、論講について、以下のように述べています。
「輪講は7、8人、多くて10人弱の生徒が1グループとなり、籤などで、その日の順番を決めて、前から決められていたテキストの当該箇所を読んで、講義をします。その後に、他の者がその読みや講述について疑問をだしたり、問題点を質問したりします。講者はそれらに答えて、積極的な討論を行う。これを順次、講義する箇所と人を代えて繰り返していくもので、先生は討論の間、終始、黙っていて、意見が対立したり、疑問がどうしても解決しなかったりしたときに、判定をくだすにすぎません。基本的に生徒同士の切磋琢磨が求められているのです。この会読は、いわば車座の討論会でした」
会読には、3つの原理がありました。第1の原理は、加賀藩の規則に見られるような、参加者お互いの「討論」を積極的に奨励するという相互コミュニケーション性です。第2の原理は、「討論」においては、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとで行うという対等性です。第3の原理は、読書を目的として、期日を定め、一定の場所で、複数の人々が自発的に集会するという結社性です。このような3つの原理(相互ミュニケーション性・対等性・結社性)をもつ会読が、江戸時代、広く行われるようになった理由として、著者は「会読の場が『門閥制度』の身分制社会のなかで異空間であったからだ」と述べています。
続けて、著者は会読について、「そこは、凡庸な生を拒否して、何かこの世の中に生きた痕跡を残そうとした者たちが、車座になって、対等な関係のもとで、『討論』し合い、同志的なつながりを持てる場だったのです。もう1つ、会読流行の理由として強調しておきたいことは、会読の場が一種の遊びの場だったという点です。1冊のテキストを共同して討論しながら読むということ自体、大人の遊びではなかったかと思われます」とも述べています。
会読における「遊び」の要素について、著者は述べます。
「この遊びという点でいえば、会読が日本独特だったことが重要です。科挙の国である中国や朝鮮には、こうした討論し合いながら共同で書物を読み合う、会読の方法はありませんでした。江戸時代の日本は、読書が立身出世につながる中国や朝鮮と異なって、立身出世の望めない身分制社会だったからこそ、成果とはかかわらずに、あたかもスポーツのゲームのように楽しむことができたのです。物質的・社会的な利益がなかったからこそ、逆説的ですが、会読は成立できたのです。そして、遊びの会読だったからこそ、朱子学一尊主義の中国や朝鮮と異なって、この会読の場から個性的で多様な学問も生まれることができたといえるのではないでしょうか」
そして、著者は以下のようにまとめるのでした。
「江戸時代の漢文教育方法である会読と訓読法は、幕末から明治にかけて、身分制社会を超える可能性をもっていた、革新的で、清新なものだったという点です。漢文教育というと、忌憚なく申しますと、どこか古めかしいイメージがつきまといます。ところが、今日、お話ししてきたように、福沢諭吉のいう親の仇だと非難された『門閥制度』の江戸時代のなかで、儒学、広く漢文を学ぶことは、『草木と同じく朽ち』たくはないと願う、強い意志をもった者たちの生きがいであり、対等な立場で討論し合う会読の場は、そうした者たちの才能を発揮する、遊びの場でした。遊びというと少し語弊があるかもしれませんが、物質的・社会的な利益とは無縁な場で、自らを高める自己啓発の場だったと言い換えることができるでしょう。身分の違い、地域の違いを超えて、対等な立場で学び合う会読と、身分の尊卑を意識させる敬語を排除した訓読文体は、幕末から明治にかけて四民平等の理念を体現する、きわめて清新で革新的なものだったのです」
「平凡社ライブラリー版 あとがき」で、本書に国内外からの反響があったことを紹介し、著者は「思うに現代社会に生きる人々が職場や地域・家族とは異なる場で、人と人とのつながりを求めているからなのだろう」と推測し、さらには以下のように述べています。
「書物を媒介にした交流の場である読書会が、そうした期待に応える場であることは間違いない。もし本書に、メリットがあるとすれば、それは、江戸時代に、この読書会が会読という共同読書法によって盛んに行われていた事実を再発見したことである。本書で縷々論じたように、江戸時代は上下のタテの身分制社会だった。そのなかで、身分や年齢を不問にして、対等な立場で討論し合いながら共同読書する読書会が、18世紀以降、全国各地、至る所で行われていた。会読による読書会は、身分制社会のなかにあって、自由で平等な空間だったからである」
そして、著者は以下のように述べるのでした。
「しかし、会読は身分制社会のなかに生まれたがゆえに、四民平等を標榜し、学問による立身出世が可能となった明治時代になると、自由民権運動の学習結社の最後の輝きはあったが、急速に滅びていった。明治以降の近代日本社会は立身出世主義のはびこる競争社会であり、現代もなおそこから逃れることはできない。だが、競争社会に息苦しさを感ずる現代人にとって、参加者が自由に語り合える読書会は、日常生活とは別次元の社交の場であることで、積極的な意味を持っている。江戸時代の会読がこの現代の読書会に蘇ることになれば、私にとって、これ以上の喜びはない」
本書には、わたしが知らなかったことが多く書かれており、大変勉強になりました。儒学の学習のために始まった読書会=会読が全国にひろがり、その対等で自由なディベイトの経験と精神が明治維新を準備した史実は感動的ですらありました。何よりも、『論語』に対する伊藤仁斎、『古事記』に対する本居宣長の姿勢に深い感銘を受けました。ブログ『愛読の方法』で紹介した本とともに、新しい読書論のアイデアが浮かんできました。仁斎の『論語』、宣長の『古事記』に加えて、真淵の『万葉集』、松陰の『孟子』を取り上げ、彼らを江戸時代における四大「愛読者」として論じてみたいと思います。