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No.1812 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『真・輪島伝 番外の人』 武田頼政著(廣済堂出版)
2019.12.21
『真・輪島伝 番外の人』武田頼政著(廣済堂出版)を読みました。大相撲とプロレスで活躍した輪島大士の真実に迫る本だというふれこみで興味津々で読みましたが、元妻による恨み節の連続で、ちょっと期待外れでした。著者は1958年、静岡県生まれ、京都産業大学卒業後、出版社勤務を経てフリー。2007年に「朝青龍の八百長疑惑」を週刊誌で告発し、「第14回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム大賞」を受賞。
本書の帯
本書には輪島の似顔イラストが描かれ、帯には「恋にやつれ、債鬼に追われる天才横綱」「いまだ輪島の影に懊悩する元妻の視点で描く、破天荒横綱の真実」と書かれています。また、カバー前そでには、「輪島は人の形をした『災厄』か、それとも『騒擾の神』なのか」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、以下のように書かれています。
「放埒な恋と蕩尽と、事業失敗のあげく名跡を担保に金を借り、相撲界を騒乱の極みに陥れた、不世出にして破天荒な天才、故・第54代横綱・輪島大士――大相撲八百長報道で角界を震撼させた著者が、その元妻に長時間の取材を敢行し、年寄名跡をめぐる初代・若乃花との対決、ロス疑惑・三浦和義との接点、暴力団との共生関係等々、輪島の栄光と堕天の時代を活写する」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序章 輪島博と私
第一章 輪島の恋わずらい
第二章 花籠部屋の隆盛期
第三章 輪島との結婚と花籠襲名
第四章 父逢いたさに自殺未遂
第五章 1985年の輪島大士
終章 番外の人
「相撲協会理事の推移」
「昭和時代(戦後)の二所ノ関一門系統図」
「主要参考文献一覧」
ブログ「名横綱・輪島の死」に書いたように、2018年10月8日、昭和の名横綱である輪島大士が逝去しました。本書の序章「輪島博と私」では、輪島の元妻が以下のように述べています。「輪島大士こと本名輪島博。学生時代に打ちたてた14ものタイトルをひっさげて角界入りしたスーパースター。『黄金の左下手投げ』で一世を風靡し、北の湖とともに昭和の一時代を築いた名横綱等々、天才力士の名をほしいままにした輪島は相撲界の栄光に満ちあふれています。しかも私と離婚した後に一緒になった相手と1男1女をもうけ、そのご長男は立派な体格を持った甲子園球児だというのだから素敵です。でも輪島の死を伝えるマスコミの口ぶりはそれ一辺倒。私たちの結婚生活は1981年から85年までのわずか4年間にすぎませんが、その間、私たちには『不倫』『破産』『自殺』と様々な不幸が降りかかりました。そんな惨憺たる過去の出来事などまるでなかったかのように、メディアの報道はきれいに削ぎ落とされていました」
続けて、元妻は以下のように述べています。
「私は二所ノ関一門・阿佐ヶ谷勢の総帥だった花籠親方(元幕内・大ノ海、本名・中島久光)の長女として生まれました。最盛期には30人もの力士たちが籍を置いた大きな相撲部屋で、私は力士たちとともに育ちました。ところが父が必死に育てあげ、守ってきたこの部屋は、輪島の不始末が原因ですべて失われてしまいました。部屋を畳むとき、父への申し訳なさよりも、他の部屋に呑み込まれてゆく若い衆が不憫で仕方がありませんでした。輪島の人柄をわかりやすく言えば、『オンナとカネにだらしのない人』です。横綱引退直後に師匠である父が亡くなると、あの人の女遊びには以前にも増して拍車がかかり、挙げ句の果てには親方名跡を担保に何億円もの借金をし、それが原因で廃業に追い込まれてしまいました。そもそも輪島はお相撲さんだというのに『辛いこと』や『痛みを伴うこと』に直面すると、その場から逃げ出そうとするのが常でしたから、その後プロレスに転進してもうまくいくわけがなかったのです」
さらに、元妻の怒りは貴乃花親方の花田家にも及びます。
「時を同じくして、貴乃花親方が『引退』しました。『引退』などと言うと聞こえはいいですが、要は『廃業』です。そしてさらに夫婦関係も破綻したそうです。同じ時期に起きた輪島の死と貴乃花の廃業と離婚――。私たちは自分の部屋を手放したという点で貴乃花と共通していますが、内容はまるで違います。相撲界から去る貴乃花はテレビのトーク番組に出演し廃業の経緯を蕩々と語っていましたが、相撲部屋を畳んだ後の若い衆の行く末を考えたら、私ならとてもじゃないけど人前になど出られません。彼の心の裡はまったく理解できないのです。これまで花田家の話題に接するたび、私は複雑な感情を懐いてきました。当時の私たちが輪島の借金問題に苦慮していた際、貴乃花の伯父であり父の弟子だった二子山親方(元横綱・初代若乃花、本名・花田勝治)は、輪島の不始末に乗じる形で花籠名跡を私たちから剥奪しようとしました。つまり私たちは貴乃花のように自ら名跡を放棄したわけではなく、二子山親方による、他界した父への背信行為もあってそうせざるを得ない状況に追い込まれたのです」
こんな調子で、本書の内容は元妻の恨み節になっているのですが、それでも興味深い記述もありました。第二章「花籠部屋の隆盛期」では、「若乃花と力道山」として、2人の人気者のエピソードが綴られています。
「父からよく聞かされていた話があります。若乃花と力道山さんはどちらも酒が強く、酔うほどに陽気になっていくそうで、そんなときの力道山さんが必ずと言っていいほど唄う歌が、『アリラン』だったそうです。力道山さんは本名を金信洛(キムシルラク)といい、朝鮮のご出身だったことは、亡くなってずいぶん経ってから公になったことです。当時は百田光浩という名の純然たる日本人ヒーローとして振る舞い、出自のことは隠しておられたのだと思いますが、もしかしたら父や若乃花は、それが力道山さんの望郷の歌だということを知っていたのかもしれません。日ごろ『土俵の鬼』などと呼ばれ、実際いつもいかめしい表情をしていた若乃花が、力道山さんと一緒にそれを大声で唄うというのですから、よほど気が合うのだと思います」
力道山は関脇どまりでしたが、横綱まで昇りつめた輪島もプロレス入りします。金銭問題で親方を廃業した翌年の1986年、プロレス界へ飛び込みました。オリジナルの必殺技ゴールデン・アームボンバー(喉輪落とし)を生み出し、2年間の短い間でしたが、全日本プロレスを舞台に活躍しました。特に天龍源一郎との熱い闘いが忘れられません。天龍のえげつないキックを逃げずに顔で受け止めていました。その様子を見たUWFの前田日明が「こんなハードな闘いをされたら、自分たちの存在意義がなくなる」と危機感を抱き、長州力を背後から蹴撃したというエピソードは有名です。
第六章「番外の人」では、「プロレスラー輪島」として、以下のような裏話が書かれています。
「ジャイアント馬場さんと輪島はまるで知らない仲というわけではなく、実は結婚式にも来ていただいています。父も部屋の建設費を稼ぐためにアメリカでプロレス興行に参加していましたし、何より力道山さんとの関係もあって、二所一門とは浅からぬご縁があったような気がします。最初に相談したのは、元花籠部屋の力士で、当時すでに全日本プロレス(全日)で活躍していた石川孝志(リングネームは敬士)さんです。日大相撲部出身で輪島の後輩だったこともあり、そこから話が進展していったのです。実際に馬場さん率いる全日との間をつないでくださったのは、大物興行師の永田貞雄さんです。永田さんは日本の裏社会ともつながりが深く、力道山さんが発足した『日本プロレス協会』の興行面を支えた恩人でもあります」
さらに「番外の人」として、元妻は述べています。
「輪島大士は花籠部屋に大きな実りを約束する豊穣神のはずでした。ところが実際のあの人はそのような存在ではありませんでした。あらゆる悲惨な目に遭い、相撲界から追われるように身をひいた私が当時思ったことは、輪島という人は中島家と、そして相撲界にとって、人間の形をした『災厄そのもの』だったのではないかということ。ですがあれから何十年も経ったいまでは、あの人のもたらした災いには何か特別な意味があったのではないかと思うのです。言ってみれば輪島は、大相撲悠久の歴史のなかでときおり土俵に降臨し、皆をとんでもない大混乱に陥れる『騒擾の神』だったのではないでしょうか」
そして、最後に元妻はこう述べるのでした。
「人間を幸福で充たす神様もいるけれど、なかには極めつきの試練を与える神もいます。すべてをご破算にする仕業で人を悲劇のどん底に突き落としながら、その実、欲望に支配され、分をわきまえず、畏れを忘れて醜く争う人間に罰を与え、すべてを浄めてしまおうと、お天道様はあの人を遣わしたのかもしれません」 わたしは寡聞にして、これほど元夫の悪口を言う元妻を他に知りません。というか、離婚した仲でないとしても、ここまで人の悪口を言えるというのも、ある意味ですごいことだと思います。いや、ほんとに。
30年経っても恨みを忘れていないのでしょうが、仮にも一度は夫婦であった相手のことを貶めるのは良くないですね。それは、離婚後に暴露本を出した貴乃花の元妻にも言えることです。本書には、輪島が浮気をしていたエピソードが相手の実名まで出して暴露され、他にも八百長の星を買っていた話とか、関西のヤクザと交際していた話とか、果ては大麻を所持していた話まで語られています。死者を冒涜するような、こういった話には、わたしは一切興味を持てませんでした。読んでいて気分が悪かったです。
輪島は、日大の卒業を2カ月後に控えた1970年初場所、幕下付出で花籠部屋から角界にデビューしました。2年連続で学生横綱となった実力の持ち主でしたが、大相撲でも、わずか2場所で十両昇進を決めました。その後も出世街道を驀進し、初土俵から3年半で第54代横綱になりました。横綱時代、故・北の湖前理事長としのぎを削り「輪湖時代」を築きましたが、その頃、中学生だったわたしは輪島の大ファンで、級友たちと相撲部を作り、自らは横綱となりました。そのときの四股名は、輪島大士(ひろし)から取って、大熊大士という名前でした。みんなで九州場所にも出かけて輪島を応援したことが懐かしいです。
輪島は若貴兄弟の不仲を非常に心配していて、「兄弟は仲の良いのが一番だよ」と言っていたそうです。その若貴の2人もともに相撲協会にはいません。元貴乃花親方の今後の相撲改革に注目が集まっていますが、若貴の父である元大関・貴ノ花のライバルであり、自身もガチンコ力士であった輪島には、どうか貴乃花の今後の奮闘をあの世から見守っていただきたいと思います。昭和の名横綱・輪島大士関の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。