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2020.04.09
「緊急事態宣言」は「読書宣言」と陽にとらえて、大いに本を読みましょう!
『世界は四大文明でできている』橋爪大三郎著(NHK出版新書)を読みました。「[シリーズ]企業トップが学ぶリベラルアーツ」の1冊です。一条真也の読書館『ふしぎなキリスト教』、『世界は宗教で動いている』、『ゆかいな仏教』、『正しい本の読み方』で紹介した本も書いている著者は1948年、神奈川県生まれ。社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。1995~2013年、東京工業大学教授。
本書の帯
本書の帯には、ホワイトボードを前に講義をする著者の写真とともに、「中谷巌氏主宰の『不識塾』。有名企業の幹部に向けた白熱講義、新書化!」「『キリスト教文明』『イスラム文明』『ヒンドゥー文明』『中国・儒教文明』世界63億人の思考法を一気につかむ!」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「宗教をベースに、四大文明圏の人びとの行動原理を明快に説く。これが『本物の教養』だ!」として、以下のように書かれています。
・キリスト教文明圏で自然科学が発達した秘密とは?
・IPS細胞、LGBT、市場のメカニズム――
キリスト教文明圏ではどう捉えられているか?
・英米法と異なるイスラム法の特徴とは?
・カースト制度はなぜ3000年も続いたのか? そのメリットは?
・儒教と中国共産党はどのような関係にあるのか?
・四大文明圏に属さない日本は、
グローバル世界でどう振る舞うべきか?
カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「ビジネスパーソンこそ『リベラルアーツ=本物の教養』を学べ!『キリスト教文明』『イスラム文明』『ヒンドゥー文明』『中国・儒教文明』――現下世界を動かす四大文明の内実とは? 各宗教が文明圏の人びとの考え方や行動にどのような影響を与えているのかを明快に説く。世界63億人の思考法が一 気につかめる! 有名企業の幹部に向けた白熱講義を新書化するシリーズ、第1弾」
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」(「不識塾」塾長 中谷 巌)
第1章 世界は四大文明でできている
第2章 一神教の世界 ヨーロッパ・キリスト教文明と、イスラム文明
第3章 ヒンドゥー文明.
第4章 中国・儒教文明
第5章 日本と四大文明と
「参考文献」
「あとがき」
「はじめに」で、著者はリベラルアーツの重要性を訴えます。リベラルアーツ(liberal arts)とは、かつてヨーロッパの大学で学問の基礎とみなされた七科目のことで、現在は広く「人を自由にする学問」とされています。著者が塾長を務める「不識塾」では、ビジネスパーソンが習得すべきリベラルアーツを「日本という国の文化、歴史をしっかりと理解すること。自国のことを深く知ること」、「海外の人たちの価値観や行動原理を、歴史や哲学、宗教の理解をとおしてきちんと把握すること」の二本の柱に即して考えているそうです。これは、わたしが主宰する「平成心学塾」の考え方と完全に一致します。
では、なぜリベラルアーツなのでしょうか。著者は述べます。
「グローバル化といっても、単に英語ができればいいというわけではもちろんありません。身近な例を挙げます。1時間のビジネスミーティングで、外国人とさまざまな交渉をするとき、その半分くらいは雑談です。実はこの雑談こそ重要なのですね。相手は雑談を通じて、貴方の「品定め」をしているからです。これで自らを信頼に足る人間としてアピールできるかどうかが、その後のビジネスに大きく影響するわけです」
ところが、多くの日本人は雑談が苦手であると指摘し、著者は
「自らのアイデンティティについての意識が希薄なので、自分をうまく相対化して語ることができない。相手の国の歴史も宗教も理解していないので、相手の琴線にふれる話ができない。私の知り合いの外国人はかつて、日本人のビジネスパーソンはまじめで能力も高いけれど、あまりにも話題が貧困で、世界に通用する常識というものを持っていないと嘆いていました。反面、欧米のエリート層は若い時からリベラルアーツ教育ですごく鍛えられています」と述べています。
続けて、著者は以下のように述べます。
「こんな例からも、歴史や宗教にもっと関心を持たないと、グローバルな場に出ていってもまったく話にならないことがわかるでしょう。企業トップのみならずあらゆるビジネスパーソンに、リベラルアーツを身につけていただきたいのです」
日本では、戦後の実学志向のなかでリベラルアーツ教育は軽視されてきましたが、幸いこの数年で風潮が変わり、大手企業でも人事研修のときは、リベラルアーツを組み込まないとまずいという感覚が芽生えてきたといいます。著者は「リベラルアーツは経営トップだけが学べばいいということでは決してなく、あらゆるビジネスパーソンにとって、いや、誰にとっても必要な人生の栄養素です」と述べています。
第1章「世界は四大文明でできている」の冒頭を、著者は「世界の四大文明」として以下のように書きだしています。
「21世紀は、『グローバル化』の時代です。
『グローバル化』(globalization)とはなにか。世界が、ひとつになった。でも、世界の人びとがひとつに『融合』したわけではない。違う種類の人びとのまま、「隣人」になった、ということです。『人』だから、トラブルも起こります」
また、著者は「いま世界には、4つの集団ができました」として、「ひとつが、10億人、20億人という巨大な集団です。左から順番に、ヨーロッパ・キリスト教文明。ヨーロッパを中心に、新大陸にも拡がっています。これがいちばん人数が多い。そして、ここ500年、人類をリードしている有力なグループです。人数は、25億人。キリスト教をベースにしています。2番目は、イスラム文明。中東(ミドル・イースト)という場所を中心にしています。が、中央アジア、アフリカの北半分、インドの両脇。東南アジア(マレーシア、インドネシア)にも拡がっている。15億人です。イスラム教をベースにする。3番目は、インドの、ヒンドゥー文明。人数は、10億人。ヒンドゥー教をベースにしています。最後、4番目は、中国の儒教文明。人数は、13億人。儒教をベースにしています」と、世界を俯瞰します。
このように世界の四大文明は、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、儒教といった宗教をベースにしています。「宗教とはなにか」として、著者はまず、「文明」(Civilization)とはなにかと問いかけ、「文明とは、多様性を統合し、大きな人類共存のまとまりをつくり出すものです。文明の特徴は、文字をもつこと。法律や社会制度が整っていること。帝国のような政治的まとまりや、教会のような宗教的まとまりをもっていること。暦や、生産技術や、軍事力や、経済活動や、貨幣や、交通などの社会インフラや、……をそなえていること。歴史学の本には、そう書いてあります」と述べています。
文明とは、ばらばらになってしまう人々の多様な社会(個別の文化)を、それより高いレヴェルに統合する試みであると言えます。では、「文化」とはなにか。著者は
「文化は、民族や言語など、自然にできた人びとの共通性にもとづいています。それに対して、文明は、多くの文化を束ねる共通項を、人為的に設定することです。文明のほうが文化より、レヴェルが高いのです。ではなぜ、世界の四大文明は、どれも宗教をベースにしているのか。それは、宗教が、個別の言語や民族や文化を超える、普遍的な内容のものだからです。『普遍的』(universal)とは、時間や空間に限定された特殊なものでなく、もっと一般的だ、という意味です」と述べています。
かりに、これらの宗教がなかったら、どうなるか。
この問いについて、著者は、「人類は、文明という大きなまとまりを形成することができずに、言語や人種・民族や文化ごとに、もっと小さなまとまりをつくるしかなかったでしょう。10億人~20億人といったサイズではなく、100万人とか、1億人とかいったサイズになります。すると、となりの集団とは共通点がないので、争いになり、人類はもっと混迷を深めていたはずです。宗教は、世界の平和に貢献しているのです。これを踏まえて、宗教の機能を、つぎのようにのべることができます。《宗教とは、人びとが、同じように考え、同じように行動するための、装置である。》」と答えています。
さらに、著者は「正典(カノン)」として、「日本人があまり意識しない、宗教文明のポイントがあります。それは、どの文明も、正典をそなえていることです。正典がある。これが、世界標準なのです。日本には、正典がない。大変だ、世界標準に外れている、と思わなければならない。正典とは、なにか。ラテン語でいえば、カノン(canon)。規準になるテキスト、という意味です。カノンはもともと、ものさし、という意味でした。それが、規準という意味になり、音楽では『繰り返し形式』という意味になり、正典という意味になります。なお、聖典(holy scripture)という言葉もあります。似ていて、重なる部分もありますが、キリスト教では『聖典』は聖書のこと、『正典』は教会法のこと、と使い分けていました」と述べています。
ユダヤ教の『旧約聖書』、キリスト教の『新約聖書』、イスラム教の『クルアーン』、ヒンドゥー教の『ヴェーダ聖典』、儒教の『五経』……宗教ごとに正典は違っていて、その内容もさまざまです。けれども、その機能からみると、これらの正典はすべて、共通していると、著者は述べます。それは、どの正典も、《人間は、このように考え、このように行動するのが、正しい。》と述べているというのです。その宗教を信じる人びとにとって、正典とは正しさの規準になるのです。
それでは、正典にはどういう効果があるのか。
著者は、「同じ正典を参照する人びとが、『同じように考え、同じように行動する』ので、相手に対する予測可能性が高まります。どう考え、どう行動するか、読めるようになるのです。予測可能性が高まると、仲間として、協力しやすくなります。ビジネスができます。同じ法律に従うこともできます。一緒に、政府(帝国)をつくることもできます。教会や官僚組織のような、大きな機構をつくることもできます。軍隊を組織することもできます。文化・芸術を花開かせることもできます」と述べます。
このように、正典があれば、総じて、文明の名に値する、さまざまなよいことを行なうことができるのです。ひと口で言うなら、正典の機能は「相手の予測可能性を高める」という点にあります。著者は、「正典は、古い書物で、人間が書いたのではないと考えられている。それを書き換えることができる人間も、いないと考えられている。ゆえに、正典は、変化しません。変化しない規準として、社会を『固定化』する作用があります」と述べています。
さらに著者は、「グローバル世界の課題」として、以下のように述べています。
「グローバル化する世界を前に、宗教を学ぶ意味はなにか。もう明らかでしょう。ビジネスも、外交・安全保障も、文化芸術も、世界の異なる文明に属する人びとがパートナーです。パートナーの考え方や行動様式を、理解し、予測する。国際社会でなにかしようと思うとき、まっ先にやるべきことではないでしょうか」
第4章「中国・儒教文明」では、「儒家の誕生」として、著者は孔子について、「孔子の業績は、大きく2つあります。第1に、古典を編纂したこと。当時、漢字で書かれた古い書物が多く伝わっていました。孔子はそれを収集し、整理し、編纂した。孔子が着手し何世代かかかってまとまったのが、儒教の経典です。第2に、教育のシステムを考え、学校を開いたこと。孔子の学校は、プラトンのアカデメイアより古く、世界最古だと言えます。漢字は、習得するのに、訓練が必要な文字です。孔子の学校システムは、中国で必須のものでした」と述べています。
儒教のテキストといえば、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書、それに五経があります。著者は以下のように述べています。
「儒教のテキストは、もっともランクの高いのが、経。そのつぎが、論。その注釈が注、疏です。易経、書経、詩経、礼記、春秋を五経といいます。孔子の言動を弟子がまとめた『論語』は、論でした。のちに孔子が、聖人とみなされるようになると、経にかぞえられるようになりました」
ここで「聖人」という言葉が登場しました。
「聖人君子」として、著者は、「儒教の主張を要約すると、『立派な政府をつくり、よい政治をしましょう』です。なかみから言えば、政治学としか思えない。にもかかわらず、儒教は宗教だと考えられます。第1に、皇帝が天を祀っている。天を祀る儀礼は、儒教の宗教儀礼です。第2に、人びとが祖先を祀っている。祖先を祀る儀礼は、儒教の宗教儀礼です。天も、祖先も、目の前にはいない。宗教的な対象なのです」と述べています。「聖人君子」とはすなわち、「経をはじめとする古典を学びましたから、私(君子)を政府職員として採用してください」なのです。これこそ儒教の本質であると、著者は強調します。
第5章「日本と四大文明と」では、著者は「はじめに」に続いてここでも「多様性を抱えているがゆえに、普遍性を強調する。これが、文明なのです」と強調しています。そして「カミと仏」として、「日本人は、宗教と文明をめぐって、何を考えてきたのでしょうか。日本人にとっての、重大問題。それは、仏と、カミと、天皇と、この関係をどう考えるかということでした。中国文明と接触してからの1500年あまり、日本の知識人たちはこのことを、考えてきたと言っていいのです」と述べます。
では、カミとは何か。著者は、国学者の本居宣長の整理によれば、カミには3種類あるとして、「第1は、古事記・日本書紀に出てくるカミ。第2は、神社に祀られているカミ。たとえば菅原道真は、天神さまとして祀られているが、古事記・日本書紀には出てこない。豊臣秀吉や徳川家康、明治天皇、靖国の英霊、乃木希典、東郷平八郎、なども神社に祀られているが、やはり古事記・日本書紀には出てこない。第3。これが、宣長の説明の、キモです。人間でも、動植物でも、海や山のような自然でもよいので、なにかが平均値を逸脱していて、こちらが感動して『あはれ』と思ってしまう場合を、カミというのである」と説明します。人間が規準だから、いいカミ、悪いカミが存在するわけですね。
本居宣長について、著者は、「宣長の特筆すべき業績は、古事記を科学的な方法で読解したことです。徂徠は、儒教の古典を、古代の外国語と考えよ、と教えた。宣長は、同じ視線を、日本の古典に向けます。古事記は、漢字で表記されているが、書かれているのは、無文字時代にさかのぼる口誦伝承である。音を写し取った万葉仮名の部分は、温故知新をウェングージーシンと読んだのと同じことになる。古代の言語が、漢字を通して、現前しているのだ。文例を集め、この古代の言語を復元しよう。連立方程式を解くような、精密で根気のいる作業である。そこから古事記の、正しい意味が浮かび上がって来る」と述べています。
このように、本書は世界の四大文明から日本の文化まで、じつにわかりやすく理解できる内容となっています。特に宗教についての説明が秀逸です。著者の師は評論家の小室直樹氏ですが、小室氏には『日本人のための宗教原論』という著書があります。わたしも何度となく読み返した大変な名著です。本書を読んで、わたしは「さすがに小室直樹の一番弟子が書いた本だ」と感心しました。また、正典や聖典に対する著者の見方は『儀式論』(弘文堂)の姉妹本として『聖典論』の執筆を構想しているわたしにとって非常に参考になりました。