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2020.09.03
台風9号が九州北部に接近した翌日の3日、福岡空港からANAで小松空港へ飛びます。
『妖怪文化入門』小松和彦著(角川ソフィア文庫)を再読しました。2006年、せりか書房から刊行された単行本を文庫化したものです。河童・鬼・天狗・山姥……妖怪はなぜ絵巻や物語に描かれ、どのように再生産され続けたのか。豊かな妖怪文化を築いてきた日本人の想像力と精神性を明らかにする、妖怪・怪異研究の第一人者初めての入門書です。
著者は1947年東京都生まれ。東京都立大学大学院社会人類学博士課程修了。信州大学助教授、大阪大学教授を経て、現在は国際日本文化センター所長です。わたしは、異色の民俗学者である著者の本はほとんど全部読んでいますが、一条真也の読書館『神隠しと日本人』、『呪いと日本人』、『異界と日本人』、『妖怪学新考』で紹介した本に続いて、本書を再読しました。
本書のカバー裏表紙には、内容紹介があります。
「憑きもの・河童・鬼・天狗・山姥・幽霊・異人――。太古の昔から、日本人は妖怪や迷信とともに生き、不安や恐れ、神秘感といった思いを共有して文化をかたちづくってきた。絵巻や物語に残された異形・異類・異界のものたちは、どのように描かれ、なぜ再生産され続けたのか。その歴史をたんねんにたどり、豊かな妖怪文化を築いてきた日本人の想像力と精神性を明らかにする。妖怪・怪異研究の第一人者によるはじめての入門書」
本書の「目次」は、以下のようになっています。
Ⅰ 妖怪文化への招待
妖怪文化とはなにか
時代と文化を超える「妖怪」
Ⅱ 妖怪文化研究の足跡
憑きもの
妖怪
河童
鬼
天狗と山姥
幽霊
異人・生贄
境界
「参考文献」
「所蔵先一覧」
「文庫版あとがき」
Ⅰ「妖怪文化への招待」の「妖怪文化とはなにか」では、「はじめに」として、著者は
「『妖怪』という言葉は、一般の人びとにとっても、研究者にとってさえも、意味があやふやである。それは、文字通りに理解すれば、神秘的な、奇妙な、不思議な、薄気味悪い、といった形容詞がつくような現象や存在、生き物を意味している。私の考えでは、これが『妖怪』のもっとも広い意味での定義である。しかしながら、こうした定義の妖怪に相当する事柄は、どのような社会にも存在しているのであって、特別なこととはいえない。このレベルでは、妖怪はどこの社会にも存在しているといえよう」と述べています。
続けて、著者は以下のように述べています。
「日本の妖怪が興味深いのは、こうした妖怪の中身を、独自な文化として発展させてきたことにある。そこで、妖怪概念を前述したようにできる限り広く設定しつつ、その中身をさしあたって、(1)出来事としての妖怪(現象-妖怪)、(2)超自然的存在としての妖怪(存在-妖怪)、(3)造形化された妖怪(造形-妖怪)、の3つの意味領域にわけて考えることで、妖怪という語がはらんでいる意味のあいまいさを、少しでも解消させることにしたい」
「出来事としての妖怪」として、第1の意味領域は、出来事もしくは現象としての妖怪(現象-妖怪)であると明かし、著者は「この意味領域の妖怪は、恐怖や不安、神秘感などから生み出されたものである。こうした怪異体験が人びとの想像力を刺激し、恐怖に根ざしたさまざまなメッセージを託された物語が語り出されることもあった。この種の怪異譚は、たとえば、平安時代中期の『源氏物語』にもエピソードふうに語られており、平安時代末に編纂された説話集『今昔物語集』をはじめとしてその後の各種の説話集にたくさん収録されている。留意したいのは、怪異現象を、土地の者が共通体験として語り伝えていく過程であって、特定の怪異に『小豆洗い』とか『天狗倒し』といった『名づけ』がおこなわれることがあった、ということなのである。私は、さまざまな怪異現象の名づけ=共有化ということのなかに、日本における豊かな妖怪文化が花開く基礎を見出している」と述べます。
「超自然的存在としての妖怪」として、第2の意味領域は、人間が制御できない超自然的存在としての妖怪(存在-妖怪)であることが明かし、著者は「日本のこうした神秘的存在を考える上での前提として忘れてはならないのが、あらゆる自然物には『霊魂』(カミ、タマ、レイ、モノノケなどという)が宿っているというアニミズム的観念である。この霊魂は人格化されているので、喜怒哀楽の感情を伴っている。別の言い方をすれば、人間に対してプラスの働きをすることもあれば、マイナスの働きをすることもあるわけである。怒りは人間に災いをもたらし、喜べば幸せをもたらす。そこで、人びとはこうした諸々の霊を和ませ鎮めるための祭祀をとりおこなった。つまり、祭祀とは、人間に好ましくない活動をする可能性のある霊や、すでに好ましくない活動をしている霊を制御するためにおこなわれたのである」と述べます。
また、著者は以下のようにも述べています。
「制御されていない状態の霊的存在は、古代では『鬼』(おに)と呼ばれることが多かった。鬼は人間にとって好ましくない属性がなんでも託された、いわば人間を裏返しにしたようなイメージで語られた。このほか、僧侶の修行を妨害する『魔』のものとして理解された『天狗』、神秘的な能力を持っていると考えているために、ときには妖怪視された(ときには尊崇・祭祀することもあった)『蛇』や『狐』などが、この時代の代表であった。古代の怪異現象の多くは、これらの限られた妖怪の仕業とみなされていたのであった」
「造形化された妖怪」として、第3の意味領域は、造形化、視覚化された妖怪(造形-妖怪)をめぐる意味領域であることが明かし、著者は「時代をさかのぼればさかのぼるほど、多くの怪異現象が認知され、その怪異現象を引き起こした原因としての存在-妖怪が想起されただろう。また、災厄を予防したり鎮めたりするための祭祀・儀礼もひんぱんにおこなわれたことだろう。それに対応するような、怪異(現象-妖怪)とその原因となった超自然的存在(存在-妖怪)をめぐる物語も数多く語られたことだろう。邪悪な妖怪を追い払う儀礼と邪悪な妖怪を退治する物語は密接に結びついて伝承されてきたのである。それらは、恐怖の喚起とその鎮静の機能を併せ持っているのである」と述べます。
続けて、著者は以下のように述べています。
「しかしながら、古代ではこうした存在-妖怪を造形化することはなかった。なぜかは定かでない。日本では、古来、神社に祀り上げて鎮まっている好ましい神々も、その神像を描く習慣が生まれなかったので、その影響で、邪悪な神々ともいいうる妖怪の造形も、それにならってなされなかったとも考えられる。あるいはまた、妖怪への信仰心や恐怖心が造形化を躊躇させていたといえる」
また、妖怪の図像・造形化は、日本の妖怪文化にとって、画期的な出来事であったとして、著者は「絵巻の作者やそれを享受する貴族たちは、夜の闇の奥に潜むあるいは異界からやってくる妖怪たちをなお恐れていたはずである。しかし、他方では、妖怪は娯楽の対象にもなり始めていたのである。造形化することそれ自体が、妖怪に対する人間の側の優位性を物語っていたのであろう」とも述べます。
「現代日本人の妖怪イメージ」として、著者は「それにしても、妖怪研究を標榜する学問が長らく停滞し、そのような用語を用いることさえ嫌われてきたにもかかわらず、いま、なぜ、日本で妖怪という語が世間を徘徊しているのだろうか。それは、漫画家の水木しげるや小説家の京極夏彦のように、妖怪研究の成果を利用し、『妖怪』という語を好んで用いて、大衆向けの漫画や小説を描く作家たちが登場してきたことによっている。彼らの仕事を通じて、妖怪はグローバルな現象ともいえる『ファンタジー』ブームと結びつけられ、一般の人びとの間に流通し、彼らの関心の高まりに応えるかたちで、妖怪展が開催されるようになったのであった」と述べます。
続けて、現代の日本人の中に形成された「妖怪」の意味は、学術用語としての「妖怪」概念ともずれていて、現代の日本人がイメージする「妖怪」は、水木しげるや京極夏彦たちが「妖怪」とみなすものが「妖怪」であるともいえるだろうとして、著者は「京極夏彦は、一般の人びとの間に流通している『妖怪』という語は、研究者が定義する意味とは異なり、『前近代的なもの』『民俗学的もしくは民間伝承的なもの』という意味合いを強く帯びている、と述べている。これも、現代の日本人の多くが思い描いている妖怪観を考えるときには見逃せない指摘である」と述べます。
「時代と文化を超える『妖怪』では、「『妖怪』の定義」として、本書の刊行に先立つこと20年近く前の1994年に著者が『妖怪学新考』を書いたことを明かし、「その本のなかでは、『妖しい』『怪しい』という2つの言葉を重ねているのだから、人間が遭遇したときに『不思議なもの』『不思議なこと』と思う事柄であって、それをとりあえず『妖怪存在』(京極夏彦風に言えばモノ)と『妖怪・怪異現象』(コト)に分け、その統合的な意味でのカテゴリーとして『妖怪』を定義した。さらに『妖怪』と『神』として把握される存在とを区別するために、『祭祀』の有無という条件をつけたらどうか、と提案した」と述べます。
また、「なぜ『妖怪・妖怪現象』が現れるのか」として、著者は、「妖怪」をあれこれ考察していくと、これまでとは違った角度から日本人の精神生活の「見えない世界」を「覗く」ことができるように思えたそうです。そして、「現代では日ごろから、日常生活のなかに生じるさまざまな現象を『霊的存在・力』に結びつけて説明してはいけない、そう考えることは非科学的なことだという、近代の科学・合理主義的な教育を受けてきた。ときには不思議に思うことでも、不思議に思わないように慣らされている。いわば「道具的知識」を身につけている。しかし、昔は相対的に『信仰的知識』で説明しようという傾向が強かったようである。日本の『妖怪』に関する文化も、こうした『信仰的知識』の一角を占める知識であり、それを温床としつつ、さらにその知識が『信仰的知識』という枠を越えた知識、もう少し積極的な言い方をすれば、人びとの想像力(創造力)を刺激して豊かな文化領域を、つまり『エンタテイメントとしての妖怪』を生み出した、と考えられる」と述べています。
そして、「文化の翻訳」として、著者は「日本のさまざまな妖怪種目、たとえば、『天狗』とか『河童』とか『山姥』『見越し入道』などといった個々の妖怪種目は、歴史的・文化的存在なので、容易に『文化』や『歴史』を超えることはできない。そのためには、極端な言い方をすれば、『文化の翻訳』をするしかない。それを当該の社会や時代の人びとがどう受容してくれるかにかかっている。『トトロ』や『ピカチュウ』は国境を越えた。やり方次第では『天狗』『見越し入道』も国境を越えることができるはずである」と述べるのでした。
Ⅱ「妖怪文化研究の足跡」の「憑きもの」では、「『妖しい獣』の噂」として、民俗学者が、調査地で、あるいは地方の民俗学者の報告によって、「憑きもの」信仰がまだ強固に伝承されていることを知って驚き、民俗学的研究の重要な素材になると考えて、その情報の収集をしようとしたのは十分に納得できることであるとしたうえで、著者は「とくに柳田國男の場合、こうした資料は古代からの憑霊信仰の零落形態を物語るものとして、あるいは民間神道の実態を伝える資料としてきわめて興味深いものだったはずである」と述べています。しかし、『憑きもの』は、そうした民間信仰史上の問題だけでなく、民俗学に深刻な課題を突きつけた」とも指摘しています。
続けて、著者は「というのは、この信仰には、憑霊現象をめぐるさまざまな怪異伝承や民間宗教者の関与といった側面ばかりでなく、ムラ人たちのあいだにみられる特定の家筋に対する婚姻差別や誹謗中傷などといった深刻な問題がみられたからであった。その結果、民俗学は、本来の研究態度からかなり逸脱したかたちで、こうした信仰に苦しめられている人びとを救うことが急務であるということを自覚し、それを克服するための研究に取り組むことになったのであった」と述べています。
「『憑きもの信仰』から『憑霊信仰』へ」として、著者は、「憑霊現象」は2つの類型に分けることができると指摘します。それは、憑かれている本人にとって好ましい霊(善霊)の憑依と好ましくない霊(悪霊)の憑依、の2類型だといいます。また、これとは異なるかたちで、2つに分類することもできるとして、著者はこう述べます。
「それは人間に制御された憑依と制御されない憑依の2類型である。私たちがシャーマンと呼ぶ宗教者は、自分の望むときに、自分の体や他人の体に、善霊や悪霊を憑けることができる。ところが、そうした能力がない者の憑依は、本人の意志とは関係なく、善霊や悪霊が憑くという現象が生起する。人びとが予想していない『憑霊現象』が発生するわけである。狭い意味での『憑きもの』信仰は、こうした二重分類の一角、つまり制御されない悪霊の憑霊現象、という部分を構成する信仰要素に属するわけである。『憑霊信仰』はそうした大きな視野のなかで考察されるべき信仰なのであろう」
また、「憑霊信仰」の構成要素として次に重要なことは、そうした現象を生起させる「霊的存在」や『霊的力』のレパートリー(種目)であるとして、著者は以下のように述べています。
「もし一種類しかなければ、もはや確定するまでもなく、その霊が憑いたと判断するであろう。もっとも、ほとんどの地域では、発生頻度に違いがあるが複数の種類の神霊を用意しており、また、たとえ『生霊』しか憑かない場合にせよ、その『生霊』は誰それの生霊という具合に個別化されていることが多い。こうした『憑く神霊』の種目の検討から、当該社会がなにに深い関心を寄せているのか、どのような信仰史的足跡、たとえばどのような影響を外部から受けてきたのか、あるいは時代的特徴はなにかなどを推測することができるはずである。信仰的な意味での共同幻想のかなめとなるのは、こうした神霊たちなのである」
「狐の『託宣』」として、「憑霊信仰」を考えるときのもっとも重要な要素のひとつが「託宣」であると指摘し、著者は「この『託宣』によってどのような霊が憑いているのかがわかり、またその託宣内容によってどうして憑いたのかが判明するからである。『託宣』はまた『神託』ともいうように、『神のお告げ』である。神が自分の意志を人に告げることが、あるいは人が神に自分たちの問いの答えを求めたその答えが、『託宣』である。前者の場合は、『憑霊』(制御されない)による託宣と『夢』による託宣が圧倒的に多かった。これに対して後者では、『憑霊』(制御された)による託宣と道具を用いての『占い』が多かったといえるであろう」と述べています。
さらに、「宗教者の役割」として、彼らは人びとが共有するコスモロジー=共同幻想に通暁し、また個々人の歴史や社会状況も十分に調査し理解している者であり、依頼者(病人)と共感共苦することができる者でもあると指摘し、著者は「そうした知識・能力に優れた宗教者が、『託宣』とか『占い』とかいった装置を駆使しながら、個々の事例に即した『憑霊現象』をめぐるそれなりに説得力ある『物語』を創り出すのである。そして、それが当人や周囲に受け入れられたとき、それは当事者たちにとっては『本当の物語』(=歴史)となる。このとき、『なにか』が修復されることになる、いま風にいえば癒されたわけである。いってみれば、彼らはムラの医者であり、心理学者であり、歴史家であり、未来学者であり、物語作者であり、その他もろもろの属性を兼ね備えた『学者』であったのである。その延長上に、現在の学者もいるわけである」と述べます。
そして、「憑きもの」の最後に、著者は「現代人の多くは、いまもなお『憑霊現象』を『怪異』とみなすであろう。しかし、その『怪異』の向こう側には、差別を認めるだけではなく、さらにその向こうに、日本人の歴史が横たわっていることを発見するだろう。その歴史を掘り起し再構築することで、現代をいかに照射するか。それが、これからの『憑霊信仰』の課題である」と述べるのでした。
「妖怪」では、「妖怪研究の黎明期」として、著者は井上円了を取り上げ、「妖怪学を打ち立てた井上円了であったが、思うに、彼はきっと撲滅すべき対象であった妖怪を愛していたに違いない。合理主義者であることと妖怪愛好家であることは、少しも矛盾することではないからである。そう思われるほど、彼は妖怪を探し続けた。彼の妖怪学関係の著作は、これまでにも何度か再版されているが、現在では『井上円了・妖怪学全集』(柏書房)によって読むことができる。井上円了の精力的な活動によって、『妖怪』という語が世間にも次第に流通するようになり、『妖怪』は具体的には井上が取り上げた現象や存在を指すようになっていったらしい。つまり学術用語としての『妖怪』は井上円了によって用いられだしたのである」と述べます。
また、「柳田國男の妖怪観」では、柳田国男の目には、井上円了の行動が妖怪退治をする豪傑の姿とオーバーラップしていたのかもしれないと推測し、著者は「妖怪がもはや退治されるのは明らかであった。いやもう退治されてしまったのである。しかし、その妖怪の屍を前にして、柳田は、いったい昔の人は彼らをいかなる目的で必要としていたのだろうか、と問いかけたのであった」と述べます。さらに「妖怪研究の新展開」として、「民俗学的妖怪研究の不毛な時代に、私は人類学・民俗学の立場から妖怪研究に取り組みだした。私の妖怪研究は従来の民俗学的妖怪研究の枠を大幅に変更する視点からのもので、妖怪を俗信とみない、妖怪を神信仰の零落とみない、したがって妖怪を前代の神信仰の復元のための素材としない、妖怪資料を民間伝承に限定しない、妖怪伝承を前近代の遺物とか撲滅すべき対象とみない等々の視点に立って考察することを心がけた」と述べています。
続けて、著者は「その考えや研究成果は『憑霊信仰論』や『異人論』『妖怪学新考』あるいはまた荒俣宏との対談『妖怪草紙』などで披露したが、ようするに、私の妖怪研究の基本的立場は、妖怪研究は人間研究である、というものである。そのあたりのことを比較的よく表現できているのではないかと思われるのが、『妖怪と現代文化』(『妖怪学新考』)である」と述べています。そして、「妖怪研究は、人間研究である。それはまだ胎児の状態にすぎないが、今後は、関連諸分野とも連携しつつ、人間の『心』の救済に深くかかわる学問となっていくはずである。妖怪研究は、これからもっと深められるべき研究領野なのである」と喝破するのでした。
「河童」では、著者は「河童伝承の分類」として、日本列島には、地域によって呼称の異なる「水辺に出没する怪しい生き物」が並存しており、カッパもその1つであったと指摘しつつも、「その中から関東地方を中心に流布していた呼称が選び出されて、それらの総称になったのだ。つまり、カッパとは異なる呼称をもつ『水辺に出没する怪しい生き物』にも、カッパの仲間、カッパの同種異名だと判断されて『河童』というラベルが貼られたのであった。その結果、地域的な呼称の上位の用語としての『河童』が誕生したというわけである」と述べています。
「『河童』の民俗的研究」として、上古の人々は水の被害を水神によってもたらされたものであり、これを防ぐには水神を祭祀することだと考え、毎年、馬を水の神に捧げるという祭祀を行っていたとしながらも、「1人の英雄によってその水神が退治されるという伝説が物語るように、文化の発展(外来文化の受容)によって、そうした動物供犠の祭祀は廃されることになった。だが、そうした『従前の信仰』の記憶の痕跡が残った。それが『魑魅魍魎の分際に退却した水神』としての『河童』をめぐるさまざまな伝承であった。そして、そのもっとも典型的な伝承が『河童の駒引き』である、と。つまり、『河童の駒引』はかつての『水神への馬の供犠祭祀』の痕跡・残映とみたわけである」と述べます。
著者は、「河童」という「水辺に出没する怪しい生き物」を幻想する手助けをした実在の動物や人間について考察し、「『河童』伝承の形成に貢献した動物的要素はカワウソ、カメ類とくにスッポンで、九州地方などでは猿も貢献している。人的要素としては、水辺に頻繁に現れる山人、たとえば山窩、被差別民=非人や河原者、キリシタン、などが検討されている」と述べています。
「鬼」では、「鬼の使われ方」として、著者は述べます。現代では、鬼が活躍する場所は、主として物語の世界であると指摘し、著者は「鬼の登場する儀礼・芸能も、節分などに限られている。現実の世界に存在する人間や事物に対して用いられることもあるが、鬼の概念を参照にして、比喩的に用いられる場合がほとんどである。たとえば、現実世界では「子殺し」をする親や、人間とは思われぬ残酷な殺人等の犯罪を犯した人間に対して、「殺人鬼」という語が付与される」と述べます。
続けて、著者は以下のように述べています。
「こうした用法は、鬼という概念が日本人の想像した『反社会的存在、逆立ちした人間』のイメージとして造形したものであるということを知ったうえで、犯罪の内容が人間(道徳的人間)にあるまじきことと判断されたとき、人びとがその犯罪の凄まじさ、犯罪を犯した者に対する厳しい批判の意味を込めて、『鬼』というラベルを犯罪者の上に貼り付けたのである。鬼の代わりに『悪魔』であっても『極悪人』であっても、微妙なニュアンスの違いがあるにせよ、話者の伝えたい意味にそれほど違いがあるわけではない」
「天狗と山姥」では、「『天狗』の民俗学的研究」として、説明装置としての「天狗」は「神隠し」現象にも見いだされると指摘し、著者は「子どもが行方不明になったとき、人びとは『天狗』にさらわれたのではないか、と考えるわけである。私がかつて『神隠し』(後に『神隠しと日本人』と改題)でかなり詳しく論じたように、もちろん、神隠しの原因とされるのは『天狗』だけであったわけではない。しかし、天狗による人さらいの伝承はすでに鎌倉時代からの長い伝統があり、民俗社会の『神隠し』伝承も、そうした伝承の影響を強く受けているようである」と述べます。
また、「『山姥』研究の足跡」として、著者は「『山姥』はまた、天狗と同様、民俗社会でも伝承されている妖怪である。民俗社会の『山蜷』は『山女郎』とか『山母』『山姫』などともいわれ、その夫は『鬼』もしくは『山男』『山爺』などと語られている。地方によって多少は異なるものの、山姥は、背が高く、長い髪をもち、眼光鋭く、口は耳まで裂けている、というほぼ共通した特徴をもっている。こうした特徴は、山姥が鬼女系の妖怪であることを物語っているが、また、昔話のなかの山姥は大蛇の妖怪が化けたもの、あるいは蜘蛛の妖怪が化けたものとして描かれることもある。民俗社会の山姥も、室町時代の山姥と性格は変わらず、人を取って食べるといった恐ろしい属性をもつとともに、人間が幸せや富を得るための援助者として働く好ましい属性を合わせ持った両義的存在である。その意味では、山姥の基本的性格は室町時代からあまり変わっていないようである」と述べます。
さらに、「山姥のイメージ」として、日本の妖怪の代表ともいえる「天狗」と「山姥」は、山の怪異の説明装置として伝承されてきたものであると指摘し、著者は「きわめて単純化していえば、『天狗』は『父』もしくは『男社会』のシンボルであり、他方の『山姥』は『母』もしくは『女社会』のシンボルであった。これまで述べてきたように、そして性格は異なるが、両義的性格を帯びているところに本質があった。この研究はまだ少なく、未開拓の領域が多いといっていいだろう」と述べるのでした。
「幽霊」では、「幽霊であることの基本条件」として、「どうして『幽霊』は出てくるのだろうか」と問いかけ、著者は「死者の霊は死後、『あの世』に旅立って行くと考えられてきた。いや、むしろ死者の霊は家族や親族、友人などと別れがたいがために、「この世」に留まろうとする。当人が死にたくないと思っているからである。しかし、死者の霊が『この世』に留まったならばさまざまな社会的混乱が生じるので、『あの世』に送り出す。ふつうの死者の霊魂は、こうした「あの世」への送り出し装置=葬送儀礼にしたがって、『この世』に未練があっても、それを断ち切られ、ついに『死』を受け入れて『あの世』に旅立っていく。したがって、多くの死者の霊は『幽霊』になることはない。ふつうはこれによって死者と生者のつながりが切断される。それ以後は、これまた形式化・儀礼化されたやり方によるつきあいに変わるのである」と述べています。
また、完全な死者にもなれず、また完全な生者にも戻れないでさまよう霊魂が「幽霊」の原質部分なのであると重要な指摘を行ない、著者は「そのような様態の霊魂はまことに不幸な霊魂である。こうした事態が生じないために、生者の側は、死者の魂が『あの世』に赴くようにするための、さまざまな仕掛け、たとえば、死後は仏たちが住む極楽浄土に行くことができるのだという思想や、死者の世界へ赴くことを嫌がって自分の住んでいた家やムラに戻りたがる死者の霊が戻ってこれないようにする儀礼などを用意したのであった。それにもかかわらず、一部の死者の霊は『幽霊』となって出現する。それは何故なのだろう。大別して、2つの理由が考えられる。1つは死んだにもかかわらず、なんらかの事情でしかるべき葬送儀礼を受けることができなかったからである。それでは『あの世』に行くことができない。こうした『幽霊』は『あの世』に送るための儀礼をおこなえば去って行くはずである。しかるべき供養を求めるためだけに出現する幽霊の話は多い。いま1つの理由は、『この世』への深い執着の思いが、葬送(縁切り)の儀礼を受けてもなお『あの世』への往生を拒絶する場合である」と述べます。
「幽霊」についてのさまざまな論考の中でも、国文学者の安永寿延の「幽霊 出現の意味と構造」は屈指のものです。わたしも、拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の「幽霊論」の中で引用したほどですが、著者はこの安永の論考について、「安永が説いているのは、『幽霊』は自分の意志で出現してくるかのように語られるが、じつはその逆であって、生者の側の心が『幽霊』を生み出し、招き寄せ、そしてそれに恐怖し、それを祀り上げることで、その心を鎮めることができるのだ、ということである。すなわち、死者への生者の『思い』が『幽霊』文化を存続させてきたのである。そしてそこに描き出されるのは、人間世界なのである」と述べています。
「異人・生贄」では、「『異人』とはなにか」として、「異人」を一言で言えば「境界」の「向こう側の世界」(異界)に属するとみなされた人のことであると定義し、著者は「その異人が「こちら側の世界」に現れたとき、「こちら側」の人々にとって具体的な問題となります。つまり「異人」とは、相対的概念であり、関係概念なのであるとして、折口信夫の説いた「マレビト」に言及し、以下のように述べています。
「折口の『マレビト』概念は彼自身が厳密な定義をおこなっていないこともあって難解であるが、その概念は二重構造になっていると思われる。一次的マレビトは来訪神のことであり、二次的マレビトが共同体の外部から訪れる祝福芸能者のたぐいとして想定されている。共同体の人びとはこれら祝福芸能者を『神』そのものもしくはその代理人とみなすことによって歓迎し、その祝福を受けることで共同体の繁栄が期待されたのであった。すなわち、共同体の来訪神信仰との関係のなかで『異人』を理解すべきであるということを示唆したわけである」と述べます。
また、「異人・生贄・村落共同体」として、「異人」をめぐるテーマを検討していくと、その一角に「生贄」のテーマが現れ、逆に「生贄」のテーマをめぐって考察を進めていくと、その一角に「異人」のテーマが現れてくると指摘し、この2つのテーマを媒介しているテーマが、「人身供儀」(人身御供)もしくは「異人殺害」という説話的・儀礼的モチーフであると指摘して、著者は「別の表現をすれば、『異人』が『村落共同体』を訪れたとき、その共同体は異人を迎え入れてその村落祭祀のための『生贄』に利用したり難工事の橋や築堤を成功させるための『人柱』に利用することがあったのだろうか、あるいはまた共同体の特定の家を『幸せ』にする目的のために殺害されることがあったのだろうか、といった問題群が浮かび上がってくるのである。このテーマは、じつは『異人』の側にとっては『共同体』も両義的なものであることを明らかにするはずである」と述べます。
「『異人』概念の変化」として、著者は「『異人』に着目することによって、『共同体』や『家』の成り立ちやその性格を理解することが容易となるのである」と述べます。なぜなら、「社会集団」は「異人」あるいは「異界」との関係のなかで成立するからです。「生贄・人柱」や「異人殺し」の伝承は、そのことを如実に物語る伝承なのでしょう。そして、その成果は現代社会をも照射する手がかりを与えるはずであり、「さらなる異人研究が求められている」と、著者は訴えます。
「境界」では、「『境界』としての『空間・場所』、『境界』としての『時』」として、生と死の境界は、時間的境界、社会的境界、物質的境界、そして空間的境界の4つの位相を持っていると指摘し、著者は「すべての人間にとって、自分の誕生と自分の死は、生命体としての時間の始まり(誕生)と終わり(死)、つまり時間的境界である。また、誕生の時は非社会的存在(霊的存在)から社会的存在へ、死の時は社会的存在から非社会的存在への移行の境界でもあり、物体から霊的存在への移行の境界でもある。しかも、時間的、社会的かつ物体的境界を越えようとする時には、必然的に空間的境界を越えなければならないのである」と述べています。
「境界の『時』」として、「境界」の「場所」に対して、「境界」の「時」を想定することができると指摘し、著者は「そのもっとも重要な『時』は『生』から『死』への境界である。そのような『境界』の『時』の典型的な象徴的表現が、『葬送儀礼』であり『賽の河原』であり、それを表象するために、空間のなかに『葬送の場所』や『賽の河原』が設定されたりした。したがって、空間的な『境界』の多くが、『生』と『死』の境界、あるいは『この世』と『あの世』の境界のイメージをも託されていたのである。民俗学では、こうした葬送儀礼や『あの世』観に関する膨大な調査研究成果を蓄積しており、それらのほとんどが境界論として読み替えることができるものである」と述べています。
また、著者は以下のようにも述べています。
「『人の一生』という尺度で把握された時間の境界とは別に、『自然のリズム』にしたがって創られた『境界』もある。その1つは、1年のサイクルの『境界』、すなわち1年の始まりと終わりの『境界』である。いま1つは1日のリズムに基づく『昼』と『夜』の『境界』である。前者については、いわゆる年の暮れから新年をめぐる一連の儀礼を『正月儀礼』と総称して従来から研究されてきたもののなかで議論されており、葬送儀礼研究を境界研究と置き換えることができるように、この正月儀礼研究もまた、境界研究と言い直すことができるはずである」
そして、「怪異と時間の境界性」として、総じて民俗学的境界研究は「生」(この世)と「死」(あの世)との境界研究に終始してきた感があるとし、その理由について、著者は「それが根源的な境界であったからである。念を押すようだが、『境界』は『怪異』の母胎であるがそれに尽きるものではなく、怪異をも含む本源的な意味合いを託された領域であるということを強調しておかねばならない」と述べるのでした。
本書は、一条真也の読書館『妖怪学新考』で紹介した本の内容を補完するものであり、『妖怪学新考』とともに妖怪学の基本テキストであると言えるでしょう。特に、本書のⅡ「妖怪文化研究の足跡」は、2000年から2001年にかけて著者が編集責任者として刊行した論集『怪異の民俗学』(全8巻、河出書房新社)の解説を集めたものです。この論集シリーズはわたしも持っていますが、世間での妖怪ブームに刺激され妖怪研究に関心をもつ人々が増えてきたことをふまえ、入手しにくい貴重な文献を集成したものです。この『怪異の民俗学』シリーズによって、それまでの妖怪文化関係の研究状況を俯瞰することができるようになったという点で、まことに画期的でした。わたしも『唯葬論』を執筆したときに参考文献として大いに重宝しました。