No.1989 論語・儒教 『論語と算盤』 渋沢栄一著(大和出版)

2021.01.10

 『論語と算盤』渋沢栄一著(大和出版)を再読。
 当ブログの記事で、ひそかに人気があるのが論語関連本の書評記事です。わたしが読んできた『論語』や儒教に関する本は、ブログで取り上げた後、書評サイトである「一条真也の読書館」の「論語・儒教」のコーナーに保存しています。その内容は、いずれ『論語論』という本にまとめたいと思っているのですが、そこに本書『論語と算盤』が入っていなかったので、久々に読み返した次第です。NHK大河ドラマの次回作は「青天を衝け」(2021年2月14日開始予定)ですが、主人公は本書の著者である渋沢栄一です。新1万円札の顔としても注目される人物で、約500の企業を育て、約600の社会公共事業に関わった「日本資本主義の父」として知られています。晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に2度選ばれています。その彼が生涯、座右の書として愛読したのが『論語』でした。

 本書のカバー表紙には渋沢栄一翁の顔写真が使われ、「近代日本の『実業界・銀行の父』の発言から、ビジネス・経営の‟原点”を学び、今、‟日本と日本人”を再考するための指針」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
解説「今、この本をどう読み、何を学ぶか」草柳大蔵
処世と信条
立志と学問
常識と習慣
仁義と富貴
理想と迷信
人格と修養
算盤と権利
実業と士道
教育と情誼
成敗と運命

 解説「今、この本をどう読み、何を学ぶか」の1「物差しのない時代」では、評論家の草柳大蔵氏が「本書の主人公である渋沢栄一という人は、乗り超えるべきパラダイム(封建的身分制)に挑戦し、一挙にパラダイム無き時代(明治維新)に身を起した人である。渋沢は、その行動基準を挙げて『論語』に求めており、本書の中では『孔子教・論語主義』というおもしろい表現をしている。しかし、昔から『論語読みの論語知らず』という言葉があるとおり、論語にせよその他の原理にせよ、自分が依拠したものにがんじがらめになってしまう人物がいる。『活学』という言葉があるが、渋沢はまさに論語の真髄をとらえて、これを実人生に活かして使った典型であり、今日流にいえば『歩く論語』であり『行動する論語』であったといえるであろう」と述べています。

 また、草柳氏は「渋沢は実業界に身を投ずるにあたって、「論語を以て商業上のバイブル」とした。国家の実力を涵養する『富』をつくるにあたって『罪悪の伴わぬ神聖なる富』を目標としたからである。そのためには『一つの守るべき主義を持たなければならぬ』と考えると述べ、本書の「それは即ち私が常にいっているところの仁義道徳である。仁義道徳と生産利殖とは決して矛盾しない。だからその根本の理を明かにして、かくすればこの位置を失わぬということを、我れ人共に十分に考究して、安んじてその道を行うことが出来たならば、敢て相率いて腐敗堕落に陥るということなく、国家的にも個人的にも、正しく富を増進することが出来ると信じる」という渋沢の言葉を紹介します。

 2「『自己定位』の出来た人」として、草柳氏は「彼は天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島(現在、埼玉県深谷市血洗島)に生まれている。昭和6年11月11日没、91歳と9か月という長寿であった。生家は、農業・養蚕・藍玉商を兼ねて裕福であったが、父の市郎右衛門の代には荒物商や金融業まで営み、地方の資産家として頭角をあらわしていた。しかし、家庭の躾はきびしく、栄一は6歳のときに三字経の手ほどきを父から受け、1年あまりのうちに孝経、小学、大学、中庸と進み、ついには論語にまで及んだ。7歳のときから隣村の尾高藍香につき、四書・五経をはじめ左伝、史記、漢書、国史略、それに日本外史を学ぶ。当然、読書力が身について、11、2歳のころには『通俗三国志』『里見八犬伝』を読破するに及んでいる」と紹介します。最後の『里見八犬伝』は「仁義礼智忠信孝悌」の儒教の八大徳目がテーマとなっていることは有名です。

 そして、渋沢栄一について、草柳氏は「討幕・出仕・洋行・新政府官吏と、まるで異なる立場に立ちながら、彼はその場その場で全力を尽して事に当っている。けっして、自分を見失っていない。権力の部品にもならなければ、状況に埋没してもいない。いわば、彼自身の『自己定位』が出来ているのである。その秘密を、読者はおそらく本書の中に読みとられるであろう。論語にかぎらず、漢籍からの引用も自由自在なら、『円いものほど転びやすい』など俗諺にも通じている。その魅力を探るのも読書の楽しみではあるまいか」と述べるのでした。

 以下に、わたしの心に響いた本書の言葉を紹介していきたいと思います。「処世と信条」の「論語と算盤とは、はなはだ遠くしてはなはだ近いもの」では、著者は「今の道徳によって最も重なるものともいうべきものは、孔子のことについて門人達の書いた論語という書物がある。これは誰でもたいてい読むということは知っているが、この論語というものと、算盤というものがある。これは、はなはだ不釣り合いで、大変に懸隔したものであるけれども、私は不断にこの算盤は論語によって出来ている、論語はまた算盤によって本当の富が活動されるものである、故に論語と算盤は、はなはだ遠くしてはなはだ近いものであると始終論じておるのである」と述べています。

 また、「士魂商才」では、「士魂商才というのも同様の意義で、人間の世の中に立つには武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし武士的精神のみに偏して商才というものが無ければ、経済の上から自滅を招くようになる。故に士魂にして商才が無ければならぬ。その士魂を養うには、書物という上からはたくさんあるけれども、やはり論語は最も士魂養成の根底となるものと思う。それならば商才はどうかというに、商才も論語において充分養えるというのである。道徳上の書物と商才とは何の関係が無いようであるけれども、その商才というものも、もともと道徳を以て根底としたものであって、道徳と離れた不道徳、詐瞞、浮華、軽佻の商才は、いわゆる小才子小利口であって、決して真の商才ではない。故に商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書たる論語によって養える訳である。また人の世に処するの道はなかなか至難のものであるけれども、論語を熟読玩味してゆけば大いに覚るところがあるのである。故に私は平生、孔子の教えを尊信すると同時に、論語を処世の金科玉条として、常に座右から離したことは無い」と述べています。

 さらに著者は、「我が邦でも賢人豪傑はたくさんいる。その中でも最も戦争が上手であり、処世の道が巧みであったのは徳川家康公である。処世の道が巧みなればこそ、多くの英雄豪傑を威服して15代の覇業を開くを得たので、200余年間人々が安眠高枕することの出来たのは実に偉とすべきである。それ故、処世の巧みな家康公であるから、種々の訓言を遺されている。彼の『神君遺訓』なども、我々処世の道を実によく説かれている。しかしてその『神君遺訓』を私が論語と照し合せて見たのに、実に符節を合するが如くであって、やはり大部分は論語から出たものだということが分った」と述べます。

 そして、著者は「不幸にして孔子は日本のような万世一系の国体を見もせず知りもしなかったからであるが、もし日本に生れまたは日本に来て万世一系の我が国体を見聞したならば、どのくらい讃歎したか知れない。韶を聞いて美を尽し善を尽せりと誉めたどころでは無い。それ以上の賞讃尊敬の意を表したに違いない。世人が孔子の学を論ずるには、よく孔子の精神を探り、いわゆる眼光紙背に徹する、底の大活眼を以てこれを観なければ、皮相に流れる虞れがある。故に私は人の世に処せんとして道を誤まらざらんとするには、先ず論語を熟読せよというのである。現今世の進歩に従って欧米各国から新しい学説が入って来るが、その新しいというは我々から見ればやはり古いもので、すでに東洋で数千年前にいっておることと同一のものを、ただ言葉のいい回しをうまくしておるに過ぎぬと思われるものが多い。欧米諸国の日進月歩の新しいものを研究するのも必要であるが、東洋古来の古いものの中にも棄て難いもののあることを忘れてはならぬ」と述べるのでした。

 「得意時代と失意時代」では、著者は「およそ人の禍は多くは得意時代にきざすもので、得意の時は誰しも調子に乗るという傾向があるから、禍害はこの欠陥に喰い入るのである」として、「誰でも目前に大事を控えた場合には、これをいかにして処置すべきかと、精神を注いで周密に思案するけれども、小事に対するとこれに反し、頭から馬鹿にして不注意のうちにこれをやり過してしまうのが世間の常態である。ただし箸の上げ下しにも心を労する程小事に拘泥するは、限りある精神を徒労するというもので、何もそれ程心を用うる必要の無いこともある。また大事だからとて、さまで心配せずとも済まされることもある。故に事の大小というたとて、表面から観察してただちに決する訳にはゆかぬ。小事かえって大事となり、大事案外小事となる場合もあるから、大小に拘わらず、その性質をよく考慮して、しかる後に相当の処置に出るように心がくるのがよいのである」と述べています。

 また、「小事から大事を醸す」として、著者は「小事の方になると、悪くすると熟慮せずに決定してしまうことがある。それがはなはだよろしくない。小事というくらいであるから、目前に現われたところだけではきわめて些細なことに見えるので、誰もこれを馬鹿にして念を入れることを忘れるものであるが、この馬鹿にしてかかる小事も、積んでは大事となることを忘れてはならぬ。また小事にもその場限りで済むものもあるが、時としては小事が大事の端緒となり、一些事と思ったことが後日大問題を惹起するに至ることがある。あるいは些細なことから次第に悪事に進みて、遂には悪人となるようなこともある。それと反対に小事から進んで次第に善に向いつつ行くこともある。始めは些細な事業であると思ったことが、一歩一歩に進んで大弊害を醸すに至ることもあれば、これが為、一身一家の幸福となるに至ることもある。これ等はすべて小が積んで大となるのである」と述べます。

 これに添えて一言して置きたいことは、人の調子に乗るはよくないということであるとして、著者は「『名を成すは常に窮苦の日にあり、事を取るは多く得意の時に因す』と古人もいっておるが、この言葉は真理である。困難に処する時はちょうど大事に当ったと同一の覚悟を以てこれに臨むから、名を成すはそういう場合に多い。世に成功者と目せらるる人には、必ず『あの困難をよくやり遂げた』、『あの苦痛をよくやり抜いた』というようなことがある。これ即ち心を締めてかかったという証拠である。しかるに失敗は多く得意の日にその兆をなしておる。人は得意時代に処してはあたかも彼の小事の前に臨んだ時の如く、天下何事かならざらんやの概を以て、いかなることをも頭から呑んでかかるので、ややもすれば目算が外れてとんでもなき失敗に落ちてしまう。それは小事から大事を醸すと同一義である。だから人は得意時代にも調子に乗るということ無く、大事小事に対して同一の思慮分別を以てこれに臨むがよい。水戸黄門光圀公の壁書中に『小なる事は分別せよ、大なることに驚くべからず』とあるのは、真に知言というべきである」と述べるのでした。

 「立志と学問」の「秀吉の長所と短所」では、著者は「乱世の豪傑が礼に嫺わず、とかく家道の斉わぬ例は、単に明治維新の際における今日のいわゆる元老ばかりでは無い。いずれの時代においても乱世には皆そうしたものである。私なども家道が斉ってると口はばったく申し上げて誇り得ぬ一人であるが、かの稀世の英雄豊太閤などが、やはり礼に嫺わず、家道の斉わなかった随一人である。もとより賞むべきではないが、乱世に生い立ったものには、どうもこんなことも致し方のない次第で、あまり酷には責むべきでも無かろうと思う。しかし豊太閤にもし最も大きな短所があったとすれば、それは家道の斉わなかったことと、機略があっても、経略が無かったことである。もしそれ豊太閤の長所はといえば、申すまでもなく、その勉強、その勇気、その機智、その気概である」と述べています。

 「社会と学問との関係」では、著者は「元来人情の通弊として、とかくに功を急ぎ大局を忘れて、勢い事物に拘泥し、僅かな成功に満足するかと思えば、さほどでもない失敗に落胆する者が多い。学校卒業生が社会の実務を軽視し、実際上の問題を誤解するのも、多くはこの為である。是非ともこの誤れる考えは改めねばならぬが、その参考として学問と社会との関係を考察すべき例を挙げると、あたかも地図を見る時と実地を歩行する時との如きものである。地図を開いて眼を注げば、世界もただ一目の下にある。一国一郷は指呼の間にある如くに見える。参謀本部の製図は随分詳密なもので、小川小邱から土地の高低傾斜までも明らかに分るように出来ておるが、それでも実際と比較してみると、予想外のことが多い」と述べています。

 続けて、著者は「それを深く考慮せず、十分に熟知したつもりでいよいよ実地に踏み出して見ると、茫漠として大いに迷う。山は高く谷は深し、森林は連らなり、川は広く流るるという間に、道を尋ねて進むと、高岳に出会い、何程登っても頂上に達し得ぬ。あるいは大河に遮られて途方に暮れることもあろうし、道路が迂回して容易に進まれぬこともある。あるいは深い谷に入っていつ出ることが出来るかと思うこともある。至るところに困難なる場所を発見する。もし、この際十分の信念がなく、大局を観る目の明がないなら、失望落胆して勇気は出でず、自暴自棄に陥って、野山の差別なく狂い回る如きこととなって、ついには不幸なる終りをみるであろう」とも述べるのでした。地図:実地=学問:社会、といったところでしょうか。

 「常識と習慣」の「動機と結果」では、「私は志の曲がった軽薄才子は嫌いである」として、著者は「いかに所作が巧みでも、誠意のない人はともに伍するを懌ばないが、しかし神ならぬ身には人の志まで見抜くということは容易ではないから、自然志の良否はとにかく、所作の巧みな人間に利用されぬとも限らぬのである。かの陽明説の如きは、知行合一とか良知良能とかいって、志に思うことがそれ自身行為に現われるのであるから、志が善ならば行為も善、行為が悪ならば志も悪でなければならぬが、私ども素人考えでは、志が善でも所作が悪になることもあり、また所作が善でも志が悪なることもあるように思われる。私は西洋の倫理学や哲学というようなことは少しも知らぬ。ただ四書や宋儒の学説によって、多少性論や処世の道を研究しただけであるが、私の如上の意見に対して、期せずしてパウルゼンの倫理説と合一するというものがある。その人のいうには、英国のミュアヘッドという倫理学者は、動機さえ善ならば、結果は悪でもいいという、いわゆる動機説で、その例として、クロムウエルが英国の危機を救わんが為に、暗愚の君を弑し、自ら皇帝の位に上ったのは、倫理学上悪でないといっているが、今日最も真理として歓迎せらるるパウルゼンの説では、動機と結果、即ち志と所作の分量性質を仔細に較量してみなければならぬという」と述べています。

 「仁義と富貴」の「孔夫子の貨殖富貴観」では、著者は「従来儒者が孔子の説を誤解していた中にも、その最もはなはだしいのは富貴の観念、貨殖の思想であろう。彼等が論語から得た解釈によれば、『仁義王道』と『貨殖富貴』との二者は氷炭相容れざるものとなっている。しからば孔子は『富貴の者に仁義王道の心あるものはないから、仁者となろうと心がけるならば富貴の念を捨てよ』という意味に説かれたかというに、論語二十篇を隈なく捜索してもそんな意味のものは一つも発見することは出来ない。否、むしろ孔子は貨殖の道に向って説をなしておられる。しかしながらその説き方が例の半面観的であるものだから、儒者がこれに向って全局を解することが出来ず、ついに誤りを世に伝えるようになってしまったのである」と述べています。

 また、「義理合一の信念を確立せよ」では、「余が平素の持論としてしばしばいうところのことであるが、従来利用厚生と仁義道徳の結合がはなはだ不十分であった為に、『仁をなせば則ち富まず、富めば則ち仁ならず』利につけば仁に遠ざかり、義によれば利を失うというように、仁と富とを全く別物に解釈してしまったのは、はなはだ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は、利用厚生に身を投じたものは、仁義道徳を顧みる責任はないというようなところに立ち至らしめた。余はこの点について多年痛歎措く能わざるものであったが、要するにこれ後世の学者のなせる罪で、すでにしばしば述べたる如く、孔孟の訓が『義理合一』であることは、四書を一読する者のただたに発見するところである」と書かれています。

 「理想と迷信」の「かくの如き矛盾を根絶すべし」では、著者は「強い者の申し分はいつもよくなるということは、一つの諺として仏国に伝わっているけれども、だんだん文明が進めば、人々道理を重んずる心も、平和を愛する情も増して来る。相争うところの惨虐を嫌う念も、文明が進めば進む程強くなる。換言すれば、戦争の価値は世が進むほど不廉となる。いずれの国でも自らそこに顧みるところがあって、極端なる争乱は自然に減ずるであろう。また必ず減ずべきものと思う。明治37、8年頃、露西亜のグルームとかいう人が『戦争と経済』という書を著作して、戦争は世の進むほど惨虐が強くなる、費用が多くなるから、ついには無くなるであろう、という説を公にしたことがある。かつて露西亜皇帝が平和会議を主張されたのも、これらの人の説によったものであると、誰やらの説に見たことがある」と述べています。この「文明が進めば、戦争はなくなる」という考え方には異論もあるでしょうが、このようにポジティブな思考には大いに共感できます。

 「これは果たして絶望か」では、著者は「帰一というのは外でもない、世界の各種の宗教的観念、信仰等は、ついに一に帰する期のないものであろうか。神といい、仏といい、耶蘇といい、人間の履むべき道理を説くものである。東洋哲学でも西洋哲学でも、自然些細な事物の差はあるけれども、その帰趣は一途のように思われる。『言忠信、行篤敬なれば、蛮狛といえども行われん』といい、反対に『言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里といえども行われんや』といっておるのは、これは千古の格言である。もし人に忠信を欠き行いが篤敬でなかったならば、親戚故旧たりともその人を嫌がるに違いない。西洋の道徳もやはり同じような意味のことを説いている。ただ西洋の流義は積極に説き、東洋の流義は幾分か消極に説いてある。例えば、孔子教では、『己の欲せざるところ、人に施す勿れ』と説いてあるのに、耶蘇の方では『己の欲するところ、これを人に施せ』と、反対に説いてあるようなもので、幾分かの相違はあるけれども、悪いことをするな、よいことをせよという。いい現わし方の差異で、一方は右から説き、一方は左から説き、しかして帰するところは一である。かように程合いのもので、深く研究を進めるならば、おのおの宗派を分かち、門戸を異にして、はなはだしきは相凌ぐというようなことは、実は満鹿らしいことであろうと考える」と述べています。

 「日新なるを要す」では、著者は、孟子が「利殖と仁義道徳とは一致するものである」と言ったことを紹介した後、「その後の学者がこの両者を引き離してしまった。仁義をなせば富貴に遠く、富貴なれば仁義に遠ざかるものとしてしまった。町人は素町人と呼びて賤められ、士の俱に齢いすべきものでないとせられ、商人も卑屈に流れ、儲け主義一点張りとなった。これが為に経済界の進歩は幾十年幾百年遅れたか分らぬ。今日は漸次消滅しつつあるが、まだ不足である。利殖と仁義の道とは一致するものであることを知らせたい。私は論語と十露盤とを以て指導しているつもりである」と述べています。

 「人格と教養」の「人格の標準はいかん」では、著者は「人は万物の霊長であるということは、人皆自ら信じておるところである。同じく霊長であるならば、人々相互の間における何等の差異なかるべき筈なるに、世間多数の人を見れば、上を見るも方図がなく、下を見るも際限なしというている。現に我々の交際する人々は、上王公貴人より、下匹夫匹婦に至るまで、その差異もまたはなはだしいのである。一郷一村に見るも、すでに大分の差があり、一県一州に見れば、その差はさらに大きく、これを一国に見ればますます懸隔して、ほとんど停止するところなきに至るのである。人すでにその智愚尊卑においてかように差等を有するとすれば、その価値を定むるもまた容易のことではない。いわんやこれに明確なる標準を付するにおいてをやである。しかし人は動物中の霊長としてこれを認むるならば、その間には自ら優劣のあるべき筈である。殊に人は棺を蓋うて後、論定まるという古言より見れば、どこかに標準を定め得る点があると思われる」と述べています。

 「修養は理論ではない」では、「修養はどこまでやらねばならぬかというに、これは際限がないのである。けれども空理空論に走ることは最も注意せねばならぬ。修養は何も理論ではないので、実際に行うべきことであるから、どこまでも実際と密接の関係を保って進まねばならぬ」として、著者は「これを漢学に求めてみれば、孔孟の儒教は支那においては最も尊重されて、これを経学または実学といって、かの詩人または文章家が弄ぶ文学とは全く別物視してある。しかしてそれを最もよく研究し発達せしめたのがかの支那栄末の朱子である。けだし朱子は非常に博学で、且つ熱心にこの学を説いたのである。ところが、朱子の時分の支那の国運はどうであったかというに、ちょうどその頃は宋朝の末で、政事も頽廃し、兵力も微弱にして、少しも実学の効は無かったのである。即ち学問は非常に発達しても、政務は非常に混乱した。つまり学問と実際とが全く隔絶していたのである。つまり本家本元の経学が宋朝に至りて大いに振興したにもかかわらず、これを採って実際に用いなかったのである。しかるに日本においてはその空理空文の死学であった宋朝の儒教を利用した為、かえって実学の効験を発揮したのである。これをよく用いたのは徳川家康である」と述べています。

 「誤解されたる修養論を駁す」では、著者は「修養は人を卑屈にするというは、礼節敬虔などを無視するより来たる妄説と思う。およそ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らるるので、決して愚昧卑屈でその域に達するものではない。大学の致知格物も、王陽明の致良知も、やはり修養である。修養は土人形を造るようなものではない。かえって己の良知を増し、己の霊光を発揚するのである。修養を積めば積むほど、その人は、ことにあたり物に接して善悪が明瞭になって来るから、取捨去就に際して惑わず、しかもその裁決が流るる如くなって来るのである。故に修養が人を卑屈愚昧にするというは大なる誤解で、極言すれば、修養は人の智を増すにおいて必要だということになるのである。ここを以て修養は智識を軽んぜよというのではない。ただ今日の教育は、あまりに智を得るのみに趨って、精神を練磨することに乏しいから、それを補うための修養である。修養と修学を相容れぬ如くに思うのは大なる誤りである。けだし修養ということは広い意味であって、精神も智識も身体も行状も向上するように練磨することで、青年も老人も等しく修めねばならぬ。かくて息むことなければ、ついには聖人の域にも達することが出来るのである」と述べています。

 「権威ある人格養成法」では、著者は「現代青年にとって最も切実に必要を感じつつあるものは人格の修養である。維新以前までは、社会に道徳的の教育が比較的さかんな状態であったが、西洋文化の輸入するにつれて思想界に少なからざる変革を来たし、今日の有様ではほとんど道徳は混沌時代となって、即ち儒教は古いとして退けられたから、現時の青年にはこれが十分咀嚼されておらず、というて耶蘇教が一般の道徳律になっておる訳ではなおさらなし、明治時代の新道徳が別に成立したのでもないから、思想界は全くの動揺期で、国民はいずれに帰向してよいか、ほとんど判断にさえ苦しんでおるくらいである。従って一般青年の間に人格の修養ということはほとんど閑却されておるかの感なきを得ないが、これは実に憂うべき趨向である。世界列強国がいずれも宗教を有して道徳律の樹立されておるのに比し、ひとり我が国のみがこの有様では、大国民としてはなはだ恥ずかしい次第ではないか」と述べるのでした。

 「算盤と権利」では、著者は「論語主義は己を律する教旨であって、人はかくあれ、かくありたいというように、むしろ消極的に人道を説いたものである。しかしてこの主義を押し広めて行けばついには天下に立てるようにはなるが、孔子の真意を忖度すれば、初めから宗教的に人を教える為に説を立てようとは考えてなかったらしいけれども、孔子には一切教育の観念がなかったとはいわれぬ。もし孔子をして政柄を握らしめたならば、善政を施き国を富まし、民を安んじ、王道を十分に押し広める意志であったろう。換言すれば、初めは一つの経世家であった。その経世家として世に立つ間に、門人からいろいろ雑多のことを問われ、それについて一々答を与えた」と述べています。

 また、キリスト教と儒教、イエス・キリストと孔子の思想を比較し、著者は「基督教に説くところの『愛』と論語に教うるところの『仁』とはほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では、『己の欲する所を人に施せ』と教えてあるが、孔子は『己の欲せざる所を人に施す勿れ』と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致すといえる言の如く、この二者も終局の目的はついに一致するものであろうと考える。しかして余は、宗教としてはた経文としては耶蘇の教えがよいのであろうが、人間の守る道としては孔子の教えがよいと思う。こはあるいは余が一家言たるの嫌いがあるかも知れぬが、殊に孔子に対して信頼の程度を高めさせるところは、奇蹟が一つもないという点である。基督にせよ、釈迦にせよ、奇蹟がたくさんにある。耶蘇は磔せられた後3日にして蘇生したというが如きは明らかに奇蹟ではないか。もっとも優れた人のことであるから、必ずそういうことはないと断言出来ず、それらは凡智の測り知らざるところであるといわねばなるまいが、しかしこれを信ずれば迷信に陥りはすまいか。かかる事柄を一々事実と認めることになると、智は全く晦まされて、一点の水が薬品以上の効を奏し、焙烙の上からの灸が利き目があるということも事実として認めなくてはならなくなるから、そのよって来たるところの弊ははなはだしいものである」とと述べています。

 「合理的の経営」では、著者は「自分は常に事業の経営に任じては、その仕事が国家に必要であって、また道理に合するようにして行きたいと心がけて来た。たといその事業が微々たるものであろうとも、自分の利益は少額であるとしても、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんでことに任じられる。故に余は論語を以て商売上の『バイブル』となし、孔子の道以外には一歩も出まいと努めて来た。それかから余が事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益して行くのでなければならぬと思い、多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して繁昌して行かなくてはならぬということを常に心していた。福沢諭の言に『書物を著わしても、それを多数の者が読むようなものでなくては効能が薄い、著者は常に自己のことよりも国家社会を利するという観念を以て筆を執らなければならぬ』という意味のことがあったと記憶している。事業界のこともまたこの理に外ならぬもので、多く社会を益することでなくては正径な事業とはいわれない。仮りに一個人のみ大富豪になっても、社会の多数が為に貧困に陥るような事業であったならばどんなものであろうか。いかにその人が富を積んでも、その幸福は継続されないではないか。故に国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである」と述べるのでした。

 「実業と士道」の「武士道は即ち実業道なり」では、著者は「武士道の神髄は正義、廉直、義俠、敢為、礼譲等の美風を加味したもので、一言にしてこれを武士道と唱えるけれども、その内容に至りてはなかなか複雑した道徳である。しかして余がはなはだ遺憾に思うのは、この日本の精華たる武士道が、古来もっぱら士人社会のみに行われて、殖産功利に身を委ねたる商業者間に、その気風のはなはだ乏しかった一事である。古の商工業者は武士道に対する観念を著しく誤解し、正義、廉直、義俠、敢為、礼譲等のことを旨とせんには、商売は立ち行かぬものと考え、かの『武士は食わねど高楊枝』というが如き気風は商工業者にとっての禁物であった。惟うにこれは時勢のしからしめたところもあったであろうけれども、士人に武士道が必要であった如く、商工業者もまたその道が無くては叶わぬことで、商工業者に道徳はいらぬなどとはとんでもない間違いであったのである」と述べています。

 続けて、著者は「けだし封建時代において、武士道と殖産功利の道と相背馳するが如く解せられたのは、なおかの儒者が、仁と富とは並び行われざるものの如く心得たと同一の誤謬であって、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日すでに世人の認容し了解されたところであろうと思う。孔子のいわゆる『富と貴とはこれ人の欲するところなり、その道を以てせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪むところなり、その道を以てせずしてこれ得るも去らざるなり」とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義俠等に適合するものではあるまいか』と述べます。

 さらには、著者は「孔子の訓において、賢者が貧殿に処してその道を易えぬというのは、あたかも武士が戦場に臨んで敵に後ろを見せざるの覚悟と相似たるもので、またかのその道を以てするに非ざれば、たとい富貴を得ることがあっても、安んじてこれに処らぬというのは、これまた古武士がその道を以てせざれば一毫も取らなかった意気と、その軌を一にするものといってよろしかろう。果してしからば富貴は聖賢もまたこれを望み、貧賤は聖賢もまたこれを欲しなかったけれども、ただかの人々は道義を本とし富貴貧賤を末としたが、古の商工業者はこれを反対したから、ついに富貴貧越を本として道義を末とするようになってしまった。誤解もまたはなはだしいではないか」と述べるのでした。

 「教育と情誼」の「孝は強うべきものに非ず」では、著者は「いかにも私の自慢話のようになって恐縮であるが、実際のこと故、憚からずお話しする」として、「確か私の23歳の時であったろうと思うが、父は私に向い『その許の18歳頃からの様子を観ておると、どうもその許は私と違ったところがある、読書をさしてもよく読み、また何事にも利発である、私の思うところからいえば、永遠までもその許を手もとに留めおいて、私の通りにしたいのであるが、それではかえってその許を不孝の子にしてしまうから、私は今後その許を私の思う通りのものにせず、その許の思うままにさせることにした』と申されたことがある。いかにも父の申された如く、その頃私は文字の力の上からいえば、不肖ながらあるいはすでに父より上であったかも知れぬ。また父とは多くの点において、不肖ながら優ったところもあったろう。しかるに父が無理に私を父の思う通りのものにしようとし、かくするが孝の道であると、私に孝を強ゆるが如きことがあったとしたら、私はあるいはかえって父に反抗したりなぞして、不孝の子になってしまったかも知れぬ。幸いにかかることにもならず、及ばぬうちにも不孝の子にならずに済んだのは、父が私に孝を強いず、寛宏の精神を以て私に臨み、私の思うままの志に向って私を進ましめて下された賜物である。孝行は親がさしてくれて初めて子が出来るもので、子が孝をするのではなく、親が子に孝をさせるのである」と述べています。

 また、「偉人とその母」では、著者は「婦人に対する態度を耶蘇教的に論じて云々することはしばらく別とするも、人間の真正なる道義心に訴えて、女子を道具視してよいものであろうか。人類社会において男子が重んずべきものとすれば、女子もやはり社会を組織する上にその一半を負うて立つ者だから、男子同様重んずべき者ではなかろうか。すでに支那の先哲も、『男女室におるは大倫なり』というてある。いう迄もなく女子も社会の一員、国家の一分子である。果してしからば女子に対する旧来の侮蔑的観念を除却し、女子も男子同様国民としての才能智徳を与え、倶に共に相助けてことをなさしめたならば、従来5千万の国民中2500万人しか用をなさなかった者が、さらに2500万人を活用せしめることとなるではないか。これ大いに婦人教育を興さねばならぬという根源論である」と述べます。

 そして、「成敗と運命」の「成敗は身に残る糟粕」として、著者は「とにかく人は誠実に努力黽勉して、自ら運命を開拓するがよい。もしそれで失敗したら、自己の智力が及ばぬ為と諦め、また成功したら智慧が活用されたとして、成敗にかかわらず天命に託するがよい。かくて敗れてもあくまで勉強するならば、いつかは再び好運に際会する時が来る。人生の行路はさまざまで、時に善人が悪人に敗けた如く見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。故に成敗に関する是非善悪を論ずるよりも、先ず誠実に努力すれば、公平無私なる天は、必ずその人に福いし運命を開拓するようにしむけてくれるのである」と述べるのでした。この言葉は、わたしの人生の指針ともなっています。

 わたしは『論語』の真価を最も理解した日本人が3人いると思っています。聖徳太子と徳川家康と渋沢栄一です。聖徳太子は「十七条憲法」や「冠位十二階」に儒教の価値観を入れることによって、日本国の「かたち」を作りました。徳川家康は儒教の「敬老」思想を取り入れることによって、徳川幕府に強固な持続性を与えました。そして、渋沢栄一は日本主義の精神として『論語』を基本としたのです。聖徳太子といえば日本を作った人、徳川家康といえば日本史上における政治の最大の成功者、そして渋沢栄一は日本史上における経済の最高の成功者と言えます。この偉大な3人がいずれも『論語』を重要視していたということは、『論語』こそは最高最大の成功への指南書であることがわかります。『論語』の言葉を題材に、自身の経験や思想を縦横無尽に語る渋沢栄一の『論語と算盤』は、日本人が書いた最高の『論語』入門書であると同時に、『渋沢論語』でもあるのです。

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